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【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百二
【本文】
之丞(のぜう)と云ひ文政(ぶんせい)十年八月九日の生(うまれ)である而(しか)して其(その)実家(じつか)は前(まへ)にも申述(まをしの)ぶる如(ごと)く大河内(おほかうち)の一 族(ぞく)ではあるが
千石 許(ばかり)を知行(ちぎよう)する旗本(はたもと)であつたので襲封(しうほう)に際(さい)しては頗(すこぶ)る苦心(くしん)したるものと思(おも)はるゝ今(いま)弘化(こうくわ)二年七月七
《割書:信璋襲職当|時の仰渡書》 日 信璋(のぶあき)が襲職(しうしよく)後(ご)初(はじ)めて国(くに)に就(つ)き大書院(おゝしよゐん)に於(おい)て藩士(はんし)一 同(どう)に自書(じしよ)を以(もつ)て申渡(まをしわた)したものを左(さ)に掲(かゝ)げようと思(おも)
ふ
今般不存寄当家致相続難有事に候いまだ万事様子も不相弁候得共御代々御家政之儀は格別之御事兼
而承及候不肖之我等不及事には候得共何分にも志を相励まし代々之家声不墜候様第一ニ心懸候間一
統にも其心得ニ而精力を尽し相助可申候我等身之程を遺失し政事致怠慢或ハ驕かましき事有之候ハ
ヾ無遠慮諫可申候其外為不為何事によらず存寄有之候ハヾ書付封印致し目付共迄差出候可否ニよ
り取用可申候奥向より差出候事ハ慎而致間敷候総て御代々之旧制相守候間面々にも心得違無之様相
勤可申候
己 六 月
此(この)仰渡(あふせわたし)によるも自(みづか)ら深(ふか)く其(その)地位(ちゐ)の低(ひく)き処(ところ)より出(い)でゝ此(この)大河内家(おほかうちけ)を襲(つ)いだのに付(つい)て謙遜(けんそん)し英意治(えいいぢ)を求(もと)
めむとした事が分(わか)るのである而(しか)して此(この)際(さい)少(すこ)しく当時(たうじ)に於(お)ける天下(てんか)の大勢(たいせい)を御話(おはなし)して置(お)く必要(ひつえう)があると
思(おも)ふが御承知(ごせうち)の如(ごと)く当時(たうじ)は漸(やうや)く外交(ぐわいこう)の問題(もんだい)が紛糾(ふんきう)し世(よ)の中(なか)は次第(しだい)に騒(さわ)がしくなりて尊王攘夷(そんおうぜうゐ)の声(こゑ)は四
《割書:外交問題の|紛糾》 方(はう)を風靡(ふうび)せむとするの勢(いきほひ)を示(しめ)したのである元来(がんらい)此(この)尊王攘夷(そんおうぜうゐ)説(せつ)の盛(さかん)になつたと云(い)ふに就(つい)ては水戸藩(みとはん)と云
《割書:尊王攘夷論|の勃興》 ふものが実(じつ)に其(その)主唱者(しゆせうしや)とも云ふべきものであるが前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べた如(ごと)く水野越前守(みづのゑちぜんのかみ)失敗(しつぱい)以来(いらい)は土井利位(どゐとしつら)
が老中(らうちう)上座(ぜうざ)となり幕政(ばくせい)の衝(せう)に当(あた)つたのであるが此(この)利位(としつら)は水戸(みと)の挙動(きよどう)甚(はなは)だ面白(おもしろ)からざる次第(しだい)であるとな
して忽(たちま)ち水戸家(みとけ)疎斥(そせき)の方針(はうしん)を取(と)り諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く天保(てんほう)十五年五月 其(その)計(はから)ひを以(もつ)て斉昭(なりあきら)に隠居(ゐんきよ)を命(めい)じ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
其(その)臣(しん)戸田銀次郎(とだぎんじらう)藤田虎之助(ふぢたとらのすけ)(東湖)などに蟄居(ちつきよ)を命(めい)じたのであるトコロが到底(たうてい)かゝる手段(しゆだん)を以(もつ)て天下(てんか)の
大勢(たいせい)に抗(こう)する事は出来(でき)ざるのみならず反(かへ)つて人心(じんしん)を激発(げきはつ)せしめた結果(けつくわ)と成(な)つて天下(てんか)の志士(しゝ)は益々(ます〳〵)水戸(みと)
との交誼(かうぎ)を厚(あつ)くするの傾(かたむき)を生(せう)じ漸(やうや)く国論(こくろん)の沸騰(ふつとう)を大(だい)ならしめたのである勿論(もちろん)此(この)時(とき)水戸藩中(みとはんちう)にも二 派(は)
に分(わか)れて此(この)両派(れうは)は互(たがひ)に相反目(あひはんもく)し終(つひ)に争闘(そうたう)に終(をは)るに至(いた)つたのであるが幕政(ばくせい)も亦(ま)た実(じつ)に之(これ)より乱(みだ)れて復(ふたゝ)び
収攬(しうらん)し能(あた)はざるに至(いた)つたのであるトコロで又(ま)た茲(こゝ)に一つの災難(さいなん)の起(おこ)つたのは矢張(やはり)天保(てんぱう)十五年五月に江(え)
戸本丸(どほんまる)の炎上(ゑんぜう)した事である当時(たうじ)幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)は益々(ます〳〵)窮乏(きうばう)の極(きよく)に達(たつ)し其(その)再建(さいこん)に就(つい)ては利位(としつら)も頗(すこぶ)る苦心(くしん)して
諸侯(しよこう)に寄附金(きふきん)を勧誘(くわんゆう)したが之(これ)が失敗(しつぱい)に終(をは)つたのである其(その)後(のち)八月に至(いた)つて利位(としつら)は遂(つひ)に其(その)職(しよく)を辞(じ)するに至(いた)
つたのであるが此(この)本丸(ほんまる)の工事(こうじ)は後(のち)に彼(か)の阿部伊勢守正弘(あべいせのかみまさひろ)が老中上座(らうちうぜうざ)となり本丸普請(ほんまるふしん)の総奉行(そうぶぎよう)となるに
及(およ)むで知行高(ちぎようだか)壱万石に付(つき)金五百両の割(わり)により加賀侯(かゞこう)初(はじ)め廿六 諸侯(しよこう)に高割手伝(たかわりてつだひ)を命(めい)じて工(こう)を起(おこ)すに至(いた)つ
たが如何(いかん)せむ到底(たうてい)尚(な)ほ莫大(ばくだい)の不足(ふそく)を免(まぬが)れぬ処(ところ)から又々(また〳〵)金銀(きん〴〵)吹替(ふきかへ)を行(おこな)ひ悪貨(あくくわ)の濫造(らんざう)をなして一 時(じ)を糊塗(こと)
するに至(いた)つたので之(これ)より幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)は窮乏(きうばう)の上(うへ)にも窮乏(きうばう)を重(かさ)ぬるの止(やむ)を得(え)ざるに立至(たちいた)つたのであるサ
テ此(この)混雑中(こんざつちう)天保(てんぱう)十五年四月 和蘭(おらんだ)より書(しよ)を呈(てい)して今度(こんど)英仏(えいふつ)二 国(こく)が使節(しせつ)を我国(わがくに)に派(は)して通商(つうせう)を求(もと)めむとす
るに付(つき)それに対(たい)して注意(ちうゐ)をなすのであるが今度(こんど)の使節(しせつ)は国王(こくおう)より特派(とくは)するものであるから相当(さうたう)に警備(けいび)
の兵士(へいし)をも引卒(いんそつ)することである従(したがつ)て然(しか)るべき待遇(たいぐう)をして貰(もら)ひたいとの意(い)を齎(もた)らしたのであるソコで幕(ばく)
《割書:水野忠邦の|復職と罷免》 府(ふ)の驚駭(けうがい)は一 方(かた)ではなかつたが遂(つひ)に彼(か)の水野越前守忠邦(みずのゑちぜんのかみたゞくに)を起(おこ)して天保(てんぱう)十五年(弘化元年)六月再(ふたゝ)び老中上(らうちうぜう)
座(ざ)となし此(この)外交(ぐわいかう)の衝(せう)に当(あた)らしむる事と相成(あひな)つたのであるトコロが此(この)忠邦(たゞくに)は在職(ざいしよく)僅(わづか)に九ケ月で弘化(こうくわ)二
年二月 再(ふたゝ)び御承知(ごせうち)の鳥居甲斐守耀蔵(とりゐかひのかみえうざう)の事に座(ざ)して罷免(ひめん)せられ遂(つひ)に削禄(さくろく)の上(うへ)出羽(では)の山形(やまがた)へ転封(てんほう)蟄居(ちつきよ)を命(めい)
ぜられたのであるソコで其(その)後(のち)は阿部伊勢守正弘(あべいせのかみまさひろ)が老中上座(らうちうぜうざ)となり幕政(ばくせい)を握(にぎ)つたのであるが爾来(じらい)外交(ぐわいこう)の
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平伊豆守信璋と其時代) 四百二
【本文】
之丞と云い、文政十年八月九日の生まれである。そしてその実家は前にも申し述べる如く大河内の一族ではあるが、千石ばかりを知行する旗本であったので、襲封に際しては頗る苦心したものと思われる。
今、弘化二年七月七日、信璋が襲職後初めて国に就き、大書院において藩士一同に自書を以て申し渡したものを左に掲げようと思う。
「今般思いがけず当家を相続することになり有難いことに候。いまだ万事様子も分からず候えども、御代々の御家政の儀は格別の御事、兼ねて承り及び候。不肖の我等、及ばぬ事には候えども、何分にも志を励まし、代々の家声を墜とさぬよう第一に心がけ候間、一統にもその心得にて精力を尽し相助け申すべく候。我等身の程を忘れ政事を怠慢にし、或いは驕りがましき事これ有り候わば、遠慮なく諫め申すべく候。その外、為すべきか為さざるべきか、何事によらず存じ寄りこれ有り候わば、書付に封印致し目付共まで差し出し候。可否により取り用い申すべく候。奥向より差し出し候事は慎んで致すまじく候。総て御代々の旧制を相守り候間、面々にも心得違いなきよう相勤め申すべく候。
己六月」
この仰せ渡しによるも、自ら深くその地位の低い処より出でて、この大河内家を襲いだのについて謙遜し、英知を求めようとした事が分かるのである。
そしてこの際、少しく当時における天下の大勢をお話しして置く必要があると思うが、御承知の如く当時は漸く外交の問題が紛糾し、世の中は次第に騒がしくなりて、尊王攘夷の声は四方を風靡せんとするの勢いを示したのである。
元来この尊王攘夷説の盛んになったということについては、水戸藩というものが実にその主唱者とも云うべきものであるが、前章に申し述べた如く水野越前守失敗以来は、土井利位が老中上座となり幕政の衝に当たったのであるが、この利位は水戸の挙動甚だ面白からざる次第であるとなして、忽ち水戸家疎斥の方針を取り、諸君も御承知の如く天保十五年五月、その計らいを以て斉昭に隠居を命じ
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
その臣戸田銀次郎、藤田虎之助(東湖)などに蟄居を命じたのである。
ところが到底かかる手段を以て天下の大勢に抗する事はできざるのみならず、反って人心を激発せしめた結果と成って、天下の志士は益々水戸との交誼を厚くするの傾きを生じ、漸く国論の沸騰を大ならしめたのである。
勿論この時水戸藩中にも二派に分かれて、この両派は互いに相反目し、終に争闘に終るに至ったのであるが、幕政もまた実にこれより乱れて再び収拾し能わざるに至ったのである。
ところでまたここに一つの災難の起こったのは、矢張り天保十五年五月に江戸本丸の炎上した事である。当時幕府の財政は益々窮乏の極に達し、その再建については利位も頗る苦心して諸侯に寄附金を勧誘したが、これが失敗に終ったのである。その後八月に至って利位は遂にその職を辞するに至ったのであるが、この本丸の工事は後に彼の阿部伊勢守正弘が老中上座となり本丸普請の総奉行となるに及んで、知行高一万石につき金五百両の割により、加賀侯初め二十六諸侯に高割手伝を命じて工を起こすに至ったが、如何せん到底なお莫大の不足を免れぬ処から、又々金銀吹替を行い悪貨の濫造をなして一時を糊塗するに至ったので、これより幕府の財政は窮乏の上にも窮乏を重ぬるの止むを得ざるに立ち至ったのである。
さてこの混雑中、天保十五年四月、和蘭より書を呈して「今度英仏二国が使節を我国に派して通商を求めんとするにつき、それに対して注意をなすのであるが、今度の使節は国王より特派するものであるから相当に警備の兵士をも引率することである。従って然るべき待遇をして貰いたい」との意を齎らしたのである。
そこで幕府の驚愕は一方ではなかったが、遂に彼の水野越前守忠邦を起こして天保十五年(弘化元年)六月、再び老中上座となし、この外交の衝に当たらしむることと相成ったのである。
ところがこの忠邦は在職僅かに九ヶ月で、弘化二年二月、再び御承知の鳥居甲斐守耀蔵の事に座して罷免され、遂に削禄の上出羽の山形へ転封蟄居を命ぜられたのである。
そこでその後は阿部伊勢守正弘が老中上座となり幕政を握ったのであるが、爾来外交の
【欄外】
豊橋市史談(松平伊豆守信璋と其時代) 四百三
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki and His Era) 402
**Main Text:**
He was called Kennosuke and was born on August 9, Bunsei 10. His birth family, as mentioned before, was from the Ōkōchi branch but was a hatamoto (direct shogunal retainer) with a stipend of about 1,000 koku, so his succession to the domain must have required considerable effort.
Now, on July 7, Kōka 2, when Nobuaki first came to his domain after succession and addressed all the retainers in his own hand at the great reception hall, I would like to present what he conveyed:
"This time I have unexpectedly come to inherit this house, for which I am grateful. Though I do not yet understand the particulars of all matters, I have long heard that the administration of this house through the generations has been exceptional. Though I am unworthy and inadequate, I will by all means encourage my resolve and make it my first priority not to let the family's reputation decline. I ask that you all understand this and exhaust your efforts to assist me. Should I forget my station and become negligent in governance, or should I become arrogant, please remonstrate with me without reserve. Regarding other matters, whether they should or should not be done, whatever your thoughts on any matter, please seal your written opinions and present them to the inspectors. I will adopt them based on their merit. Matters from the women's quarters should be submitted with proper discretion. Since we shall observe all the ancient systems of previous generations, each of you should serve without misunderstanding.
6th month of the year of the Boar"
From this proclamation, we can see that he humbly sought wisdom, being deeply conscious of rising from a lower position to inherit this Ōkōchi house.
At this point, I think it necessary to discuss the general situation of the realm at that time. As you know, foreign relations problems were gradually becoming complicated, society was becoming increasingly turbulent, and voices for "revere the emperor, expel the barbarians" were showing momentum to sweep across the land.
Originally, regarding the rise of this sonnō jōi doctrine, the Mito domain was indeed its chief proponent. As mentioned in the previous chapter, after Mizuno Echizen-no-kami's failure, Doi Toshitsura became senior councilor and took charge of shogunal administration. Toshitsura considered Mito's behavior extremely disagreeable and immediately adopted a policy of ostracizing the Mito house. As you all know, in the 5th month of Tenpō 15, through his arrangements, he ordered Nariaki into retirement
**Margin:**
Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the Toyohashi City History for over a year, and now as the manuscript is nearly complete...
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper
**Main Text:**
and ordered his retainers Toda Ginzaburō and Fujita Toranosuke (Tōko) into house arrest.
However, not only was it impossible to resist the general trend of the times with such measures, but it instead provoked popular sentiment, resulting in patriots throughout the land increasingly strengthening their friendship with Mito and gradually intensifying national debate.
Of course, at this time the Mito domain was also divided into two factions, and these two factions were mutually antagonistic, eventually ending in armed conflict. Shogunal administration was also truly disrupted from this point and could never again be restored to order.
Meanwhile, another disaster occurred, namely the burning of Edo Castle's main keep in the 5th month of Tenpō 15. At that time, the shogunate's finances had reached the extreme of poverty, and regarding reconstruction, Toshitsura made considerable efforts to solicit donations from the daimyo, but this ended in failure. Later, in the 8th month, Toshitsura finally resigned his position. The construction of the main keep was later undertaken when Abe Ise-no-kami Masahiro became senior councilor and chief magistrate of main keep construction, commanding 26 daimyo including the Lord of Kaga to provide assistance calculated at 500 ryō per 10,000 koku of stipend. However, since this still could not avoid enormous shortfalls, they again conducted currency debasement and mass production of debased coins to temporarily cover the situation, whereby the shogunate's finances inevitably fell into poverty upon poverty.
Now, during this confusion, in the 4th month of Tenpō 15, the Dutch submitted a letter stating: "This time England and France will dispatch envoys to your country seeking trade. We wish to advise you regarding this matter. Since these envoys are specially dispatched by their kings, they will bring appropriate military escorts. Therefore, we request that you provide suitable treatment."
The shogunate's alarm was extreme, but they finally recalled Mizuno Echizen-no-kami Tadakuni, making him senior councilor again in the 6th month of Tenpō 15 (Kōka 1) to handle this foreign relations crisis.
However, this Tadakuni served only nine months and was dismissed again in the 2nd month of Kōka 2 due to the well-known affair of Torii Kai-no-kami Yōzō, ultimately being stripped of income and ordered to relocate to Yamagata in Dewa province under house arrest.
Thereafter, Abe Ise-no-kami Masahiro became senior councilor and took control of shogunal administration, and from then on foreign relations...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki and His Era) 403