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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 21

ページ: 21

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【欄外】 豊橋市史談   (今橋築城と牧野古白)                      十四 【本文】       のもがある、 又(ま)た武徳大成記(ぶとくたいせいき)の如(ごと)きものもある、 勿論(もちろん)前(まへ)に述(の)べた、 三河記(みかはき)の内(うち)には十 分(ぶん)なる校正(こうせい)を経(へ)       たるものがあるが之(これ)は殆(ほとん)ど同性質(どうせいしつ)のものである、 其他(そのた)武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)の如(ごと)きもあれば有名(いうめい)なる新井白石(あらゐはくせき)       の藩翰譜(はんかんふ)もある中井竹山(なかゐちくざん)の逸史(いつし)もある之等(これら)の類(るい)も亦(また)数(かぞ)へ切(き)れぬであろうが併(しか)し徳川幕府(とくがはばくふ)に於(おい)て史官(しかん)を 寛永系図   置(お)き多(おほ)くの時日(じじつ)を費(つひや)して調(しら)べ上(あ)げたものがある、三 代将軍(だいせうぐん)時代(じだい)の寛永系図(かんえいけいづ)は其(その)一であるが之(これ)はまだ十        分(ぶん)のものではない様(よう)に思(おも)はれる、 然(しか)るに五 代将軍(だいせうぐん)綱吉(つなよし)の時代(じだい)には各大名(かくだいめう)幷(ならび)に旗本(はたもと)は勿論(もちろん)地方(ちほう)の郷士(ごうし)に 貞享書上   到(いた)る迄(まで)家系(かけい)の調査(てうさ)を命(めい)じ  祖先(そせん)以来(いらい)の事を書上(かきあ)げしめたので之(これ)は貞享書上(ていけうかきあげ)と称(とな)へて今(いま)東京帝国大学(とうけうていこくだいがく)の        史料編纂係(しれうへんさんかゝり)に保存(ほぞん)せられて居(を)る何処(いづこ)十 何騎(なんき)だとか云(い)つて頻(しき)りに家系(かけい)などを調(しら)べる事の流行(りうこう)したのも実(じつ)        に此時(このとき)が多(おほ)いので地方(ちほう)に流布(るふ)して居(を)るものゝ 中(なか)にはワザト拵(こしら)えたものも少(すくな)くないのであるから余程(よほど)注(ちう)        意(ゐ)を要(えう)する事と思(おも)ふが我地方(わがちほう)に於(おい)ても続々(ぞく〴〵)発見(はつけん)する記録(きろく)の類(るい)が段々(だん〴〵)研究(けんきう)して見(み)ると矢張(やはり)此時代(このじだい)以後(いご)に        於(おい)て出来(でき)たものが多(おほ)いのである、サテ其後(そのご)更(さら)に幕府(ばくふ)に於(おい)て歴史(れきし)の研究(けんきう)を初(はじ)めたのが例(れい)の寛政(かんせい)時代(じだい)で若(わか) 《割書:寛政重修諸|家譜》    年寄(としより)の堀田正敦(ほつたまさあつ)が総裁(さうさい)となつて文化(ぶんか)年間(ねんかん)迄(まで)かゝつて作(つく)り上(あ)げたのが彼(か)の寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)で壹千五百二       十五 巻(かん)と云(い)ふ大部(たいぶ)のものである、 之(これ)に続(つゞ)いて出来(でき)上(あが)つたのが彼(か)の徳川御実記(とくがはごじつき)幷(ならび)に朝野旧聞裒稿(てうやきんぶんほうこう)で何(いづ)れ       も千 有余巻(いうよかん)の大部(たいぶ)であるが之(これ)は林大学頭述斉(はやしだいがくのかみじゆつさい)の監督(かんとく)で成島司直(なるしまじちよく)等(ら)が編纂(へんさん)の任(にん)に当(あた)つたとのこ事である        此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから我地方(わがちはう)の史実(しじつ)を得(う)るには先(ま)づ之等(これら)の諸書(しよ〳〵)を初(はじ)め親元日記(ちかもとにつき)だの宗長手記(しうちうしゆき)の如(ごと)き当(とう)        時(じ)の日記(につき)随筆(ずゐしつ)などあらゆる方面(はうめん)に渉(わた)りて調(しら)べ出(だ)すより外(ほか)はない、コウなると専門的(せんもんてき)で到底(とうてい)私(わたくし)の如(ごと)き        浅学(せんがく)の者(もの)では及(およ)ばぬのである、 右(みぎ)は只(た)だ大要(たいえう)に就(つい)ての話(はなし)であるが兎(と)に角(かく)予(あらかじ)め此事(このこと)は御承知(ごせうち)置(お)きを願(ねが)       ひ度(た)いのである。 古白の子孫  此時代(このじだい)に於(お)ける参考(さんこう)材料(ざいれう)としては以上(いぜう)述(の)べた如(ごと)くであるが尚(な)ほ古白(こはく)を初(はじ)め牧野氏(まきのし)の事に就(つい)て研究(けんきう)する 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際  し■                          ■ 【左頁】 【本文】       には先(ま)づ其(その)子孫(しそん)を尋(たづ)ね其(その)家(いへ)に就(つい)て調査(てうさ)するのも至極(しごく)必要(ひつえう)なる事と思(おも)ふ、ソコデ試(こゝろみ)に現在(げんざい)の華族(くわぞく)の中(なか)で        牧野姓(まきのせい)を称(とな)へて居(を)らるゝのが何軒(なんげん)あるかと云(い)ふに、五 軒(けん)ある之(これ)は何(いづ)れも子爵家(しゝやくけ)であるが一々 挙(あげ)て見(み)る       と、 旧越後長岡藩主(きうえちごながおかはんしゆ)の牧野氏(まきのし)、 越後峰山藩主(えちごみねやまはんしゆ)の牧野氏(まきのし)、 信州小諸藩主(しんしうこもろはんしゆ)牧野氏(まきのし)、 常陸笠間藩主(ひたちかさまはんしゆ)の牧野氏(まきのし) 牧野子爵家  丹後田辺(たんごたなべ)現今舞鶴藩主(げんこんまいづるはんしゆ)の牧野氏(まきのし)であつて何(いづ)れも先祖(せんそ)は東三河(ひがしみかは)から出(いで)て宝飯郡(ほゐぐん)の牛久保(うしくぼ)を中心(ちうしん)として        勃興(ぼつこう)したものであるが、 右(みぎ)の内(うち)笠間(かさま)峰山(みねやま)小諸(こもろ)の三 家(け)は元(も)と長岡家(ながおかけ)から分(わか)れたものであるから祖先(そせん)は同(どう)       一であつて牧野新次郎(まきのしんじらう)後(のち)に右馬允成定(うまのすけなりさだ)と称(とな)へた人(ひと)を祖先(そせん)として居(を)る、 此(こ)の人(ひと)の伝記(でんき)に就(つい)ては後(のち)に詳(くは)し       く御話(おはな)しする事とするが此(こ)の人(ひと)は後(のち)に徳川家康(とくがはいへやす)に従(したが)つた人(ひと)である又(ま)た丹後田辺(たんごたなべ)の牧野氏(まきのし)は当主(とうしゆ)を弼成(すけしげ)        君(ぎみ)と云(い)はれるが此家(このいへ)は牧野(まきの)八 太夫(だいう)後(のち)に山城守(やましろのかみ)と称(とな)へた定成(さだしげ)を祖先(そせん)として居(を)る、 此人(このひと)は成定(なりさだ)よりは後(のち)に        至(いた)つて初(はじ)めて家康(いへやす)に仕(つか)へた人(ひと)で其(その)家系(かけい)に於(おい)ては古白(こはく)の孫(まご)であるとなつて居(を)る、 面白(おもしろ)いのは此家(このいへ)は代々(だい〴〵)        成(なり)と云(い)ふ字(じ)を「シゲ」と読(よ)むで居(を)るのに前(まへ)の長岡家(ながをかけ)一 統(とう)は必(かなら)ず「ナリ」と読(よ)むので自(おのづ)から其(その)系統(けいとう)を明(あきらか)にし       て居(を)る様(やう)に思(おも)はれる、 殊(こと)に古白(こはく)の名乗(なのり)は成時(しげとき)であつて「シゲトキ」を読(よ)むのであるから田辺家(たなべけ)の家系(かけい)に        如何(いか)にもと首肯(しゆこう)せられて其(その)古白(こはく)系統(けいとう)の家(いへ)たる事は疑(うたがひ)なき様(やう)に思(おも)はるゝのである、 併(しか)し長岡家(ながをかけ)一統(いつとう)にも        田辺家(たなべけ)にも其(その)祖先(そせん)に就(つい)ては旧来(きうらい)議論(ぎろん)があつて寛政重修譜(かんせいちようしうふ)又(また)は武徳編年集成(ぶとくへんねんしうせい)などと異説(ゐせつ)が載(の)つて居(を)るが        之(これ)は後日(ごにち)論(ろん)ずる事とする、 而(しか)しで右(みぎ)の外(ほか)別(べつ)に古白(こはく)直系(ちよくけい)の子孫(しそん)として認(みと)められて居(を)る家(いへ)がある、 之(これ)は静(しづ) 牧野成一氏  岡県(をかけん)の士族(しぞく)で牧野茂一(まきのしげかづ)氏(し)である茂一(しげかづ)君(きみ)の父(ちゝ)は名(な)を茂行(しげゆき)と云(い)はれて今(いま)も存命(ぞんめい)で東京本郷区(とうけうほんごうく)の真砂町(まさごてう)に住(すま)       つて居(を)られるが維新(ゐしん)当時(とうじ)は伊予守(いよのかみ)と云(い)ひ三千 石(ごく)の旗本(はたもと)であつた此家(このいへ)は代々(だい〴〵)名(な)を伝蔵(でんざう)と称(せう)し矢張(やはり)成(なり)の字(じ)       を「シゲ」と読(よ)むで居(を)る、 又(ま)た浜松在(はままつざい)に住(ぢう)して維新(ゐしん)前(ぜん)五百 石(こく)の旗本(はたもと)であつた方(かた)で牧野斧之丞(まきのをののぜう)と云(い)ふ人(ひと)が       あるが之(これ)は成一君(しげかづくん)の家(いへ)から分(わ)かれたものである、 即(すなは)ち此(こ)の伊予守(いよのかみ)の家(いへ)は寛政重修家譜(かんせいちようしうかふ)にも亦(ま)た帝国大(ていこくだい) 【欄外】 豊橋市史談   (今橋築城と牧野古白)                      十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (今橋築城と牧野古白)                      十四 【本文】       のもある。また『武徳大成記』のようなものもある。もちろん前に述べた『三河記』の内には十分な校正を経       たものがあるが、これはほとんど同性質のものである。その他『武徳編年集成』のようなものもあれば、有名な新井白石       の『藩翰譜』もある。中井竹山の『逸史』もある。これ等の類もまた数え切れないであろうが、しかし徳川幕府において史官を 寛永系図   置き、多くの時日を費やして調べ上げたものがある。三代将軍時代の『寛永系図』はその一であるが、これはまだ十        分のものではないように思われる。ところが五代将軍綱吉の時代には、各大名並びに旗本はもちろん、地方の郷士に 貞享書上   至るまで家系の調査を命じ、祖先以来のことを書上げさせたので、これは『貞享書上』と称して今東京帝国大学の        史料編纂係に保存されている。「何処十何騎」だとかいって頻りに家系などを調べることの流行したのも実       にこの時が多いので、地方に流布しているもののなかにはわざと拵えたものも少なくないのであるから、余程注        意を要することと思うが、我が地方においても続々発見する記録の類が段々研究して見ると、やはりこの時代以後に        おいて出来たものが多いのである。さて、その後更に幕府において歴史の研究を始めたのが例の寛政時代で、若 《割書:寛政重修諸家譜》    年寄の堀田正敦が総裁となって文化年間まで掛かって作り上げたのが、あの『寛政重修諸家譜』で一千五百二       十五巻という大部のものである。これに続いて出来上がったのがあの『徳川御実記』並びに『朝野旧聞裒稿』で、いずれ       も千有余巻の大部であるが、これは林大学頭述斎の監督で成島司直等が編纂の任に当たったとのことである。        このような訳であるから、我が地方の史実を得るには、先ずこれ等の諸書をはじめ『親元日記』だの『宗長手記』のような当        時の日記随筆など、あらゆる方面に渉って調べ出すより他はない。こうなると専門的で到底私のような        浅学の者では及ばぬのである。右はただ大要についての話であるが、とにかく予めこのことは御承知置きを願       いたいのである。 古白の子孫  この時代における参考材料としては以上述べたとおりであるが、なお古白をはじめ牧野氏のことについて研究する 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際  し■                          ■ 【左頁】 【本文】       には先ずその子孫を尋ね、その家について調査するのも至極必要なることと思う。そこで試しに現在の華族の中で        牧野姓を称しておられるのが何軒あるかというに、五軒ある。これはいずれも子爵家であるが一々挙げて見る       と、旧越後長岡藩主の牧野氏、越後峰山藩主の牧野氏、信州小諸藩主牧野氏、常陸笠間藩主の牧野氏 牧野子爵家  丹後田辺現今舞鶴藩主の牧野氏であって、いずれも先祖は東三河から出て宝飯郡の牛久保を中心として        勃興したものであるが、右の内笠間・峰山・小諸の三家は元と長岡家から分かれたものであるから祖先は同       一であって、牧野新次郎後に右馬允成定と称した人を祖先としている。この人の伝記については後に詳し       く御話しすることとするが、この人は後に徳川家康に従った人である。また丹後田辺の牧野氏は当主を弼成        君というが、この家は牧野八太夫後に山城守と称した定成を祖先としている。この人は成定よりは後に        至って初めて家康に仕えた人で、その家系においては古白の孫であるとなっている。面白いのはこの家は代々        「成」という字を「シゲ」と読んでいるのに、前の長岡家一統は必ず「ナリ」と読むので、自ずからその系統を明かに       している様に思われる。殊に古白の名乗は成時であって「シゲトキ」と読むのであるから、田辺家の家系に        いかにもと首肯され、その古白系統の家たることは疑いなきように思われるのである。しかし長岡家一統にも        田辺家にもその祖先については旧来議論があって、『寛政重修譜』または『武徳編年集成』などと異説が載っているが、        これは後日論ずることとする。しかして右の外別に古白直系の子孫として認められている家がある。これは静 牧野成一氏  岡県の士族で牧野成一氏である。成一君の父は名を成行というて今も存命で東京本郷区の真砂町に住       んでおられるが、維新当時は伊予守といい三千石の旗本であった。この家は代々名を伝蔵と称し、やはり「成」の字       を「シゲ」と読んでいる。また浜松在に住して維新前五百石の旗本であった方で牧野斧之丞という人が       あるが、これは成一君の家から分かれたものである。すなわちこの伊予守の家は『寛政重修家譜』にもまた帝国大 【欄外】 豊橋市史談  (今橋築城と牧野古白)                      十五

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Construction of Imahashi Castle and Makino Kohaku)                      14 【Main text】       of that sort exists. There are also works like "Butoku Taiseki" (Great Record of Military Virtue). Of course, among the "Mikawa-ki" mentioned earlier, there are some that have undergone thorough editing,       but these are mostly of the same nature. There are also works like "Butoku Hennen Shūsei" (Chronological Compilation of Military Virtue), and the famous "Hankanfu" (Records of Feudal Lords) by Arai Hakuseki.       There is also "Isshi" by Nakai Chikuzan. There are countless others of this type, but the Tokugawa shogunate established official historians Kan'ei Keizu  and spent much time investigating and compiling records. The "Kan'ei Keizu" (Kan'ei Genealogies) from the time of the third shogun is one such work, but this       still seems insufficient. However, during the time of the fifth shogun Tsunayoshi, all daimyo and direct retainers, as well as local samurai, Jōkyō Kakiage  were ordered to investigate their genealogies and submit records of their ancestors, which is called "Jōkyō Kakiage" and is now preserved at       Tokyo Imperial University's Historical Materials Compilation Office. The fashion for investigating genealogies saying "such-and-such domain has so many mounted warriors" actually       became popular around this time, so among the records circulating locally, quite a few were deliberately fabricated, requiring considerable caution.       When we gradually research the records continuously discovered in our region, many turn out to have been created after this period.       Later, the shogunate began historical research again in the famous Kansei era, when the young councilor Hotta Masaatsu 《Interlinear: Kansei Chōshū Shokafu》   served as director and completed the great "Kansei Chōshū Shokafu" (Kansei Revised Genealogies of Various Houses) in 1,525 volumes, which took until the Bunka era to complete.       Following this came the "Tokugawa Gojitsuki" (True Records of the Tokugawa) and "Chōya Kyūbun Hōkō" (Collected Old Stories from Court and Country), both       massive works of over 1,000 volumes each, compiled under the supervision of Hayashi Daigaku-no-kami Jutsu-sai, with Narushima Jichoku and others handling the compilation.       Given this situation, to obtain historical facts about our region, we have no choice but to investigate widely across all these various works, beginning with contemporary diaries and essays       like "Chikamoto Nikki" and "Shūchō Shuki." This becomes so specialized that someone with shallow learning like myself       cannot possibly manage it. The above is just an outline of the main points, but I would like you to understand this in advance. Kohaku's Descendants For reference materials regarding this period, the situation is as described above, but for research into Kohaku and the Makino family, 【Margin】  Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to the compilation of Toyohashi city history for over a year, and now as his manuscript nears completion  ■                         ■ 【Left page】 【Main text】       it is extremely necessary to first seek out their descendants and investigate their houses. So as a trial, let us see how many houses among the current nobility       bear the Makino surname - there are five houses. These are all viscount houses, and listing them one by one:       the Makino family of the former Echigo Nagaoka domain, the Makino family of Echigo Mineyama domain, the Makino family of Shinshū Komoro domain, the Makino family of Hitachi Kasama domain, Makino Viscount Houses and the Makino family of Tango Tanabe, presently Maizuru domain. All of these trace their ancestors to Higashi-Mikawa, rising to prominence centered around Ushikubo in Hoi District.       Among these, the three houses of Kasama, Mineyama, and Komoro originally branched from the Nagaoka house, so they share the same       ancestors, tracing their lineage to a man called Makino Shinjirō, later known as Uma-no-suke Narisada. I will discuss this man's biography in detail       later, but he later served Tokugawa Ieyasu. The Makino family of Tango Tanabe has a current head called Lord Sukeshige,       and this house traces its ancestry to Makino Hachidayū, later called Yamashiro-no-kami Sadashige. This man came later than Narisada       and was the first to serve Ieyasu, and according to their genealogy, he was Kohaku's grandson. What is interesting is that this house has traditionally       read the character "成" as "Shige," while the Nagaoka house lineage always reads it as "Nari," thus naturally clarifying their lineage.       Particularly since Kohaku's given name was Shigetoki, read as "Shigetoki," this makes the Tanabe house genealogy       quite convincing, and it seems beyond doubt that they are of Kohaku's lineage. However, both the Nagaoka house lineage and       the Tanabe house have long-standing debates about their ancestors, with different theories appearing in the "Kansei Chōshū-fu" and "Butoku Hennen Shūsei," but       I will discuss this at a later date. Besides these, there is another house recognized as direct descendants of Kohaku. This is a samurai Makino Narukazu family from Shizuoka Prefecture, the Makino Narukazu family. Narukazu's father is named Nariyuki and is still alive, residing in Masago-chō in Tokyo's Hongō ward.       During the Restoration he held the title Iyo-no-kami and was a 3,000-koku direct retainer. This house has traditionally used the name Denzō, also reading the character "成"       as "Shige." There was also a man named Makino Ono-no-jō who lived in the Hamamatsu area and was a 500-koku direct retainer before the Restoration,       but he branched off from Narukazu's house. That is, this Iyo-no-kami house appears in both the "Kansei Chōshū Kafu" and the Imperial 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Construction of Imahashi Castle and Makino Kohaku)                      15