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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 208

ページ: 208

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の人物並に其藩主時代に於ける吉田の状況)    三百八十八 【本文】       もあるから茲(こゝ)に諸君(しよくん)の教(おしへ)を待(ま)たむとする処(ところ)である             ⦿松平信順の人物並に其藩主時代に              於ける吉田の状況 信順の性行 サテ信順(のぶより)と云(い)ふ人(ひと)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く実(じつ)に勤倹主義(きんけんしゆぎ)の人(ひと)で数々(しば〳〵)倹約(けんやく)の命(めい)を藩内(はんない)に布(し)いたのである       が其(その)大主旨(だいしゆし)は常(つね)に父(ちゝ)信明(のぶあき)の方針(はうしん)を継承(けいせう)したものと思(おも)はれる従(したがつ)て寛厳(かんげん)常(つね)に宜(よろ)しきを得(え)たのであるが殊(こと)に       其(その)人(ひと)となりに於(おい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く屡々(しば〳〵)寛量(かんれう)の処(ところ)が見(み)へるのである而(しか)して其(その)内(うち)には又(ま)た誠(まこと)に緻(ち) 山田洞雪  密(みつ)の処(ところ)があつたのであるが此(この)人(ひと)が大阪城代(おほさかじやうだい)から京都所司代(けうとしよしだい)を勤(つと)めて居(を)つた頃(ころ)に画師(えし)の山田洞雪(やまだどうせつ)と云(い)ふ       人(ひと)も随行(ずいかう)して居(を)つたのである此(この)人(ひと)は谷文晁(たにぶんてふ)の門人(もんじん)で中々(なか〳〵)の上手(ぜうづ)であつたが信順(のぶより)は常(つね)に此(この)画師(えし)をして色(いろ)       色(いろ)と有(あ)り觸(ふ)れたものを臨写(りんしや)せしめ之(これ)を集(あつ)めて綴(つゞ)り込(こ)むで置(お)いたものがあるソレは今日(こんにち)も尚(な)ほ大河内家(おほかうちけ)       に残(のこ)つて居(を)るのであるが之(これ)を見(み)ると其(その)内(うち)には又(ま)た時(とき)の摺物(すりもの)で歌舞伎(かぶき)などの広告(かうこく)のようなもの迄(まで)も貼(は)り       込(こ)むである殊(こと)に面白(おもしろ)く思(おも)ふのは或夜(あるよ)大阪(おほさか)の城中(じやうちう)へ大(おほ)きな蜘蛛(くも)が出(で)て之(これ)を打(う)ち殺(ころ)したが普通(ふつう)にない大(おほい)さ       であるからと云(い)ふので例(れい)の洞雪(どうせつ)に写生(しやせい)せしめ之(これ)に其(その)蜘蛛(くも)の寸法(すんぱう)だの現(あら)はれた年月日(ねんがつひ)だのを書(か)き添(そ)へて       保存(ほぞん)してある事であるソンナ訳(わけ)で微細(びさい)な処(ところ)までも能(よ)く〳〵注意(ちうい)し之(これ)を纏(まと)めて丁寧(ていねい)に保存(ほぞん)して置(お)かれた       処(ところ)は信順(のぶより)が一 種(しゆ)の好(す)きからも成(な)した事であろうが一つには又(ま)た其(その)微蜜(びさい)な性質(せいしつ)をも現(あら)はして居(を)る事と思(おも)       ふのである而(しか)して信順(のぶより)は前章(ぜんせう)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く其(その)十五六 歳(さい)の頃(ころ)から彼(か)の太田錦城(おほたきんじやう)を師傅(しふ)として経書(けふしよ)       を学(まな)むだもので詩作(しさく)もカナリにはやつたものであるが文政(ぶんせい)二年 父(ちゝ)信明(のぶあき)卒去(そつきよ)となつて家督(かとく)を相続(さうぞく)すると       程(ほど)なく一たび国(くに)に就(つ)いたのである其(その)時(とき)は錦城(きんじやう)も随(したが)つて此 吉田(よしだ)に来(き)たのであるが凡(およ)そ一 年間(ねんかん)は此(この)地(ち)にあ 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百十一号附録   (大正二年三月十一日発行) 【本文】       つたのである即(すなは)ち信順(のぶより)の吉田(よしだ)到着(たうちやく)は七月廿五日であつたが錦城(きんじやう)も翌年(よくねん)まで此(この)地(ち)にあつて時習館(じしうくわん)で経書(けふしよ) 中山美石  の講義(かうぎ)をなしたものである当時(たうじ)信順(のぶより)は必(かなら)ず自(みづか)らも出(い)でゝ其(その)講義(かうぎ)を聴聞(てうぶん)したとの事であるが又(また)其(その)頃(ころ)彼(か)の       中山美石(なかやまびせき)をも召(め)して和漢書(わかんしよ)の講義(かうぎ)を命(めい)じたのである此(この)人(ひと)は其(その)中(なか)でも多(おほ)く国學(こくがく)の講義(かうぎ)の方(はう)を引受(ひきう)けたの       であるが元来(がんらい)美石(びせき)と云(い)ふ人(ひと)は小禄(せうろく)の家(いへ)で通称(つうせう)を爲蔵(ためざう)後(のち)に彌助(やすけ)と云(い)ひ父(ちゝ)の名(な)を清勝(きよかつ)と云(い)つたが初(はじ)め遠州(ゑんしう)       新居(あらゐ)の関吏(せきり)に任(にん)ぜられて居(を)つたのである然(しか)るに実(じつ)に篤学(とくがく)の人(ひと)で国学(こくがく)は彼(か)の本居大平(もとおりおほひら)に就(つ)いて学(まば)むだの       であるが信明(のぶあき)の晩年(ばんねん)文化(ぶんくわ)十四年の五月に吉田(よしだ)に召寄(めしよ)せられて時習館(じしうくわん)の助教(じよけう)を拝命(はいめい)するに至(いた)つたのであ       る此(この)人(ひと)は其(その)後(のち)信順(のぶより)が大坂(おほさか)並(ならび)に京都(けうと)に在勤(ざいきん)の時(とき)も常(つね)に随行(ずゐかう)して怠(おこた)らず和漢書(わかんしよ)の講義(かうぎ)及(およ)び和歌(わか)の講釈(かうしやく)など       をなしたものであるが遂(つひ)には政治上(せいじぜう)の顧問(こもん)にも当(あた)つた様子(やうす)である信順(のぶより)はそれ故(ゆゑ)和歌(わか)にも中々(なか〳〵)堪能(たんのう)であ 公 事 記 つたのであるが前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた如(ごと)く此(この)美石(びせき)が書(か)き置(お)いたもので前章(ぜんせう)既(すで)に御話(おはなし)した彼(か)の公事記(くじき)並(ならび) 《割書:大坂日記 |京都日記 》  に大坂日記(おほさかにつき)、京都日記(けうとにつき)などと云(い)ふのがあるが之(これ)はいづれも日記体(につきたい)のもので信順(のぶより)に仕(つか)へた当時(たうじ)の事共(ことども)己(おの)       れに関係(くわんけい)せるものは細大漏(さいだいもら)さずに記載(きさい)した記録(きろく)であるが実(じつ)に其(その)当時(たうじ)を知(し)るには大切(たいせつ)のものであると思(おも)       ふ而(しか)も其(その)中(なか)には又(ま)た屡々(しば〳〵)信順(のぶより)が勉強家(べんけうか)であつた様子(やうす)が書(か)き現(あら)はしてあるのであるが今(いま)此(この)書(しよ)は其(その)子孫(しそん)の       家(いへ)に保存(ほぞん)されて居(を)るので此(この)頃(ころ)当市(たうし)の市史編纂係(しゝへんさんかゝり)に於(おい)てもソレを謄写(とうしや)して置(お)いたから結局(けつきよく)は市(し)の図書館(としよくわん)       に之(これ)を留(とゞ)める事(こと)になると思(おも)ふ       又(ま)た信順(のぶより)の手帳(ててう)が二 冊(さつ)幸(さいはひ)に大河内家(おほかうちけ)の蔵(くら)に残(のこ)つて居(を)るが之(これ)は簡単(かんたん)な手帳(ててう)で真中(まんなか)に煉筆(れんぴつ)が挟(はさ)まるよう       になつて居(を)る恐(おそら)くは旅行中(りよかうちう)にチヨイ〳〵必要(ひつよう)の事(こと)を書(か)き留(とゞ)めたものであろうと考(かんが)へるが其(その)中(なか)には間々(まゝ)       和歌(わか)なども記(しる)してある政事上(せいぢぜう)などに取(と)つて大(だい)なる材料(ざいれう)となる事(こと)はないようであるが信順(のぶより)の平常(へいぜう)を知(し)る       上(うへ)には随分(ずゐぶん)面白(おもしろ)いものである要(よう)するに信順(のぶより)と云(い)ふ人(ひと)は極(きは)めて質素(しつそ)であつて緻密(ちみつ)な性質(せいしつ)を持(も)ち且(か)つ相当(さうたう) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                   三百八十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信順の人物並びにその藩主時代における吉田の状況) 三百八十八 【本文】 もあるから、ここに諸君の教えを待とうとするところである。 **松平信順の人物並びにその藩主時代における吉田の状況** **信順の性行** さて信順という人は前にも申し述べた通り実に勤倹主義の人で、しばしば倹約の命を藩内に布いたのであるが、その大主旨は常に父信明の方針を継承したものと思われる。従って寛厳常に宜しきを得たのであるが、殊にその人となりにおいては前にも申し述べた通りしばしば寛量のところが見えるのである。そしてその内にはまた誠に緻密なところがあったのであるが、この人が大阪城代から京都所司代を勤めていた頃に画師の山田洞雪という人も随行していたのである。 **山田洞雪** この人は谷文晁の門人で中々の上手であったが、信順は常にこの画師をして色々とあり触れたものを臨写させ、これを集めて綴り込んで置いたものがある。それは今日も尚大河内家に残っているのであるが、これを見るとその内にはまた時の摺物で歌舞伎などの広告のようなものまでも貼り込んである。殊に面白く思うのは、ある夜大阪の城中へ大きな蜘蛛が出てこれを打ち殺したが、普通にない大きさであるからということで、例の洞雪に写生させ、これにその蜘蛛の寸法だの現れた年月日だのを書き添えて保存してあることである。そんな訳で微細なところまでもよくよく注意し、これを纏めて丁寧に保存して置かれたところは、信順が一種の好きからも成したことであろうが、一つにはまたその緻密な性質をも現していることと思うのである。 そして信順は前章にも申し述べた通り、その十五六歳の頃から彼の太田錦城を師傅として経書を学んだもので、詩作もかなりにはやったものであるが、文政二年父信明卒去となって家督を相続すると、程なく一たび国に就いたのである。その時は錦城も従ってこの吉田に来たのであるが、凡そ一年間はこの地にあ 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百十一号附録(大正二年三月十一日発行) 【本文】 ったのである。即ち信順の吉田到着は七月廿五日であったが、錦城も翌年まで此の地にあって時習館で経書の講義をなしたものである。当時信順は必ず自らも出でてその講義を聴聞したとのことであるが、またその頃彼の中山美石をも召して和漢書の講義を命じたのである。 **中山美石** この人はその中でも多く国學の講義の方を引受けたのであるが、元来美石という人は小禄の家で通称を為蔵、後に弥助といい、父の名を清勝といったが、初め遠州新居の関吏に任ぜられていたのである。然るに実に篤学の人で、国学は彼の本居大平に就いて学んだのであるが、信明の晩年文化十四年の五月に吉田に召寄せられて時習館の助教を拝命するに至ったのである。 この人はその後信順が大坂並びに京都に在勤の時も常に随行して怠らず、和漢書の講義及び和歌の講釈などをなしたものであるが、遂には政治上の顧問にも当った様子である。信順はそれ故和歌にも中々堪能であったのであるが、前にも一寸申し述べた通りこの美石が書き置いたもので前章既にお話しした彼の公事記並びに大坂日記、京都日記などというのがあるが、これはいずれも日記体のもので、信順に仕えた当時の事共己れに関係せるものは細大漏らさずに記載した記録であるが、実にその当時を知るには大切のものであると思う。 **公事記** **大坂日記・京都日記** しかもその中にはまたしばしば信順が勉強家であった様子が書き現してあるのであるが、今この書はその子孫の家に保存されているので、この頃当市の市史編纂係においてもそれを謄写して置いたから、結局は市の図書館にこれを留めることになると思う。 また信順の手帳が二冊幸いに大河内家の蔵に残っているが、これは簡単な手帳で真中に鉛筆が挟まるようになっている。恐らくは旅行中にちょいちょい必要のことを書き留めたものであろうと考えるが、その中には間々和歌なども記してある。政事上などに取って大なる材料となることはないようであるが、信順の平常を知る上には随分面白いものである。 要するに信順という人は極めて質素であって緻密な性質を持ち、かつ相当 【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百八十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Character and Conditions in Yoshida During His Time as Domain Lord) 388 **Main Text:** ...so I await the teachings of you gentlemen on this matter. **Matsudaira Nobuyori's Character and Conditions in Yoshida During His Time as Domain Lord** **Nobuyori's Character and Conduct** Now, as I mentioned before, Nobuyori was truly a person of frugal principles who frequently issued orders for economy throughout the domain. The main thrust of these policies seems to have always followed his father Nobuaki's approach. Therefore, his combination of leniency and strictness was always appropriate, and particularly regarding his character, as I mentioned before, he often displayed magnanimous qualities. Within this there was also truly meticulous attention to detail. When he served as Osaka castle keeper and later as Kyoto deputy, a painter named Yamada Dōsetsu accompanied him. **Yamada Dōsetsu** This man was a disciple of Tani Bunchō and quite skilled. Nobuyori regularly had this painter make copies of various things they encountered, collecting and binding them together. These remain in the Ōkōuchi family collection today. Looking at them, one finds even contemporary printed materials like kabuki advertisements pasted in. What I find particularly interesting is that one night when a large spider appeared in Osaka castle and was killed, because it was unusually large, he had the aforementioned Dōsetsu sketch it and preserved it with notes on the spider's dimensions and the date it appeared. In this way, he paid close attention even to minute details, carefully organizing and preserving them. While this may have stemmed from Nobuyori's particular interests, I think it also reflects his meticulous nature. As I mentioned in the previous chapter, from around age fifteen or sixteen, Nobuyori studied classical texts under Ōta Kinshō as his teacher and became quite accomplished at poetry composition. When his father Nobuaki died in Bunsei 2 and he inherited the headship, he soon returned to his domain. At that time, Kinshō also came to Yoshida and remained in this area for about a year... **Margin:** Publisher and Printer: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Kōya-machi, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno □kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4,311 Supplement (Published March 11, Taishō 2) **Main Text:** That is, Nobuyori arrived in Yoshida on July 25, and Kinshō remained in this area until the following year, giving lectures on classical texts at Jishūkan academy. At the time, Nobuyori invariably attended these lectures himself. Around this same time, he also summoned the aforementioned Nakayama Biseki to give lectures on Japanese and Chinese texts. **Nakayama Biseki** This person mainly took charge of lectures on national learning. Originally, Biseki came from a family of modest stipend, with the common name Tamezō, later called Yasuke, and his father was named Kiyokatsu. He was initially appointed as a customs official at Arai in Enshū. However, he was truly a devoted scholar who studied national learning under the famous Motoori Ōhira. In the late years of Nobuaki's life, in the fifth month of Bunka 14, he was summoned to Yoshida and appointed assistant instructor at Jishūkan academy. Later, when Nobuyori was stationed in Osaka and Kyoto, this man constantly accompanied him without fail, giving lectures on Japanese and Chinese texts and explanations of waka poetry, and eventually seems to have served as a political advisor as well. Therefore, Nobuyori became quite accomplished in waka poetry. As I briefly mentioned before, among the works this Biseki left behind are his Court Diary that I already discussed in the previous chapter, as well as the Osaka Diary and Kyoto Diary. These are all written in diary format, recording in detail everything related to himself during his service to Nobuyori, and I believe they are invaluable for understanding that period. **Court Records** **Osaka Diary and Kyoto Diary** Moreover, these frequently describe how Nobuyori was a diligent student. These books are currently preserved by his descendants' family, and recently our city's historical compilation office has made copies, so they will eventually be housed in the city library. Also, two of Nobuyori's notebooks fortunately remain in the Ōkōuchi family storehouse. These are simple notebooks with pencils that fit in the middle. They were probably used to jot down necessary things while traveling, and occasionally contain waka poems as well. While they may not provide major material for political history, they are quite interesting for understanding Nobuyori's daily life. In summary, Nobuyori was an extremely modest person with a meticulous nature and considerable... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 389