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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 207

ページ: 207

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十六 【本文】       悪(あし)く言(い)はるゝ人(ひと)である而(しか)も此(この)矢部駿河守(やべするがのかみ)の憤死(ふんし)も其(その)原因(げんゐん)は耀蔵(えうざう)等(ら)の讒言(ざんげん)からであると伝(つた)へられて居(を)る       が併(しか)し此(この)耀蔵(えうざう)は後(のち)に甲斐守(かひのかみ)となつた人(ひと)で彼(か)の林述斉(はやしじゆさい)の次男(じなん)である従(したがつ)て相当(さうたう)に学問(がくもん)もあつたものである       が後世(こうせい)に譏(そし)らるゝ如(ごと)き悪者(わるもの)ではなかつたように思(おも)はるゝ然(しか)るに品性(ひんせい)が極(きは)めて小規模(せうきぼ)で余(あま)りに厳格(げんかく)に過(す)       ぐるの結果(けつくわ)到底(たうてい)人(ひと)を容(い)るゝ事の出来(でき)ざるのみではなく何事(なにごと)にも峻酷(しゆんこく)であつたが為(ため)に実(じつ)に世(よ)の中(なか)で怨(うら)ま       れたものである而(しか)してそれに命令(めいれい)したのが矢張(やはり)極端(きよくたん)なる水野忠邦(みづのたゞくに)ときて居(を)るので江戸中(えどちう)の怨(うら)みを集(あつ)め       た事は著(いちゞる)しきものであつたのである而(しか)して彼(か)の述斉(じゆさい)は丁度(ちようど)此(この)大改革(だいかいかく)の行(おこな)はれた天保(てんぱう)十二年に年(とし)七十四       で歿(ぼつ)したのであるが其(その)以前(いぜん)に於(おい)ても既(すで)に老病(らうびやう)の故(ゆゑ)を以(もつ)て引退(いんたい)して居(を)つたのであるから前(まへ)に申述(まをしの)べた渡(わた) 忠邦の失敗 辺崋山(なべくわざん)一 件(けん)の時(とき)などは恐(おそら)くは無関係(むくわんけい)であつたものと信(しん)ぜられるのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつたから此(この)忠(たゞ)       邦(くに)の大改革(だいかいかく)も遂(つひ)に種々(しゆ〴〵)なる障害(しようがい)を生(せう)じ忠邦(たゞくに)は天保(てんぱう)十四年閏九月十三日 其(その)職(しよく)を免(めん)ぜらるゝに至(いた)り改革(かいかく)の       事業(じげう)も結局(けつきよく)失敗(しつぱい)に帰(き)したのであるが忠邦(たゞくに)の後(のち)は土井利位(どゐとしつら)が受(う)けて老中上座(らうちうぜうざ)と相成(あひな)つたのであるトコロ       が此(この)人(ひと)は又(ま)た極(きは)めて保守主義(ほしゆしゆぎ)であつたから大概(たいがい)は忠邦(たゞくに)の方針(はうしん)を打破(うちやぶ)つたのである而(しか)して其(その)翌年(よくねん)は年号(ねんごう) 《割書:水戸斉昭の|謹慎》  が改(あらた)まつて弘化(こうくわ)となつたが其(その)元年(がんねん)の五月五日 水戸(みと)の斉昭(なりあきら)は遂(つひ)に謹慎(きんしん)を命(めい)ぜらるゝに至(いた)つたのであるモ       ツトモ忠邦(たゞくに)も最後(さいご)には外交(ぐわいかう)に関(くわん)して斉昭(なりあきら)と意見(いけん)を異(こと)にするに至(いた)つたのであつたが併(しか)し其(その)在職中(ざいしよくちう)は政略(せいりやく)       上(ぜう)陽(よう)に斉昭(なりあきら)を尊(たつと)むで居(を)つたのである然(しか)るに今度(このたび)此処(こゝ)に至(いた)つたのは全(まつた)く幕府(ばくふ)の方針(はうしん)が一 変(ぺん)せる結果(けつくわ)に外(ほか) 信順の隠居 ならぬので幕府(ばくふ)と水戸(みと)との関係(くわんけい)は愈(いよ〳〵)険悪(けんあく)と相成(あひな)つた次第(しだい)である之(これ)より先(さ)き天保(てんぱう)十三年の十二月十三       日に信順(のぶより)は隠居(ゐんきよ)して刑部大輔(けうぶたいいう)となり子(こ)信賓(のぶたか)が家督(かとく)を相続(さうぞく)して伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せられたが信順(のぶより)は程(ほど)なく天保(てんぱう) 信順の卒去 十五年(弘化元年)の三月二日(三月十日発表)年(とし)五十二 歳(さい)を以(もつ)て病(やまひ)で卒去(そつきよ)せられ矢張(やはり)野火留(のびどめ)先塋(せんけい)の次(つぎ)に       葬(ほうむ)り承天院(せうてんゐん)と諡(おくりな)されたのである 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       ソコで一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)きたいのは信順(のぶより)が老中在職中(らうちうざいしよくちう)に於(お)ける事蹟(じせき)であるが遺憾(ゐかん)な事には之(これ)がドウモ分(わか)       り兼(か)ぬるのであるモツトモ信順(のぶより)が老中(らうちう)に就職(しうしよく)したのは前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く天保(てんぱう)八年の五月十六日で       恰(あたか)も将軍(せうぐん)家慶(いへよし)が相続(さうぞく)の年(とし)であるが其(その)退職(たいしよく)の時日(じじつ)に就(つい)ては少(すこ)しく不明(ふめい)である併(しか)しドウ研究(けんきう)して見(み)ても私       は其(その)隠居(ゐんきよ)まで即(すなは)ち天保(てんぱう)十三年の十二月十三日までは勤続(きんぞく)して居(を)つたものと信(しん)ずるのである従(したがつ)て前述(ぜんじゆつ)       の如(ごと)く水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)が上座(ぜうざ)として幕政(ばくせい)に大改革(だいかいかく)を行(おこな)はむとした当時(たうじ)は之(これ)に参与(さんよ)して居(を)つたものとなさね 《割書:信順隠居の|事情》  ばならぬ此(こゝ)に於(おい)て私(わたくし)の疑問(ぎもん)とするのは其(その)隠居(ゐんきよ)の事情(じぜう)であるが信順(のぶより)の隠居(ゐんきよ)は恰(あたか)も其(その)五十 歳(さい)の時(とき)であるか       ら普通(ふつう)としてはまだ少(すこ)しく早過(はやす)ぎはしまいかと思(おも)ふ併(しか)し当時(たうじ)信順(のぶより)が病気(びやうき)であつたことは事実(じじつ)である之(これ)は       慎徳院記(しんとくゐんき)の中(なか)にも病気引退(びやうきいんたい)の事が書(か)いてあるが又(ま)た御承知(ごせうち)の中山美石(なかやまびせき)(此(この)人(ひと)の事は後(のち)に詳述(せうじゆつ)する筈(はづ)な       り)の公事記(くじき)にも其(その)事(こと)が載(の)つて居(を)るのである従(したがつ)て其(その)引退(いんたい)の原因(げんゐん)が病気(びやうき)の故(ゆゑ)であつた事は事実(じじつ)である       に相違(さうゐ)なかろうが蓋(けだ)し其(その)内(うち)に又(ま)た別(べつ)に事情(じぜう)の存(ぞん)するものがあつたではなかろうかと思(おも)はるゝのであ       る前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く信順(のぶより)と云(い)ふ人(ひと)は勤倹主義(きんけんしゆぎ)の人(ひと)で父(ちゝ)信明(のぶあき)の遺志(ゐし)を継(つ)いで居(を)つた事は勿論(もちろん)である       が併(しか)し又(ま)た寛量(かんれう)の性(せい)であつた事も敞(お)ふべからざる処(ところ)である従(したがつ)て大阪城代時代(おほさかじやうだいじだい)などは極(きは)めて矢部駿州(やべすんしう)を       信用(しんよう)したもので老中在職(らうちうざいしよく)の当時(たうじ)はまだ末座(まつざ)であつたから十 分(ぶん)に意見(いけん)の行(おこな)はれなかつた処(ところ)もあつたであ       ろうが前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く彼(か)の矢野駿州(やのすんしう)【矢部駿州(やべすんしう)の誤り】を江戸町奉行(えどまちぶぎよう)から貶した如(ごと)きは或(あるひ)は心中不服(しんちうふふく)の点(てん)もあつた       ではなかろうかと推測(すゐそく)せらるゝのである従(したがつ)て水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)の大改革(だいかいかく)の如(ごと)きは其(その)主旨(しゆし)に於(おい)ては勿論(もちろん)賛成(さんせい)で       あつたに相違(さうゐ)ないが之(これ)が実行(じつかう)に関(くわん)して余(あま)りに峻酷(しゆんこく)なりし点(てん)は或(あるひ)は其(その)意(い)に合(がつ)せざりしものがあつたでは       なかろうかと信(しん)ぜられるのである従(したがつ)て病身(びやうしん)なるを幸(さいはひ)に隠居(ゐんきよ)を願(ねが)ひ出(い)で角立(かどた)たぬように老中(らうちう)の職(しよく)をも       退(しりぞ)いたのではあるまいか之(これ)は誠(まこと)に私見(しけん)であつて公表(こうへう)するのは実(じつ)に如何(いかゞ)であるとは思(おも)ふが聊(いさゝか)信(しん)ずる点(てん) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百八十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百八十六 【本文】 悪く言われる人である。しかもこの矢部駿河守の憤死もその原因は耀蔵等の讒言からであると伝えられているが、しかしこの耀蔵は後に甲斐守となった人で、彼の林述斎の次男である。従って相当に学問もあったものであるが、後世に譏られるような悪者ではなかったように思われる。然るに品性が極めて小規模で余りに厳格に過ぐる結果、到底人を容れることの出来ないのみではなく、何事にも峻酷であったために実に世の中で怨まれたものである。そしてそれに命令したのがやはり極端なる水野忠邦ときているので、江戸中の怨みを集めたことは著しいものであったのである。 そして彼の述斎は丁度この大改革の行われた天保十二年に年七十四で没したのであるが、その以前においても既に老病の故をもって引退していたのであるから、前に申し述べた渡辺崋山一件の時などは恐らくは無関係であったものと信じられるのである。 **忠邦の失敗** このような訳であったから、この忠邦の大改革も遂に種々なる障害を生じ、忠邦は天保十四年閏九月十三日その職を免ぜられるに至り、改革の事業も結局失敗に帰したのであるが、忠邦の後は土井利位が受けて老中上座と相成ったのである。ところがこの人はまた極めて保守主義であったから、大概は忠邦の方針を打破ったのである。そしてその翌年は年号が改まって弘化となったが、その元年の五月五日水戸の斉昭は遂に謹慎を命ぜられるに至ったのである。 **水戸斉昭の謹慎** もっとも忠邦も最後には外交に関して斉昭と意見を異にするに至ったのであったが、しかしその在職中は政略上陽に斉昭を尊んでいたのである。然るに今度ここに至ったのは全く幕府の方針が一変せる結果に外ならないので、幕府と水戸との関係は愈々険悪と相成った次第である。 **信順の隠居** これより先き天保十三年の十二月十三日に信順は隠居して刑部大輔となり、子信賓が家督を相続して伊豆守に叙せられたが、信順は程なく天保十五年(弘化元年)の三月二日(三月十日発表)年五十二歳をもって病で卒去され、やはり野火留先塋の次に葬り承天院と諡されたのである。 **信順の卒去** 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際… 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 そこで一寸申し述べて置きたいのは信順が老中在職中における事蹟であるが、遺憾なことにはこれがどうも分かりかねるのである。もっとも信順が老中に就職したのは前にも申し述べたる如く天保八年の五月十六日で、恰も将軍家慶が相続の年であるが、その退職の時日については少しく不明である。しかしどう研究してみても私はその隠居まで即ち天保十三年の十二月十三日までは勤続していたものと信ずるのである。従って前述の如く水野越前守が上座として幕政に大改革を行おうとした当時は、これに参与していたものとしなければならない。 **信順隠居の事情** ここにおいて私の疑問とするのはその隠居の事情であるが、信順の隠居は恰もその五十歳の時であるから、普通としてはまだ少しく早過ぎはしまいかと思う。しかし当時信順が病気であったことは事実である。これは慎徳院記の中にも病気引退の事が書いてあるが、また御承知の中山美石(この人の事は後に詳述する筈なり)の公事記にもその事が載っているのである。従ってその引退の原因が病気の故であった事は事実である相違なかろうが、蓋しその内にまた別に事情の存するものがあったではなかろうかと思われるのである。 前にも申し述べたる如く信順という人は勤倹主義の人で、父信明の遺志を継いでいたことは勿論であるが、しかしまた寛量の性であったことも掩うべからざる処である。従って大阪城代時代などは極めて矢部駿州を信用したもので、老中在職の当時はまだ末座であったから十分に意見の行われなかった処もあったであろうが、前にも申し述べたる如く彼の矢部駿州を江戸町奉行から貶した如きは或いは心中不服の点もあったではなかろうかと推測されるのである。 従って水野越前守の大改革の如きはその主旨においては勿論賛成であったに相違ないが、これが実行に関して余りに峻酷なりし点は或いはその意に合せざりしものがあったではなかろうかと信じられるのである。従って病身なるを幸いに隠居を願い出で、角立たぬように老中の職をも退いたのではあるまいか。これは誠に私見であって公表するのは実に如何であるとは思うが、聊か信ずる点 【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百八十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 386 **Main Text:** ...was spoken ill of by society. Moreover, it is said that even the cause of Yabe Suruga-no-kami's death by indignation stemmed from slander by Yōzō and others. However, this Yōzō later became Kai-no-kami and was the second son of the aforementioned Hayashi Jussai. Therefore, he was quite learned, and it seems he was not the villain that later generations denounced him as. However, his character was extremely petty, and as a result of being overly strict, he was not only completely unable to tolerate others but was harsh in all matters, making him truly resented by society. And the one giving him orders was the equally extreme Mizuno Tadakuni, so the resentment they gathered from all of Edo was remarkable. The aforementioned Jussai died at age seventy-four in Tenpō 12, exactly when these great reforms were being carried out. However, he had already retired due to old age and illness before this, so it is believed he was probably uninvolved in the Watanabe Kazan incident I mentioned earlier. **Tadakuni's Failure** For these reasons, Tadakuni's great reforms eventually created various obstacles, and on September 13 in the intercalary ninth month of Tenpō 14, Tadakuni was dismissed from office, and his reform enterprise ultimately ended in failure. After Tadakuni, Doi Toshitsura took over and became senior councilor. However, this man was extremely conservative and generally overturned Tadakuni's policies. The following year the era name changed to Kōka, and on May 5 of the first year, Mito's Nariaki was finally ordered into house arrest. **Mito Nariaki's House Arrest** To be sure, Tadakuni had eventually come to differ with Nariaki on foreign policy matters, but during his tenure he had ostensibly honored Nariaki for political reasons. However, this latest development was nothing but the result of a complete reversal in the shogunate's policy, and relations between the shogunate and Mito became increasingly hostile. **Nobuyori's Retirement** Previously, on December 13 of Tenpō 13, Nobuyori retired and became Gyōbu-taiyu, while his son Nobutaka inherited the headship and was appointed Izu-no-kami. Soon after, Nobuyori passed away from illness on March 2 of Tenpō 15 (Kōka 1) (announced March 10) at the age of fifty-two, and was buried next to the family graves at Nobidome, receiving the posthumous name Shōten-in. **Nobuyori's Death** **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the draft nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of Sanyō Newspaper. **Main Text:** Here I would like to briefly mention Nobuyori's achievements during his tenure as senior councilor, but regrettably this is somewhat unclear. As I mentioned before, Nobuyori took office as senior councilor on May 16 of Tenpō 8, exactly the year Shogun Ieyoshi succeeded, but the date of his retirement is somewhat unclear. However, no matter how I research it, I believe he continued serving until his retirement, that is, until December 13 of Tenpō 13. Therefore, as mentioned above, when Mizuno Echizen-no-kami attempted to carry out major reforms of shogunal administration as senior councilor, Nobuyori must have participated in this. **Circumstances of Nobuyori's Retirement** What puzzles me is the circumstances of his retirement. Nobuyori's retirement came when he was exactly fifty years old, which seems somewhat early by normal standards. However, it is fact that Nobuyori was ill at the time. This is written about in the Shintoku-in Records as a retirement due to illness, and it is also recorded in the Court Diary of the well-known Nakayama Biseki (I plan to describe this person in detail later). Therefore, there is no doubt that the cause of his retirement was illness, but I suspect there may have been other circumstances involved as well. As I mentioned before, Nobuyori was a person of frugal principles who naturally continued his father Nobuaki's legacy, but he also had a generous nature that cannot be ignored. Therefore, during his time as Osaka castle keeper, he placed great trust in Yabe Shunshū, and during his tenure as senior councilor, since he was still in a junior position, his opinions may not have been fully implemented. However, as I mentioned before, regarding the demotion of Yabe Shunshū from Edo magistrate, he may well have harbored private dissatisfaction. Therefore, while he undoubtedly agreed with the main principles of Mizuno Echizen-no-kami's great reforms, I believe he may have found the overly harsh implementation disagreeable. Thus, taking advantage of his poor health, he may have requested retirement and stepped down from his position as senior councilor to avoid conflict. This is truly my personal opinion, and I wonder if it is appropriate to make it public, but I do believe there is some validity to this view... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 387