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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 210

ページ: 210

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の襲職)                    三百九十二 【本文】        焼神楽殿に火かゝり神楽殿焼る此神楽殿は善九郎家に軒ならび候故焼候然処神楽殿へ火付候へば乾        風即に神山風に吹なほし拝殿本社の方へ火烟を寄付ず依て本社拝殿鳥居大門並応屋無難ニ相遁候乾        風忽神山風に吹なほせしハ偏に神力なりと人々云ふ也魚町の北側は権現の向長吉と云ふ人の家にて        火留る長吉が家は半焼也権現の御神躰は十一月四日の暁方出火有といふより白山の社中へ遷し奉る        十一月四日の夜は白山の拝殿に安置して十一月五日夜魚町熊野社に遷奉るもとの如し(中略)扨本町        より出火札木町呉服町曲尺手町鍛冶町は談合宮入口まで焼る希代の大火なり       ソコで此(この)土佐(とさ)の子(こ)の陸奥(むつ)と云(い)ふ人(ひと)も中々(なか〳〵)の人物(じんぶつ)であつて平田篤胤(ひらたあつたね)などゝも常(つね)に文通(ぶんつう)したことであつたが       太田錦城(おほたきんじやう)が信順(のぶより)に従(したがつ)て此(この)吉田(よしだ)に居(を)つた間(あひだ)も数々(しば〳〵)之(これ)と交遊(かうゆう)したものである錦城(きんじやう)が陸奥(むつ)に贈(おく)つた詩(し)は今(いま)も       延路君(のぶぢくん)の家(いへ)に存(そん)して居(を)るが其(その)最後(さいご)に吉田(よしだ)に於(おい)て交遊(かうゆう)した人(ひと)も数多(あまた)あるが其(その)中(なか)で陸奥(むつ)程(ほど)の人物(じんぶつ)は他(た)には       ないと思(おも)ふと云(い)ふ意味(いみ)が書(か)き添(そ)へられてあるのである錦城(きんじやう)も余程(よほど)陸奥(むつ)の人物(じんぶつ)たる事(こと)を信(しん)じたものと見(み)       へるのでめ【めはあの誤り】る 《割書:山田洞雪は|横山文堂の|誤》   ⦿正誤(せいご)本章(ほんせう)の初(はじめ)に画師山田洞雪(●●●●●●)と申述(まをしの)べて置(お)いたがあれは全(まつた)く横山文堂(●●●●)と云(い)ふ画師(えし)の誤(あやまり)で私(わたくし)が其(その)         名前(なまへ)を間違(まちが)へた次第(しだい)である併(しか)し事柄(ことがら)に就(つい)ては違(ちが)いはないので只(たゞ)其(その)名前(なまへ)丈(だけ)を此処(こゝ)に訂正(ていせい)したいと思(おも)         ふのである 僧了願   尚(なほ)之(これ)に続(つゞい)で此処(こゝ)に御話(おはなし)したいのは了願(れうぐわん)と云(い)ふ僧侶(そうりよ)のことである此(この)人(ひと)は今(いま)の花園町(はなぞのてう)浄円寺(ぜうゑんじ)の住職(ぢうしよく)で法雲庵(はううんあん)       と号(がう)した人(ひと)であるが明和(めいわ)三年の生(うまれ)で幼少(えうせう)から学(がく)を好(この)み詩文(しぶん)に長(てう)じ和歌(わか)をも善(よ)くした初(はじめ)め最親院義陶(さいしんゐんぎとう)(       此(この)人(ひと)のことは少(すこ)しく不明(ふめい)なり)と云(い)ふ人(ひと)に就(つい)て学(まな)むだが後(のち)京都(けうと)に出(い)でゝ高倉大学(たかくらだいがく)に入(い)り知山(ちざん)、泉山(せんざん)など       の諸大家(しよたいけ)に従(したがつ)て華天蜜禅倶舎法相(くわせんみつせんぐしやはふさう)の蘊奥(うんのふ)を究(きは)め後(のち)に同大学(どうだいがく)の寮司(れうじ)に任(にん)ぜられたが程(ほど)なく国(くに)に帰(かへ)つて熟(じゆく) 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百十六号附録   (大正二年三月十八日発行) 【本文】       舎(しや)を浄円寺(ぜうゑんじ)内(ない)に設(まを)け子弟(してい)の教育(けういく)に全力(ぜんりよく)を傾注(けいちう)したのである其後(そののち)数々(しば〳〵)京都(けうと)から招(まね)かれた事(こと)があつたが遂(つひ)       に之(これ)に応(おう)せず文化(ぶんくわ)元年(がんねん)に至(いた)つて経蔵(けうぐら)を境内(けうたい)に起(おこ)し一 切経(さいけう)を蔵(ざう)したのであるが之(これ)には了願(れうぐわん)も余程(よほど)苦心(くしん)を       重(かさ)ねた事(こと)であつた今日(こんにち)も尚(なほ)其(その)蔵(くら)だけは残(のこ)つて居(を)る次第(しだい)であるが其(その)他(た)大無量寿経(だいむれうじゆけう)を和哥(わか)に訳(やく)して之(これ)を判(はん)       行(かう)したり中々(なか〳〵)事業(じげふ)の見(み)るべきものがある著者(ちよしよ)にも大無量寿経(だいむれうじゆけう)略述(りやくじゆつ)十二 巻(くわん)あるが其(その)筆蹟(ひつせき)も一 種(しゆ)の気骨(きこつ)       と風韻(ふうゐん)があつて頗(すこぶ)る見(み)るべきものである文政(ぶんせい)五年十二月 年(とし)五十七で寂(じやく)した而(しか)も終身(しうしん)娶(めと)らなかつたととの       事(こと)である 大珍彭仙  又(また)其頃(そのころ)龍拈寺(りうねんじ)の住職(ぢうしよく)にも大珍彭仙(たいちんほうせん)と云(い)ふ僧侶(そうりよ)があつたが之(これ)も中々(なか〳〵)の名僧(めいそう)で僧俗(そうぞく)の帰依(きえ)する処(ところ)となつた       が其人(そのひと)の寂後(じやくご)弟子(してい)の如山(によざん)と云(い)ふ僧(そう)が彭仙(ほうせん)の存生中(ぞんせいちう)に説(と)いた処(ところ)の教理(けうり)を集(あつ)めて一 書(しよ)となして或問止啼飾(わくもんしてんしよく)と       云(い)つたのである之(これ)は今(いま)も残(のこ)つて居(を)つて禅学者間(ぜんがくしやかん)に行(おこな)はるゝものである此(この)人(ひと)は文政(ぶんせい)三年十月 年(とし)七十三で       寂(じやく)したのであるから其(その)壮(さかん)なる時代(じだい)は矢張(やはり)信明(のぶあき)執政(しつせい)の頃(ころ)であつたのである 大口三緘  次(つぎ)に一寸(ちよつと)御話(おはなし)して置(お)きたいのは大口三緘(おほぐちさんかん)の事(こと)であるが之(これ)は私(わたくし)の祖先(そせん)に当(あた)るのであるから此処(こゝ)に申述(まをしの)ぶ       るも如何(いかゞ)であるとは思(おも)ふが実(じつ)は珍(めづ)らしい能書家(のうしよか)であつて屡々(しば〳〵)信明(のぶあき)時代(じだい)に藩(はん)から褒賞(ほうせう)されたものである       幼名(えうめい)を周作(しうさく)又(ま)た肥富(ひとみ)と云(い)つて元来(がんらい)は同町内(どうてうない)の佐藤市(さとういち)十 郎(らう)の子(こ)であつたが幼少(えうせう)から私(わたくし)の家(いへ)に養(やしな)はれたも       のである此(この)人(ひと)が十五 歳(さい)の時(とき)に書(か)いた六 枚折(まいをり)の屏風(べうぶ)は今(いま)も私(わたくし)の家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るのであるが全(まつた)く米芾(べいふつ)の書(しよ)       風(ふう)である其頃(そのころ)楽庵(らくあん)と云(い)ふ書家(しよか)が田町(たまち)(今(いま)の湊町(みなとまち))に住(す)むで居(ゐ)たが此(この)人(ひと)も中々(なか〳〵)の能書(のうしよ)であつた然(しか)るに此(この)三(さん)       緘(かん)の筆蹟(ひつせき)には感服(かんぷく)して歴代名書要論(れきだいめいしよえうろん)と云(い)ふ書物(しよもつ)に其訳(そのわけ)を自書(じしよ)して之(これ)を贈(おく)つたのであるが幸(さいはひ)に之(これ)も私(わたくし)       の家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るのである然(しか)るに三緘(さんかん)は僅(わづか)に十七 歳(さい)で文政(ぶんせい)三年八月 病歿(びようぼつ)したが此(この)人(ひと)の遺物(ゐぶん)は尚(なほ)多数(たすう)に       私(わたくし)方(かた)に蔵(ざう)して居(お)るのである 【欄外】    豊橋市史談  (松平信順の人物並に其藩主時代に於ける吉田の状況)        三百九十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信順の襲職) 三百九十二 【本文】 焼け、神楽殿に火がかかり神楽殿焼ける。この神楽殿は善九郎家に軒を並べ候故焼け候。然るところ神楽殿へ火付き候えば、乾風即に神山風に吹き直し、拝殿本社の方へ火煙を寄せ付けず。依って本社拝殿鳥居大門並びに応屋無事に相逃れ候。乾風忽ち神山風に吹き直せしは偏に神力なりと人々言う也。魚町の北側は権現の向かい長吉という人の家にて火留まる。長吉が家は半焼也。権現の御神体は十一月四日の暁方出火有りというより白山の社中へ遷し奉る。十一月四日の夜は白山の拝殿に安置して、十一月五日夜魚町熊野社に遷し奉る、元の如し。(中略)さて本町より出火、札木町呉服町曲尺手町鍛冶町は談合宮入口まで焼ける。希代の大火なり。 ところでこの土佐の子の陸奥という人も中々の人物であって、平田篤胤などとも常に文通したことであったが、太田錦城が信順に従ってこの吉田にいった間も数々これと交遊したものである。錦城が陸奥に贈った詩は今も延路君の家に存しているが、その最後に吉田において交遊した人も数多あるが、その中で陸奥程の人物は他にはないと思うという意味が書き添えられてあるのである。錦城も余程陸奥の人物たることを信じたものと見える。 **正誤** 本章の初めに画師山田洞雪と申し述べて置いたが、あれは全く横山文堂という画師の誤りで、私がその名前を間違えた次第である。併し事柄については違いはないので、只その名前だけをここに訂正したいと思うのである。 **僧了願** 尚これに続いてここにお話ししたいのは了願という僧侶のことである。この人は今の花園町浄円寺の住職で法雲庵と号した人であるが、明和三年の生まれで幼少から学を好み詩文に長じ和歌をも善くした。初め最親院義陶(この人のことは少しく不明なり)という人について学んだが、後に京都に出でて高倉大学に入り、知山、泉山などの諸大家に従って華厳天台密教禅倶舎法相の蘊奥を究め、後に同大学の寮司に任ぜられたが程なく国に帰って塾 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百十六号附録 (大正二年三月十八日発行) 【本文】 舎を浄円寺内に設け子弟の教育に全力を傾注したのである。その後数々京都から招かれたことがあったが遂にこれに応ぜず、文化元年に至って経蔵を境内に起こし一切経を蔵したのであるが、これには了願も余程苦心を重ねたことであった。今日も尚その蔵だけは残っている次第であるが、その他『大無量寿経』を和歌に訳してこれを刊行したり中々事業の見るべきものがある。著書にも『大無量寿経略述』十二巻があるが、その筆跡も一種の気骨と風韻があって頗る見るべきものである。文政五年十二月年五十七で寂した。しかも終身娶らなかったとのことである。 **大珍彭仙** またその頃龍拈寺の住職にも大珍彭仙という僧侶があったが、これも中々の名僧で僧俗の帰依するところとなったが、その人の寂後弟子の如山という僧が彭仙の存生中に説いたところの教理を集めて一書となして『或問止啼飾』といったのである。これは今も残っていて禅学者間に行われるものである。この人は文政三年十月年七十三で寂したのであるから、その壮なる時代は矢張り信明執政の頃であったのである。 **大口三緘** 次に一寸お話しして置きたいのは大口三緘のことであるが、これは私の祖先に当るのであるからここに申し述べるも如何であるとは思うが、実は珍しい能書家であって屡々信明時代に藩から褒賞されたものである。幼名を周作又は肥富といって元来は同町内の佐藤市十郎の子であったが、幼少から私の家に養われたものである。この人が十五歳の時に書いた六枚折りの屏風は今も私の家に残っているのであるが、全く米芾の書風である。その頃楽庵という書家が田町(今の湊町)に住んでいたが、この人も中々の能書であった。然るにこの三緘の筆跡には感服して『歴代名書要論』という書物にその訳を自書してこれを贈ったのであるが、幸いにこれも私の家に残っているのである。然るに三緘は僅かに十七歳で文政三年八月病歿したが、この人の遺物は尚多数に私方に蔵しているのである。 【欄外】 豊橋市史談(松平信順の人物並びにその藩主時代における吉田の状況) 三百九十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Succession) 392 **Main Text:** ...and caught fire. The fire reached the kagura hall and burned it down. This kagura hall stood eaves-to-eaves with Zenkurō's house, so it caught fire. However, when the fire reached the kagura hall, the dry wind immediately changed to a divine mountain wind, preventing the fire and smoke from reaching the worship hall and main shrine. Thus the main shrine, worship hall, torii, great gate, and auxiliary buildings all escaped unharmed. People said that the sudden change of the dry wind to a divine mountain wind was entirely due to divine power. On the north side of Uomachi, the fire was stopped at the house of a man named Chōkichi, who lived across from the Gongen shrine. Chōkichi's house was half-burned. The sacred object of Gongen was moved to Hakusan shrine from the dawn of November 4th when the fire started. On the night of November 4th it was placed in Hakusan's worship hall, then on the night of November 5th it was moved to Kumano shrine in Uomachi, returning to its original state. (omitted) Now, the fire that started in Honmachi spread to Fudagi-chō, Gofuku-chō, Kanejaku-te-chō, and Kaji-chō, burning all the way to the entrance of Dangū shrine. It was an unprecedented great fire. Now, this Mutsu, son of Tosa, was also quite a remarkable person who regularly corresponded with Hirata Atsutane and others. When Ōta Kinshō accompanied Nobuyori to Yoshida, he frequently socialized with Mutsu. The poem that Kinshō presented to Mutsu still exists in the Nobuji family home, and at the end it states that although Kinshō had many acquaintances in Yoshida, he thought there was no one of Mutsu's caliber among them. It appears that Kinshō greatly trusted Mutsu's character. **Correction** At the beginning of this chapter I mentioned the painter Yamada Dōsetsu, but that was completely wrong - it should have been the painter Yokoyama Bundō. I mistook the name. However, the facts about the matter are correct, so I would like to correct only the name here. **The Monk Ryōgan** Continuing from this, I would like to discuss the monk called Ryōgan. This man was the head priest of Jōenji temple in present-day Hanazono-chō and took the name Hōun-an. Born in Meiwa 3, he loved learning from childhood, excelled in poetry and prose, and was also skilled at waka. Initially he studied under someone called Saishin-in Gitō (this person is somewhat unclear), but later went to Kyoto, entered Takakura College, and studied under various great masters like Chizan and Senzan, mastering the profound secrets of Kegon, Tendai, Esoteric Buddhism, Zen, Kusha, and Hossō schools. He was later appointed dormitory supervisor of the same college, but soon returned home and established a academy **Margin:** Publisher and Printer: Sanyō Printing Co., 48 Kōnya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper Issue 4,316 Supplement (Published March 18, Taishō 2) **Main Text:** ...within Jōenji temple, devoting all his energy to educating disciples. Afterwards he was invited to Kyoto several times but never accepted. In Bunka 1 he built a sutra repository in the temple grounds to house the complete Buddhist canon, which required considerable effort from Ryōgan. Only that repository remains today. He also translated the "Larger Sukhāvatīvyūha Sutra" into waka and published it, among other noteworthy achievements. His writings include the 12-volume "Abbreviated Commentary on the Larger Sukhāvatīvyūha Sutra," and his calligraphy shows a distinctive spirit and elegance that is quite admirable. He died in the 12th month of Bunsei 5 at age 57, never having married. **Taichin Hōsen** Also around that time, Ryūnenji temple had a head priest named Taichin Hōsen, who was also quite a distinguished monk and became an object of devotion for both clergy and laity. After his death, his disciple, a monk named Nyozan, collected the teachings that Hōsen had expounded during his lifetime into a single work called "Wakumon Shitenshoku." This work still exists and circulates among Zen scholars. This man died in the 10th month of Bunsei 3 at age 73, so his prime years were during Nobuaki's administration. **Ōguchi Sankan** Next I would like to briefly mention Ōguchi Sankan, though I hesitate to discuss him here since he was my ancestor. He was actually a rare calligrapher who was frequently rewarded by the domain during Nobuaki's time. His childhood names were Shūsaku or Hitomi, and he was originally the son of Satō Ichijūrō from the same neighborhood, but was adopted into my family from childhood. A six-panel folding screen he wrote at age fifteen still remains in my family home and is entirely in the style of Mi Fu. At that time a calligrapher named Rakuan lived in Tamachi (present-day Minato-chō) and was also quite skilled, but he was so impressed by Sankan's calligraphy that he wrote his appreciation in a book called "Essential Theories of Famous Calligraphers Through the Ages" and presented it to him. Fortunately this also remains in my family. However, Sankan died of illness in the 8th month of Bunsei 3 at only seventeen years old, but many of his works are still preserved in my family. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Character and the Conditions of Yoshida During His Time as Domain Lord) 393