Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 203

ページ: 203

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百七十八 【本文】             ⦿松平信順の襲職       前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く松平信明(まつだひらのぶあき)は文化(ぶんくわ)十四年八月十六日 年(とし)五十五 歳(さい)で老中(らうちう)上座(ぜうざ)在職(ざいしよく)のまゝ病(やまひ)で江戸(えど)の 松平信順  邸(やしき)で卒去(そつきよ)せられたのであるが其(その)家督(かとく)を継(つ)いで此(この)吉田(よしだ)の城主(じやうしゆ)となつたのは即(すなは)ち信順(のぶより)である信順(のぶより)は信明(のぶあき)の       二 男(なん)で母(はゝ)は家女(かじよ)久須美氏(くすみし)であるが嫡出(ちやくしゆつ)の長子(てうし)は早世(さうせい)した為(ため)に此(この)信順(のぶより)が世子(せいし)となつて家督(かとく)を相続(さうぞく)した次(し)       第(だい)である寛政(かんせい)五年六月七日の生(うまれ)で家督(かとく)を相続(さうぞく)した時(とき)は恰(あたか)も其(その)廿五 歳(さい)の時(とき)であつた幼名(えうめい)は長治郎(てうぢらう)で初(はじ)め       駿河守(するがのかみ)に叙(ぢよ)し後(のち)伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せられたが此(この)人(ひと)も亦(ま)た父(ちゝ)信明(のぶあき)に似(に)て勤勉(きんべん)の質(しつ)であつたが寛仁(かんにん)で而(しか)も緻密(ちみつ)な       る性(せい)を持(も)つて居(ゐ)たように察(さつ)せられる而(しか)して文化(ぶんくわ)と云(い)ふ年号(ねんがう)は信順(のぶより)の家督相続(かとくさうぞく)をした十四 年(ねん)迄(まで)で文政(ぶんせい)と       改(あらた)まつたが其(その)八年の五月六日 信順(のぶより)は寺社奉行(じしやぶぎよう)に任(にん)ぜられたのである其(その)後(のち)文政(ぶんせい)は又(ま)た十二年 迄(まで)で天保(てんぽう)と       改(あらた)まつたのであるが其(その)天保(てんぽう)の二年五月廿五日を以(もつ)て信順(のぶより)は大阪城代(おほさかじやうだい)に任(にん)ぜられて任地(にんち)に赴(おもむ)く事(こと)となつ       た当時(たうじ)徳川将軍(とくがはせうぐん)はまだ家斉(いへなり)であつが前章(ぜんせう)にも段々(だん〳〵)と申述(まをしの)べたる如(ごと)く此(この)家斉(いへなり)の治世(ぢせい)に方(あた)つては最初(さいしよ)彼(か)       の松平定信(まつだひらさだのぶ)が出(い)でゝ幕政(ばくせい)の大改革(だいかいかく)を行(おこな)ひ彼(か)の田沼(たぬま)一 派(ぱ)のものを斥(しりぞ)けて大(おほひ)に官紀(くわんき)を振粛(しんしゆく)したのである然(しか)       るに其(その)頃(ころ)から例(れい)の一橋治済(ひとつばしはるなり)即(すなは)ち将軍(せうぐん)家斉(いへなり)の実父(じつぷ)が色々(いろ〳〵)と政務(せいむ)に干渉(かんせう)を試(こゝろ)みむとするので屡々(しば〳〵)困難(こんなん)な       る事情(じぜう)を惹起(ひきおこ)しそれには又(ま)た佞臣(ねいしん)の阿付(あふ)するものもあり田沼(たぬま)の残党(ざんたう)とも目(もく)すべきものも之(これ)と欵(くわん)を通(つう)ず       ると云ふ訳(わけ)で益々(ます〳〵)事情(じぜう)は複雑(ふくざつ)したのであつたが定信(さだのぶ)退職(たいしよく)の後(のち)は信明(のぶあき)が其(その)志(こゝろざし)を継(つ)いで何処(どこ)迄(まで)も定信(さだのぶ)の       遺業(ゐぎよう)を損(そん)しないように勗(つと)めたのみならず之(これ)には加納遠江守久周(かのうとうとほみのかみひさかね)などは勿論(もちろん)青山忠裕(あをやまたゞひろ)、堀田正敦(ほつたまさあつ)などの 《割書:水野忠成の|弊政》  名臣(めいしん)も補翼(ほよく)したのであつたが信明(のぶあき)の晩年(ばんねん)に方(あた)つては次第(しだい)々々に治済(はるなり)の勢(いきほひ)が長(てう)じ来(きた)つて其(その)側用人(そばようにん)たる水(みづ)       野忠成(のたゞなり)は老中格(らうちうかく)となりそれには又(ま)た土方縫殿介(ひぢかたぬひどのすけ)などゝ云ふ権臣(けんしん)が付(つ)いて居(ゐ)たので漸(やうや)く悪弊(あくへい)を増長(ぞうてう)せし 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       むるに至(いた)つたがイヨ〳〵信明(のぶあき)卒去(そつきよ)後(ご)は此(この)忠成(たゞなり)が急(きふ)に勢(いきほひ)を得(え)て老中(らうちう)となり定信(さだのぶ)信明(のぶあき)以来(いらい)の名臣(めいしん)は次第(しだい)に       其(その)職(しよく)を引退(ひきしりぞ)くと云ふ訳(わけ)で世風(せふう)は忽(たちま)ち浮華虚栄(ふくわきよえい)に陥(おちい)り賄賂(わいろ)は横行(わうかう)を極(きは)め再(ふたゝ)び田沼時代(たぬまじだい)の弊風(へいふう)を来(きた)したの       である初(はじ)め定信(さだのぶ)信明(のぶあき)等(ら)が相続(あひつ)いで幕政(ばくせい)を取(と)つて居(ゐ)た頃(ころ)はドウしても此(この)病源(びやうげん)が治済(はるなり)にあるべきを察(さつ)した       のであつたから常(つね)にそれを抑制(よくせい)することに苦心(くしん)したもので将軍(せうぐん)は之(これ)が自分(じぶん)の生父(せいふ)である所(ところ)から夙(つと)に尊(たつとん)で       大御所(おほごしよ)と呼(よ)ばしめむとしたのであつたが定信(さだのぶ)等(ら)は之(これ)に反対(はんたい)し其(その)後(のち)之(これ)を二の丸(まる)に迎(むか)へ入(い)れむとした時(とき)に       も信明(のぶあき)が反対(はんたい)したのであるトコロが今度(このたび)忠成(たゞなり)が老中(らうちう)と相成(あひな)つたので彼(か)の尊号事件(そんがうじけん)の行掛(ゆきがゝ)りなどを知(し)つ       て居(を)る処(ところ)から段々(だん〳〵)と京都(けうと)の方(はう)へ取(と)り入(い)る事(こと)を初(はじ)めて朝廷(てうてい)に対(たい)して色々(いろ〳〵)と奉(ほう)ずる処(ところ)があつた処(ところ)は誠(まこと)に大(おほ)       手柄(てがら)とも云ふべきであつたが結局(けつきよく)それによりて治済(はるなり)に准大臣(じゆんだいじん)の宣下(せんげ)を請(こ)ふに至(いた)つたのであるかゝる訳(わけ)       で忠成(たゞなり)の勢力(せいりよく)は忽(たちま)ち幕府(ばくふ)を敞(お)ふに至(いた)つたのであるが彼(か)の貨幣(くわへい)の改鋳(かいちう)なども長(なが)い間(あひだ)信明(のぶあき)の取(と)つた方針(はうしん)を       一 変(ぺん)して此(この)人(ひと)が屡々(しば〳〵)実行(じつかう)したので悪貨幣(あくくわへい)の濫造(らんざう)は実(じつ)に此(この)時(とき)に行(おこな)はれたのであるモツトモ当時(たうじ)に於(お)ける       幕府財政(ばくふざいせい)の窮乏(きうぼう)と云ふものは甚(はなはだ)しかつたもので中(なか)には其(その)原因(げんゐん)を以(もつ)て蝦夷経営(えぞけいゑい)の失敗(しつぱい)に皈(き)する論者(ろんしや)があ       るが之(これ)は誠(まこと)に皮相(ひさう)の観察(くわんさつ)であると信(しん)ずる蝦夷経営(えぞけいゑい)の事に就(つい)ては既(すで)に前章(ぜんせう)にも詳述(せうじゆつ)して置(お)いたが成程(なるほど)幕(ばく)       府(ふ)の財政上(ざいせいぜう)に取(と)つては之(これ)が一の大(たい)なる困難(こんなん)となつたのではあろうが当時(たうじ)露国(ろこく)が我(わが)北辺(ほくへん)を窺(うかゞ)ひたる事に対(たい)       してはドウしても幕府(ばくふ)は蝦夷(えぞ)を直轄(とよくかつ)として松前氏(まつまへし)が多年(たねん)の積弊(せきへい)を除(のぞ)き所謂(いはゆる)対外的(たいぐわいてき)に其(その)経営(けいえい)をしなけれ       ばならぬのは当然(たうぜん)の事柄(ことがら)である之(これ)をなしたればこそ我(わが)北辺(ほくへん)を以(もつ)て当時(たうじ)露国(ろこく)の侵略(しんりやく)に任(にん)せなかつたので       ある然(しか)るに信明(のぶあき)卒去(そつきよ)の後(のち)僅(わづか)に四年で此(この)蝦夷(えぞ)の地(ち)は復(ふたゝ)び旧主(きうしゆ)松前氏(まつまへし)に返与(へんよ)して仕舞(しま)つたのであるが之(これ)も       松前氏(まつまへし)が忠成(たゞなり)に取入(とりい)つた結果(けつくわ)であるとも云(い)ひ又(ま)た治済(はるなり)に泣(な)き付(つ)いた処(ところ)から其(その)意(い)に出(い)でたとも伝(つた)へられ       て居(を)るかゝる訳(わけ)であつたから蝦夷(えぞ)の警備(けいび)と云(い)ふものは忽(たちま)ち全(まつた)く弛(ゆる)み折角(せつかく)開拓(かいたく)しかけた土地(とち)も亦(ま)た荒蕪(かうぶ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百七十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百七十八 【本文】 ⦿松平信順の襲職 前章に申し述べた通り、松平信明は文化十四年八月十六日、年五十五歳で老中上座在職のまま病気で江戸の邸で亡くなったのであるが、その家督を継いでこの吉田の城主となったのは、すなわち信順である。 信順は信明の二男で母は家女久須美氏であるが、嫡出の長子は早世したため、この信順が世子となって家督を相続した次第である。寛政五年六月七日の生まれで、家督を相続した時はちょうどその二十五歳の時であった。幼名は長治郎で、初め駿河守に叙し、後に伊豆守に叙せられたが、この人もまた父信明に似て勤勉な質であったが、寛仁でしかも緻密な性を持っていたように察せられる。 そして文化という年号は信順の家督相続をした十四年までで文政と改まったが、その八年の五月六日、信順は寺社奉行に任ぜられたのである。その後文政はまた十二年まで で天保と改まったのであるが、その天保の二年五月二十五日をもって信順は大阪城代に任ぜられて任地に赴く事となった。 当時徳川将軍はまだ家斉であったが、前章にも段々と申し述べた通り、この家斉の治世に当たっては、最初かの松平定信が出てきて幕政の大改革を行い、かの田沼一派のものを斥けて大いに官紀を振粛したのである。 しかるにその頃から例の一橋治済、すなわち将軍家斉の実父が色々と政務に干渉を試みようとするので、しばしば困難な事情を惹起し、それにはまた佞臣の阿付するものもあり、田沼の残党とも目すべきものもこれと款を通ずるという訳で、益々事情は複雑したのであったが、定信退職の後は信明がその志を継いで、どこまでも定信の遺業を損しないように努めたのみならず、これには加納遠江守久周などはもちろん、青山忠裕、堀田正敦などの名臣も補翼したのであったが、信明の晩年に当たっては次第々々に治済の勢いが長じ来って、その側用人たる水野忠成は老中格となり、それにはまた土方縫殿介などという権臣が付いていたので、漸く悪弊を増長せしむるに至った。 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 いよいよ信明卒去後はこの忠成が急に勢いを得て老中となり、定信信明以来の名臣は次第にその職を引退するという訳で、世風は忽ち浮華虚栄に陥り、賄賂は横行を極め、再び田沼時代の弊風を来したのである。 初め定信信明等が相続いて幕政を取っていた頃は、どうしてもこの病源が治済にあるべきを察したのであったから、常にそれを抑制することに苦心したもので、将軍はこれが自分の生父である所から早くに尊んで大御所と呼ばしめようとしたのであったが、定信等はこれに反対し、その後これを二の丸に迎え入れようとした時にも信明が反対したのである。 ところが今度忠成が老中と相成ったので、かの尊号事件の行掛りなどを知っている処から段々と京都の方へ取り入る事を初めて、朝廷に対して色々と奉ずる処があった処は誠に大手柄とも言うべきであったが、結局それによりて治済に准大臣の宣下を請うに至ったのである。 かかる訳で忠成の勢力は忽ち幕府を覆うに至ったのであるが、かの貨幣の改鋳なども長い間信明の取った方針を一変してこの人がしばしば実行したので、悪貨幣の濫造は実にこの時に行われたのである。 もっとも当時における幕府財政の窮乏というものは甚だしかったもので、中にはその原因をもって蝦夷経営の失敗に帰する論者があるが、これは誠に皮相の観察であると信ずる。蝦夷経営の事については既に前章にも詳述して置いたが、成程幕府の財政上に取ってはこれが一つの大なる困難となったのではあろうが、当時露国が我が北辺を窺った事に対してはどうしても幕府は蝦夷を直轄として、松前氏が多年の積弊を除き、所謂対外的にその経営をしなければならぬのは当然の事柄である。 これをなしたればこそ我が北辺をもって当時露国の侵略に任せなかったのである。しかるに信明卒去の後僅かに四年でこの蝦夷の地は復び旧主松前氏に返与してしまったのであるが、これも松前氏が忠成に取り入った結果であるとも言い、また治済に泣き付いた処からその意に出でたとも伝えられている。 かかる訳であったから蝦夷の警備というものは忽ち全く弛み、折角開拓しかけた土地もまた荒蕪 【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百七十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 378 **Main Text:** ⦿ Matsudaira Nobuyori's Succession As stated in the previous chapter, Matsudaira Nobuaki died of illness at his Edo residence on August 16, Bunka 14 (1817), at the age of 55, while still serving as senior councilor (rōjū jōza). The one who inherited his position and became lord of Yoshida castle was Nobuyori. Nobuyori was Nobuaki's second son, whose mother was a house lady of the Kusumi family. Since the legitimate eldest son died young, this Nobuyori became heir apparent and succeeded to the family headship. Born on June 7, Kansei 5 (1793), he was exactly 25 years old when he inherited the position. His childhood name was Chōjirō, and he was first appointed Suruga-no-kami, later Izu-no-kami. Like his father Nobuaki, he was of a diligent nature, but appears to have possessed a tolerant yet meticulous character. The Bunka era ended with year 14 when Nobuyori succeeded, changing to Bunsei. In the 8th year of Bunsei, on May 6 (1825), Nobuyori was appointed magistrate of temples and shrines (jisha bugyō). Bunsei later ended with year 12, changing to Tenpō, and on May 25, Tenpō 2 (1831), Nobuyori was appointed Osaka castle keeper and departed for his new post. **Political Context:** At that time, the Tokugawa shogun was still Ienari. As I have described in previous chapters, during Ienari's reign, initially the famous Matsudaira Sadanobu emerged to carry out major reforms of the shogunate administration, dismissing the Tanuma faction and greatly disciplining official conduct. However, from around that time, Hitotsubashi Harunari—that is, Shogun Ienari's biological father—began attempting various interferences in government affairs, frequently causing difficult situations. This was compounded by flattering retainers and remnants of the Tanuma faction who established connections with him, making the situation increasingly complex. After Sadanobu's retirement, Nobuaki inherited his aspirations and strove not to damage Sadanobu's legacy in any way. He was supported not only by distinguished ministers like Kanō Tōtōmi-no-kami Hisakane, but also Aoyama Tadahiro and Hotta Masaatsu. However, in Nobuaki's later years, Harunari's influence gradually grew stronger, and his chief retainer Mizuno Tadakuni became senior councilor rank, supported by powerful ministers like Hijikata Nuinosuke, gradually increasing corruption. **Margin:** Mayor Ōguchi Kiroku of Toyohashi City has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi City history for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of Sanyō Newspaper **Main Text:** After Nobuaki's death, Tadakuni rapidly gained power and became senior councilor. The distinguished ministers from Sadanobu and Nobuaki's era gradually retired from their positions, and social customs quickly fell into frivolous vanity, with bribery running rampant, once again bringing the corrupt practices of the Tanuma era. Initially, when Sadanobu, Nobuaki and others successively managed shogunate affairs, they recognized that the source of this disease lay with Harunari, so they constantly struggled to restrain him. The shogun, being his biological father, wanted to honor him early by having him called "Great Retired Lord" (Ōgosho), but Sadanobu opposed this. Later, when they tried to welcome him into the inner citadel (ninomaru), Nobuaki also opposed it. However, when Tadakuni became senior councilor, knowing about the imperial title incident and other matters, he began gradually ingratiating himself with the Kyoto court, making various offerings to the imperial court—which could be called a great achievement, but ultimately resulted in requesting the appointment of Harunari as associate minister (jun-daijin). **Economic Policies and Hokkaido:** Through this, Tadakuni's power came to dominate the shogunate. His frequent currency reforms completely reversed the policies Nobuaki had long maintained, and the rampant production of debased currency truly occurred during this time. Admittedly, the shogunate's financial difficulties were severe at the time. Some argue that the cause lay in the failure of Hokkaido (Ezo) administration, but I believe this is a superficial observation. As I detailed in previous chapters regarding Hokkaido administration, while it certainly created great financial difficulties for the shogunate, given Russia's designs on our northern borders, it was absolutely necessary for the shogunate to directly control Hokkaido, eliminate the Matsumae clan's accumulated abuses, and manage it with external defense in mind. It was precisely because of this that our northern borders were not left vulnerable to Russian aggression at the time. However, just four years after Nobuaki's death, the Hokkaido territory was returned to its former lord, the Matsumae clan. This is said to have resulted either from the Matsumae clan's ingratiating themselves with Tadakuni, or from appealing to Harunari. For these reasons, Hokkaido's defenses completely slackened, and the lands that had been painstakingly developed became wasteland again... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 379