Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 206

ページ: 206

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十四 【本文】       居(きよ)を仰付(あふせつけ)られたのは天保(てんぱう)十年十二月十八日でそれより崋山(くわざん)は江戸(えど)から国(くの)に来(き)て田原(たはら)に蟄居(ちつきよ)したのであ       るが崋山(くわざん)蟄居中(ちつきよちう)は屡々(しば〳〵)此(この)吉田(よしだ)へは来(き)たもので種々(しゆ〴〵)なる逸話(いつわ)も多(おほ)く残(のこ)つて居(を)る事である私(わたくし)が或(ある)老人(らうじん)から       聞(き)いて居(を)る話(はなし)に左(さ)の如(ごと)き事がある       此(この)吉田(よしだ)の某町(ぼうてう)(魚町(うをまち)か或(あるひ)は油屋世古(あぶらやせこ)辺(へん)であると記憶(きおく)する)に或(あ)る鰻屋(うなぎや)があつて其(その)亭主(ていしゆ)の名(な)を勝(かつ)と云(い)つ       たが崋山(くわざん)は吉田(よしだ)へ来(く)る毎(たび)に大概(たいがい)は此(この)家(いへ)に立寄(たちよ)つた然(しか)るに此(この)勝(かつ)と云(い)ふ者(もの)は至(いた)つて夫婦仲(ふうふなか)が悪(わる)くて何時(いつ)来(き)       ても夫婦喧嘩(ふうふげんくわ)をしない時(とき)はないソコで崋山(くわざん)は或(ある)時(とき)其(その)勝(かつ)に向(むか)つて自分(じぶん)が一つマジナヒに額面(がくめん)を書(か)いてや       ろうと云(い)つて「不争而克勝」と云(い)ふ文字(もんじ)を書(か)いて与(あた)へた而(しか)して其(その)意味(いみ)のある処(ところ)を能(よ)く〳〵説(と)き聞(き)かせた       が勝(かつ)も之(これ)に感(かん)じたか爾来(じらい)夫婦喧嘩(ふうふげんくわ)をしないようになつたと云(い)ふ事である其(その)額(がく)は其後(そののち)勝(かつ)が質入(しちいれ)して流(なが)し       て仕舞(しま)つたが今(いま)魚町(うをまち)の瀧崎安之助(たきざきやすのすけ)氏(し)方(かた)に蔵(ざう)せられて居(を)るより承知(せうち)して居(を)る 《割書:崋山の格天|井》  又(また)新銭町(しんせんまち)の天神社(てんじんしや)にも崋山(くわざん)筆(ふで)の格天井(かくてんぜう)が残(のこ)つて居(を)る之(これ)は月(つき)に雁(かり)を書(か)いたものであるが非凡出来(ひぼんでき)である       之(これ)には書翰(しよかん)が添(そへ)つて居(を)るが実(じつ)に面白(おもしろ)いものである此(この)書翰(しよかん)は一 時(じ)私(わたくし)の親属(しんぞく)に当(あた)る佐藤市(さとういち)十 郎(らう)方(かた)に蔵(ざう)さ       れて居(ゐ)たから度々(たび〴〵)拝見(はいけん)したが今(いま)は幸(さいはひ)に天神社(てんじんしや)に蔵(ざう)さるゝ事となつた相(さう)である勿論(もちろん)之(これ)も田原蟄居中(たはらちつきよちう)のも       ので実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける崋山(くわざん)の境遇(けうぐう)と此(この)吉田(よしだ)屡々(しば〳〵)往来(わうらい)された有様(ありさま)が分(わか)るので最(つと)も趣味(しゆみ)あるものであるか 崋山の日記 ら後世(こうせ)迄(まで)大切(たいせつ)に伝(つた)へたいと思(おも)ふ又(ま)た花園町(はなぞのまち)の浅井常(あさゐじよう)三 氏(し)方(かた)には崋山(くわざん)自筆(じしつ)の毛武遊記(もうぶゆうき)が蔵(ざう)されてあるが       之は天保(てんぱう)三年十月 崋山(くわざん)が武州(ぶしう)から野州(やしう)の方(はう)へ遊歴(ゆうれき)した時(とき)の道中記(どうちうき)で実(じつ)に面白(おもしろ)いものである殊(こと)に其(その)中(なか)に       生田萬(いくたまん)と図(はか)らず板橋(いたばし)の町端(まちはづ)れから道伴(みちづれ)になつて桶川(おけがは)の宿(しゆく)で同宿(どうしゆく)した時(とき)の事が詳(くは)しく記(しる)してある且(か)つ萬(まん)       の肖像(せうざう)までも書(か)いてある之(これ)は先年(せんねん)三上文学博士(みかみぶんがくはくし)が豊橋(とよはし)へ来(こ)られた時(とき)見(み)られて実(じつ)に珍(めづ)らしいものである       と云(い)ふので其(その)訳(わけ)を話(はな)し聴(き)かされたから私(わたくし)も大(おほい)に知識(ちしき)を得(え)た次第(しだい)であつたが此(この)生田萬(いくたまん)と云(い)ふ人(ひと)は御承知(ごせうち) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百五号附録   (大正二年三月四日発行) 【本文】       の如(ごと)く平田篤胤(ひらたあつたね)の門人(もんじん)で名(な)を道満(どうまん)と云(い)ひ秋田(あきた)の産(うまれ)であつたが天保(てんぱう)八年の飢饉(ききん)に大塩平(おほしほへい)八 郎(らう)が大阪(おほさか)で起(おこ)       せる変(へん)は其(その)意(こゝろ)救民(きうみん)にあると云(い)ふのを聞(き)いて自分(じぶん)も亦(ま)た越後(ゑちご)の柏崎(かしはざき)にあつて門人(もんじん)を集(あつ)め六月十日「奉天       命誅国賊」と書(しよ)せる旗(はた)を立(た)てゝ陣屋(ぢんや)だの富豪(ふごう)だのを襲(おそ)つたので妻子(さいし)諸共(もろとも)自殺(じさつ)した人(ひと)である此(この)人(ひと)が越後(ゑちご)       行(ゆき)の途中(とちう)図(はか)らず崋山(くわざん)と道伴(みちづれ)になつて初(はじ)めて話(はなし)を交(か)はした其(その)実際(じつさい)の記事(きじ)で而(しか)も崋山(くわざん)自筆(じしつ)であるから成程(なるほど)       得難(えがた)いものであると思(おも)ふのであるまだ崋山(くわざん)が蟄居中(ちつきよちう)此(この)吉田(よしだ)へ往来(わうらい)された事に就(つい)ては長尾華陽(ながをくわやう)、鈴木梅(すゞきばい)       厳(がん)の如(ごと)き諸先生(しよせんせい)に就(つい)て聞(き)いたならば面白(おもしろ)い事もあろうと思(おも)ふが遺憾(ゐかん)ながらまだ其(その)暇(ひま)を得(え)ない次第(しだい)であ       るイヅレ後(あと)から又(ま)た補遺(ほゐ)として申述(まをしの)ぶる事もあろうと考(かんが)へる       サテ此(この)時分(じぶん)の事を申述(まをしの)ぶれば中々(なか〳〵)複雑(ふくざつ)でもある今(いま)は成(な)るべく本市史(ほんしし)に関係(くわんけい)あるものに止(とゞ)めて進行(しんかう)し 家斉の薨去 たいのであるから略(りやく)するの外(ほか)はないが大御所(おほごしよ)の家斉(いへなり)は天保(てんぱう)十二年 閏(うるふ)正月 遂(つひ)に薨去(こうきよ)と相成(あひな)つたので       あるトコロで水野忠邦(みづのたゞくに)はイヨ〳〵兼(かね)ての意見(いけん)を実行(じつかう)することと成(な)つて其(その)年(とし)の三月十五日 先(ま)づ西丸(にしまる)付(つき)の権(けん)       臣(しん)とも云(い)ふべき林肥後守忠英(はやしひごのかみたゞひで)、水野美濃守忠篤(みずのみのゝかみたゞあつ)、美濃部筑前守(みのべちくぜんのかみ)などを初(はじ)め西丸大奥(にしまるおほおく)に出入(でいり)して居(を)つた       日蓮宗(にちれんしう)の僧侶(そうりよ)に至(いた)る迄(まで)凡(およ)そ一千人に近(ちか)き人々(ひと〴〵)を斥(しりぞ)け夫(そ)れ〴〵軽重(けいぢう)の処罰(しよばつ)をしたがそれより引続(ひきつゞ)いて大(だい)       改革(かいかく)を行(おこな)ひ倹約(けんやく)の命(めい)を布(し)いたのである然(しか)るに此(この)事(こと)が実(じつ)に極端(きよくたん)であつたので非常(ひぜう)に怨嗟(えんさ)の声(こゑ)多(おほ)く忠邦(たゞくに)の 《割書:矢部駿州の|憤死》  政策(せいさく)は遂(つひ)に全(まつた)く失敗(しつぱい)に終(おは)るに至(いた)つたのである其(その)頃(ころ)彼(か)の矢部駿河守定謙(やべするがのかみさだかた)は大阪(おほさか)から転(てん)じて江戸(えど)の町奉行(まちぶぎよう)       であつたが先(さき)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べたる如(ごと)く実(じつ)に寛厳(かんげん)宜(よろ)しきを得(え)て評判(へうばん)の善(よ)かつた人(ひと)である然(しか)るに此度(このたび)此(この)改(かい)       革(かく)を以(もつ)て余(あま)りに極端(きよくたん)に過(す)ぐるとなしたが為(ため)に忠邦(たゞくに)の意(い)に忤(たか)ひ其(その)年(とし)の十二月廿一日 遂(つひ)に免職(めんしよく)となつて後(のち)       に伊勢(いせ)の桑名(くはな)に預(あづ)けられたが食(しよく)を絶(ぜつ)して憤死(ふんし)するに至(いた)つたのである而(しか)して其(その)代(かは)りとして江戸(えど)の町奉行(まちぶぎよう) 鳥居忠耀  となつたのは彼(か)の鳥居耀蔵忠耀(とりゐえうざうたゞてる)であるが此(この)人(ひと)は崋山(くわざん)、長英(てうえい)等(ら)疑獄(ぎごく)の当時(たうじ)は目付役(めつけやく)で随分(ずゐぶん)世(よ)の中(なか)からは 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百八十四 【本文】 居を申し付けられたのは天保十年十二月十八日で、それより崋山は江戸から国に来て田原に蟄居したのであるが、崋山蟄居中は屡々この吉田へは来たもので、種々なる逸話も多く残っていることである。私がある老人から聞いている話に左の如き事がある。 この吉田の某町(魚町か或いは油屋世古辺であると記憶する)にある鰻屋があって、その亭主の名を勝と言ったが、崋山は吉田へ来る毎に大概はこの家に立ち寄った。然るにこの勝という者は至って夫婦仲が悪くて、何時来ても夫婦喧嘩をしない時はない。そこで崋山はある時その勝に向かって、自分が一つまじないに額面を書いてやろうと言って「不争而克勝」という文字を書いて与えた。そしてその意味のある処を良く良く説き聞かせたが、勝もこれに感じたか、爾来夫婦喧嘩をしないようになったということである。その額はその後勝が質入れして流してしまったが、今魚町の瀧崎安之助氏方に蔵されていることを承知している。 **崋山の格天井** また新銭町の天神社にも崋山筆の格天井が残っている。これは月に雁を書いたものであるが、非凡な出来である。これには書翰が添ってあるが、実に面白いものである。この書翰は一時私の親属に当たる佐藤市十郎方に蔵されていたから度々拝見したが、今は幸いに天神社に蔵されることとなった相である。勿論これも田原蟄居中のもので、実に当時における崋山の境遇とこの吉田に屡々往来された有様が分かるので、最も趣味あるものであるから後世まで大切に伝えたいと思う。 **崋山の日記** また花園町の浅井常三氏方には崋山自筆の毛武遊記が蔵されてあるが、これは天保三年十月崋山が武州から野州の方へ遊歴した時の道中記で、実に面白いものである。殊にその中に生田萬と図らず板橋の町端れから道連れになって桶川の宿で同宿した時の事が詳しく記してある。かつ萬の肖像までも書いてある。これは先年三上文学博士が豊橋へ来られた時見られて、実に珍しいものであるというので、その訳を話し聞かされたから、私も大いに知識を得た次第であったが、この生田萬という人は御承知 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百五号附録(大正二年三月四日発行) 【本文】 の如く平田篤胤の門人で名を道満と言い、秋田の産まれであったが、天保八年の飢饉に大塩平八郎が大阪で起こせる変は、その意は救民にあるということを聞いて、自分もまた越後の柏崎にあって門人を集め、六月十日「奉天命誅国賊」と書せる旗を立てて陣屋だの富豪だのを襲ったので、妻子諸共自殺した人である。この人が越後行の途中図らず崋山と道連れになって初めて話を交わした、その実際の記事で、しかも崋山自筆であるから、成程得難いものであると思うのである。 まだ崋山が蟄居中この吉田へ往来された事については、長尾華陽、鈴木梅厳の如き諸先生について聞いたならば面白い事もあろうと思うが、遺憾ながらまだその暇を得ない次第である。いずれ後からまた補遺として申し述べることもあろうと考える。 さてこの時分の事を申し述べれば中々複雑でもある。今は成るべく本市史に関係あるものに止めて進行したいのであるから、略するの外はないが、大御所の家斉は天保十二年閏正月遂に薨去と相成ったのである。 **家斉の薨去** ところで水野忠邦はいよいよ兼ねての意見を実行することと成って、その年の三月十五日先ず西丸付きの権臣とも言うべき林肥後守忠英、水野美濃守忠篤、美濃部筑前守などを初め、西丸大奥に出入りしていた日蓮宗の僧侶に至るまで、凡そ一千人に近き人々を斥け、それぞれ軽重の処罰をしたが、それより引き続いて大改革を行い、倹約の命を布いたのである。然るにこの事が実に極端であったので、非常に怨嗟の声多く、忠邦の政策は遂に全く失敗に終わるに至ったのである。 **矢部駿州の憤死** その頃彼の矢部駿河守定謙は大阪から転じて江戸の町奉行であったが、先にも一寸申し述べたる如く、実に寛厳宜しきを得て評判の良かった人である。然るに此度この改革をもって余りに極端に過ぐるとなしたがために忠邦の意に逆らい、その年の十二月二十一日遂に免職となって後に伊勢の桑名に預けられたが、食を絶って憤死するに至ったのである。そしてその代わりとして江戸の町奉行となったのは彼の鳥居耀蔵忠耀であるが、この人は崋山、長英等疑獄の当時は目付役で、随分世の中からは **鳥居忠耀** 【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百八十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 384 **Main Text:** The order for house arrest was issued on December 18, Tenpō 10, and from that time Kazan came from Edo to his home province and was confined to Tahara. During Kazan's confinement, he frequently came to this Yoshida, and many various anecdotes remain. I have the following story that I heard from an elderly person. In a certain district of this Yoshida (I believe it was Uomachi or somewhere around Aburaya Seko), there was an eel restaurant whose proprietor was named Katsu. Kazan usually stopped at this house whenever he came to Yoshida. However, this Katsu had an extremely bad relationship with his wife, and there was never a time when they weren't quarreling whenever one visited. So Kazan once said to Katsu that he would write a charm on a plaque for him, and wrote the characters "不争而克勝" (Victory without contention) and gave it to him. He thoroughly explained the meaning of this phrase, and Katsu was apparently moved by it, for from then on the couple stopped quarreling. That plaque was later pawned and lost by Katsu, but I understand it is now preserved at the Takizaki Yasunosuke residence in Uomachi. **Kazan's Coffered Ceiling** Also, at Tenjin Shrine in Shinsenmatchi, there remains a coffered ceiling painted by Kazan. This depicts geese with the moon and is of extraordinary quality. A letter accompanies this work, which is truly interesting. This letter was once stored at my relative Satō Ichijūrō's house, so I viewed it many times, but now fortunately it has come to be preserved at Tenjin Shrine. Of course, this too is from the period of confinement in Tahara, and since it reveals Kazan's circumstances at that time and how he frequently traveled to this Yoshida, it is most fascinating and I hope it will be carefully preserved for posterity. **Kazan's Diary** Also, at the Asai Jōzō residence in Hanazonomachi is preserved Kazan's handwritten "Mōbu Yūki" (Travel Record of Mōbu). This is a travel diary from when Kazan journeyed from Bushū to Yashū in October of Tenpō 3, and it is truly interesting. Particularly, it records in detail how he unexpectedly became traveling companions with Ikuta Man from the outskirts of Itabashi and shared lodgings at Okegawa inn. It even includes a portrait of Man. When Dr. Mikami of Literature came to Toyohashi some years ago, he viewed this and said it was truly rare, so he explained its significance to me, and I gained much knowledge. This Ikuta Man, as you know... **Margin:** Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper Issue 4305 Supplement (Published March 4, Taishō 2) **Main Text:** ...was a disciple of Hirata Atsutane, whose name was Dōman, born in Akita. When he heard that the rebellion raised by Ōshio Heihachirō in Osaka during the famine of Tenpō 8 was intended to save the people, he too gathered disciples in Kashiwazaki, Echigo, and on June 10 raised a banner inscribed "Obeying Heaven's Command to Punish National Traitors," attacking government offices and wealthy families, before committing suicide with his wife and children. The actual record of when this man unexpectedly became traveling companions with Kazan on his way to Echigo and first conversed with him, written in Kazan's own hand, is indeed a rare treasure. Regarding Kazan's travels to this Yoshida during his confinement, I think there would be interesting stories to hear from scholars like Nagao Kayō and Suzuki Baigan, but regrettably I have not yet had the time. I expect there will be opportunities to add supplements later. Now, to describe the affairs of this period would be quite complex. Since I want to proceed focusing as much as possible on matters related to our city's history, I must abbreviate, but the retired shogun Ienari finally passed away in the intercalary first month of Tenpō 12. **Ienari's Death** Thereupon Mizuno Tadakuni finally began implementing his long-held plans. On March 15 of that year, he first dismissed nearly one thousand people, including those who could be called powerful retainers of the western citadel such as Hayashi Higo-no-kami Tadahide, Mizuno Mino-no-kami Tadaatsu, and Minobe Chikuzen-no-kami, as well as Nichiren sect monks who had access to the western citadel's inner quarters, punishing each according to the severity of their cases. He then continued with major reforms and issued orders for frugality. However, because these measures were extremely radical, there was tremendous resentment, and Tadakuni's policies ultimately ended in complete failure. **Yabe Shunshū's Death by Indignation** At that time, the aforementioned Yabe Suruga-no-kami Sadakata had transferred from Osaka to become Edo magistrate, and as I briefly mentioned before, he was well-regarded for achieving the proper balance of leniency and strictness. However, because he opposed these reforms as too extreme, he incurred Tadakuni's displeasure and was finally dismissed on December 21 of that year, later placed under custody in Kuwana, Ise, where he died by refusing food in indignation. His replacement as Edo magistrate was the aforementioned Torii Yōzō Tadateru, who during the Kazan and Chōei incident had served as inspector and was quite... **Torii Tadateru** **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 385