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【欄外】
豊橋市史談 (松平信順の人物並に其藩主時代に於ける吉田の状況) 三百九十四
【本文】
四時庵北溟 ソレから前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べた生花(せいくわ)の名人(めいじん)北萊(ほくらい)の弟子(でし)に北溟(ほくめい)と云ふ人(ひと)があつた事は其(その)道(みち)の方(かた)には能(よ)く御承知(ごせうち)
に成(な)つて居(お)る事(こと)であるが此(この)人(ひと)は矢張(やはり)観音寺(くわんおんじ)の住職(ぢうしよく)で北萊(ほくらい)に対(たい)しては法孫(はふそん)に当(あた)るのであるが後(のち)に四時庵(しじあん)
の名(な)を襲(つ)ぎ文政(ぶんせい)五年十二月 会頭(くわいとう)の可印(かいん)を受(う)けたのである併(しか)し此(この)人(ひと)の事蹟(じせき)に付(つい)ては其(その)他(た)に能(よ)く知(し)る事の
出来(でき)ぬのは遺憾(ゐかん)であると思(おも)ふ
孝子初蔵 尚(なほ)此処(こゝ)に一つ御話(おはなし)したいと思(おも)ふのは其(その)頃(ころ)魚町(うをまち)の初蔵(はつざう)と云(い)ふ孝子(かうし)のあつた事である之(これ)は今(いま)も尚(な)ほ魚町(うをまち)に
住(す)むで居(お)らるゝ早川彦(はやかはひこ)七と云ふ方(かた)の祖先(そせん)であるが父(ちゝ)を彦助(ひこすけ)と云つたのである性温厚(せいおんこう)であつて至(いた)つて孝(かう)
心(しん)が深(ふか)かつたが家(いへ)は元(もと)より貧乏(びんぼう)であつたから此(この)初蔵(はつざう)は昼夜(ちうや)稼業(かげふ)を励(はげ)むで父母(ふぼ)に奉(ほう)じたのであるが特(とく)に
読書(どくしよ)を好(この)むで深更(しんかう)に至(いた)るまで常(つね)に倦(う)む事がなかつたのである勿論(もちろん)倹約(けんやく)に倹約(けんやく)を重(かさ)ねて零砕(れいさい)の資(し)と雖(いへど)も
余裕(よゆう)があれば必(かなら)ず之(これ)を貯蓄(ちよちく)して居(お)つたが或時(あるとき)書物(しよもつ)が購(あがな)ひたいと思(おも)つた併(しか)し其(その)資(し)を得(う)るに困難(こんなん)した為(ため)に
名古屋(なごや)まで行(ゆ)く〳〵他人(たにん)の貨物(くわもつ)を担(にな)つて僅(わづか)の賃銭(ちんせん)を得(え)其(その)銭(ぜに)を以(もつ)て目的(もくてき)の書物(しよもつ)を購(あがな)ひ之(これ)を携(たづさ)へて帰(かへ)つた
と云ふ話(はなし)がある其(その)孝道(かうどう)並(ならび)に平素(へいそ)の行為(かうゐ)が段々(だん〴〵)人(ひと)に知(し)れ遂(つひ)には藩主(はんしゆ)信順(のぶより)の耳(みゝ)に入(い)つて文政(ぶんせい)二年 米(こめ)七 俵(へう)を
賜(たまは)つて之(これ)を賞(せう)されたのである今(いま)も此(この)初蔵(はつざう)が自写(じしや)した王蓮集(わうれんしう)と云ふものが其(その)子孫(しそん)の家(いへ)に残(のこ)つて居(お)る尚(なほ)其(その)
履歴(りれき)の詳細(せうさい)は本藩孝子伝(ほんはんかうしでん)と云ふ書物(しよもつ)の中(なか)にも載(の)つて居(お)るから就(つい)て見(み)られむことを望(のぞ)むのである
其他(そのた)此(この)信順(のぶより)時代(じだい)の記録(きろく)としては色々(いろ〳〵)なものが大河内家(おほかうちけ)の蔵(くら)にもあり又(ま)た船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)などにもあるまだ
一々 私(わたくし)も之(これ)を調査(てうさ)し兼(か)ねて居(お)るのであるが段々(だん〴〵)と之(これ)を取調(とりしら)べて市史編纂(ししへんさん)までには必要(ひつえう)なる事は尚(なほ)之(これ)を
発表(はつぺう)したいと考(かんが)へて居(お)るのである従(したがつ)つて御心付(おこゝろづき)の方(かた)がありますれば何事(なにごと)によらず教(おしへ)を垂(た)れらるゝ事
を惜(おし)まれないように願(ねが)ひたいと思(おも)ふ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
⦿松平伊豆守信寶
松平信寶 前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く松平信順(まつだひらのぶより)は天保(てんぱう)十三年十二月十三日を以(もつ)て隠居(ゐんきよ)したのであるが其(その)子(こ)信寶(のぶたか)は仝日(どうじつ)
家督相続(かとくさうぞく)を命(めい)ぜられ続(つゞい)て伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せられて父(ちゝ)の封(ほう)を襲(つ)いだのである母(はゝ)は前章(ぜんせう)にも申述(まをしの)べた金子氏(かねこし)町(まち)
子(こ)であるが後(のち)に冷松院(れいせうゐん)と云はれた人(ひと)である而(しか)して信寶(のぶたか)は文政(ぶんせい)九年九月十日の生(うまれ)で初(はじ)め長之助(てうのすけ)と云つた
が伊豆守(いづのかみ)に叙(ぢよ)せらるゝ以前(いぜん)には隼人正(はやとのせう)と称(せう)したのであるトコロで此(この)信寶(のぶたか)襲封(しうほう)の当時(たうじ)は外交(ぐわいかう)の問題(もんだい)が中(なか)
中(なか)盛(さかん)になり其(その)翌(よく)天保(てんぱう)十四年の閏(うるふ)九月には水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)も其(その)大改革(だいかいかく)が失敗(しつぱい)に終(をは)つて老中(らうちう)を辞職(じしよく)すると
云ふ始末(しまつ)で其(その)後(のち)は土井利位(どゐとしつら)が老中(らうちう)上座(ぜうざ)となつて之(これ)を承(う)けたが忽(たちま)ち水戸斉昭(みとなりあきら)との間(あひだ)に衝突(せうとつ)を来(きた)すに至(いた)つ
たのである之(これ)等(ら)の事は既(すで)に其(その)大要(たいえう)を前章(ぜんせう)にも申述(もをしの)べて置(お)いたのであるが天保(てんぱう)は其(その)十五年 目(め)に弘化(こうくわ)と改(かい)
信寶卒去 元(げん)されたが其(その)天保(てんぱう)十五年の三月二日 隠居(ゐんきよ)の信順(のぶより)は卒去(そつきよ)となり続(つゞ)いで其(その)年(とし)の十月十七日(十一月廿日 発(はつ)
表(ぺう))信寶(のぶたか)も亦(また)病(やまひ)で卒去(そつきよ)と相成(あひな)つたのである卒年(そつねん)僅(わづ)かに廿一 歳(さい)で寛量院(かんれうゐん)と諡(おくりな)されたのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)
で信寶(のぶたか)は其(その)在世(ざいせ)甚(はなは)だ長(なが)からず従(したがつ)て茲(こゝ)に御話(おはなし)する事項(じこう)も右(みぎ)申述(まをしの)べた位(くらゐ)で他(た)に之(これ)と云ふのもない様(やう)であ
る併(しか)し信寶(のぶたか)が相続(さうぞく)の翌年(よくねん)天保(てんぱう)十四年六月十二日 此(この)吉田(よしだ)に入城(にふぜう)した時(とき)自書(じしよ)を以(もつ)て老衆(らうしう)に言(い)ひ渡(わた)した事は
当時(たうじ)に於(お)ける諸侯(しよこう)の内情(ないぜう)を知(し)る上(うへ)には誠(まこと)に面白(おもしろ)い資料(しれう)である而(しか)して其(その)翌(よく)十五年六月 目付(めつけ)より觸(ふ)れ出(だ)し
た時習館(じしふくわん)に関(くわん)する件(けん)並(ならび)に同年(どうねん)九月 同(おな)じく目付(めつけ)よりの觸書(ふれがき)は藩(はん)の学事(がくじ)に関(くわん)し及(およ)び時(とき)の風習(ふうしう)を知(し)る上(うへ)に於(おい)
て甚(はなは)だ面白(おもしろ)いものであると思(おも)ふから之(これ)を左(さ)に掲載(けいさい)して参考(さんかう)に供(けう)したいと思(おも)ふのである
天保十四年癸卯六月十二日吉田表にて信寶君御自書於大書院老衆被仰渡
《割書:信寶自書の|仰渡》 家中の者共年成引米多難義可有之の処いつれも取続相勤候段畢竟常々心懸奇特の事に候此度家督に
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信寶) 三百九十五
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平信順の人物並びにその藩主時代における吉田の状況) 三百九十四
【本文】
**四時庵北溟**
それから前章に申し述べた生け花の名人北萊の弟子に北溟という人があったことは、その道の方にはよくご承知になっていることであるが、この人は矢張り観音寺の住職で北萊に対しては法孫に当たるのであるが、後に四時庵の名を襲ぎ、文政五年十二月会頭の可印を受けたのである。併しこの人の事跡については、その他によく知ることができないのは遺憾であると思う。
**孝子初蔵**
尚ここに一つお話ししたいと思うのは、その頃魚町の初蔵という孝子があったことである。これは今も尚魚町に住んでおられる早川彦七という方の祖先であるが、父を彦助といったのである。性格温厚であって至って孝心が深かったが、家は元より貧乏であったから、この初蔵は昼夜稼業を励んで父母に奉仕したのであるが、特に読書を好んで深更に至るまで常に倦むことがなかったのである。勿論倹約に倹約を重ねて零細な資金といえども余裕があれば必ずこれを貯蓄していたが、或る時書物が購いたいと思った。併しその資金を得るのに困難したために、名古屋まで行って他人の貨物を担って僅かな賃銭を得、その銭をもって目的の書物を購い、これを携えて帰ったという話がある。その孝道並びに平素の行為が段々人に知れ、遂には藩主信順の耳に入って文政二年米七俵を賜ってこれを賞されたのである。今もこの初蔵が自写した『王蓮集』というものがその子孫の家に残っている。尚その履歴の詳細は『本藩孝子伝』という書物の中にも載っているから、ついて見られることを望むのである。
その他この信順時代の記録としては色々なものが大河内家の蔵にもあり、また船町の倉庫などにもある。まだ一々私もこれを調査しかねているのであるが、段々とこれを取り調べて市史編纂までには必要なることは尚これを発表したいと考えているのである。従って心付きの方がありますれば、何事によらず教えを垂れられることを惜まれないように願いたいと思う。
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその博大なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し[以下不明]
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
**松平伊豆守信寶**
前章に申し述べたる如く松平信順は天保十三年十二月十三日をもって隠居したのであるが、その子信寶は同日家督相続を命ぜられ続いて伊豆守に叙せられて父の封を襲いだのである。母は前章にも申し述べた金子氏の町子であるが、後に冷松院と呼ばれた人である。そして信寶は文政九年九月十日の生まれで初め長之助といったが、伊豆守に叙せられる以前には隼人正と称したのである。ところでこの信寶襲封の当時は外交の問題が中々盛んになり、その翌天保十四年の閏九月には水野越前守忠邦もその大改革が失敗に終わって老中を辞職するという始末で、その後は土井利位が老中上座となってこれを承けたが、忽ち水戸斉昭との間に衝突を来たすに至ったのである。これ等のことは既にその大要を前章にも申し述べて置いたのであるが、天保はその十五年目に弘化と改元された。
**信寶卒去**
その天保十五年の三月二日隠居の信順は卒去となり、続いてその年の十月十七日(十一月二十日発表)信寶もまた病で卒去と相成ったのである。卒年僅かに二十一歳で寛量院と諡されたのである。このような訳で信寶はその在世甚だ長からず、従ってここにお話しする事項も右申し述べた位で、他にこれというのもない様である。併し信寶が相続の翌年天保十四年六月十二日この吉田に入城した時、自書をもって老衆に言い渡したことは、当時における諸侯の内情を知る上には誠に面白い資料である。そしてその翌十五年六月目付より触れ出した時習館に関する件並びに同年九月同じく目付よりの触書は、藩の学事に関し及び時の風習を知る上において甚だ面白いものであると思うから、これを左に掲載して参考に供したいと思うのである。
天保十四年癸卯六月十二日吉田表にて信寶君御自書於大書院老衆被仰渡
**信寶自書の仰渡**
家中の者共年成引米多難義可有之の処いづれも取続相勤候段畢竟常々心懸奇特の事に候此度家督に
【欄外】
豊橋市史談(松平伊豆守信寶) 三百九十五
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuyori's Character and the Conditions of Yoshida During His Time as Domain Lord) 394
**Main Text:**
**Shijian Hokumei**
Now, regarding what I mentioned in the previous chapter about the ikebana master Hokurai's disciple named Hokumei - this is well known among those in that field. This person was also the head priest of Kannon-ji temple and was Hokurai's dharma grandson. He later inherited the name Shijian and received the seal of approval as head of the association in the 12th month of Bunsei 5. However, I regret that I cannot learn much more about this person's achievements.
**The Filial Son Hatsuzō**
Here I would like to tell one more story - about a filial son named Hatsuzō from Uomachi during that time. He was the ancestor of Mr. Hayakawa Hikoshichi, who still lives in Uomachi today. His father was named Hikosuke. Hatsuzō was gentle by nature and extremely devoted to his parents, but since his family had always been poor, he worked day and night to serve his father and mother. He particularly loved reading and never tired of it, continuing until late into the night. Of course he practiced extreme frugality, and whenever he had even the smallest surplus, he would save it. Once when he wanted to buy a book but had difficulty obtaining the funds, he went all the way to Nagoya carrying other people's goods for a small wage, used that money to buy the book he wanted, and carried it home. His filial devotion and daily conduct gradually became known to people, and eventually reached the ears of domain lord Nobuyori, who rewarded him with seven bags of rice in Bunsei 2. A work called "Ōrenshū" that this Hatsuzō copied himself still remains in his descendants' house. The details of his life are also recorded in a book called "Biographies of Filial Sons of Our Domain," which I hope you will consult.
Besides these, there are various other records from Nobuyori's time in the Ōkōchi family storehouse and in warehouses in Funamachi. I have not yet been able to investigate all of these one by one, but I plan to gradually examine them and publish whatever is necessary by the time of the city history compilation. Therefore, if anyone has knowledge of such matters, I would appreciate it if you would not hesitate to share your teachings on any subject.
**Margin:**
Toyohashi Mayor Ōguchi Kirokū has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion... [text unclear]
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper.
**Main Text:**
**Matsudaira Izu-no-kami Nobutaka**
As I mentioned in the previous chapter, Matsudaira Nobuyori retired on the 13th day of the 12th month of Tenpō 13, and his son Nobutaka was ordered to inherit the family headship on the same day. He was subsequently appointed Izu-no-kami and inherited his father's domain. His mother was the townwoman of the Kaneko family mentioned in the previous chapter, later known as Reishōin. Nobutaka was born on the 10th day of the 9th month of Bunsei 9 and was initially called Chōnosuke, though before being appointed Izu-no-kami he was known as Hayato-no-shō. Now, at the time of Nobutaka's succession, foreign policy issues were becoming quite pressing, and in the intercalary 9th month of the following year, Tenpō 14, Mizuno Echizen-no-kami Tadakuni's great reforms ended in failure and he resigned from his position as rōjū. Afterward, Doi Toshitsura became senior rōjū and took over, but he immediately came into conflict with Mito Nariakira. I have already outlined the main points of these matters in the previous chapter, but Tenpō was changed to Kōka in its 15th year.
**Nobutaka's Death**
On the 2nd day of the 3rd month of Tenpō 15, the retired Nobuyori died, and subsequently on the 17th day of the 10th month of that same year (announced on the 20th day of the 11th month), Nobutaka also died of illness. He died at only twenty-one years of age and was given the posthumous name Kanryōin. For this reason, Nobutaka's life was very short, so there are few matters to discuss here beyond what I have mentioned above. However, when Nobutaka entered Yoshida castle on the 12th day of the 6th month of Tenpō 14, the year after his succession, his written instructions to the elder retainers provide truly interesting material for understanding the internal situation of daimyo at that time. The directives issued by the inspectors regarding Jishūkan in the 6th month of the following year, Tenpō 15, as well as the circular from the inspectors in the 9th month of the same year, are extremely interesting for understanding the domain's educational affairs and the customs of the time, so I would like to include them below for reference.
Tenpō 14, year of the water rabbit, 6th month, 12th day, at Yoshida, Lord Nobutaka's personal written instructions delivered to the elders in the great reception hall:
**Nobutaka's Personal Written Instructions**
"Whereas the retainers have faced many difficulties with annual rice deductions, they have all continued to serve diligently, which is truly remarkable given their constant devotion. On this occasion of my succession..."
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobutaka) 395