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【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百六
【本文】
幕府(ばくふ)の財政(ざいせい)が窮乏(きうばう)し其(その)上(うへ)に西丸(にしまる)、本丸(ほんまる)の造営(ぞうえい)が続(つゝ)いたと云ふ訳(わけ)で数々(しば〳〵)上納金(ぜうのうきん)を譜代(ふだい)の諸侯(しよこう)に申付(まをしつ)けら
れたので之(これ)には余程(よほど)閉口(へいこう)したものであるが又(ま)た一 方(ぱう)には譜代(ふだい)の大名(だいめう)で老中(らうちう)を勤(つと)むると云ふ事は実(じつ)に財(ざい)
政上(せいぜう)に取(と)つては苦痛(くつう)であつたので大河内家(おほかうちけ)では信祝(のぶとき)が老中(らうちう)たりし時代(じだい)に於(おい)て余程(よほど)財政上(ざいせいぜう)には打撃(だげき)を受(う)
けたが其(その)後(のち)信明(のぶあき)が長(なが)い間(あひだ)其(その)職(しよく)の上座(ぜうざ)にあつたと云ふことは容易(ようい)ならず財政上(ざいせいぜう)には苦痛(くつう)を受(う)けたもので
ある之(これ)に関(くわん)する其(その)当時(たうじ)の資料(しれう)は相当(さうたう)に大河内(おほかうち)の倉庫(さうこ)にも残(のこ)つて居(を)る事であるがそれ等(ら)が綜合(そうがふ)し
て次第(しだい)に此(この)窮状(きうぜう)を訴(うつた)ふるに至(いた)つたものと信(しん)ぜられるのである尚(なほ)藩(はん)の財政(ざいせい)に付(つい)ては後(のち)に或(あ)る場合(ばあひ)を以(もつ)て
今(いま)少(すこ)しく申述(まをしの)ぶる考(かんがへ)であるから此処(こゝ)には此(この)位(くらゐ)で御話(おはなし)を止(や)める事に致(いた)したいと思(おも)ふ
尚(な)ほ前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたから其(その)頃(ころ)頻(しき)りに藩士(はんし)の意見(いけん)をも徴(てう)したもので嘉永(かえい)元年(がんねん)八月廿八日には重(かさ)
ねて左(さ)の如(ごと)き事を觸(ふ)れて居(を)るのである
御上御行状初御為に不相成義は不寄何事心付候儀有之面々は書付封印致し箱相廻候間来月三日四日
頃迄に右箱え入可被申候(下略)
封事を徴す 此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であるから藩士(はんし)からは種々(しゆ〴〵)異見(いけん)を封事(ふうじ)として提出(ていしゆつ)したものであるが併(しか)し此(この)封事(ふうじ)を徴(てう)すると
云ふ事は初(はじ)めて此(この)信璋(のぶあき)の時代(じだい)から起(おこ)つたものではなくて既(すで)に信明(のぶあき)の時代(じだい)に於(おい)ても藩士(はんし)から異見(いけん)を封事(ふうじ)
として差出(さしだ)したものが沢山(たくさん)今(いま)も大河内家(おほかうちけ)に遺(のこ)つて居(を)るのである又(ま)た信明(のぶあき)が卒(そつ)して信順(のぶより)が相続(さうぞく)した時(とき)に
於(おい)ては矢張(やはり)財政(ざいせい)に関(くわん)して藩士(はんし)の意見(いけん)を徴(てう)したものであるが此(この)時(とき)藩士(はんし)から差出(さしだ)した封事(ふうじ)も既(すで)に十 余通(よつう)保(ほ)
存(ぞん)されて居(を)るのである之(これ)等(ら)の中(なか)には藩政上(はんせいぜう)実(じつ)に大切(たいせつ)のものもあるから追々(おひ〳〵)調査(てうさ)して必要(ひつえう)のものは之(これ)を
発表(はつぴよう)したいと思(おも)ふのである
次(つぎ)に当時(たうじ)に於(お)ける人物談(じんぶつだん)に移(うつ)りたいと思(おも)ふのであるが主(おも)に其(その)頃(ころ)の藩政(はんせい)を支配(しはい)して居(を)つたのは家老(からう)の和(わ)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
田理兵衛(だりへゑ)、西村治右衛門(にしむらぢうゑもん)などであつて此(この)二人は共(とも)に伝(つた)ふべき事が多(おほ)いのみならず其他(そのた)の藩士(はんし)にも頗(すこぶ)る
伝(つた)ふべき人物(じんぶつ)もあつたのであるが併(しか)し前(まへ)にも既(すで)に申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く此(この)吉田藩政(よしだはんせい)の機関(きくわん)に就(つ)き後(のち)に至(いた)
つて別(べつ)に申述(まをしの)ぶる処(ところ)がある考(かんがへ)であるから其(その)折(をり)を以(もつ)て此(この)機関(きくわん)に参与(さんよ)して居(を)つた藩士(はんし)の事に関(くわん)しては詳(くは)し
く御話(おはなし)する筈(はづ)である従(したがつ)て今(いま)此処(こゝ)にはそれに及(およ)ばぬ考(かんがへ)で只(たゞ)左(さ)の一二に就(つい)てのみ申述(まをしの)べて置(お)きたいと思(おも)ふ
太田晴軒 即(すなは)ち先(ま)づ申述(まをしの)べたいのは三 人(にん)の漢学者(かんがくしや)の事であるがそれは太田晴軒(おほたせいけん)、金子荊山(かねこけいざん)、村井楽所(むらゐらくしよ)である太田(おほた)
金子荊山 晴軒(せいけん)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く彼(か)の太田錦城(おほたきんじよう)の三 男(なん)で名(な)は敦(あつし)字(あざな)は叔復 通称(つうせう)を魯(ろ)三 郎(らう)と云つたが之(これ)は錦(きん)
村井楽所 城(じよう)が其(その)故国(ここく)加賀(かが)に皈(かへ)る時(とき)に藩主(はんしゆ)信順(のぶより)の命(めい)によつて当藩(たうはん)に留(とゝま)る事となつたのでるが最(もつと)も強記(きようき)な人(ひと)で十
七八歳の頃(ころ)既(すで)に名(な)を学林(がくりん)に知(し)られたのであるそれのみならず彼(か)の多紀氏(たきし)に就(つ)いて医学(ゐがく)をも修(をさ)めて奇術(きじゆつ)
人(しと)を救(すく)つた事も少(すくな)くなかつたとの事である余(あま)り名筆(めいひつ)ではなかつたが父(ちゝ)に次(つい)での学者(がくしや)として世(よ)の尊敬(そんけい)す
る処(ところ)となつた事は前(まへ)にて申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)くで此(この)人(ひと)は明治六年 迄(まで)存命(ぞんめい)で其(その)十月十五日七十九 歳(さい)で歿(ぼつ)し
たが多(おほ)くは江戸(えど)の方(はう)に居(を)つて信寶(のぶたか)信璋(のぶあき)と歴代(れきだい)に侍講(じかう)したのである又(ま)た金子荊山(かねこけいざん)は今(いま)の豊橋市(とよはしし)書記(しよき)金子(かねこ)
鼎君(かなへくん)の厳父君(げんぷくん)であるが名(な)は鼎(かなへ)字(あざな)は玉鉉(ぎよくげん)通称(つうせう)を熊藏(くまざう)と称(せう)し後(のち)に多助(たすけ)と改(あらた)めたが市川米庵(いちかはべいあん)、太田錦城(おほたきんじよう)、
荻野緑野(をぎのりよくの)などに就(つ)いて学(まな)むだ人(ひと)で一 方(ぱう)には書家(しよか)であつたのである初(はじ)め信順(のぶより)に仕(つか)へて用人(ようにん)となつたが其(その)
子(こ)信寶(のぶたか)がまだ世子(せいし)たりし頃(ころ)から其(その)傅(ふ)となつて侍講(じかう)を勉(つと)めたのである安政(あんせい)二年十一月十一日 年(とし)四十九で
歿(ぼつ)した人(ひと)であるが其(その)著(ちよ)に従革堂雑抄(じうくわどうざつしやう)などがあるソレカラ村井楽所(むらゐらくしよ)であるが之(これ)は既(すで)に文士(ぶんし)として有名(ゆうめい)
なる村井弦斉君(むらゐげんさいくん)の厳父(げんぷ)で名(な)は惟凞(いき)通称(つうせう)を有右衛門(ありうゑもん)と云つたのである此(この)人(ひと)は寛政(かんせい)八年の生(うまれ)で之(これ)も亦(ま)た荻(をぎ)
野大麓(のだいろく)並(ならび)に其子(そのこ)の緑野(りよくの)に就(つい)て学(まな)むだのであるが天保(てんぱう)の初(はじ)めに信順(のぶより)に仕(つか)へて吟味役(ぎんみやく)となり八年 世子(せいし)信寶(のぶたか)
の傅(ふ)となり藩学(はんがく)時習館(じしふくわん)の学問係(がくもんがゝり)となり信璋(のぶあき)に歴仕(れきし)したが明治三年 迄(まで)存命(ぞんめい)であつたのである楽所(らくしよ)雑抄(ざつしよう)廿
【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百七
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平伊豆守信璋と其時代) 四百六
【本文】
幕府の財政が窮乏し、その上に西丸、本丸の造営が続いたという訳で、しばしば上納金を譜代の諸侯に申し付けられたので、これには相当閉口したものであるが、また一方には譜代の大名で老中を勤めるということは実に財政上にとっては苦痛であったので、大河内家では信祝が老中たりし時代において相当財政上には打撃を受けたが、その後信明が長い間その職の上座にあったということは容易ならず財政上には苦痛を受けたものである。これに関するその当時の資料は相当に大河内の倉庫にも残っている事であるが、それ等が総合して次第にこの窮状を訴えるに至ったものと信じられるのである。なお藩の財政については後にある場合を以て今少しく申し述べる考えであるから、ここにはこの位で話を止める事にしたいと思う。
なお前述のような事情であったから、その頃頻りに藩士の意見をも徴したもので、嘉永元年八月二十八日には重ねて左のような事を触れているのである。
「御上御行状初め御為に相成らぬ義は寄らず何事心付き候義これ有り面々は書付封印致し箱相廻り候間、来月三日四日頃までに右箱へ入れ申されるべく候(下略)」
このような訳であるから藩士からは種々異見を封事として提出したものであるが、しかしこの封事を徴すということは初めてこの信璋の時代から起こったものではなくて、既に信明の時代においても藩士から異見を封事として差し出したものが沢山今も大河内家に遺っているのである。また信明が卒して信順が相続した時においては、やはり財政に関して藩士の意見を徴したものであるが、この時藩士から差し出した封事も既に十余通保存されているのである。これ等の中には藩政上実に大切のものもあるから、追々調査して必要のものはこれを発表したいと思うのである。
次に当時における人物談に移りたいと思うのであるが、主にその頃の藩政を支配していたのは家老の和
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
田理兵衛、西村治右衛門などであって、この二人は共に伝うべき事が多いのみならず、その他の藩士にも頗る伝うべき人物もあったのであるが、しかし前にも既に申し述べて置いたように、この吉田藩政の機関について後に至って別に申し述べる処がある考えであるから、その折を以てこの機関に参与していた藩士の事に関しては詳しく話をする筈である。従って今ここにはそれに及ばぬ考えで、ただ左の一二についてのみ申し述べて置きたいと思う。
即ち先ず申し述べたいのは三人の漢学者の事であるが、それは太田晴軒、金子荊山、村井楽所である。太田晴軒は前にも申し述べたように、かの太田錦城の三男で名は敦、字は叔復、通称を魯三郎と言ったが、これは錦城がその故国加賀に帰る時に藩主信順の命によって当藩に留まる事となったのであるが、最も強記な人で十七八歳の頃既に名を学林に知られたのである。それのみならずかの多紀氏について医学をも修めて奇術人を救った事も少なくなかったとの事である。あまり名筆ではなかったが父に次いでの学者として世の尊敬する処となった事は前にて申し述べて置いたようで、この人は明治六年まで存命で、その十月十五日七十九歳で歿したが、多くは江戸の方に居て信寶、信璋と歴代に侍講したのである。
また金子荊山は今の豊橋市書記金子鼎君の厳父君であるが、名は鼎、字は玉鉉、通称を熊蔵と称し後に多助と改めたが、市川米庵、太田錦城、荻野緑野などについて学んだ人で一方には書家であったのである。初め信順に仕えて用人となったが、その子信寶がまだ世子たりし頃からその傅となって侍講を勤めたのである。安政二年十一月十一日年四十九で歿した人であるが、その著に従革堂雑抄などがある。
それから村井楽所であるが、これは既に文士として有名なる村井弦斉君の厳父で、名は惟凞、通称を有右衛門と言ったのである。この人は寛政八年の生まれで、これもまた荻野大麓並びにその子の緑野について学んだのであるが、天保の初めに信順に仕えて吟味役となり、八年世子信寶の傅となり藩学時習館の学問係となり信璋に歴仕したが、明治三年まで存命であったのである。楽所雑抄二十
【欄外】
豊橋市史談(松平伊豆守信璋と其時代) 四百七
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki and His Era) 406
**Main Text:**
The shogunate's finances were impoverished, and on top of this, the construction of the western and main baileys continued, so tribute payments were frequently ordered from hereditary daimyo, which caused considerable distress. On the other hand, serving as a senior councilor (rōjū) as a hereditary daimyo was truly painful financially. The Ōkōchi family suffered considerable financial damage during the time when Nobutoki served as senior councilor, and later when Nobuaki held the senior position for a long time, they suffered extraordinary financial hardship. Considerable documentation from that time remains in the Ōkōchi family archives, and I believe these materials collectively came to reveal this dire situation. I plan to discuss the domain's finances in more detail at a later opportunity, so I would like to stop the discussion at this point.
Due to the circumstances described above, opinions were frequently solicited from retainers at that time. On August 28, Kaei 1, the following notice was issued again:
"Regarding His Lordship's conduct and anything that may not be beneficial, if anyone has noticed anything, no matter what it may be, please write it down, seal it, and put it in the box that will be circulated. Please submit it to the box by around the 3rd or 4th of next month (abbreviated)."
For this reason, retainers submitted various opinions as sealed memorials (fūji). However, soliciting such sealed memorials did not begin for the first time during Nobuaki's era - many sealed memorials submitted by retainers during Nobuaki's time are still preserved in the Ōkōchi family today. When Nobuaki died and Nobuyori succeeded, opinions from retainers were again solicited regarding finances, and more than ten sealed memorials submitted by retainers at that time are already preserved. Among these are some truly important documents for domain administration, so I would like to gradually investigate them and publish those that are necessary.
Next, I would like to move to discussing the personalities of that time. The domain administration was mainly controlled by senior retainers such as Wa-
**Margin:**
Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his manuscript is nearly complete...
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesday) and presented to readers of Sanyō Newspaper.
**Main Text:**
...da Rihei and Nishimura Jiuemon. These two men not only have much to be recorded about them, but there were also quite remarkable figures among other retainers. However, as I have already mentioned before, I plan to discuss the organs of Yoshida domain administration separately at a later time, so I will speak in detail about the retainers who participated in these organs at that time. Therefore, I do not intend to cover that here, and would like to mention only the following one or two cases.
First, I would like to discuss three Chinese scholars: Ōta Seiken, Kaneko Keizan, and Murai Rakusho. Ōta Seiken, as mentioned before, was the third son of the famous Ōta Kinshiro. His given name was Atsushi, his courtesy name was Shukufuku, and his common name was Rozaburō. When Kinshiro returned to his home province of Kaga, Seiken remained in this domain by order of domain lord Nobuyori. He was an exceptionally gifted person who was already known in academic circles by the age of seventeen or eighteen. Moreover, he studied medicine under the Taki family and saved many people with his medical skills. Though he was not particularly skilled in calligraphy, he became respected in society as a scholar second only to his father, as I mentioned before. He lived until Meiji 6, dying on October 15 at age 79. He spent most of his time in Edo, serving as tutor to successive generations including Nobutaka and Nobuaki.
Kaneko Keizan was the respected father of Kaneko Kanae, current secretary of Toyohashi City. His given name was Kanae, his courtesy name was Gyokugen, his common name was Kumazō, later changed to Tasuke. He studied under Ichikawa Beian, Ōta Kinshiro, and Ogino Ryokuno, and was also a calligrapher. Initially he served Nobuyori and became a chamberlain, but from the time when his son Nobutaka was still heir apparent, he became his tutor and served as instructor. He died on November 11, Ansei 2, at age 49. His works include "Jūkakudō Zasshō."
Then there is Murai Rakusho, who was the respected father of Murai Gensai, already famous as a man of letters. His given name was Iki and his common name was Ariuemon. Born in Kansei 8, he also studied under Ogino Dairoku and his son Ryokuno. At the beginning of Tenpō he served Nobuyori and became an inspector, in the 8th year became tutor to heir apparent Nobutaka, became academic supervisor of the domain school Jishūkan, and served successive generations under Nobuaki, living until Meiji 3. "Rakusho Zasshō" twenty...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki and His Era) 407