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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 202

ページ: 202

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【欄外】   豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十六 【本文】                           同         三   之   助  印                           同         彌   四   郎  印                           同         松       六  印                           同         助   三   郎  印                           同 組 頭     源       助  印       ソレから此(この)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)の人物(じんぶつ)に就(つい)てであるが学者(がくしや)としては太田錦城(おほたきんじやう)及(およ)び西岡善助(にしおかぜんすけ)などで之(これ)は前(まへ)       にも申述(まをしの)べた如(ごと)くである其他(そのた)藩士(はんし)の内(うち)には相当(さうたう)の人物(じんぶつ)もあつた事(こと)と思(おも)ふが今(いま)此処(こゝ)に取立(とりた)てゝ御話(おはなし)する       程(ほど)の事(こと)もないのである勿論(もちろん)大河内家(おほかうちけ)の家臣(かしん)の事(こと)に就(つい)ては実(じつ)に詳(くは)しい記録(きろく)が大河内家(おほかうちけ)の蔵(くら)にあるから之(これ)       に拠(よつ)て色々(いろ〳〵)申述(まをしの)べたい事があるのみならず此(この)領地(れうち)には国家老(くにからう)を始(はじ)めドウ云(い)ふ役向(やくむき)があつてドンナ工合(ぐあひ)       に国政(こくせい)を取(と)つて居(を)つたものであるか又(ま)た其(その)役々(やく〳〵)には如何(いか)なる人々(ひと〳〵)が当(あた)つて居(を)つたものであるかなども       段々(だん〴〵)御話(おはなし)したいと思(おも)ふのである併(しか)し私(わたくし)は兎(と)に角(かく)大筋(おほすぢ)丈(だけ)を先(ま)づ申述(まをしの)ぶる考(かんがへ)であるので右(みぎ)の如(ごと)き細密(さいみつ)に渉(わた)       る事(こと)は大河内家(おほかうちけ)の話(はなし)の最後(さいご)に参(まゐ)つた時(とき)纏(まと)めて申述(まをしの)ぶる事に致(いた)したいと思(おも)つて居(を)るのであるから此際(このさい)一(ちよつ)       寸(と)此(この)事(こと)を御断(おことはり)して置(お)きたいと思(おも)ふのである       サテ此(この)時代(じだい)吉田(よしだ)の町人(てうにん)の内(うち)で生花(いけばな)を能(よ)くするものがあつたが一 人(にん)は四 時庵北萊(じあんほくらい)と云(い)ふ人(ひと)で之(これ)は当時(たうじ)指(さし) 四時庵北萊 笠町(かさまち)にあつた観音寺(くわんをんじ)の住職(ぢうしよく)であつたが松月堂(せうげつどう)古流(こりう)の始祖(しそ)是心軒(ぜしんけん)一 露(ろ)翁(をう)の直門(ぢきもん)で安永(あんえい)八年九月 其(その)可印(かいん)を       受(う)けたが四時庵(しじあん)と云(い)ふ号(がう)は其(その)後(のち)段々(だん〳〵)跡(あと)を継(つ)ぐ者(もの)があつて今日(こんにち)も其(その)道(みち)にかけては喧(やかま)しい号(がう)である又(ま)た一 恩田三省  人(にん)は曲尺手町(かねんててう)の人(ひと)で恩田三省(おんださんせう)と云(い)ふのであるが之(これ)も是心軒(ぜしんけん)の門人(もんじん)で天明(てんめい)二年 諸国会頭(しよこくくわいとう)の可印(かいん)を受(う)けた      が此(この)人(ひと)は通称(つうせう)を太惣太(たさうた)と云(い)つて名(な)は満辰(まんしん)字(あざな)は子信(ししん)号(がう)を心応軒(しんおうけん)と称(せう)したのである生花(いけばな)に就(つい)ては色々(いろ〳〵)の著(ちよ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百九十三号附録    (大正二年二月十八日発行) 【本文】       書(しよ)があるが三遠瓶花之図(さんゑんへいくわのづ)、生花口伝集(せいくわくでんしふ)などは就中(なかんづく)有名(いうめい)のものである門人(もんじん)も壱千人 以上(いぜう)あつたと云(い)ふ事       であるが文化(ぶんくわ)七年九月 年(とし)六十七で病歿(びやうぼつ)したのである 佐藤南澗  次(つぎ)に御話(おはなし)したいのは佐藤南澗(さとうなんかん)と云(い)ふ人(ひと)の話(はなし)であるが之(これ)は船町(ふなまち)の住人(ぢうにん)で運漕店(うんそうてん)を業(ぎよう)として居(を)つたが通称(つうせう)       を新兵衛(しんべゑ)と云(い)つたのである今(いま)も其(その)家(いへ)は存在(ぞんざい)して当主(たうしゆ)も亦(ま)た佐藤新平(さとうしんぺい)と称(せう)して居(を)られるのである而(しか)して       南澗(なんかん)は名(な)を幾道(きどう)字(あざな)を若水(じやくすい)号(ごう)を曲肱齋(きよくこうさい)又(また)は文会堂主人(ぶんくわいどうしゆじん)などと称(せう)した勿論(もちろん)南澗(なんかん)も其(その)号(がう)であつたが其(その)家(いへ)が吉(よし)       田大橋(だおほはし)に近(ちか)い処(ところ)から戯(たわむれ)に欄干(らんかん)とも号(がう)したのである此(この)人(ひと)は円山応挙(まるやまおうきよ)の門人(もんじん)で絵画(くわいぐわ)を能(よ)くし兼(かね)て文学(ぶんがく)に       も通(つう)じて彼(か)の曲亭馬琴(きよくていばきん)とも交遊(かうゆう)したのである今(いま)も同家(どうけ)に南澗(なんかん)が画(ぐわ)を描(ゑが)いてそれに馬琴(ばきん)が賛(さん)をしたもの       が残(のこ)つて居(を)る天明(てんめい)七年四月 年(とし)四十二で病歿(びやうぼつ)したが人(ひと)の惜(おし)む処(ところ)となつたのである 服部彌助  又(ま)た其(その)頃(ころ)同(おな)じ船町(ふなまち)で今(いま)の服部彌(はつとりや)八 氏(し)の祖先(そせん)に服部彌助(はつとりやすけ)と云(い)ふ人(ひと)があつたが此(この)人(ひと)は又(ま)た実(じつ)に武道(ぶどう)の達人(たつじん)       で且(か)つ任侠(にんけう)に富(と)むだ人(ひと)であつた柔術(じうじゆつ)は浅川(あさかは)一 伝流(でんりう)で其(その)他(た)釼術(けんじゆつ)でも棒(ぼう)の手(て)でも一として奥義(おくぎ)を極(きは)めぬも       のはなかつたので実(じつ)に評判(ひようばん)の人(ひと)であつた其(その)屋号(やがう)が伊賀屋(いがや)と云(い)ふ処(ところ)から世人(せじん)は此(この)人(ひと)の事(こと)を呼(よ)むで伊賀助(いがすけ)       と云(い)つたそうであるが武道(ぶどう)の弟子(でし)も数多(あまた)あつたが常(つね)に自(みづか)らは此(この)武道(ぶどう)を以(もつ)て諸国(しよこく)を遊歴(ゆうれき)し其(その)逸話(いつわ)は極(きは)め       て多(おほ)いので恰(あたか)も元和(げんな)三 勇士(ゆうし)などの昔話(むかしばなし)を聞(き)くようである今(いま)此(この)人(ひと)の自記(じき)した道中記(どうちうき)が服部氏(はつとりし)の家(いへ)に残(のこ)       つて居(を)るが見取図(みとりづ)なども処々(しよ〳〵)に書(か)き入(い)れられて甚(はなは)だ面白(おもしろ)く思(おも)はれる文化(ぶんくわ)十四年九月十六日八十二 歳(さい)で       病歿(びやうぼつ)せられたのである 刀工重喜  尚(なほ)其他(そのた)に重喜(しげよし)と云(い)ふ刀鍛冶(かたなかぢ)が此(この)吉田(よしだ)にあつて相当(さうたう)の名工(めいこう)であつた其(その)鍛(きた)へた刀(かたな)は今(いま)一 振(ふり)大河内家(おほかうちけ)に蔵(ざう)せ       られて居(を)るソレは文化(ぶんくわ)十年八月と銘(めい)してあるが惜(おし)い事(こと)には其(その)人(ひと)の伝記(でんき)などが一寸(ちよつと)分(わか)り兼(か)ねて居(を)る他日(たじつ)       私(わたくし)も材料(ざいれう)を捜索(さうさく)して見(み)たいと思(おも)つて居(を)るが其(その)存知(ぞんぢ)の方(かた)があつたならば御指教(ごしけう)願(ねが)いたいのである 【欄外】   豊橋市史談  (信明と其城主時代に於ける吉田の情況)            三百七十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(信明とその城主時代における吉田の情況) 三百七十六 【本文】 同   三之助  印 同   弥四郎  印 同   松六   印 同   助三郎  印 同組頭 源助   印 それからこの時代における吉田の人物についてであるが、学者としては太田錦城および西岡善助などで、これは前にも申し述べた通りである。その他藩士の内には相当の人物もあった事と思うが、今ここに取り立てて御話しする程の事もないのである。 もちろん大河内家の家臣の事については実に詳しい記録が大河内家の蔵にあるから、これによって色々申し述べたい事があるのみならず、この領地には国家老を始めとしてどういう役職があって、どんな工合に国政を取っていたものであるか、また、その役々にはいかなる人々が当たっていたものであるかなども段々御話ししたいと思うのである。 しかし私はとにかく大筋だけを先ず申し述べる考えであるので、右のような細密に渉る事は、大河内家の話の最後に参った時まとめて申し述べる事に致したいと思っているのであるから、この際ちょっとこの事を御断りして置きたいと思うのである。 さて、この時代吉田の町人の内で生花を良くするものがあったが、一人は四時庵北来と云う人で、これは当時指笠町にあった観音寺の住職であったが、松月堂古流の始祖是心軒一露翁の直門で、安永八年九月、その許印を受けたが、四時庵という号はその後段々跡を継ぐ者があって、今日もその道にかけては喧しい号である。 また一人は曲尺手町の人で恩田三省と云うのであるが、これも是心軒の門人で天明二年諸国会頭の許印を受けたが、この人は通称を太惣太と云って名は満辰、字は子信、号を心応軒と称したのである。生花については色々の著 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百九十三号附録(大正二年二月十八日発行) 【本文】 書があるが、三遠瓶花之図、生花口伝集などは就中有名のものである。門人も千人以上あったと云う事であるが、文化七年九月年六十七で病没したのである。 次に御話ししたいのは佐藤南澗と云う人の話であるが、これは船町の住人で運漕店を業として居たが、通称を新兵衛と云ったのである。今もその家は存在して当主もまた佐藤新平と称して居られるのである。そして南澗は名を幾道、字を若水、号を曲肱斎または文会堂主人などと称した。もちろん南澗もその号であったが、その家が吉田大橋に近い処から戯れに欄干とも号したのである。 この人は円山応挙の門人で絵画を良くし、兼ねて文学にも通じて、かの曲亭馬琴とも交遊したのである。今も同家に南澗が画を描いてそれに馬琴が賛をしたものが残っている。天明七年四月年四十二で病没したが、人の惜しむ処となったのである。 またその頃同じ船町で今の服部弥八氏の祖先に服部弥助と云う人があったが、この人はまた実に武道の達人で、かつ任侠に富んだ人であった。柔術は浅川一伝流で、その他剣術でも棒の手でも一として奥義を極めぬものはなかったので、実に評判の人であった。その屋号が伊賀屋と云う処から、世人はこの人の事を呼んで伊賀助と云ったそうであるが、武道の弟子も数多あったが、常に自らはこの武道を以て諸国を遊歴し、その逸話は極めて多いので、恰も元和三勇士などの昔話を聞くようである。 今この人の自記した道中記が服部氏の家に残っているが、見取図なども処々に書き入れられて甚だ面白く思われる。文化十四年九月十六日八十二歳で病没せられたのである。 なおその他に重喜と云う刀鍛冶がこの吉田にあって相当の名工であった。その鍛えた刀は今一振り大河内家に蔵せられている。それは文化十年八月と銘してあるが、惜しい事にはその人の伝記などがちょっと分かりかねている。他日私も材料を捜索してみたいと思っているが、その存知の方があったならば御指教願いたいのである。 【欄外】 豊橋市史談(信明とその城主時代における吉田の情況) 三百七十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki and the Conditions of Yoshida During His Time as Lord) 376 **Main Text:** Same San'nosuke (seal) Same Yashirō (seal) Same Matsuroku (seal) Same Sukesaburō (seal) Same, Brigade Leader Gensuke (seal) Now regarding notable figures of Yoshida during this period, as scholars there were Ōta Kinjō and Nishioka Zensuke, as I mentioned earlier. I believe there were other worthy individuals among the domain retainers as well, but there is nothing particularly noteworthy to discuss here. Of course, regarding the Ōkōchi family retainers, there are very detailed records in the Ōkōchi family storehouse, so based on these I would like to discuss various matters. Not only that, but I would also like to gradually discuss what kinds of official positions existed in this domain, starting with the senior councilor (kuni-karō), how domain administration was conducted, and what kinds of people held these various positions. However, since I intend to first present only the main outline, I would like to defer such detailed matters until the end of the Ōkōchi family discussion and present them comprehensively at that time. Therefore, I would like to briefly mention this disclaimer for now. **Notable Townspeople of the Era:** Now, among the townspeople of Yoshida during this period, there were some skilled in flower arrangement. One was a person called Shijian Hokurai, who was the head priest of Kannon-ji temple located in Kasumachi at that time. He was a direct disciple of Zeshinken Ichirō-ō, founder of the Shōgetsu-dō ancient school, and received his license in the 9th month of An'ei 8 (1779). The name "Shijian" has been passed down through successive generations, and even today it remains a respected name in that art. Another was a person from Kanejaku-temachi named Onda Sanshō. He was also a disciple of Zeshinken and received his license as head of all provinces (shokoku kaitō) in Tenmei 2 (1782). His common name was Tasōta, his given name was Manshin, his courtesy name was Shishin, and his artistic name was Shin'ōken. Regarding flower arrangement, he wrote various works... **Margin:** Publisher and Printing House: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Kōya-machi, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Supplement to Sanyō Newspaper No. 4293 (Published February 18, Taishō 2) **Main Text:** ...including "Illustrations of San'en Flower Arrangements" and "Oral Traditions of Flower Arrangement," which are particularly famous. He is said to have had over a thousand disciples and died of illness in the 9th month of Bunka 7 (1810) at age 67. **Satō Nankan:** Next I would like to discuss Satō Nankan, a resident of Funamachi who operated a shipping business and was commonly known as Shinbei. His family still exists today, and the current head is also called Satō Shinpei. Nankan's given name was Kidō, courtesy name Jakusui, and he used the artistic names Kyokkōsai or Bunkai-dō shujin. "Nankan" was also one of his names, but since his house was near Yoshida Great Bridge, he playfully also used "Rankan" (balustrade). He was a disciple of Maruyama Ōkyo, skilled in painting, and also versed in literature, maintaining friendship with the famous Kyokutei Bakin. Even now, the family preserves a painting by Nankan with an inscription by Bakin. He died of illness in the 4th month of Tenmei 7 (1787) at age 42, much mourned by all. **Hattori Yasuke:** Around the same time, also in Funamachi, among the ancestors of the current Mr. Hattori Yahachi was a man named Hattori Yasuke, who was truly a master of martial arts and a person of great chivalrous spirit. His jujutsu was of the Asakawa Ichiden school, and whether in swordsmanship or staff techniques, there was no secret art he had not mastered, making him truly renowned. His shop name being "Igaya," people called him "Igasuke." He had many martial arts disciples and constantly traveled throughout the provinces with his martial arts. His adventures are extremely numerous, like hearing the old tales of the Three Heroes of Genna. A travel journal he wrote himself remains in the Hattori family house, with sketches drawn in various places, which I find quite interesting. He died of illness on September 16, Bunka 14 (1817) at age 82. **Swordsmith Shigeyoshi:** Among others, there was a swordsmith named Shigeyoshi in Yoshida who was quite a renowned craftsman. One sword he forged is now preserved in the Ōkōchi family collection, inscribed with "Bunka 10, 8th month," but unfortunately I cannot quite determine details of his biography. I hope to search for materials about him in the future, and would appreciate guidance from anyone with knowledge of him. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Nobuaki and the Conditions of Yoshida During His Time as Lord) 377