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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 204

ページ: 204

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十 【本文】       に皈(き)せしむるに至(いた)つたので有識者(いうしきしや)は切(せつ)に惜(おし)むだ次第(しだい)である信明(のぶあき)死去(しきよ)後(ご)の大勢(たいせい)は先(ま)づ大要(たいえう)此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で 《割書:大阪城代と|しての信順》  あつたがサテ天保(てんぽう)の初年(しよねん)からは国内(こくない)が不作(ふさく)で米価(べいか)は次第(しだい)に騰貴(とうき)し四年に至(いた)つては諸処(しよ〳〵)に窮民(きうみん)の蜂起(ほうき)を       見(み)たのである従(したがつ)て大阪市中(おほさかしちう)の形勢(けいせい)も実(じつ)に不穏(ふおん)と成(な)つたのであるが勿論(もちろん)当時(たうじ)は信順(のぶより)が城代(じやうだい)として其(その)地(ち)に       あつたのである而(しか)して其(その)年(とし)の七月 彼(か)の矢部駿河守(やべするがのかみ)は堺奉行(さかいぶぎよう)から転(てん)じて大阪(おほさか)の町奉行(まちぶぎよう)と相成(あひな)つたのであ       るが信順(のぶより)は日々(にち〳〵)駿州(すんしう)と蜜議(みつぎ)を凝(こ)らし厳(げん)に不正(ふせい)の利(り)を貪(むさぼ)る米商(こめせう)の取締(とりしまり)を行(おこな)つたのである大河内家(おほかうちけ)にある       十 世遺事抄(せいゐじしよう)と云ふ記録(きろく)にると其(その)頃(ころ)駿州(すんしう)には毎日(まいにち)深(ふか)き笠(かさ)にて顔(かほ)を隠(かく)し忍(しの)び〳〵て市中(しちう)を巡行(じゆんかう)し米(こめ)の差札(さしふだ)        に着眼(ちやくがん)して少(すこ)しにても高価(かうか)に商(あきな)はんとする米商(こめせう)は一々 之(これ)を記録(きろく)して其(その)都度(つど)信順(のぶより)に報告(ほうこく)し以(もつ)て其(その)取締方(とりしまりかた)       を励行(れいかう)したので後世(こうせい)迄(まで)も其(その)仁徳(にんとく)を称(せう)したのである其(その)翌(よく)五年四月十一日 付(づけ)を以(もつ)て信順(のぶより)は京都所司代(けうとしよしだい)に栄(えい)       転(てん)し其(その)翌(よく)六年 駿州(すんしう)も亦(ま)た他(た)に転任(てんにん)することとなつたのであるが八 年(ねん)の二月には例(れい)の大塩平(おほしほへい)八 郎(らう)の乱(らん)が起(おこ) 《割書:京都所司代|としての信|順》  つたので大阪(おほさか)の市人(しじん)は益々(ます〳〵)信順(のぶより)の徳(とく)を慕(した)つたと云ふ事が載(の)せてあるのであるかくて信順(のぶより)は天保(てんぽう)五年四       月(がつ)大阪城代(おほさかじやうだい)から京都所司代(けうとしよしだい)に転任(てんにん)したのであるが信順(のぶより)が初(はじ)めて禁裏(きんり)へ上(あが)つた時(とき)の歌(うた)に           遥にもおもひし雲のうへに今日               のほりて高き日影をそあふく       と云(い)ふのがあるが恐(おそら)くは此(この)時(とき)のものであろうと信(しん)ずるのであるサテ信順(のぶより)が京都所司代(けうとしよしだい)たりしは同(おな)じ八       年の五月迄で仝月十六日 所司代(しよしだい)から老中(らうちう)に栄転(えいてん)したのであるが京都(けうと)在職中(ざいしよくちう)も前(まへ)に申述(まをしの)べた如(ごと)く米価(べいか)は       イヨ〳〵騰貴(とうき)し大阪(おほさか)には大塩(おほしほ)の乱(らん)が起(おこ)つたと云ふ訳(わけ)で京都(けうと)も中々(なか〳〵)の騒(さわ)ぎであつたが信順(のぶより)は幕府(ばくふ)の許可(きよか)       を受(う)けたる上町奉行(うへまちぶぎよう)をして救小屋(すくひこや)を設(まを)けしめ以(もつ)て窮民(きうみん)に粥(かゆ)を施(ほどこ)し病者(びやうしや)には施療(せれう)をもなさしめたのであ       る勿論(もちろん)奸商(かんせう)の米価(べいか)を騰貴(とうき)せしめて利(り)を得(え)むとするが如(ごと)きものは勉(つと)めて之(これ)を匡正(きようせい)せしめたのであるが茲(こゝ) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百九十九号附録    (大正二年二月二十五日発行) 【本文】       に一つ面白(おもしろ)い逸話(いつわ)があるから御話(おはなし)したいと思(おも)ふ       当時(たうじ)京都(けうと)の千本通(せんぼんどほり)に一 軒(けん)の穀屋(こくや)があつたが此(この)穀屋(こくや)は時節柄(じせつがら)にも似(に)ず殊(こと)に升目(ますめ)をよく量(はか)つて売(う)ると云(い)ふ       ので大評判(おほひようばん)となつたのである信明(のぶあき)は此(この)事(こと)を聞(き)いてそれは誠(まこと)に奇特(きとく)なる事柄(ことがら)のようではあるが此(この)米価(べいか)暴(ばう)       騰(とう)の時(とき)に於(おい)ては甚(はなは)だ以(もつ)て不審(ふしん)であるそれとも其者(そのもの)の心掛(こゝろが)けが之(これ)迄(まで)とても常(つね)に宜敷(よろし)き者(もの)であるか取調(とりしら)べ       て見(み)よと云(い)ふので其者(そのもの)の素行(そこう)を調査(てうさ)せしめた処(ところ)がドウモ一 向(かう)ソウ云(い)ふ善(よ)き心懸(こゝろがけ)ありし様子(やうす)は見(み)へぬソ       コで信順(のぶより)は益々(ます〳〵)不審(ふしん)の事となして其者(そのもの)の用(もち)ゐ居(を)る升(ます)を取寄(とりよ)せて調(しら)べて見(み)ると古(ふる)き升(ます)の底(そこ)へ糠(ぬか)を煉(ね)り付(づ)       けて浅(あさ)くしてあるのである従(したがつ)て量(はか)りを宜(よ)くしても矢張(やはり)一 升(せう)は一 升(せう)となる仕掛(しか)けに出来(でき)て居(を)るのである       から役人(やくにん)も驚(おどろ)いたのであるが九 合(ごう)のものを一 升(せう)と云(い)つて売(う)つたと云(い)ふ訳(わけ)でもなかつたので商売差止(せうばいさしとめ)の       上(うへ)押込(おしこめ)を命(めい)じたと云(い)ふ事(こと)である       彼様(かやう)な訳(わけ)で信順(のぶより)は転任(てんにん)早々(さう〳〵)容易(ようい)ならず窮民(きうみん)に対(たい)する保護(ほご)を劃策(くわくさく)したのであつたが為(ため)に人心(じん〳〵)は次第(しだい)に平(へい)       穏(おん)に皈(き)し市人(しじん)は皆(みな)其(その)仁徳(にんとく)を欽仰(きんげい)したと云(い)ふ事(こと)である又(ま)た信順(のぶより)が京都(けうと)在任中(ざいにんちう)禁裏(きんり)に罷出(まかりいで)たる事があるが       其(その)節(せつ)築地内(つきぢない)の掃除(さうぢ)が不行届(ふゆきとゞき)で雑草(ざつそう)が生(お)ひ茂(しげ)つて居(を)つたので皈館後(きくわんご)役人(やくにん)を召寄(めしよ)せて御築地内(おんつきぢない)不掃除(ふさうぢ)にて       草(くさ)の生立(おひた)つをも不構差置(かまはづさしお)くは何(なん)と心得居(こゝろえを)るにや恭(うや〳〵)しくも一 天(てん)の君(きみ)の御座所(ござしよ)たり甚(はなはだ)以(もつ)て不敬(ふけい)の事共(ことども)       也(なり)とて厳敷(きびしく)将来(せうらい)を戒(いまし)めたと云ふ話(はなし)がある又(ま)た公用人(こうようじん)岡本(をかもと)と云ふ者(もの)の話(はなし)だとして十 世遺事鈔(せいゐじしよう)の中(なか)に記(しる)し       てある処(ところ)を見(み)ると信順(のぶより)が京都(けうと)着任(ちやくにん)以来(いらい)常(つね)に役人(やくにん)等(ら)に向(むか)つて種々(しゆ〴〵)の質問(しつもん)を発(はつ)した様子(やうす)であるが之(こ)れが何(い)       時(つ)も意外(いぐわい)な事で誰(だれ)も其(その)答弁(たうべん)に苦(くるし)むだとの事である余(あま)り長(なが)くなるから一々 此処(こゝ)に其(その)逸話(いつわ)は申述(まをしの)べぬ考(かんがへ)で       あるが併(しか)し此(かく)の如(ごと)くして信順(のぶより)は鋭意(えいゝ)治(ぢ)を求(もと)めたものであるから世人(せじん)は実(じつ)に其(その)徳望(とくぼう)に皈服(きふく)したのである       序(ついで)だから一寸(ちよつと)此処(こゝ)に御話(おはなし)して置(お)きたいと思(も)ふが信順(のぶより)が大阪城代(おほさかじやうだい)に任(にん)ぜられて赴任(ふにん)せる時(とき)の道中記(どうちうき)並(ならび)に 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百八十 【本文】 に帰するに至ったので、有識者は切に惜しむ次第である。信明死去後の大勢は、まず大要このような訳であった。 さて天保の初年からは国内が不作で、米価は次第に高騰し、四年に至っては諸所に窮民の蜂起を見たのである。従って大阪市中の形勢も実に不穏となったのであるが、もちろん当時は信順が城代としてその地にあったのである。 そしてその年の七月、かの矢部駿河守は堺奉行から転じて大阪の町奉行となったのであるが、信順は日々駿州と密議を凝らし、厳に不正の利を貪る米商の取締りを行ったのである。大河内家にある十世遺事抄という記録によると、その頃駿州は毎日深い笠にて顔を隠し、忍び忍びて市中を巡行し、米の差札に着眼して少しでも高価に商おうとする米商は一々これを記録して、その都度信順に報告し、もってその取締方を励行したので、後世までもその仁徳を称したのである。 その翌五年四月十一日付をもって信順は京都所司代に栄転し、その翌六年、駿州もまた他に転任することとなったのであるが、八年の二月には例の大塩平八郎の乱が起こったので、大阪の市人は益々信順の徳を慕ったという事が載せてあるのである。 かくて信順は天保五年四月、大阪城代から京都所司代に転任したのであるが、信順が初めて禁裏へ上った時の歌に、 遥かにも思いし雲の上に今日 のぼりて高き日影をぞ仰ぐ というのがあるが、恐らくはこの時のものであろうと信ずるのである。 さて信順が京都所司代たりしは同じ八年の五月までで、同月十六日所司代から老中に栄転したのであるが、京都在職中も前に申し述べた如く米価はいよいよ高騰し、大阪には大塩の乱が起こったという訳で、京都も中々の騒ぎであったが、信順は幕府の許可を受けた上町奉行をして救小屋を設けしめ、もって窮民に粥を施し、病者には施療をもなさしめたのである。もちろん奸商の米価を高騰せしめて利を得ようとするが如きものは努めてこれを匡正せしめたのであるが、ここに一つ面白い逸話があるからお話ししたいと思う。 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編集人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千二百九十九号附録(大正二年二月二十五日発行) 【本文】 当時京都の千本通に一軒の穀屋があったが、この穀屋は時節柄にも似ず、殊に升目をよく量って売るということで大評判となったのである。信明はこの事を聞いて、それは誠に奇特なる事柄のようではあるが、この米価暴騰の時においては甚だもって不審である。それとも其者の心掛けがこれまでとても常によろしき者であるか取り調べて見よということで、其者の素行を調査せしめた処が、どうも一向そういう善き心懸けありし様子は見えぬ。 そこで信順は益々不審の事となして、其者の用いている升を取り寄せて調べて見ると、古い升の底へ糠を練り付けて浅くしてあるのである。従って量りを良くしても、やはり一升は一升となる仕掛けに出来ているのであるから、役人も驚いたのであるが、九合のものを一升と言って売ったという訳でもなかったので、商売差し止めの上押込みを命じたということである。 かような訳で信順は転任早々、容易ならず窮民に対する保護を画策したのであったが、ために人心は次第に平穏に帰し、市人は皆その仁徳を欽仰したということである。 また信順が京都在任中、禁裏に罷り出たる事があるが、その節築地内の掃除が不行届きで雑草が生い茂っていたので、帰館後役人を召し寄せて「御築地内不掃除にて草の生い立つをも構わず差し置くは何と心得ているにや。恭しくも一天の君の御座所たり、甚だもって不敬の事共なり」とて厳しく将来を戒めたという話がある。 また公用人岡本という者の話だとして十世遺事抄の中に記してある処を見ると、信順が京都着任以来、常に役人等に向って種々の質問を発した様子であるが、これが何時も意外な事で誰もその答弁に苦しむとの事である。あまり長くなるから一々ここにその逸話は申し述べぬ考えであるが、しかしこのようにして信順は鋭意治を求めたものであるから、世人は実にその徳望に帰服したのである。 序でだから一寸ここにお話しして置きたいと思うが、信順が大阪城代に任ぜられて赴任せる時の道中記並びに 【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百八十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 380 **Main Text:** ...leading to ruin, which knowledgeable people deeply regretted. Such was the general situation after Nobuaki's death. **Nobuyori as Osaka Castle Keeper:** From the early years of Tenpō, the country suffered from poor harvests, rice prices gradually rose, and by the fourth year, uprisings of impoverished people were seen in various places. Consequently, the situation in Osaka city became truly unstable, but of course at that time Nobuyori was there as castle keeper. In July of that year, the aforementioned Yabe Suruga-no-kami transferred from Sakai magistrate to become Osaka town magistrate, and Nobuyori held daily secret consultations with Sunshū, strictly controlling rice merchants who greedily sought improper profits. According to a record called "Jūsei Iji-shō" in the Ōkōchi family, at that time Sunshū would daily hide his face with a deep hat and secretly patrol the city, observing rice price tags and recording any rice merchants attempting to sell at even slightly high prices, reporting to Nobuyori each time to enforce these controls, for which his benevolence was praised by later generations. On April 11 of the following fifth year, Nobuyori was promoted to Kyoto deputy (shoshidai), and in the following sixth year, Sunshū was also transferred elsewhere. However, when Ōshio Heihachirō's rebellion occurred in February of the eighth year, the people of Osaka increasingly longed for Nobuyori's virtue, as recorded. **Nobuyori as Kyoto Deputy:** Thus Nobuyori transferred from Osaka castle keeper to Kyoto deputy in April of Tenpō 5. When he first ascended to the imperial palace, he composed this poem: *What seemed so distant, the realm above the clouds* *Today I climb to gaze upon the high sun's light* This was probably composed at that time. Nobuyori served as Kyoto deputy until May of the eighth year, when on the 16th of that month he was promoted from deputy to senior councilor. During his tenure in Kyoto, as I mentioned before, rice prices continued to soar and Ōshio's rebellion occurred in Osaka, so Kyoto was also quite turbulent. However, Nobuyori, with shogunal permission, had the upper town magistrate establish relief huts to provide rice gruel to the poor and medical treatment to the sick. Of course, he also endeavored to correct unscrupulous merchants who sought to profit by inflating rice prices. Here I would like to share an interesting anecdote. **The Grain Merchant's Deception:** At that time, there was a grain shop on Senbon Street in Kyoto that, despite the circumstances, gained great reputation for measuring grain portions particularly generously. When Nobuaki heard of this, he said, "While this seems like truly admirable behavior, it is quite suspicious during this time of soaring rice prices. Either investigate whether this person has consistently shown such good character." When they investigated the person's conduct, they found no evidence of such virtuous intentions. Therefore, Nobuyori became increasingly suspicious and had the measuring containers examined. They discovered that rice bran had been kneaded and attached to the bottom of the old measures to make them shallower. Thus, even while appearing to measure generously, one shō was still one shō due to this mechanism. The officials were surprised, but since it wasn't a case of selling nine gō as one shō, they ordered the cessation of business and house arrest. **Administrative Achievements:** In this way, Nobuyori immediately upon transfer planned extraordinary protection for the impoverished, gradually restoring public peace, with all citizens revering his benevolence. Also, when Nobuyori appeared at the imperial palace during his Kyoto tenure, the grounds were inadequately cleaned with overgrown weeds. After returning to his residence, he summoned officials saying: "How do you justify leaving the imperial grounds uncleaned with grass growing freely? This is the most respectfully regarded residence of the heavenly sovereign—such disrespectful conduct is inexcusable!" He strictly warned them about future conduct. According to a story attributed to a public official named Okamoto recorded in the Jūsei Iji-shō, from Nobuyori's arrival in Kyoto, he constantly posed various questions to officials, which were always unexpected and difficult for anyone to answer. Since this would become too lengthy, I won't relate all these anecdotes here, but through such methods Nobuyori earnestly sought good governance, earning the genuine respect and submission of the people to his moral authority. Incidentally, I would like to briefly mention here the travel record when Nobuyori was appointed Osaka castle keeper and departed for his post, along with... **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Partnership, 48 Konyamachi, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4299 Supplement (Published February 25, Taishō 2 [1913]) **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 381