Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 22

ページ: 22

翻刻

【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十六 【本文】        学(がく)で出版(しゆつぱん)する大日本史料(だいにほんしれう)にも明(あきらか)に古白(こはく)直系(ちよくけい)の子孫(しそん)として確信(かくしん)されて居(を)る、 蓋(けだ)し古白(こはく)の後(あと)は其子(そのこ)成三(しげかづ)が        継(つゝ)いたが成三(しげかづ)は更(さら)に其弟(そのおとゝ)信成(のぶしげ)を養子(やうし)とした此(この)信成(のぶしげ)が松平清康(まつだひらきよやす)に攻(せめ)られて討死(うちじに)の時(とき)妊娠中(にんしんちう)の妻(つま)は尾張国(をはりのくに)        知多郡(ちたぐん)に逃(のが)れて後(のち)に生(う)んだ子(こ)が成継(しげつぐ)である、 成継(しげつぐ)の子(こ)を成里(しげさと)と称(とな)へたが此人(このひと)は頗(すこぶ)る武勇(ぶゆう)であつて池田(いけだ)        輝政(てるまさ)の紹介(せうかい)で徳川家康(とくがはいへやす)に召(め)されて二 代将軍(だいせうぐん)秀忠(ひでたゝ)付(づき)として仕(つか)へたのである之(こ)れが伊予守家(いよのかみけい)の祖先(そせん)になる 牧野系図  のであるから、 先(ま)づ同家(どうけい)に就(つい)て調査(てうさ)の必要(ひつえう)を認(みと)めたのであるが同家(どうけい)には新旧(しんきう)二つの系図(けいづ)が伝(つた)はつて居(を)       る、 而(しか)して其(その)古(ふる)い方(ほう)は多少(たせう)の相違(さうゐ)こそあれ大体(だい〳〵)に於(おい)ては寛永系図(かんえいけいづ)に一 致(ち)するもので又(ま)た野史(やし)に引用(いんよう)し       てある牧野系図(まきのけいづ)と云(い)ふのに一 致(ち)する点(てん)が多(おほ)い、 然(しか)るに新(あたらし)い方(ほう)のは余程(よほど)後世(こうせい)に出来(でき)たもので頗(すこぶ)る詳(つまびらか)に        調査(てうさ)されてあるが寛政(かんせい)以後(いご)に調(しら)べて作(つく)つたものと思(おも)はれる、 兎(と)に角(かく)之(これ)等(ら)の系図(けいづ)は勿論(もちろん)前(ぜん)にも述(の)べた長(なが)        岡(をか)、 田辺(たなべ)、 両家(れうけ)を始(はじ)め此(この)牧野氏(まきのし)一 統(とう)の家(いへ)に伝(つた)はれる記録(きろく)の類(るい)は寛永系図(かんえいけいづ)寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよけふ)等(とう)の諸書(しよ〳〵)と共(とも) 古白の素性 に大(おほい)に参考(さんこう)となるものであると信(しん)ずる、 扨(さて)牧野古白(まきのこはく)の出所(しゆつしよ)に就(つい)ては以上(いぜう)述(の)べた如(ごと)き事情(じぜう)で諸書(しよ〳〵)の記(き)す       る処(ところ)が一 致(ち)しないが寛政重修諸家譜(かんせいちようしうしよかふ)の記(き)する処(ところ)によれば此(この)古白(こはく)と云(い)ふ人(ひと)は牧野成富(まきのしげとみ)の子(こ)で、 成富(しげとみ)と云(い)       ふ人(ひと)は一 名(めい)を頼成(よりしげ)と云(い)ひ左衛門尉(さゑもんのぜう)と称(とな)へたが応永(おうえう)年中(ねんちう)に将軍(せうぐん)足利義持(あしかゝよしもち)の命(めい)によつて初(はじ)めて三河国宝飯(みかはのくにほゐ) 牧野成富   郡(ぐん)中條郷(ちうぜうごう)牧野村(まきのむら)へ来(き)て牧野(まきの)の姓(せい)を名乗(なの)つたのである、 元(も)と此(こ)の人(ひと)は平家(へいけ)の士(し)田口重能(たぐちしげよし)(成能(しげよし))の末孫(ばつそん)で        重能(しげよし)の子(こ)に田内左衛門教能(たうちさゑもんのりよし)一に成直(しげなを)と云(い)ふ人(ひと)があつたが平家(へいけ)没落(ぼつらく)の後(のち)離散(りさん)して系図(けいづ)が分(わか)らなくなつた        然(しか)るに其(その)後胤(こういん)に田口左衛門尉成保(たぐちさゑもんのぜうしげやす)と云(い)ふ人(ひと)があり其子(そのこ)に田三左衛門成清(たみさゑもんしげきよ)と云(い)ふのがあつて、 之(これ)が即(すなは)ち        成冨(しげとみ)の親(おや)で此人(このひと)の代迄(だいまで)は讃岐国(さぬきのくに)に住(じう)して居(ゐ)たものであるが 成冨(しげとみ)の代(だい)に至(いた)つて讃岐国(さぬきのくに)から此(この)牧野村(まきのむら)へ来(き) 成富の墳墓 たものであるとなつて居(を)る現(げん)に成冨(しげとみ)の墓(はか)は牧野村(まきのむら)柳貝津(やなかいづ)と云ふ処(ところ)に遺(のこ)つて居(を)るが此(この)墓(はか)は確実(かくじつ)のものと       して認定(にんてい)が出来(でき)るのである、 又(ま)た牧野村(まきのむら)牧野(まきの)さち氏(し)の家(いへ)に福昌寺(ふくせうじ)の僧(そう)実山(じつざん)手写(てうつし)の経文(けうもん)と牧野村(まきのむら)の古地(こち) 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百号附録   ( 明治四十四年三月七日発行 ) 【本文】 福昌寺    図(づ)とが蔵(ざう)せられてある、 此(この)経文(けうもん)は中々(なか〳〵)見事(みごと)なものであつて此(この)福昌寺(ふくせうじ)と云(い)ふのは成富(しげとみ)が深(ふか)く皈依(きえ)した寺(てら)       だと云(い)ふ事であるが、 其(その)古地図(こちづ)の中(なか)にも寺(てら)の跡(あと)は載(の)せられてある、ソコデ古白(こはく)が名乗(なのり)を成時(しげとき)と云(い)つた       事は前(ぜん)に述(の)べた通(とほ)りで又(また)左衛門尉(さえもんのぜう)と称(とな)へたのであるが、 初(はじ)め名(な)を利業(としなり)とも称(とな)へた形跡(けいせき)がある、ソレは        宝飯郡(ほゐぐん)財賀寺(ざいがじ)の棟札(むなふだ)に文明(ぶんめい)十五年 牧野修理進利業(まきのしゆりのしんとしなり)と書(か)いてあるのがあつて田辺牧野家(たなべまきのけ)の記録(きろく)及(およ)び宮嶋(みやじま) 利業の名   伝記(でんき)に利業(としなり)は古白(こはく)の若(わか)き時(とき)の名乗(なのり)にやとあり、 又(また)仝(どう)牧野家(まきのけ)の家譜(かふ)に成時(しげとき)初(はじめて)利成(としなり)とあるからである、 勿(もち)        論(ろん)古白(こはく)と云(い)ふ名(な)薙髪(ちばつ)してからの号(ごう)であるが藩翰譜(はんかんふ)には之(これ)を古柏(こはく)としてある、 又(また)古伯(こはく)と書(か)いた書物(しよもつ)は 古伯と古白  沢山(たくさん)あるが私(わたくし)は古白(こはく)と書(か)くのが確実(かくじつ)であると信(しん)ずる、 之(これ)に就(つい)て最(もつと)も証拠(せうこ)となるべきものは財賀寺(ざいがじ)明応(めいおう)       四 年(ねん)の棟札(むなふだ)並(ならび)に豊橋市(とよはしし)中(なか)八 神明社(しんめいしや)明応(めいおう)六 年(ねん)の棟札(むなふだ)で神明社(しんめいしや)のは今(いま)も現存(げんぞん)して居(を)るが何(いづ)れも古白(こはく)と書(か)い       てある又(また)連歌師(れんがし)宗長(そうてう)の宗長手記(そうてうしゆき)であるが此(この)宗長(そうてう)と云(い)ふ人(ひと)は今川義忠(いまがはよしたゞ)に仕(つか)へた小姓(こせう)であつて後(のち)に宗祇(そうぎ)の 宗長手記   門人(もんじん)となつて連歌(れんが)を学(まな)び再(ふたゝ)び氏親(うじちか)に召(め)され古白(こはく)とは最(もつと)も親密(しんみつ)な間柄(あひだがら)で当時(とうじ)屡々(しば〳〵)今橋(いまはし)に来(きた)り連歌(れんが)の相手(あひて)       をしたものである、 宗長手記(そうてうしゆき)は即(すなは)ち此人(このひと)の書(か)いたもので塙保巳一(はなわほきいち)の 群書類従(ぐんしよるいじう)の中(なか)に入(はい)つて居(を)る、 此(この)宗(そう)        長手記(てうしゆき)は大永(たいえい)四 年(ねん)より同(どう)七 年(ねん)迄(まで)の事を書(か)いた日記様(につきやう)のもので勿論(もちろん)古白(こはく)死去(しきよ)後(ご)の事ではあるが其中(そのなか)に古(こ)        白(はく)と交際(こうさい)のあつた事を明記(めいき)してある、 然(しか)るに之(これ)にも矢張(やはり)古白(こはく)となつて居(ゐ)て古柏(こはく)又(また)は古伯(こはく)とは書(か)いてな       いのである、 蓋(けだ)し此処(ここ)に一 問題(もんだい)として研究(けんきう)を要(えう)するのは財賀寺(ざいがじ)文明(ぶんめい)三 年(ねん)の棟札(むなふだ)に願主(がんしゆ)牧野古伯(まきのこはく)とした       のが存在(ぞんざい)せる事 である、 之迄(これまで)此(こ)の古伯(こはく)は古白(こはく)成時(しげとき)と同(どう)一人(にん)に見做(みな)されて居(を)るが此時代(このじだい)より推(お)して或(あるひ)は        別人(べつにん)ではなからうかと思(おも)はるゝのである、 如何(いかん)となれば古白(こはく)は永正(えいせう)三 年(ねん)に討死(うちじに)したので此(この)棟札(むなふだ)にある        文明(ぶんめい)三 年(ねん)とは相距(あいはな)ること卅六 年(ねん)目(め)になるのである、 而(しか)して古白(こはく)と云(い)ふ名(な)は前(ぜん)にも述(のべ)たる通(とほ)り薙髪(ちはつ)してか       らの号(ごう)であるから其(その)古白(こはく)と号(ごう)したのはマサカ十 代(だい)や廿 代(だい)ではなからう少(すくな)くも卅 歳(さい)以上(いぜう)でなくてはなら 【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (今橋築城と牧野古白)                      十六 【本文】        学で出版する『大日本史料』にも明らかに古白直系の子孫として確信されている。蓋し古白の後はその子成三が        継いだが、成三は更にその弟信成を養子とした。この信成が松平清康に攻められて討死の時、妊娠中の妻は尾張国        知多郡に逃れて後に生んだ子が成継である。成継の子を成里と称したが、この人は頗る武勇であって池田        輝政の紹介で徳川家康に召され、二代将軍秀忠付として仕えたのである。これが伊予守家の祖先になる 牧野系図  のであるから、先ず同家について調査の必要を認めたのであるが、同家には新旧二つの系図が伝わって       る。そしてその古い方は多少の相違こそあれ、大体においては『寛永系図』に一致するもので、また野史に引用し       てある牧野系図というのに一致する点が多い。ところが新しい方は余程後世に出来たもので頗る詳しく        調査されてあるが、寛政以後に調べて作ったものと思われる。とにかくこれ等の系図は勿論前にも述べた長        岡、田辺、両家をはじめ、この牧野氏一統の家に伝わる記録の類は『寛永系図』『寛政重修諸家譜』等の諸書と共 古白の素性 に大いに参考となるものであると信ずる。さて牧野古白の出所については以上述べたような事情で諸書の記す       る処が一致しないが、『寛政重修諸家譜』の記する処によれば、この古白という人は牧野成富の子で、成富と       いう人は一名を頼成といい左衛門尉と称したが、応永年中に将軍足利義持の命によって初めて三河国宝飯 牧野成富   郡中條郷牧野村へ来て牧野の姓を名乗ったのである。元とこの人は平家の士田口重能(成能)の末孫で、        重能の子に田内左衛門教能一に成直という人があったが、平家没落の後離散して系図が分からなくなった。        しかるにその後胤に田口左衛門尉成保という人があり、その子に田三左衛門成清というのがあって、これが即ち        成富の親で、この人の代までは讃岐国に住していたものであるが、成富の代に至って讃岐国からこの牧野村へ来 成富の墳墓 たものであるとなっている。現に成富の墓は牧野村柳貝津という処に遺って居るが、この墓は確実のものと       して認定が出来るのである。また牧野村牧野さち氏の家に福昌寺の僧実山手写の経文と牧野村の古地 【左頁】 【欄外】 参陽新報三千七百号附録   (明治四十四年三月七日発行) 【本文】 福昌寺    図とが蔵されてある。この経文は中々見事なものであって、この福昌寺というのは成富が深く帰依した寺       だという事であるが、その古地図の中にも寺の跡は載せられてある。そこで古白が名乗を成時と言った       事は前に述べた通りで、また左衛門尉と称したのであるが、初め名を利業とも称した形跡がある。それは        宝飯郡財賀寺の棟札に文明十五年牧野修理進利業と書いてあるのがあって、田辺牧野家の記録及び宮島 利業の名   伝記に「利業は古白の若き時の名乗にや」とあり、また同牧野家の家譜に「成時初めて利成」とあるからである。もち        ろん古白という名は薙髪してからの号であるが、『藩翰譜』にはこれを古柏としてある。また古伯と書いた書物は 古伯と古白  沢山あるが、私は古白と書くのが確実であると信ずる。これについて最も証拠となるべきものは財賀寺明応       四年の棟札並びに豊橋市中八神明社明応六年の棟札で、神明社のは今も現存しているが、いずれも古白と書い       てある。また連歌師宗長の『宗長手記』であるが、この宗長という人は今川義忠に仕えた小姓であって、後に宗祇の 宗長手記   門人となって連歌を学び、再び氏親に召され、古白とは最も親密な間柄で当時屡々今橋に来り連歌の相手       をしたものである。『宗長手記』は即ちこの人の書いたもので、塙保己一の『群書類従』の中に入っている。この『宗        長手記』は大永四年より同七年までの事を書いた日記様のもので、もちろん古白死去後の事ではあるが、その中に古        白と交際のあった事を明記してある。しかるにこれにもやはり古白となっていて、古柏または古伯とは書いてな       いのである。蓋しここに一問題として研究を要するのは、財賀寺文明三年の棟札に「願主牧野古伯」とした       のが存在する事である。これまでこの古伯は古白成時と同一人に見做されているが、この時代より推して或いは        別人ではなかろうかと思われるのである。いかんとなれば、古白は永正三年に討死したので、この棟札にある        文明三年とは相距ること三十六年目になるのである。そして古白という名は前にも述べた通り薙髪してか       らの号であるから、その古白と号したのはまさか十代や二十代ではなかろう。少なくも三十歳以上でなくてはなら 【欄外】 豊橋市史談  (今橋築城と牧野古白)                      十七

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Construction of Imahashi Castle and Makino Kohaku)                      16 【Main text】       University's "Dai Nihon Shiryō" (Great Historical Materials of Japan) clearly recognizes them as direct descendants of Kohaku. Indeed, after Kohaku, his son Narimitsu       succeeded him, but Narimitsu further adopted his younger brother Nobushige. When this Nobushige was killed in battle by Matsudaira Kiyoyasu, his pregnant wife       fled to Chita District in Owari Province and later gave birth to a child named Naritsugu. Naritsugu's son was called Narisato, and this person was quite valorous, being summoned by Tokugawa Ieyasu       through Ikeda Terumasa's introduction and serving as an attendant to the second shogun Hidetada. This became the ancestor of the Iyo-no-kami house, Makino Genealogies so I recognized the need to investigate this house first, but this house has two genealogies, old and new, passed down.       The older one, despite some differences, generally matches the "Kan'ei Keizu" and has many points of agreement with the Makino genealogy cited in unofficial histories.       However, the newer one was created much later and is quite detailed in its investigation, but it seems to have been compiled after the Kansei era.       In any case, these genealogies, along with the records passed down in the houses of the Makino clan including the aforementioned Nagaoka and Tanabe houses, should serve as excellent references Kohaku's Origins alongside various works like "Kan'ei Keizu" and "Kansei Chōshū Shokafu." Now, regarding Makino Kohaku's origins, the accounts in various books do not agree due to the circumstances described above,       but according to what the "Kansei Chōshū Shokafu" records, this man called Kohaku was the son of Makino Naritomi, and this man Naritomi       was also known as Yorishige and held the title Saemon-no-jō. During the Ōei era, by order of Shogun Ashikaga Yoshimochi, he first came to Makino Village in Chūjō-gō, Hoi District, Mikawa Province Makino Naritomi and took the surname Makino. Originally, this man was a descendant of the Heike warrior Taguchi Shigeyoshi (Naruyoshi),       and among Shigeyoshi's children was one called Tauchi Saemon Noriyoshi, also known as Narināo, but after the fall of the Heike, they scattered and their genealogy became unclear.       However, among his descendants was one called Taguchi Saemon-no-jō Nariyasu, and his son was called Tami Saemon Narikiyo, who was       Naritomi's father. Up to this man's generation, they lived in Sanuki Province, but in Naritomi's generation, they came from Sanuki Province to this Makino Village, Naritomi's Tomb according to the records. Indeed, Naritomi's grave remains in a place called Yanagaizu in Makino Village, and this tomb can be       recognized as authentic. Also, in the house of Mr. Makino Sachi in Makino Village are preserved sutras copied by the monk Jitsuzan of Fukushōji Temple and an old map of Makino Village. 【Left page】 【Margin】 San'yō Shimbun No. 3,700 Supplement  (Published March 7, Meiji 44 [1911]) 【Main text】 Fukushōji Temple These sutras are quite magnificent, and this Fukushōji Temple is said to be the temple that Naritomi deeply revered,       and the ruins of the temple are also shown on that old map. Now, the fact that Kohaku used the given name Shigetoki       is as I mentioned before, and he also held the title Saemon-no-jō, but there are traces that he initially also used the name Toshinari. This is because       there is a ridge beam tablet at Zaigaji Temple in Hoi District written "Bunmei 15th year, Makino Shuri-no-shin Toshinari," and in the records of the Tanabe Makino house and the Miyajima Toshinari's Name biography it says "Toshinari was perhaps Kohaku's name in his youth," and also in the same Makino house genealogy it says "Shigetoki, initially Toshinari." Of course,       the name Kohaku is a monastic name adopted after taking the tonsure, but the "Hankanfu" writes this as Kohaku (古柏). There are many books that write it as Kohaku (古伯), Kohaku vs Kohaku but I believe writing it as Kohaku (古白) is most reliable. The best evidence for this comes from the Zaigaji Temple ridge beam tablet from Meiō 4th year       and the ridge beam tablet from Meiō 6th year at Naka-ya Shinmei Shrine in Toyohashi City. The one at Shinmei Shrine still exists today, and both write it as Kohaku (古白).       There is also the renga poet Sōchō's "Sōchō Shuki." This Sōchō served as a page to Imagawa Yoshitada, later became a disciple of Sōgi Sōchō Shuki and studied renga, was summoned again by Ujichika, had a most intimate relationship with Kohaku, and frequently came to Imahashi at that time to partner in renga.       "Sōchō Shuki" was written by this man and is included in Hanawa Hokinoichi's "Gunsho Ruijū." This "Sōchō       Shuki" is a diary-like work covering events from Daiei 4th year to the 7th year, and though it covers events after Kohaku's death, it clearly records       his interactions with Kohaku. However, this also writes it as Kohaku (古白) and does not write it as Kohaku (古柏) or Kohaku (古伯).       Indeed, what requires research as one problem here is the existence of a ridge beam tablet from Zaigaji Temple's Bunmei 3rd year that reads "Petitioner Makino Kohaku (古伯)."       Until now, this Kohaku (古伯) has been regarded as the same person as Kohaku (古白) Shigetoki, but judging from this period, he might perhaps be       a different person. This is because Kohaku died in battle in Eishō 3rd year, making it 36 years distant from the Bunmei 3rd year mentioned on this tablet.       And since the name Kohaku is a monastic name adopted after taking the tonsure, as mentioned before, he could hardly have taken the name Kohaku in his teens or twenties. He would need to be at least thirty years old. 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Construction of Imahashi Castle and Makino Kohaku)                      17