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【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十二
【本文】
字(あざ)船町(ふなまち)の倉庫(そうこ)にも多少(たせう)其(その)資料(しれう)たるべきものが保存(ほぞん)されて居(を)るのである一々(いち〳〵)之(これ)を掲(かゝ)ぐることは到底(とうてい)複雑(ふくざつ)で
《割書:渡船に関す|る記録》 あつて出来(でき)難(がた)い事(こと)であるが其(その)中(なか)で一寸(ちよつと)面白(おもしろ)く思(おも)ふのは船町(ふなまち)にある古帳簿(こちやうぼ)で豊川通(とよかはとほり)渡船(とせん)に関(くわん)するもので
ある其(その)頃(ころ)は前(まへ)にも申述(まうしの)べて置(お)いた通(とほ)り大橋(おほはし)の掛替(かけかへ)又(また)は普請(ふしん)に方(あた)り元禄時代(げんろくじだい)まで行(おこな)はれたように旧橋(きうけう)と
並(なら)むで新橋(しんけう)を架(か)するとか或(あるひ)は仮橋(かりばし)を架(か)けるとか云(い)ふ事(こと)は行(おこな)はれぬようになつたので其(その)普請中(ふしんちう)は渡船(とせん)を
以(もつ)て往来(わうらい)をなさしめたものである勿論(もちろん)洪水(こうすゐ)などで橋(はし)の破損(はそん)した時(とき)なども同様(どうやう)であるが其(その)渡船(とせん)に用(もち)ゐた
場所(ばしよ)は今日(こんにち)も尚(な)ほ渡船場(とせんば)と云(い)ふ名前(なまへ)が残(のこ)つて居(お)る次第(しだい)である而(しか)して其(その)渡船(とせん)の事(こと)は一 切(さい)大字(おほあざ)船町(ふなまち)の者(もの)に
申付(まうしつけ)られたのであるが其(その)入用(にうよう)として金(きん)廿五 両(れう)又(また)は卅 両(れう)と其(その)都度(つど)藩(はん)から貸下(かしさ)げて貰(もら)つたもので之(これ)を年賦(ねんぷ)
で返済(へんさい)した事実(じじつ)なども其(その)帳簿(ちやうぼ)の上(うへ)で見(み)られるのである又(ま)た大名(だいめう)などの通行(つうかう)があつた時(とき)に船(ふね)の不足(ふそく)を告(つ)
げた場合(ばあひ)には大河内家(おほかうちけ)の領内(れうない)は勿論(もちろん)領外(れうぐわい)と雖(いへど)も豊川沿岸(とよかはえんがん)の村々(むら〳〵)から何処(どこ)には何艘(なんそう)と云(い)ふ様(やう)に割(わ)り当(あて)て
ゝ徴発(てうはつ)したものである茲(こゝ)に寛政(かんせい)四 年(ねん)の四 月(ぐわつ)に橋普請(はしぶしん)があつて其(その)為(ため)に此(この)渡船(とせん)を開始(かいし)した事(こと)があるが其(その)時(とき)
に掲示(けいじ)した高札(かうさつ)の写(うつし)が残(のこ)つて居(を)るので之(これ)を掲載(けいさい)するのは又(ま)た以(もつ)て当時(たうじ)の状態(ぜうたい)を知(し)るの資料(しれう)ともなる事(こと)
と思(おも)ふから左(さ)に其(その)全文(ぜんぶん)を示(しめ)して見(み)よう
定
一役船定のことく懈怠なく出し昼夜相勤べき事
附 往来之旅人に対しかさつ成事すへからす無礼悪口等之事有へからす緞軽き旅人たりといふと
もあやまちなきやうに念入へき事
一往還人之儀もかさつ成事無之不法之儀仕間敷渡場込合候節は段々に渡可申事
一往還之人多き時はよせ船を出し人馬荷物滞なく渡すへし奉公人之外船賃出す輩より
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百八十八号附録 (大正二年二月十一日発行)
【本文】
壱人ニ付 拾 六 文
乗下壱駄ニ付 弐 拾 五 文
荷物壱駄ニ付 参 拾 九 文
此定之外賃銭多く取るべからざる事
附 奉公人之外定之通賃銭出すべし古来より定置之間職人町どもの荷物はいふに及ばず武士荷
物たりといふとも商人請負にて相通候分は定のことく賃銭出すべき事
一荷物附ながら馬を船にのせ候儀相対次第たるべき事
右之條々可相守之若違犯之輩於有之者可為曲事者也
寛政五年己四月 奉 行
領地の異動 又(また)此処(こゝ)に一つ御話(おはなし)して置(お)きたいのは信明(のぶあき)が藩主(はんしゆ)たりし間(あひだ)に其(その)領地(れうち)の内(うち)で多少(たせう)異動(ゐどう)のあつた事(こと)であるソ
レは先(ま)づ明和(めいわ)九年六月廿九日 付(づけ)で宝飯郡(ほゐぐん)の内(うち)、下五井(しもごゐ)、下佐脇(しもさわき)、御馬(おんま)、為当(ためたう)を差出(さしいだ)して其(その)代地(だいち)として
同年(どうねん)十月五日 付(づけ)で遠江国(とほとふみのくに)榛原郡(はいばらごほり)の内(うち)朝生村(あさふむら)、城東郡(きとうごほり)の内(うち)加茂村(かもむら)、本所村(ほんじよむら)、和田村(わだむら)、上平川村(かみひらかはむら)の内(うち)合(がう)
計(けい)弐千九百十八 石余(こくよ)を賜(たまは)つた事(こと)で其(その)次(つぎ)が安永(あんえい)三年八月廿七日 付(づけ)宝飯郡(ほゐごほり)の内(うち)、日色野(ひしきの)、前芝(まへしば)、梅薮(うめやぶ)、大(おほ)
塚(つか)、伊奈(いな)の内(うち)並(ならび)に同所(どうしよ)新田(しんでん)の内(うち)を差出(さしいだ)して其(その)代地(だいち)を渥美郡(あつみごほり)の内(うち)、宝飯郡(ほゐごほり)の内(うち)、額田郡(ぬかたごほり)の内(うち)で下賜(かし)され
た事(こと)であるが尚(なほ)安永(あんえい)六年十一月六日 付(づけ)で右(みぎ)の榛原郡(はいばらごほり)朝生村(あさふむら)の地(ち)を返上(へんぜう)して其(その)代(かは)りを城東郡(きとうごほり)の内(うち)で賜(たまは)つ
た事実(じじつ)がある而(しか)して天明(てんめい)八年三月五日 付(づけ)で吉田領(よしだれう)に対(たい)し改(あらた)めて下賜(かし)になつた朱印(しゆいん)の写(うつし)があるから之(これ)を
も左(さ)に掲載(けいさい)して参考(さんかう)に供(きよう)したいと思(おも)ふ
三河国渥美郡之内三拾壱箇村八名郡之内三拾九箇村宝飯郡之内四拾箇村額田郡之内七箇村加茂郡之
【欄外】
豊橋市史談 (信明と其城主時代に於ける吉田の情況) 三百七十三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(信明とその城主時代における吉田の情況) 三百七十二
【本文】
字船町の倉庫にも多少その資料となるべきものが保存されているのである。一々これを掲げることは到底複雑であって出来難いことであるが、その中で一寸面白く思うのは船町にある古帳簿で豊川通り渡船に関するものである。
その頃は前にも申し述べて置いた通り、大橋の掛替又は普請に当たり元禄時代まで行われたように旧橋と並んで新橋を架けるとか或いは仮橋を架けるとか云う事は行われぬようになったので、その普請中は渡船を以て往来をなさしめたものである。勿論洪水などで橋の破損した時なども同様であるが、その渡船に用いた場所は今日も尚渡船場と云う名前が残っている次第である。而してその渡船の事は一切大字船町の者に申し付けられたのであるが、その入用として金二十五両又は三十両とその都度藩から貸下げて貰ったもので、これを年賦で返済した事実なども其の帳簿の上で見られるのである。また大名などの通行があった時に船の不足を告げた場合には、大河内家の領内は勿論領外と雖も豊川沿岸の村々から何処には何艘と云う様に割り当てて徴発したものである。
茲に寛政四年の四月に橋普請があってその為にこの渡船を開始した事があるが、その時に掲示した高札の写しが残っているので、これを掲載するのはまた以て当時の状態を知るの資料ともなる事と思うから左にその全文を示して見よう。
定
一 役船定の如く懈怠なく出し昼夜相勤むべき事
附 往来の旅人に対しかさつ成る事すべからず無礼悪口等の事あるべからず縦軽き旅人たりと云うとも過ちなきように念入るべき事
一 往還人の儀もかさつ成る事これなく不法の儀仕るまじ。渡場込み合い候節は段々に渡し申すべき事
一 往還の人多き時はよせ船を出し人馬荷物滞りなく渡すべし。奉公人の外船賃出す輩より
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千二百八十八号附録(大正二年二月十一日発行)
【本文】
一人につき 十六文
乗馬一駄につき 二十五文
荷物一駄につき 三十九文
この定めの外賃銭多く取るべからざる事
附 奉公人の外定めの通り賃銭出すべし。古来より定め置きの間、職人町どもの荷物は言うに及ばず武士荷物たりと云うとも商人請負にて相通り候分は定めの如く賃銭出すべき事
一 荷物と共に馬を船に乗せ候儀相対次第たるべき事
右の条々相守るべしもし違犯の輩これある者においては曲事たるべき者なり
寛政五年己四月 奉行
領地の異動 またここに一つお話して置きたいのは信明が藩主たりし間にその領地の内で多少異動のあった事である。それは先ず明和九年六月二十九日付で宝飯郡の内、下五井、下佐脇、御馬、為当を差出してその代地として同年十月五日付で遠江国榛原郡の内朝生村、城東郡の内加茂村、本所村、和田村、上平川村の内合計二千九百十八石余を賜った事で、その次が安永三年八月二十七日付宝飯郡の内、日色野、前芝、梅薮、大塚、伊奈の内並びに同所新田の内を差出してその代地を渥美郡の内、宝飯郡の内、額田郡の内で下賜された事である。が、尚安永六年十一月六日付で右の榛原郡朝生村の地を返上してその代わりを城東郡の内で賜った事実がある。而して天明八年三月五日付で吉田領に対し改めて下賜になった朱印の写しがあるからこれをも左に掲載して参考に供したいと思う。
三河国渥美郡の内三十一箇村八名郡の内三十九箇村宝飯郡の内四十箇村額田郡の内七箇村加茂郡の
【欄外】
豊橋市史談(信明とその城主時代における吉田の情況) 三百七十三
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki and the Conditions of Yoshida During His Time as Lord) 372
**Main Text:**
Various materials that could serve as sources are also preserved in the warehouse of Aza Funamachi. To list them all would be extremely complex and difficult, but among them, what I find particularly interesting are the old ledgers in Funamachi concerning ferry crossings on the Toyokawa River.
At that time, as previously mentioned, when replacing or repairing the great bridge, the practice of constructing a new bridge alongside the old one or building a temporary bridge—as was done until the Genroku era—was no longer carried out. Instead, ferry boats were used for passage during construction. Of course, the same applied when floods damaged the bridge. The location used for these ferry crossings still bears the name "ferry crossing" today. All ferry operations were entrusted to the people of Ōaza Funamachi. The domain would lend them 25 or 30 ryō each time as operating expenses, which they would repay in annual installments—facts that can be seen in their account books. When there was traffic by daimyo and other officials, and insufficient boats were reported, vessels were requisitioned by quota from villages along the Toyokawa—not only within the Ōkōchi domain but even from outside territories, specifying how many boats from which locations.
In the fourth month of Kansei 4 (1792), bridge repairs necessitated starting ferry operations. A copy of the notice board posted at that time remains, and I believe publishing it will serve as valuable material for understanding conditions of that era. The complete text is shown below:
**Regulations**
1. Duty boats shall be provided without negligence as prescribed, serving day and night
Note: No rough treatment of traveling passengers is permitted; no rudeness or harsh language. Even with humble travelers, great care must be taken to avoid mistakes
1. Passengers shall also avoid rough behavior and unlawful conduct. When the ferry crossing is crowded, crossings shall proceed in orderly succession
1. When many travelers are present, additional boats shall be deployed to transport people, horses, and cargo without delay. Except for servants, from those who pay boat fare:
**Margin:**
Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Konyamachi, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyō Newspaper Issue 4,288 Supplement (Published February 11, Taishō 2)
**Main Text:**
Per person: 16 mon
Per pack horse: 25 mon
Per cargo load: 39 mon
No fare beyond these rates shall be collected
Note: Except for servants, fares shall be paid according to regulations. As established from ancient times, not only cargo from craftsmen's quarters but even samurai cargo, when transported by merchant contractors, shall pay the prescribed fares
1. Loading horses onto boats together with cargo shall be by mutual agreement
These articles must be observed. Any violators shall be subject to punishment.
Kansei 5, fourth month - Magistrate
**Territorial Changes:** Here I would like to discuss the territorial changes that occurred within Nobuaki's domain during his tenure as lord. First, on the 29th day of the 6th month of Meiwa 9 (1772), he surrendered Shimo-Goi, Shimo-Sawaki, Onma, and Tametō from Hoi District, receiving in exchange on the 5th day of the 10th month of the same year: Asafu Village from Haibara District in Tōtōmi Province, and Kamo Village, Honjō Village, Wada Village, and Kamihirakawa Village from Kaitō District, totaling 2,918 koku and some. Next, on the 27th day of the 8th month of An'ei 3 (1774), he surrendered Hishikino, Maeshiba, Umeyabu, Ōtsuka, parts of Ina, and parts of the new rice fields there from Hoi District, receiving replacement lands from Atsumi District, Hoi District, and Nukata District. Furthermore, on the 6th day of the 11th month of An'ei 6 (1777), he returned the aforementioned Asafu Village in Haibara District and received replacement land from Kaitō District. A copy of the vermillion seal document newly granted to Yoshida domain on the 5th day of the 3rd month of Tenmei 8 (1788) exists, which I would also like to include below for reference:
Mikawa Province: 31 villages from Atsumi District, 39 villages from Yana District, 40 villages from Hoi District, 7 villages from Nukata District, from Kamo District...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki and the Conditions of Yoshida During His Time as Lord) 373