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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 195

ページ: 195

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【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十二 【本文】       二月二日 年(とし)二十六で初(はじ)めて側用人(そばようにん)に任(にん)ぜられ其年(そのとし)の四月四日一 躍(やく)して老中(ろうちう)の列(れつ)に加(くわ)はつたのである元(がん)       来(らい)此(この)抜擢(ばつてき)は実(じつ)に異例(いれい)で到底(たうてい)他(た)に比類(ひるい)のない事であるが之(これ)は全(まつた)く彼(か)の定信(さだのぶ)の推挙(すいきよ)に依(よ)つた事で定信(さだのぶ)は其(その)       後(ご)嘗(かつ)て人(ひと)に向(むかつ)て我(われ)重任(ぢうにん)に居(を)るも一 事(じ)の誇(ほこ)るべきものなし只(たゞ)一 賢(けん)を得(え)て之(これ)を進(すゝ)めたり庶(こいねがは)くは罪戻(ざいれい)を免(まぬが)る       べしと云(い)つたとの事(こと)であるが此(この)一 賢(けん)を得(え)たと云(い)つたのは実(じつ)に信明(のぶあき)を指(さ)したものである爾来(じらい)信明(のぶあき)は全力(ぜんりよく)       を挙(あ)げて定信(さだのぶ)の政治(せいぢ)を輔(たす)けたものであるがそれから享和(けうわ)三 年(ねん)十二月廿二日までは大約(たいやく)十六 年間(ねんかん)であつ       て茲(こゝ)に至(いた)つて一たび其(その)職(しよく)を退(しりぞ)いたがそれより文化(ぶんくわ)三 年(ねん)五月まで約(やく)二ケ年半(ねんはん)許(ばかり)の間(あひ)は閑散(かんさん)の位置(いち)にあつ       たのであるトコロが其(その)月(つき)の廿五日 再(ふたゝ)び老中(らうちう)に任(にん)ぜられて其(その)上座(ぜうざ)に列(れつ)し更(さら)に天下(てんか)に重(おも)きをなした事(こと)が十       一 年余(ねんよ)で文化(ぶんくわ)十四 年(ねん)の八月十六日 在職(ざいしよく)のまゝ病(やまい)で卒去(そつきよ)せられたのである享年(けうねん)は五十五 歳(さい)であるが前章(ぜんせう)       にドウ云(い)ふ間違(まちがひ)か活字(くわつじ)が五十八 歳(さい)となつて居(を)るから幸(さいはひ)に此処(こゝ)で之(これ)を訂正(ていせい)して置(お)きたいと思(おも)ふのである       此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で信明(のぶあき)が此(この)吉田(よしだ)の城主(ぜうしゆ)たりし事(こと)は大約(たいやく)四十七 年許(ねんばかり)又(ま)た其(その)間(あひだ)に於(おい)て天下(てんか)の執政(しつせい)たりし事(こと)も前(ぜん) 信明の体質 後(ご)通(つう)じて二十八 年(ねん)に近(ちか)い次第(しだい)であるから其(その)事蹟(じせき)の多(おほ)いのも当然(たうぜん)であるが元来(がんらい)信明(のぶあき)は其(その)幼児(ようじ)甚(はなは)だ虚弱(きよじやく)な       質(たち)で十三 歳(さい)と相成(あひな)つた時(とき)例(れい)によつて時(とき)の将軍(せうぐん)に拝謁(はいえつ)すべきものを幼少(ようせう)より積気(しやくき)があつて且(か)つ便旋頻数(べんせんひんすう)到(たう)       底(てい)長座(てうざ)に堪(た)へ難(がた)いと云(い)ふ事情(じぜう)で之(これ)を延期(えんき)しヨウ〳〵十五 歳(さい)の三月 初拝謁(しよはいえつ)を行(おこな)つたと云(い)ふ訳(わけ)であつたの       で終生(しうせい)余(あま)り健康(けんこう)の質(たち)ではなかつたように信(しん)ぜられる併(しか)し前(まへ)にも屡々(しば〳〵)申述(まうしの)べた如(ごと)く極(きわ)めて精力絶倫(せいりよくぜつりん)の人(ひと)       で此(この)長(なが)い間(あひだ)には屡々(しば〳〵)暇(ひま)を得(え)て国(くに)に就(つ)いたのであるが在国中(ざいこくちう)は特(とく)に地方(ちはう)の政治向(せいぢむき)に留意(りうい)し一たび老中(らうちう)辞(じ)       職(しよく)の後(のち)文化(ぶんくわ)二 年(ねん)六月から翌(よく)三 年(ねん)の五月まで殆(ほとん)ど満(まん)一ケ年間(ねんかん)在城(ざいぜう)した時(とき)の如(ごと)きは大(おほい)に藩中(はんちう)の文武(ぶんぶ)を振興(しんこう)       したものであるが其(その)逸話(いつわ)は今(いま)も老人(らうじん)間(かん)に伝(つた)へられて居(を)るのである 信明の葬儀 又(ま)た信明(のぶあき)卒去(そつきよ)の時(とき)は病気中(びやうきちう)数々(しば〳〵)将軍(せうぐん)から見舞(みまい)があつたが其(その)喪(も)は八月廿八日に至(いた)つて発(はつ)せられ翌日(よくじつ)より 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       九月一日まで鳴物(なりもの)の停止(ていし)を命(めい)ぜられたのである葬儀(そうぎ)は九月二日で翌日(よくじつ)野火留(のびどめ)の平林寺(へいりんじ)先塋(せんえい)の次(つぎ)に葬(ほうむ)ら       れたが諡号(いつがふ)は瑞龍院殿乾翁元徳大居士(ずいりうゐんかんおうげんとくたいこじ)と云(い)ふのである尚(な)ほ此処(こゝ)に一寸(ちよつと)付(つ)け加(くわ)へて置(お)くが信明(のぶあき)は生前(せいぜん)其(その)       別号(べつがう)を嵩岳(すがく)と云(い)つたが青年時代(せいねんじだい)には犀峯(さいほう)と称(せう)したのである       以上(いぜう)の如(ごと)き次第(しだい)であるから信明(のぶあき)が城主(ぜうしゆ)たりし長(なが)き間(あひだ)には此(この)吉田(よしだ)にも色々(いろ〳〵)な事柄(ことがら)があつたであろうと思(おも)       ふシカシ信明(のぶあき)自身(じしん)の事蹟(じせき)に関(かん)する資料(しれう)が実(じつ)に豊富(ほうふ)なる割合(わりあひ)には其他(そのた)の材料(ざいれう)として残(のこ)つて居(を)るものゝ甚(はなは)       だ少(すくな)いのは遺憾(いかん)とする処(ところ)である其(その)中(うち)大要(たいえう)分(わか)つて居(を)るものに就(つい)ては之(これ)から段々(だん〳〵)と申述(まうしの)ぶる考(かんがへ)である 《割書:時習館の創|立》  先(ま)づ此処(こゝ)に御話(おはな)したいと思(おも)ふのは時習館(じしうくわん)の事(こと)であるが此(この)時習館(じしうくわん)と云(い)ふのは諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く吉田藩(よしだはん)       の藩校(はんかう)であつて維新(いしん)当時(たうじ)迄(まで)継続(けいぞく)して此(この)豊橋(とよはし)に存立(ぞんりつ)して居(を)つたものであるが此(この)藩校(はんかう)を創立(そうりつ)したのは前(まへ)に       も一寸(ちよつと)申述(まうしの)べて置(お)いた如(ごと)く信明(のぶあき)の祖父(そふ)の信復(のぶなほ)である此信復(このゝぶなほ)と云(い)ふ人(ひと)は既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く三浦竹渓(みうらちくけい)       を師(し)としたので学(がく)は古今(こゝん)に通(つう)じ最(もつと)も賢(けん)を愛(あい)し才(さい)を挙(あ)ぐる事(こと)に勉強(つと)めたのであるが此(この)人(ひと)の文集(ぶんしう)詩集(ししう)は今(いま)も       大河内家(おほかうちけ)に残(のこ)つて居(を)るので此頃(このごろ)も拝見(はいけん)したが其(その)文集中(ぶんしうちう)には頗(すこぶ)る伝(つた)ふべきものがあると思(おも)ふのである之(これ)       は又(ま)た折(をり)を以(もつ)て申述(まうしの)ぶるであろうが兎(と)に角(かく)かゝる賢明(けんめい)な人(ひと)であつたから夙(つと)に興学(こうがく)の志(こゝろざし)があつたので浜(はま)       松(まつ)から此(この)吉田(よし)に移封(いほう)せらるゝや程(ほど)なく藩校(はんかう)を起(おこ)して之(これ)に時習館(じしうくわん)と命名(めい〳〵)したのである即(すなは)ちそれは宝暦(ほうれき)二       年(ねん)の事(こと)であるが此(この)時(とき)信復(のぶなほ)は老臣(らうしん)の北原忠兵衛(きたはらちうべえ)に命(めい)じて館名(かんめい)を扁額(へんがく)に書(しよ)せしめたのである忠兵衛(ちうべえ)は名(な)を       忠光(たゞみつ)と云(い)つて当時(たうじ)藩中(はんちう)の能書家(のうしよか)であつたのである而(しか)も其(その)額(がく)は維新後(いしんご)まで存在(ぞんざい)して後(の)ち豊橋町(とよはしてう)が中学校(ちうがくかう)       を設立(せつりつ)し之(これ)に時習館(じしうくわん)の名(な)を冠(かん)せしめた時(とき)矢張(やはり)それを持(も)つて行(い)つて玄関(げんくわん)に掲(かゝ)げてあつたように記憶(きおく)する       のであるが今(いま)果(はた)して県立(けんりつ)の第(だい)四 中学(ちうがく)に引継(ひきつ)がれてあるかドウか幸(さいはひ)にありとすれば私(わたくし)は記念(きねん)として之(これ)を       豊橋(とよはし)の新設(しんせつ)図書館(としよくわん)にでも保存(ほぞん)したいものであると思(おも)ふ尚(なほ)其(その)当時(たうじ)に於(お)ける館(くわん)の規定(きてい)と云(い)ふものが残(のこ)つて 【欄外】    豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百六十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(信明とその城主時代における吉田の情況) 三百六十二 【本文】 二月二日年二十六で初めて側用人に任命され、その年の四月四日一躍して老中の列に加わったのである。元来この抜擢は実に異例で、到底他に比類のない事であるが、これは全く彼の定信の推挙によった事で、定信はその後かつて人に向かって「我重任にいるも一事の誇るべきものなし。ただ一賢を得てこれを進めたり。どうか罪戻を免れるべし」と言ったとの事であるが、この一賢を得たと言ったのは実に信明を指したものである。爾来信明は全力を挙げて定信の政治を輔けたものであるが、それから享和三年十二月廿二日までは大約十六年間であって、ここに至って一度その職を退いたが、それより文化三年五月まで約二ケ年半ばかりの間は閑散の位置にあったのである。ところがその月の廿五日再び老中に任ぜられてその上座に列し、さらに天下に重きをなした事が十一年余で、文化十四年の八月十六日在職のまま病で卒去されたのである。享年は五十五歳であるが、前章でどういう間違いか活字が五十八歳となっているから、幸いにここでこれを訂正しておきたいと思うのである。 このようなわけで信明がこの吉田の城主たりし事は大約四十七年ばかり、また其間において天下の執政たりし事も前後通じて二十八年に近い次第であるから、その事蹟の多いのも当然であるが、元来信明はその幼児甚だ虚弱な質で、十三歳と相成った時、例によって時の将軍に拝謁すべきものを、幼少より積気があって且つ便旋頻数、到底長座に堪え難いという事情でこれを延期し、ようやく十五歳の三月初拝謁を行ったという訳であったので、終生余り健康の質ではなかったように信じられる。しかし前にも屡々申し述べた如く極めて精力絶倫の人で、この長い間には屡々暇を得て国に就いたのであるが、在国中は特に地方の政治向に留意し、一度老中辞職の後文化二年六月から翌三年の五月まで殆ど満一ケ年間在城した時の如きは大いに藩中の文武を振興したものであるが、その逸話は今も老人間に伝えられているのである。 また信明卒去の時は病気中数々将軍から見舞いがあったが、その喪は八月廿八日に至って発せられ翌日より 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際... 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 九月一日まで鳴物の停止を命ぜられたのである。葬儀は九月二日で翌日野火留の平林寺先塋の次に葬られたが、諡号は瑞龍院殿乾翁元徳大居士というのである。なおここに一寸付け加えて置くが、信明は生前その別号を嵩岳と言ったが、青年時代には犀峯と称したのである。 以上のような次第であるから、信明が城主たりし長い間にはこの吉田にも色々な事柄があったであろうと思う。しかし信明自身の事蹟に関する資料が実に豊富なる割合には、その他の材料として残っているものの甚だ少ないのは遺憾とするところである。その中大要分かっているものについてはこれから段々と申し述べる考えである。 **時習館の創立** まずここにお話したいと思うのは時習館の事であるが、この時習館というのは諸君も御承知の如く吉田藩の藩校であって、維新当時まで継続してこの豊橋に存立していたものであるが、この藩校を創立したのは前にも一寸申し述べて置いた如く信明の祖父の信復である。この信復という人は既に諸君も御承知の如く三浦竹渓を師としたので学は古今に通じ、最も賢を愛し才を挙ぐる事に努めたのであるが、この人の文集詩集は今も大河内家に残っているので、このごろも拝見したが、その文集中には頗る伝うべきものがあると思うのである。これはまた折を以って申し述べるであろうが、とにかくかかる賢明な人であったから夙に興学の志があったので、浜松からこの吉田に移封せらるるや程なく藩校を起してこれに時習館と命名したのである。即ちそれは宝暦二年の事であるが、この時信復は老臣の北原忠兵衛に命じて館名を扁額に書せしめたのである。忠兵衛は名を忠光といって当時藩中の能書家であったのである。しかもその額は維新後まで存在して、後ち豊橋町が中学校を設立しこれに時習館の名を冠せしめた時、やはりそれを持って行って玄関に掲げてあったように記憶するのであるが、今果たして県立の第四中学に引継がれてあるかどうか、幸いにありとすれば私は記念としてこれを豊橋の新設図書館にでも保存したいものであると思う。なおその当時における館の規定というものが残って 【欄外】 豊橋市史談(信明とその城主時代における吉田の情況) 三百六十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki and the Conditions of Yoshida During His Time as Lord) 362 **Main Text:** ...on February 2nd at age twenty-six he was first appointed as a personal aide (sobayōnin), and on April 4th of that same year, he suddenly leaped to join the ranks of senior councilors (rōjū). Originally this promotion was truly exceptional, with absolutely no comparable precedent, but this was entirely due to the recommendation of Sadanobu. Sadanobu later once said to someone: "Though I hold heavy responsibilities, there is nothing I can boast of. I have only found one worthy man and advanced him. I hope this will absolve me of my faults." This "one worthy man" he spoke of obtaining was indeed referring to Nobuaki. From then on, Nobuaki devoted all his efforts to assisting Sadanobu's administration, but from then until December 22, Kyōwa 3 (1803) was approximately sixteen years, at which point he once retired from his position. From then until May of Bunka 3 (1806), for about two and a half years, he remained in an idle position. However, on the 25th of that month, he was again appointed as senior councilor and took the senior seat, once more wielding great influence in the realm for over eleven years, until he died of illness while still in office on August 16, Bunka 14 (1817). His age at death was fifty-five, but in the previous chapter, due to some error, the type was set as fifty-eight, so I would like to take this opportunity to correct this. **Nobuaki's Constitution** For these reasons, Nobuaki served as lord of this Yoshida for approximately forty-seven years, and during that time also served as the nation's chief administrator for nearly twenty-eight years in total, so it is natural that his achievements were numerous. Originally, Nobuaki had an extremely frail constitution as a child. When he turned thirteen, though he should have had an audience with the shogun according to custom, due to having accumulated qi illness from childhood and frequent bowel movements, he could not endure sitting for long periods, so this was postponed until he finally had his first audience in March at age fifteen. Therefore, it is believed he was not of particularly robust health throughout his life. However, as I have repeatedly mentioned before, he was a person of extremely outstanding energy. During this long period, he frequently obtained leave to return to his domain, and while in residence he paid particular attention to local administrative affairs. When he resigned from the senior councilor position and remained in residence for almost a full year from June of Bunka 2 until May of the following year, he greatly promoted both literary and martial arts within the domain, and stories of this are still passed down among elderly people today. **Nobuaki's Funeral** Also, when Nobuaki died, during his illness he received frequent inquiries about his health from the shogun, but his death was announced on August 28th, and from the next day... **Margin:** Mayor of Toyohashi, Mr. Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (on Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper. **Main Text:** ...until September 1st, the cessation of music was ordered. The funeral was held on September 2nd, and the next day he was buried next to the ancestral graves at Heirinji Temple in Nobidomari. His posthumous name was Zuiryūin-den Kan'ō Gentoku Daokoji. I should add here that during his lifetime, Nobuaki used the alternate name Sugaku, but in his youth he was called Saihō. Given these circumstances, during the long period when Nobuaki served as castle lord, various events must have occurred in this Yoshida. However, while materials concerning Nobuaki's own achievements are remarkably abundant, it is regrettable that very few other materials remain. Concerning those major points that are understood, I plan to discuss them gradually from now on. **Establishment of Jishūkan** First, what I would like to discuss here is the matter of Jishūkan. As you all know, this Jishūkan was the domain school of Yoshida domain, which continued to exist in this Toyohashi until the time of the Restoration. The person who established this domain school was, as I briefly mentioned before, Nobuaki's grandfather Nobunao. As you already know, this person called Nobunao studied under Miura Chikkei, so his learning encompassed ancient and modern times, and he especially devoted himself to loving the worthy and promoting talent. This person's collected prose and poetry still remain with the Ōkōchi family, and having recently examined them, I believe there are quite remarkable things worth preserving in his collected works. I shall discuss this at another opportunity, but in any case, being such a wise person, he had long harbored aspirations for promoting learning. When he was transferred from Hamamatsu to this Yoshida, he soon established a domain school and named it Jishūkan. This occurred in Hōreki 2 (1752). At this time, Nobunao commanded his senior retainer Kitahara Chūbei to write the academy's name on a plaque. Chūbei's given name was Tadamitsu, and he was the domain's skilled calligrapher at the time. Moreover, this plaque existed until after the Restoration, and later when Toyohashi town established a middle school and gave it the name Jishūkan, I recall that they took that same plaque and hung it in the entrance hall. I wonder whether it has now been inherited by the prefectural Fourth Middle School—if it fortunately still exists, I think I would like to preserve it as a memorial in Toyohashi's newly established library or somewhere similar. Also, the academy's regulations from that time remain... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki and the Conditions of Yoshida During His Time as Lord) 363