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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 205

ページ: 205

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十二 【本文】 《割書:大阪入城の|絵巻》  其(その)行列(ぎようれつ)の実況(じつけう)を絵巻物(ゑまきもの)にしたのが今(いま)旧藩中(きうはんちう)に伝(つた)はつて居(を)るのであるタシカ長尾清江(ながをせいかう)氏(し)の家(いへ)にも所蔵(しよざう)さ       れて居(を)る事(こと)と思(おも)ふが之(これ)は中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いもので此(この)時(とき)信順(のぶより)は九月朔日(天保二年)江戸(えど)を発(はつ)し八日 此(この)吉田(よしだ)に着(ちやく)       九日は滞在(たいざい)にて十日 出発(しゆつぱつ)其(その)十六日 大阪(おほさか)に着(ちやく)し十八日に入城(にふじやう)したものである之(これ)は頗(すこぶ)る厳(いか)めしかつたもの       で老人中(らうじんちう)にはまだ之(これ)を目撃(もくげき)した人(ひと)も生存(せうぞん)して居(を)る次第(しだい)である       サテ一 時(じ)天下(てんか)の勢力(せいりよく)を掌握(せうあく)した水野忠成(みづのたゞなり)も年(とし)七十一で天保(てんぱう)五年二月二十八日 病(やまひ)で卒去(そつきよ)したのであるが       程(ほど)なく彼(か)の水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)が入(い)つて本丸(ほんまる)老中(らうちう)の列(れつ)に加(くは)はつたのであるソコで多年(たねん)忠成(たゞなり)の為(ため)に圧(あつ)せられ 大久保忠眞 て居(ゐ)た大久保忠眞(おほくぼたゞさね)は次第(しだい)に勢力(せいりよく)を得(え)て意見(いけん)を実行(じつかう)する事が出来(でき)るようになつたので少(すこ)しくは忠成時代(たゞなりじだい)       の弊風(へいふう)も矯(た)めらるゝに至(いた)つたのであるが此(この)忠眞(たゞさね)も亦(ま)た天保(てんぱう)八年三月十九日 病(やまひ)で卒(そつ)せられたのである而(しか) 《割書:将軍家斉隠|居》  して其(その)年(とし)の四月二日 将軍(せうぐん)家斉(いへなり)は自(みづか)ら西丸(にしまる)に隠居(ゐんきよ)し世子(せいし)家慶(いへよし)が相続(さうぞく)して征夷大将軍(せいいたいせうぐん)に任(にん)ぜられたが隠居(ゐんきよ) 家慶襲職  後(ご)と雖(いへど)も家斉(いへなり)は大御所(おほごしよ)と称(せう)してまだ政務(せいむ)を聴(き)いたのである而(しか)も其(その)九年三月十日に西丸(にしまる)から失火(しつくわ)して全(ぜん)       部(ぶ)烏有(うゆう)に皈(き)したので其(その)再建築(さいけんちく)に就(つい)ては容易(ようい)ならず幕府(ばくふ)も財政(ざいせい)に困難(こんなん)したものもであるが家斉(いへなり)は老後(らうご)次(し) 《割書:水野忠邦の|改革》  第(だい)に我儘(わがまゝ)が募(つの)つたのみならず二三の権臣(けんしん)が其(その)意(い)を迎(むか)へ実(じつ)に賄賂横行(わいろわうかう)の有様(ありさま)でサスがの水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)       も之(これ)には閉口(へいこう)したのであつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)く信順(のぶより)が京都所司代(けうとしよしだい)から老中(らうちう)に栄転(えいてん)したのは恰(あたか)も家(いへ)       慶(よし)が相続(さうぞく)した月(つき)の十六日で其(その)年(とし)の七月九日には又(ま)た脇坂安董(わきさかやすたゞ)と堀田正篤(ほつたまさあつ)とが老中(らうちう)の列(れつ)に加(くは)はつたので       ある尚(なほ)其(その)翌(よく)九年の三月には土井利位(どゐとしつら)も老中(らうちう)と相成(あひな)つたのであるが水野忠邦(みづのたゞくに)は即(すなは)ち其(その)上座(ぜうざ)として大(おほい)に幕(ばく)       政(せい)の改革(かいかく)をなさんと企(くはだ)てたのである元来(がんらい)此(この)忠邦(たゞくに)と云ふ人は中々(なか〳〵)の敏腕家(びんわんか)で幼少(ようせう)から文武(ぶんぶ)に志(こゝろざし)厚(あつ)く当(たう)       時(じ)大名(だいみよう)の若殿(わかとの)は遊宴(ゆうゑん)に耽(ふけ)るものが多(おほ)かつた風潮(ふうてう)であつたにも拘(かゝは)らず頗(すこぶ)る豪気(ごうき)で勉強家(べんけうか)であつた処(ところ)から       一 般(ぱん)からは変(かわ)り物(もの)として冷笑(れいせう)されて居(を)つたと云(い)ふ事(こと)である然(しか)るに此人(このひと)の多(おほ)く交際(かうさい)したのは成島司直(なるしましちよく)だ 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       の筒井政憲(つゝゐまさのり)だのと云(い)ふような人(ひと)で林述斉(はやしじつさい)は段々(だん〴〵)老年(らうねん)に向(むか)つては居(を)つたが其(その)門(もん)にも亦(ま)た常(つね)に往来(わうらい)したの       である而(しか)して彼(か)の塩谷宕陰(しほのやとうゐん)をば賓師(ひんし)として顧問(こもん)に備(そな)へたと云(い)ふ事である此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから其(その)       老中(らうちう)の上座(ぜうざ)となるや大(おほい)に弊政(へいせい)を改革(かいかく)するの志(こゝろざし)があつて当時(たうじ)水戸(みと)の藩主(はんしゆ)であつた彼(か)の斉昭(なりあきら)の処(ところ)にも出(で)       入(いり)したのであるが初(はじ)めは中々(なか〳〵)意気投合(いきたうがう)したものである其(その)頃(ころ)斉昭(なりあきら)は彼(か)の藤田東湖(ふぢたとうこ)、会沢安(あひざはやすし)、青山延于(あをやまえんう)な       どゝ云(い)ふ人材(じんざい)を其(その)藩(はん)に登用(とうよう)して大(おほい)に衰世(すいせ)を挽回(ばんくわい)するに勉(つと)めたものであるが忠邦(たゞくに)が其(その)後(のち)天保(てんぱう)十二年六月       十三日を以(もつ)て真田信濃守幸貫(さなだしなのゝかみゆきつら)を老中(らうちう)に推挙(すいきよ)したのも実(じつ)は斉昭(なりあきら)の助言(じよごん)によつたものと伝(つた)へられて居(を)る幸(ゆき)       貫(つら)は前(まへ)に屡々(しば〳〵)申述(まをしの)べた松平定信(まつだひらさだのぶ)の次男(じなん)であるが定信(さだのぶ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く退隠(たいゐん)後(ご)は楽翁(らくをう)と号(がう)して風月(ふうげつ)を友(とも)と       して居(を)つたが憂国(いうこく)の念(ねん)は去(さ)らなかつたもので其(その)著(ちよ)「閑(ひま)なるあまり」などの中(なか)には種々(しゆ〴〵)概世(がいせ)の字句(じく)も見(み)       ゆるのである然(しか)るに此(この)人(ひと)は文政(ぶんせい)十一年六月 年(とし)七十一で卒去(そつきよ)せられたので信明(のぶあき)の卒去(そつきよ)よりも後(おく)るゝこと丁度(ちようど)       十二 年目(ねんめ)であつた此(かく)の如(ごと)く忠邦(たゞくに)は切(しき)りに幕府(ばくふ)の弊政(へいせい)を改革(かいかく)せむとするに意(い)があつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べた       如(ごと)く当時(たうじ)はまだ家斉(いへなり)が大御所(おほごしよ)と称(せう)して西(にし)ノ丸(まる)に控(ひか)へて居(を)り幕政(ばくせい)に与(あづか)ると云(い)ふ次第(しだい)でドウモ思(おも)ふように       行(おこな)ふ事が出来(でき)なかつたのである然(しか)るに其(その)頃(ころ)から又(ま)た外国船(ぐわいこくせん)が我(わが)沿岸(えんがん)に来航(らいかう)すると云(い)ふので外交上(ぐわいかうせう)の問(もん)       題(だい)が起(おこ)つたのであるが既(すで)に前章(ぜんせう)で御承知(ごせうち)の如(ごと)く信明(のぶあき)が老中(らうちう)たるの時代(じだい)林述斉(はやしじつさい)の意見(いけん)もあつた如(ごと)く極(きよく)       端(たん)なる攘夷論(ぜうゐろん)を排(はい)して適宜(てきぎ)の処置(しよち)を取(と)る事となしたので一 時(じ)円満(ゑんまん)なる解決(かいけつ)を告(つ)げた事であつたが其(その)後(のち)       文政(ぶんせい)八年に至(いた)つて外国船(ぐわいこくせん)とあれば二 念(ねん)なく打払(うちはら)へと云(い)ふ命(めい)を下(くだ)したのであるソコで今度(こんど)外交(ぐわいかう)の事(こと)起(おこ)る 《割書:渡辺崋山等|の疑獄》  に及(およ)び心(こゝろ)あるものは大(おほい)に之(これ)を憂(うれ)ひ種々(しゆ〴〵)計画(けいくわく)する処(ところ)があつたが御承知(ごせうち)の渡辺崋山(わたなべくわざん)、高野長英(たかのてうえい)などが慎機(しんき)       論(ろん)や夢物語(ゆめものがたり)などを著(あらは)し世(よ)を警(いまし)めむとしたのも即(すなは)ち此(この)時(とき)である之(これ)等(ら)の事に就(つい)ては既(すで)に種々(しゆ〴〵)の著書(ちよしよ)も世(よ) 《割書:蟄居中の崋|山》  に公(おほやけ)にされてある事であるから私(わたくし)は今(いま)茲(こゝ)に詳(くは)しくは申述(まをしの)べぬ考(かんがへ)であるが渡辺崋山(わたなべくわざん)がイヨ〳〵田原(たはら)へ蟄(ちつ) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百八十二 【本文】 **大阪入城の絵巻** その行列の実況を絵巻物にしたのが今、旧藩中に伝わっているのである。確か長尾清江氏の家にも所蔵されていることと思うが、これは中々面白いもので、この時信順は九月朔日(天保二年)江戸を発し、八日この吉田に着き、九日は滞在にて十日出発、その十六日大阪に着し十八日に入城したものである。これは頗る厳めしかったもので、老人中にはまだこれを目撃した人も生存している次第である。 さて一時天下の勢力を掌握した水野忠成も年七十一で天保五年二月二十八日病で卒去したのであるが、程なく彼の水野越前守忠邦が入って本丸老中の列に加わったのである。そこで多年忠成のために圧せられていた大久保忠眞は次第に勢力を得て意見を実行する事が出来るようになったので、少しくは忠成時代の弊風も正されるに至ったのであるが、この忠眞もまた天保八年三月十九日病で卒せられたのである。 **将軍家斉隠居・家慶襲職** そしてその年の四月二日、将軍家斉は自ら西丸に隠居し、世子家慶が相続して征夷大将軍に任ぜられたが、隠居後といえども家斉は大御所と称してまだ政務を聴いたのである。しかもその九年三月十日に西丸から失火して全部焼失したので、その再建築については容易ならず幕府も財政に困難したものであるが、家斉は老後次第に我儘が募ったのみならず、二三の権臣がその意を迎え、実に賄賂横行の有様で、さすがの水野越前守忠邦もこれには閉口したのであった。 **水野忠邦の改革** 前にも申し述べた如く、信順が京都所司代から老中に栄転したのは恰も家慶が相続した月の十六日で、その年の七月九日にはまた脇坂安董と堀田正篤とが老中の列に加わったのである。なおその翌九年の三月には土井利位も老中となったのであるが、水野忠邦は即ちその上座として大いに幕政の改革をなさんと企てたのである。 元来この忠邦という人は中々の敏腕家で、幼少から文武に志厚く、当時大名の若殿は遊宴に耽るものが多かった風潮であったにも拘らず、頗る豪気で勉強家であった処から、一般からは変わり物として冷笑されていたという事である。然るにこの人の多く交際したのは成島司直 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し... 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 の筒井政憲だのという様な人で、林述斎は段々老年に向かってはいたが、その門にもまた常に往来したのである。そして彼の塩谷宕陰を賓師として顧問に備えたということである。このような訳であったから、その老中の上座となるや大いに弊政を改革するの志があって、当時水戸の藩主であった彼の斉昭の処にも出入りしたのであるが、初めは中々意気投合したものである。 その頃斉昭は彼の藤田東湖、会沢安、青山延于などという人材をその藩に登用して、大いに衰世を挽回するに努めたものであるが、忠邦がその後天保十二年六月十三日をもって真田信濃守幸貫を老中に推挙したのも、実は斉昭の助言によったものと伝えられている。 幸貫は前に屢々申し述べた松平定信の次男であるが、定信は御承知の如く退隠後は楽翁と号して風月を友としていたが、憂国の念は去らなかったもので、その著「閑なるあまり」などの中には種々概世の字句も見ゆるのである。然るにこの人は文政十一年六月、年七十一で卒去せられたので、信明の卒去よりも遅れること丁度十二年目であった。 このように忠邦は切りに幕府の弊政を改革せむとするに意があったが、前にも申し述べた如く当時はまだ家斉が大御所と称して西ノ丸に控えており、幕政に与るという次第で、どうも思うように行う事が出来なかったのである。 然るにその頃からまた外国船が我が沿岸に来航するということで、外交上の問題が起こったのであるが、既に前章で御承知の如く、信明が老中たるの時代、林述斎の意見もあった如く極端なる攘夷論を排して適宜の処置を取る事となしたので、一時円満なる解決を告げた事であったが、その後文政八年に至って「外国船とあれば二念なく打ち払え」という命を下したのである。 そこで今度外交の事起こるに及び、心あるものは大いにこれを憂い種々計画する処があったが、御承知の渡辺崋山、高野長英などが「慎機論」や「夢物語」などを著し世を警めようとしたのも即ちこの時である。 **渡辺崋山等の疑獄・蟄居中の崋山** これ等の事については既に種々の著書も世に公にされてある事であるから、私は今ここに詳しくは申し述べぬ考えであるが、渡辺崋山がいよいよ田原へ蟄居 【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百八十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 382 **Main Text:** **Scroll Painting of Entry into Osaka Castle** A scroll painting depicting the actual conditions of that procession is now preserved among the former domain retainers. I believe it is certainly housed in the Nagao Seikō family collection as well. This is quite interesting—at this time Nobuyori departed Edo on September 1st (Tenpō 2), arrived at this Yoshida on the 8th, stayed on the 9th and departed on the 10th, arrived in Osaka on the 16th, and entered the castle on the 18th. This was an extremely solemn affair, and among the elderly there are still people alive who witnessed it. Now, Mizuno Tadakuni, who once controlled the power of the realm, died of illness at age 71 on February 28, Tenpō 5. Soon after, the aforementioned Mizuno Echizen-no-kami Tadakuni joined the ranks of the main castle senior councilors. Ōkubo Tadasane, who had long been suppressed by Tadanari, gradually gained power and became able to implement his opinions, so some of the corrupt practices of the Tadanari era were corrected. However, this Tadasane also died of illness on March 19, Tenpō 8. **Shogun Ienari's Retirement and Ieyoshi's Succession** On April 2 of that year, Shogun Ienari retired to the western citadel, and his heir Ieyoshi succeeded as Seii Taishogun (Shogun). However, even after retirement, Ienari was called Ōgosho (Retired Shogun) and still attended to government affairs. Moreover, on March 10 of the ninth year, the western citadel was completely destroyed by fire, and its reconstruction caused considerable financial difficulties for the shogunate. In his old age, Ienari became increasingly willful, and two or three powerful retainers catered to his wishes, creating a situation of rampant bribery that even the capable Mizuno Echizen-no-kami Tadakuni found exasperating. **Mizuno Tadakuni's Reforms** As I mentioned before, Nobuyori's promotion from Kyoto deputy to senior councilor occurred on the 16th of the month when Ieyoshi succeeded, and on July 9 of that year, Wakisaka Yasutada and Hotta Masaatsu also joined the ranks of senior councilors. Furthermore, in March of the following ninth year, Doi Toshitsura also became a senior councilor, but Mizuno Tadakuni, as their senior, planned to greatly reform shogunal administration. Originally, this Tadakuni was quite capable, devoted to literary and military pursuits from childhood. Despite the prevailing trend where young lords of daimyo families indulged in entertainment, he was remarkably spirited and studious, which earned him ridicule as an eccentric. However, he associated much with people like Narushima Motonao... **Margin:** Mayor of Toyohashi, Ōguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper. **Main Text:** ...and Tsutsui Masanori. Although Hayashi Jussai was gradually advancing in years, Tadakuni also frequently visited his school. He employed Shioya Tōin as a guest teacher and advisor. For these reasons, when he became senior among the councilors, he had great ambition to reform corrupt administration and frequently visited the Mito domain lord, the aforementioned Nariaki, with whom he initially found great common ground. At that time, Nariaki employed talented individuals like Fujita Tōko, Aizawa Yasushi, and Aoyama En'u in his domain, striving greatly to restore the declining world. It is said that Tadakuni's later recommendation of Sanada Shinano-no-kami Yukitsura as senior councilor on June 13, Tenpō 12, was actually based on Nariaki's advice. Yukitsura was the second son of Matsudaira Sadanobu, whom I have mentioned frequently before. As you know, after retirement Sadanobu took the name Rakuō and befriended wind and moon, but his concern for the country never left him—various phrases lamenting the world can be seen in his work "Hima naru Amari" and others. However, this person died in June of Bunsei 11 at age 71, exactly twelve years after Nobuaki's death. Thus Tadakuni earnestly intended to reform the shogunate's corrupt administration, but as I mentioned before, at that time Ienari still remained in the western citadel as Ōgosho participating in shogunal government, so things could not proceed as intended. However, around this time foreign ships began arriving at our coasts, creating diplomatic problems. As you already know from the previous chapter, during Nobuaki's time as senior councilor, following Hayashi Jussai's opinions, they rejected extreme exclusionist arguments and took appropriate measures, achieving temporarily satisfactory resolution. But later, in Bunsei 8, they issued the order to "attack foreign ships without hesitation." **The Watanabe Kazan Incident and Kazan Under House Arrest** So when diplomatic issues arose this time, thoughtful people were greatly concerned and made various plans. The well-known Watanabe Kazan and Takano Chōei wrote works like "Shinkiran" and "Yume Monogatari" to warn the world—this also occurred at this time. Since various books about these matters have already been published, I do not intend to elaborate in detail here, but Watanabe Kazan was finally placed under house arrest in Tahara... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 383