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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 192

ページ: 192

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【欄外】    豊橋市史談  (太田錦城と信明)                    三百五十六 【本文】       此(この)時(とき)の陣立(ぢんだて)と云ふものは頗(すこぶ)る大規模(だいきぼ)のものであつたが其(その)総指揮官(そうしきくわん)とも云ふべき役(やく)は信明(のぶあき)が之(これ)を勤(つと)めた       のである当時(たうじ)の模様(もやう)は委(くは)しく書(か)いたものも今(いま)残(のこ)つて居(を)るが信明(のぶあき)は此(この)時(とき)将軍(せうぐん)から恩賞(おんせう)として陣羽織(ぢんはをり)を賜(たまは)       つたので人々(ひと〳〵)之(これ)を光栄(くわうえい)なりとしたのであるから之(これ)も此処(こゝ)に概要(がいえう)申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである而(しか)し       て尚(なほ)一つ最後(さいご)に申述(まをしの)べたいのは信明(のぶあき)が勤王心(きんわうしん)の深(ふか)かつた事実(じじつ)である 《割書:信明の勤王|心》  元来(がんらい)我国民(わがこくみん)の勤王心(きんわうしん)に厚(あつ)きことは当然(たうぜん)であつて言(い)ふ迄(まで)もない事であるが併(しか)し徳川時代(とくがはじだい)にあつては其(その)徳川(とくがは)       氏(し)が武運(ぶうん)の長久(てうきう)ならむ事を思(おも)ふの余(あま)り間々(まゝ)其(その)人(ひと)の勤王心(きんわうしん)を疑(うたが)はるゝ場合(ばあひ)がないとも云へぬのである例(たと)       へば定信(さだのぶ)が尊号事件(そんがうじけん)に於けるが如き如何(いか)にも時(とき)の朝庭(てうてい)の思召(おぼしめし)に逆(さから)つた形(かたち)がある然(しか)るに此(この)定信(さだのぶ)と云ふ人       が又(ま)た実(じつ)に勤王心(きんわうしん)に富(と)むで居(を)つたので其(その)志(こゝろざし)が行(おこなひ)の上(うへ)に現(あら)はれて居(を)つたことは数々(しば〴〵)証拠立(せうこだ)てられるの       であるが信明(のぶあき)も亦(ま)た実(じつ)に勤王(きんわう)の志(こゝろざし)が深(ふか)かつた人で勿論(もちろん)当時(たうじ)の事でもあり身(み)は徳川氏(とくがはし)の執政(しゆつせい)であつた       処から天下太平(てんかたいへい)を祈(いの)ると同時(どうじ)に徳川氏(とくがはし)の武運長久(ぶうんてうきう)をも希(こひねが)つた事であると信(しん)ずるが一 方(ぱう)に於ては又(ま)た       実(じつ)に朝庭(てうてい)を尊(たつと)ぶの志(こゝろざし)が厚(あつ)かつた事を証明(せうめい)さるゝ事実(じじつ)があるのであるそれに対(たい)する二三は既(すで)に前(まへ)にも       申述(まをしの)べて置(お)いた考(かんがへ)であるが此頃(このころ)信明(のぶあき)の詠詩(えいし)の中(なか)にも間々(まゝ)其(その)志想(しさう)を見(み)るに足(た)るべきものを発見(はつけん)するので       ある之(これ)に就(つい)ては一々 引例(ゐんれい)して申述(まをしの)べたいのであるが今日(こんにち)は少(すこ)しく時間(じかん)が容(ゆる)さぬ事情(じぜう)があるから今(いま)は其(その)       概要(がいえう)に留(とゞ)むるが兎(と)に角(かく)此(この)前提(ぜんてい)丈(だけ)は此処(こゝ)に申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふのである             ⦿太田錦城と信明       信明(のぶあき)の性行(せいかう)並(ならび)に事蹟(じせき)に関(かん)しては申述(まをしの)べたい事(こと)もマダ数多(かずおほ)いことであるが先(ま)づザツト右(みぎ)の通(とほり)として此処(こゝ)に       は少(すこ)しく太田錦城(おほたきんじやう)の事に就(つい)て御話(おはなし)したいと思(おも)ふ 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百六十三号附録    (大正二年一月十四日発行) 【本文】       彼(か)の有名(ゆうめい)なる儒者(じゆしや)太田錦城(おほたきんじやう)と云(い)ふ人(ひと)は之(これ)亦(ま)た最初(さいしよ)信明(のぶあき)が草莽(そうもう)の中(なか)より抜擢(ばつてき)した人(ひと)であるが信明(のぶあき)は此(この) 太田錦城  人(ひと)を採用(さいよう)して吉田藩(よしだはん)の儒員(じゆゐん)となしたのである元来(ぐわんらい)錦城(きんぜう)は加賀国(かゞのくに)大聖寺(だいせうじ)の生(うまれ)で父(ちゝ)を玄寛(げんかん)と云(い)つたが博覧(はくらん)       強気(けうき)の人(ひと)で陰陽本草(ゐんようほんそう)の学(がく)に精(くは)しく世々(よゝ)大聖寺藩主(だいせいじはんしゆ)前田侯(まへだこう)に事(つか)へたのである此(この)人(ひと)は樫田氏(かしだし)を娶(めと)つて八 人(にん)       の子(こ)を生(う)むだが錦城(きんぜう)は即(すなは)ち其(その)季子(きし)であつたのである而(しか)して錦城(きんぜう)も亦(ま)た幼(よう)にして頴悟(えいご)で五 歳(さい)の時(とき)既(すで)に士(し)       の字(じ)を土(つち)の字(じ)との区別(くべつ)を明(あきらか)にし十一 歳(さい)にして詩(し)を作(つく)り十三 歳(さい)にして経史(けいし)を講説(こうせつ)し郷里(けうり)で神童(しんどう)と呼(よ)び囃(はや)       されたのである御承知(ごせうち)の如(ごと)く神童(しんどう)などと云(い)はるゝものに最後(さいご)の大成功者(だいせいこうしや)はないとせられて居(を)るのであ       るが此(こ)の錦城(きんぜう)に限(かぎ)つては大(おゝい)に世(よ)の諺(ことわざ)に反(はん)して居(を)つたので長(ちやう)ずるに及(およ)むで所謂(いはゆる)四方(しはう)の志(こゝろざし)があり遂(つひ)に父(ちゝ)の       許(ゆるし)を得(え)て京都(けうと)に上(のぼ)り後(のち)江戸(えど)にも出(い)てゞ当時(たうじ)の名儒(めいじゆ)たる皆川淇園(みなかはきえん)、山本北山(やまもとほくざん)などに就(つい)て学(まな)むだのである       がドウモ己(おの)れの意(い)に満(み)たないので慨然(がいぜん)として学(がく)を古人(こじん)に求(もとめ)むとするの志(こゝろざし)を起(おこ)し爾来(じらい)万巻(ばんかん)の書(しよ)を読破(どくは)       しに大(おゝい)に暁(さと)る処(ところ)があつたのである然(しか)るにかゝる性質(せいしつ)の人(ひと)であつたから気(き)を負(お)ひ奇(き)を懐(いだ)くと云(い)ふ傾(かたむき)があ       つて妾(みだ)りに人(ひと)に下(くだ)るなどゝ云(い)ふ事(こと)はせぬ無論(むろん)聞達(ぶんたつ)を諸侯(しよこう)の間(あひだ)に求(もと)むるなどは思(おも)ひもよらぬ事(こと)であるか       ら頗(すこぶ)る逆境(ぎやくけう)に立(た)つて最(もつと)も貧苦(ひんく)と戦(たゝか)つたものである一 時(じ)は按摩(あんま)をして其日(そのひ)の糊口(ここう)を凌(しの)いだと云(い)ふ話(はなし)もあ       るのである然(しか)るに当時(たうじ)幕府(ばくふ)の医官(いくわん)に多紀桂山(たきけいざん)と云(い)ふ人(ひと)があつて博学洽聞(はくがくこうぶん)であつたが深(ふか)く士(し)を愛(あい)した人(ひと)       で殊(こと)に錦城(きんぜう)の才学(さいがく)に服(ふく)して之(これ)を其(その)子弟(してい)を教授(けうじゆ)せしめたのである蓋(けだ)し当時(たうじ)は朱子学(しゆしがく)を以(もつ)て正学(せいがく)とな       した時代(じだい)で其他(そのた)の学派(がくは)は如何(いか)にも異端(いたん)ででもある様(よう)に見(み)られたのであるが学者間(がくしやかん)に議論(ぎろん)が喧(やかま)しかつた       にも拘(かゝは)らず錦城(きんぜう)は飽迄(あくまで)自己(じこ)の信(しん)ずる処(ところ)を主張(しゆてう)して所謂(いはゆる)折衷的(せつちうてき)一 家(か)の識見(しきけん)をなしたのであるかゝる間(あひだ)に       信明(のぶあき)の知(し)る処(ところ)となつたのであるが之(これ)は一 説(せつ)には桂山(けいざん)が信明(のぶあき)に薦(すゝ)めたのだと云(い)ふ事(こと)であるソコで信明(のぶあき)は 錦城と信明 特(とく)に賓客(ひんかく)の礼(れい)を以(もつ)て錦城(きんぜう)を吉田藩(よしだはん)に聘(へい)し世子(せし)信順(のぶなり)に経書(けいしよ)を講説(こうせつ)せしむる事(こと)となつたのであるモツトモ 【欄外】    豊橋市史談  (太田錦城と信明)                    三百五十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(太田錦城と信明) 三百五十六 【本文】 この時の陣立ては頗る大規模なものであったが、その総指揮官とも言うべき役は信明がこれを務めたのである。当時の模様は詳しく書いたものも今残っているが、信明はこの時将軍から恩賞として陣羽織を賜ったので、人々これを光栄なりとしたのであるから、これもここに概要申し述べて置きたいと思うのである。そして尚一つ最後に申し述べたいのは、信明が勤王心の深かった事実である。 **信明の勤王心** 元来我が国民の勤王心に厚きことは当然であって言うまでもない事であるが、しかし徳川時代にあってはその徳川氏が武運の長久ならむ事を思うの余り、間々その人の勤王心を疑われる場合がないとも言えぬのである。例えば定信が尊号事件において、いかにも時の朝廷の思召しに逆らった形がある。然るにこの定信という人がまた実に勤王心に富んでいたので、その志が行いの上に現れていたことは数々証拠立てられるのであるが、信明もまた実に勤王の志が深かった人で、勿論当時の事でもあり身は徳川氏の執政であった処から、天下太平を祈ると同時に徳川氏の武運長久をも希願った事であると信ずるが、一方においてはまた実に朝廷を尊ぶの志が厚かった事を証明される事実があるのである。それに対する二三は既に前にも申し述べて置いた考えであるが、この頃信明の詠詩の中にも間々その志想を見るに足るべきものを発見するのである。これについては一々引例して申し述べたいのであるが、今日は少しく時間が許さぬ事情があるから、今はその概要に留むるが、兎に角この前提だけはここに申し述べて置きたいと思うのである。 **⦿太田錦城と信明** 信明の性行並びに事跡に関しては申し述べたい事もまだ数多いことであるが、先ずざっと右の通りとしてここには少しく太田錦城の事について御話したいと思う。 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百六十三号附録 (大正二年一月十四日発行) 【本文】 **太田錦城** 彼の有名なる儒者太田錦城という人は、これまた最初信明が草莽の中より抜擢した人であるが、信明はこの人を採用して吉田藩の儒員となしたのである。元来錦城は加賀国大聖寺の生まれで、父を玄寛と言ったが、博覧強記の人で陰陽本草の学に詳しく、世々大聖寺藩主前田侯に仕えたのである。この人は樫田氏を娶って八人の子を生むが、錦城は即ちその季子であったのである。そして錦城もまた幼にして頴悟で、五歳の時既に士の字を土の字との区別を明らかにし、十一歳にして詩を作り、十三歳にして経史を講説し、郷里で神童と呼び囃されたのである。御承知のごとく神童などと言われるものに最後の大成功者はないとされているのであるが、この錦城に限っては大いに世の諺に反していたので、長ずるに及んで所謂四方の志があり、遂に父の許しを得て京都に上り、後江戸にも出て当時の名儒たる皆川淇園、山本北山などについて学んだのである。 がどうも己れの意に満たないので、慨然として学を古人に求むとするの志を起こし、爾来万巻の書を読破しに大いに暁る処があったのである。然るにかかる性質の人であったから、気を負い奇を懐くという傾があって、妄りに人に下るなどということはせぬ。無論聞達を諸侯の間に求むるなどは思いもよらぬ事であるから、頗る逆境に立って最も貧苦と戦ったものである。一時は按摩をしてその日の糊口を凌いだという話もあるのである。 然るに当時幕府の医官に多紀桂山という人があって博学洽聞であったが、深く士を愛した人で、殊に錦城の才学に服してこれをその子弟を教授せしめたのである。蓋し当時は朱子学を以て正学となした時代で、その他の学派はいかにも異端ででもあるように見られたのであるが、学者間に議論が喧しかったにも拘らず、錦城は飽くまで自己の信ずる処を主張して、所謂折衷的一家の識見をなしたのである。 かかる間に信明の知る処となったのであるが、これは一説には桂山が信明に薦めたのだということである。そこで信明は特に賓客の礼を以て錦城を吉田藩に聘し、世子信順に経書を講説せしむる事となったのである。もっとも... **錦城と信明** 【欄外】 豊橋市史談(太田錦城と信明) 三百五十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Ōta Kinjō and Nobuaki) 356 **Main Text:** The military formation for this occasion was quite large-scale, and Nobuaki served as what could be called the supreme commander. Detailed records of the situation at that time still remain today. At this time, Nobuaki received a jinbaori (military vest) from the shogun as a reward, which everyone considered a great honor, so I would like to outline this matter here as well. And there is one final matter I wish to discuss: the fact that Nobuaki possessed deep loyalty to the emperor. **Nobuaki's Imperial Loyalty** Naturally, it goes without saying that our people's loyalty to the emperor runs deep, but during the Tokugawa period, in their desire for the long prosperity of the Tokugawa military fortune, there were occasions when people's imperial loyalty was sometimes questioned. For example, in the case of Sadanobu during the Imperial Title Incident, he appeared to go against the court's wishes at the time. However, this Sadanobu was actually deeply devoted to imperial loyalty, and his intentions were frequently demonstrated in his actions. Nobuaki too was a person of profound imperial loyalty. Of course, given the times and his position as a Tokugawa administrator, I believe he prayed for peace throughout the realm while also hoping for the long military fortune of the Tokugawa house. At the same time, there are facts that prove he had deep respect for the imperial court. I have already mentioned two or three examples of this before, and I have recently discovered in Nobuaki's poetry clear expressions of these sentiments. I would like to cite specific examples and discuss them in detail, but time does not permit today, so I will limit myself to this general outline. However, I wanted to establish this premise here. **⦿Ōta Kinjō and Nobuaki** There are still many things I could say about Nobuaki's character and achievements, but having roughly covered the above points, I would now like to discuss Ōta Kinjō. **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Company, 48 Kon'ya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4,263 Supplement (Published January 14, Taisho 2 [1913]) **Main Text:** **Ōta Kinjō** The famous Confucian scholar Ōta Kinjō was another person whom Nobuaki originally discovered and promoted from obscurity. Nobuaki employed this man as a Confucian official of the Yoshida domain. Originally, Kinjō was born in Daishōji in Kaga Province. His father was called Genkan, a man of extensive learning and strong memory who was well-versed in yin-yang and herbal studies, serving the Maeda lords of Daishōji domain for generations. This man married into the Kashida family and had eight children, of whom Kinjō was the youngest son. Kinjō too showed exceptional intelligence from childhood—at age five he could already distinguish between the characters for "shi" (warrior) and "tsuchi" (earth), at eleven he was composing poetry, and at thirteen he was lecturing on the classics and histories, earning him the reputation of a child prodigy in his hometown. As you know, it's generally believed that those called child prodigies rarely achieve great success later in life. However, Kinjō was a great exception to this common saying. As he matured, he developed what we might call worldly ambitions, and eventually obtained his father's permission to go to Kyoto, later moving to Edo where he studied under renowned Confucian scholars of the time such as Minagawa Kien and Yamamoto Hokuzan. However, finding himself unsatisfied, he resolved to seek learning from the ancients, and thereafter read through countless volumes, gaining great enlightenment. Being a person of such temperament, he tended to be proud and harbor unconventional ideas, never stooping to serve others carelessly. Of course, seeking recognition among the daimyo was unthinkable for him, so he lived in considerable adversity, struggling with poverty. There are stories that at one time he worked as a massage therapist to make ends meet. At that time, there was a bakufu physician named Taki Keizan who was broadly learned and well-informed, but also deeply loved scholars. He particularly respected Kinjō's talent and learning, and had him teach his children. At that time, Zhu Xi learning was considered orthodox, and other schools were viewed as somewhat heretical. Despite heated debates among scholars, Kinjō steadfastly maintained his own beliefs, developing what could be called an eclectic scholarly perspective. It was during this period that he came to Nobuaki's attention. According to one account, Keizan recommended him to Nobuaki. Thus Nobuaki invited Kinjō to the Yoshida domain with the courtesy due to an honored guest, having him lecture on the classics to the heir Nobunari. However... **Kinjō and Nobuaki** **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Ōta Kinjō and Nobuaki) 357