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【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信寶) 四百
【本文】
一仏事之節中酒又は茶と名付酒出候族茂有之趣ニ相聞ヘ候以来右体之義無之様可被相心得候
右之通御家中え可相觸旨肇殿被仰渡候可被得其意候尤組支配有之面々此旨精々御申付可有之候万一
右ケ條ニ相背候者於有之者見聞次第御徒目付並下目付共早々申出候様兼而申付置候間其段御心得有
之候
御 目 付
右(みぎ)の触書(ふれがき)で見(み)ると当時(たうじ)紙鳶(たこ)を揚(あげ)るのを正月(せうぐわつ)一ケ月に限(かぎ)るように制限(せいげん)した事があつたものと見(み)える御承(ごせう)
知(ち)の通(とほ)り関東地方(くわんとうちはう)では必(かなら)ず紙鳶(たこ)は正月(せうがつ)に揚(あ)げるものゝ様(やう)になつて居(を)るのであるが我(わが)豊橋地方(とよはしちはう)では旧来(きうらい)
五月の節句(せつく)に揚(あ)ぐるものとなつて居(を)る然(しか)るに此(この)時(とき)之(これ)を関東(くわんとう)同様(どうやう)に正月(せうがつ)に限(かぎ)ると云(い)ふ觸(ふれ)を出(だ)したのは風(ふう)
俗(ぞく)研究(けんきう)の上(うへ)からは至極(しごく)趣味(しゆみ)のある事(こと)であると思(おも)ふ併(しか)し之(これ)も矢張(やはり)遂(つひ)に実行(じつかう)は出来(でき)なかつたものと見(み)へて
今日(こんにち)でも尚(な)ほ我(わが)地方(ちはう)では陰暦(いんれき)の五月に揚(あ)げて居(お)るのを見(み)るは一 層(そう)面白(おもしろ)い感(かん)じがするのである風俗習慣(ふうぞくしふくわん)
と云(い)ふものゝ容易(ようい)に改(あらた)むる事の出来(でき)ぬのは実(じつ)に意想外(いさうぐわい)とも言(い)ふべきものがあると思(おも)ふ
信寶の逸事 尚(な)ほ此(この)信寶(のぶたか)の性行(せいかう)に就(つい)ては彼(か)の十 世遺事抄(せいゐじしよう)の中(なか)にも記載(きさい)してあるものがあるが余程(よほど)祖父(そふ)信明(のぶあき)に似(に)た処(ところ)
があつたように思(おも)はれる此(この)人(ひと)が幸(さいはひ)に天寿(てんじゆ)を得(え)て蚤世(そうせい)しなかつた事であつたならば或(あるひ)は信明(のぶあき)に続(つゞ)いで相(さう)
当(たう)に
名(な)を挙(あ)げたであろうと思(おも)はるゝ次第(しだい)であるが其(その)逸話(いつわ)の二三を申述(まをしの)ぶれば左(さ)の如(ごと)き事(こと)があるのであ
る
信寶(のぶたか)がまだ家督相続(かとくさうぞく)をしない前(まへ)隼人正(はいとのせう)と称(せう)して居(を)つた時(とき)の事であるが或時(あるとき)登城(とじよう)して詰席(つめせき)に在(あ)つたので
あるソコへ丁度(ちようど)老中(らうちう)水野越前守忠邦(みづのゑちぜんのかみたゞくに)が登城(とじよう)とあつて其(その)詰席(つめせき)の前(まへ)を通行(つうかう)したのである其時(そのとき)詰席(つめせき)にあつた
ものは一 同(どう)頓首(とんしゆ)して礼(れい)に及(およ)むだのであるが独(ひと)り信寶(のぶたか)のみは只(た)だ注意(ちうい)して謹慎(きんしん)の体度(たいど)を現(あら)はした計(ばか)りで
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百二十九号附録 (大正二年四月一日発行)
【本文】
頓首(とんしゆ)には及(およ)ばなかつたそれを見(み)た越前守(ゑちぜんのかみ)は巳(おの)れの扣席(ひかへせき)に入(い)つた後(のち)茶坊主(ちやばうづ)の何乗(かじよう)と云(い)ふものをして何故(なにゆゑ)
に他(た)の者(もの)は一 同(どう)頓首(とんしゆ)の礼(れい)をなすのに其元(そのもと)独(ひと)り之(これ)に及(およ)ばぬのであるかと前(まへ)の一 件(けん)に対(たい)し信寶(のぶたか)に尋問(じんもん)せし
めたのであるソコで茶坊主(ちやばうづ)も実(じつ)に汗(あせ)を握(にぎ)つてドウなる事かと心配(しんぱい)したのであつたが信寶(のぶたか)は驚(おどろ)く気色(けしき)も
なく之(これ)に答(こた)へて成程(なるほど)御不審(ごふしん)は御尤(ごもつとも)であるが拙者(せつしや)常々(つね〳〵)父(ちゝ)より承(うけたまは)る処(ところ)によれば拙者(せつしや)の祖父(そふ)信明(のぶあき)が老中(らうちう)上(ぜう)
座(ざ)たりし時代(じだい)に於(おい)てもかゝる場合(ばあひ)には詰衆(つめしう)は只(たゞ)謹慎(きんしん)の体度(たいど)を以(もつ)て敬意(けいい)を表(へう)するに止(とゞ)まり頓首(とんしゆ)黙礼(もくれい)する
には及(およ)ばなかつたとの事であるがそれとも此頃(このごろ)にかゝる事の御制定(ごせいてい)でもあつたものであるか又(ま)た別(べつ)に
古例(これい)でもある事であるか謹(つゝしん)で御教示(ごけうじ)を仰(あふ)ぎたいと云(い)つたのであるソコで越前守(ゑちぜんのかみ)も何(なん)とも小言(こごと)を云(い)ふ
べき道(みち)もなく其(その)侭(まゝ)で相済(あひす)むだが其後(そののち)も屡々(しば〳〵)之(これ)に似寄(によ)つた事があつたので越前守(ゑちぜんのかみ)はいつも隼人正(はいとのしやう)の理屈(りくつ)
詰(づめ)には恐(おそ)れ入(い)るが山椒(さんしよう)は小粒(こつぶ)でも辛(から)いものだと笑(わら)はれたとの事である此(かく)の如(ごと)く剛直(がうちよく)な中(なか)にも又(た)た頗(すこぶ)る
怜悧(れいり)な処(ところ)もあつた人(ひと)であるが又(ま)た極(きは)めて孝心(かうしん)の深(ふか)かつた人(ひと)で父(ちゝ)信順(のぶより)が病気(びようき)と相成(あひな)つてからは深(ふか)く之(これ)を
憂(うれ)ひて菩提寺(ぼだいじ)の平林寺(へいりんじ)と計(はか)り其(その)室(しつ)桂叢院(けいさうゐん)(阿部正弘養女(あべまさひろやうぢよ))と共(とも)に金剛寿命多羅尼経(こんごうじゆめいたらにけふ)を自写(じしや)し之(これ)を彫刻(てうこく)
して家中(かちう)一 同(どう)に頒布(はんぷ)し其(その)平癒(へいゆ)を祈(いの)つたとの事である要(えう)するに此(この)人(ひと)の蚤世(そうせい)は誠(まこと)に惜(おし)むべき事で実子(じつし)もま
だなかつた次第(しだい)であるから其(その)後(のち)は一 門(もん)の松平(まつだひら)兵頭の子(こ)を以(もつ)て家(いへ)を継(つ)がしむる事と相成(あひな)つたのである
⦿松平伊豆守信璋と其時代
松平信璋 前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く吉田城主(よしだじやうしゆ)松平伊豆守信寶(まつだひらいづのかみのぶたか)は天保(てんほう)十五年(弘化元年)十月十七日 僅(わづか)に廿一 歳(さい)で病(やまひ)の
為(ため)に卒去(そつきよ)せられたが不幸(ふかう)にして未(いま)だ子(こ)がなかつたので同族(どうぞく)の中(なか)で松平(まつだひら)(大河内)兵頭 正敏(まさとし)の子(こ)信璋(のぶあき)を迎(むか)
へて嗣子(しじ)となし同年(どうねん)十二月廿九日を以(もつ)て襲封(しうほう)を命(めい)ぜらるゝ事と相成(あひな)つたのであるが此(この)信璋(のぶあき)は幼名(えうめい)を健(けん)
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平伊豆守信寶) 四百
【本文】
一、仏事の節に中酒または茶と名付けて酒を出す族もある趣に聞こえ候。以来右体の義無きよう心得らるべく候。
右の通り御家中へ相触るべき旨、肇殿より仰せ渡され候。その意を得らるべく候。もっとも組支配ある面々はこの旨を精々申し付けあるべく候。万一右ヶ条に背く者がある場合は、見聞次第御徒目付並びに下目付共が早々申し出るよう兼ねて申し付け置き候間、その段御心得あり候。
御目付
右の触書で見ると、当時紙鳶を揚げるのを正月一ヶ月に限るように制限したことがあったものと見える。御承知の通り、関東地方では必ず紙鳶は正月に揚げるものの様になっているのであるが、我が豊橋地方では旧来五月の節句に揚げるものとなっている。しかるにこの時これを関東同様に正月に限ると云う触を出したのは、風俗研究の上からは至極趣味のあることであると思う。併しこれも矢張り遂に実行はできなかったものと見えて、今日でもなお我が地方では陰暦の五月に揚げているのを見るのは一層面白い感じがするのである。風俗習慣というものの容易に改むることのできぬのは実に意想外とも言うべきものがあると思う。
**信寶の逸事**
なおこの信寶の性行については、彼の十世遺事抄の中にも記載してあるものがあるが、余程祖父信明に似た処があったように思われる。この人が幸いに天寿を得て早世しなかったことであったならば、或いは信明に続いて相当に名を挙げたであろうと思われる次第であるが、その逸話の二三を申し述ぶれば左の如き事があるのである。
信寶がまだ家督相続をしない前、隼人正と称していた時の事であるが、或時登城して詰席にあったのである。そこへちょうど老中水野越前守忠邦が登城とあって、その詰席の前を通行したのである。その時詰席にあった者は一同頓首して礼に及んだのであるが、独り信寶のみはただ注意して謹慎の体度を現わした計りで頓首には及ばなかった。
【欄外】
発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百二十九号附録(大正二年四月一日発行)
【本文】
それを見た越前守は己れの控席に入った後、茶坊主の何某と云う者をして「何故に他の者は一同頓首の礼をなすのに、其元独りこれに及ばぬのであるか」と前の一件に対し信寶に尋問せしめたのである。そこで茶坊主も実に汗を握ってどうなることかと心配したのであったが、信寶は驚く気色もなくこれに答えて「成程御不審は御もっともであるが、拙者常々父より承る処によれば、拙者の祖父信明が老中上座たりし時代においてもかかる場合には詰衆はただ謹慎の体度を以て敬意を表するに止まり、頓首黙礼するには及ばなかったとの事であるが、それとも此頃にかかる事の御制定でもあったものであるか、また別に古例でもある事であるか、謹んで御教示を仰ぎたい」と云ったのである。そこで越前守も何とも小言を云うべき道もなく、その侭で相済んだが、その後も屡々これに似寄った事があったので、越前守はいつも「隼人正の理屈詰には恐れ入るが、山椒は小粒でも辛いものだ」と笑われたとの事である。
かくの如く剛直な中にもまた頗る怜悧な処もあった人であるが、また極めて孝心の深かった人で、父信順が病気と相成ってからは深くこれを憂いて、菩提寺の平林寺と計り、その室桂叢院(阿部正弘養女)と共に金剛寿命多羅尼経を自写し、これを彫刻して家中一同に頒布し、その平癒を祈ったとの事である。
要するにこの人の早世は誠に惜しむべき事で、実子もまだなかった次第であるから、その後は一門の松平兵頭の子を以て家を継がしむることと相成ったのである。
**⦿松平伊豆守信璋と其時代**
**松平信璋**
前章に申し述べたる如く、吉田城主松平伊豆守信寶は天保十五年(弘化元年)十月十七日、僅かに二十一歳で病のために卒去せられたが、不幸にしていまだ子がなかったので、同族の中で松平(大河内)兵頭正敏の子信璋を迎えて嗣子となし、同年十二月二十九日を以て襲封を命ぜらるることと相成ったのであるが、この信璋は幼名を健
【欄外】
豊橋市史談(松平伊豆守信璋と其時代) 四百一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobutaka) 400
**Main Text:**
1. It has been heard that during Buddhist ceremonies, some serve sake under the names of "naka-sake" or "tea." Henceforth, such practices should be avoided.
The above shall be communicated to all retainers as instructed by Lord Hajime. You should understand this meaning. Those with group supervision responsibilities should strictly enforce this directive. Should anyone violate these articles, foot inspectors and lower inspectors have been instructed to report immediately upon hearing of such cases, so please be aware of this.
Inspector
From this circular, it appears that at that time there was a restriction limiting kite-flying to only the month of January. As you know, in the Kantō region, kites are invariably flown in January, but in our Toyohashi region, they have traditionally been flown during the May festival. However, issuing a directive at this time to limit it to January like in Kantō is extremely interesting from the perspective of folk custom research. Nevertheless, this also appears to have ultimately been unenforceable, and the fact that even today our region still flies kites in the lunar fifth month creates an even more interesting impression. The difficulty of easily changing folk customs and habits is truly beyond expectation.
**Anecdotes of Nobutaka**
Regarding Nobutaka's character and conduct, there are records in the "Jūsei Ijishō" (Ten Generations' Anecdotal Records), and he appears to have greatly resembled his grandfather Nobuaki. If this person had fortunately lived to a natural age and not died young, he probably would have achieved considerable renown following Nobuaki. I shall relate two or three of his anecdotes as follows:
This occurred when Nobutaka had not yet inherited the family headship and was still called Hayato-no-shō. Once, when he had gone to the castle and was at his assigned seat, Senior Councilor Mizuno Echizen-no-kami Tadakuni happened to be arriving at the castle and passed in front of the assigned seating area. At that time, all those in the assigned seats bowed deeply in respect, but Nobutaka alone merely showed an attitude of respectful attention and did not bow deeply.
**Margin:**
Publisher and Printing House: Sanyō Printing Partnership, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno □kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Supplement to Sanyō Newspaper No. 4329 (Published April 1, Taishō 2)
**Main Text:**
Seeing this, after Echizen-no-kami entered his waiting room, he had a tea servant named So-and-so inquire of Nobutaka about the previous incident: "Why do the others all bow deeply while you alone do not do so?" The tea servant was truly anxious, wondering what would happen, but Nobutaka answered without showing any sign of alarm: "Your suspicion is quite reasonable, but according to what I constantly hear from my father, even during the time when my grandfather Nobuaki served as senior councilor, in such cases the attending retainers would merely express respect through a respectful attitude and were not required to bow deeply in silent reverence. Or has there been some recent regulation regarding such matters, or is there some separate ancient precedent? I respectfully request your instruction." Echizen-no-kami had no grounds for complaint and let the matter pass, but similar incidents occurred frequently thereafter, so Echizen-no-kami would always laugh and say, "Hayato-no-shō's logical arguments are formidable, but small peppers are still spicy."
Thus, while he was upright and firm, he was also quite clever, and he was also extremely filial. When his father Nobuyori became ill, he deeply grieved and, consulting with the family temple Heirinji, together with its head priest's wife Keisōin (adopted daughter of Abe Masahiro), he personally copied the Kongō Jumyō Darani Sutra, had it carved, and distributed it to all the retainers, praying for his father's recovery.
In sum, this person's early death was truly regrettable, and since he had no natural children, it was decided that a son of Matsudaira Hyōbu from the clan would inherit the house.
**⦿Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki and His Era**
**Matsudaira Nobuaki**
As stated in the previous chapter, Yoshida Castle lord Matsudaira Izu-no-kami Nobutaka died of illness on October 17, Tenpō 15 (Kōka 1) at the young age of only twenty-one. Unfortunately, since he had no children, Nobuaki, son of the clan member Matsudaira (Ōkōchi) Hyōbu Masatoshi, was welcomed as heir, and on December 29 of the same year he was commanded to inherit the domain. This Nobuaki had the childhood name Ken—
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki and His Era) 401