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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 218

ページ: 218

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【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百八 【本文】       巻(かん)其他(そのた)にも三四の著書(ちよしよ)がある 川西士龍  ソコデ尚(なほ)一つ御話(おはなし)したいのは彼(か)の川西士龍(かはにししりう)の事である士龍(しりう)名(な)は潜(せん)字(あざな)は確輔(かくすけ)後(のち)三 助(すけ)と改(あらた)む士龍(しりう)は其(その)号(がう)で       あるが後(のち)又(ま)た函洲(かんしう)とも号(がう)したのである吉田藩士(よしだはんし)中井行右衛門(なかゐぎよううゑもん)封豊と云ふ人の次男(じなん)であつたが十二 歳(さい)の       時(とき)出(い)でゝ拳母藩士(ころもはんし)川西氏(かはにしし)に養(やしな)はれたのである然(しか)るに天性(てんせい)卓異(たくゐ)で逸気(いつき)あり初(はじ)め学(がく)を竹村悔斉(たけむらかいさい)と云ふ人に       受(う)けたが年(とし)二十 余(よ)昌平校(せうへいかう)に入(い)つて経術(けうじゆつ)文章(ぶんせう)を学(まな)び終(つひ)に同藩(どうはん)に重用(ぢうよう)せられたるのみならず頗(すこぶ)る天下(てんか)の知(し)       る処(ところ)となつたのである天保(てんぱう)十三年二月 年(とし)四十二で歿(ばつ)したのは誠(まこと)に惜(おし)むべき事であつたが此(この)人(ひと)の著(ちよ)を集(あつ)       めて函洲遺稿(かんしうゐかふ)と云ふ本(ほん)が出来(でき)て居(を)るのであるモツトモ此(この)人(ひと)の事については右(みぎ)の如(ごと)くであるから信順(のぶより)時代(じだい)       に於(おい)て申述(まをしの)ぶるのを仕当(したう)としたのであるが其(その)節(せつ)申(まを)し残(のこ)したから幸(さいはひ)今(いま)此処(こゝ)で御話(おはなし)して置(お)きたいと考(かんが)へ       たのである而(しか)して此(この)有名(ゆうめい)なる人(ひと)が我(わが)吉田藩(よしだはん)の出(で)であると云(い)ふに就(つい)ては曩(さき)に愛知県史編纂(あいちけんしへんさん)の田部井鉚太(ためがゐりうた)       郎君(らうくん)から注意(ちうゐ)を受(う)けて段々(だん〳〵)分(わか)つた次第(しだい)であるから此(この)際(さい)深(ふか)く同君(どうくん)に対(たい)して感謝(かんしや)の意(い)を表(へう)したいと思(おも)ふの       である 山田洞雪  其(その)次(つぎ)には絵師(ゑし)の山田洞雪(やまだどうせつ)の話(はなし)であるが先(さき)に私(わたくし)は横山文堂(よこやまぶんどう)と間違(まちが)へて此(この)人(ひと)の名前(なまへ)を挙(あ)げたのであつたが       ソレは全(まつた)く誤(あやまり)であつたのである併(しか)し此(この)山田洞雪(やまだどうせつ)も亦(ま)た矢張(やはり)文堂(ぶんどう)と相前後(あひぜんご)して信順(のぶより)に仕(つか)へたのである       が洞雪(どうせつ)は狩野洞淋(かのどうりん)の門人(もんじん)で頗(すこぶ)る名筆(めいひつ)であつた今(いま)も其(その)筆蹟(ひつせき)は残(のこ)つて居(を)るが実(じつ)に善(よ)いものがあるのである       モツトモ此(この)人(ひと)は天保(てんぱう)十三年六月 年(とし)六十一 歳(さい)で歿(ばつ)したのであるが其(その)子(こ)の眞静(しんせい)名(な)は意誠(おきさね)と云ふ人も亦(ま)た狩(か) 山田香雪  野眞笑(のしんせう)の門人(もんじん)であつて相当(さうたう)の画家(ぐわか)であつたが一に香雪(かせつ)とも号(がう)し嘗(かつ)て日光廟修覆(につくわうべうしうふく)に際(さい)し師匠(しせう)と共(とも)に絵画(くわいぐわ)       に従事(じうじ)した事がある安政(あんせい)四年七月 年(とし)四十一で歿(ばつ)したが之(これ)が御承知(ごせうち)の明治十七年十一月 年(とし)三十六で豊橋(とよはし)       に歿(ぼつ)した永豊(ながとよ)と云ふ画家(ぐわか)の父(ちゝ)であるのである 【欄外】        発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百四十号附録    (大正二年四月十五日発行) 【本文】 恩田石峯  サテ其(その)頃(ころ)町人(てうにん)の内(うち)にも三四の画家(ぐわか)があつて相当(さうたう)に名筆(めうひつ)のものもあつたが彼(か)の恩田石峯(おんだせきばう)は前(まへ)に申述(まをしの)べて       置(お)いた恩田(おんだ)三 省(せう)の子(こ)で名(な)は方(はう)字(あざな)は大矩(たいく)通称(つうせう)を吉作(きちさく)と呼(よ)むだが画(ぐわ)を京都(けうと)の渡邊南岳(わたなべなんがく)に就(つ)いて学(まな)び頗(すこぶ)る妙(めう)       に入(い)つたのである彼(か)の渡邊崋山(わたなべくわざん)が丁度(ちようど)田原(たはら)に蟄居中(ちつきよちう)田原(たはら)の素封家(そほうか)某氏(ばうし)が金屏風(きんべうぶ)を新調(しんてう)して之(これ)に石峯(せきばう)の       揮毫(きごう)を請(こ)はむとしたが崋山(くわざん)は之(これ)を聞(き)いて是非(ぜひ)自分(じぶん)に画(えが)かせてくれよと申込(まをしこ)むだので某氏(ばうし)は其(その)応接(おうせつ)に困(こん)       し内々(ない〳〵)屏風(べうぶ)を船(ふね)に積(つ)むで吉田(よしだ)に送(おく)り崋山(くわざん)には程(ほど)よく断(ことは)つて此(この)石峯(せきばう)に揮毫(きごう)せしめたと云(い)ふ話(はなし)が残(のこ)つて居(を)       る之(これ)は作(つく)り話(ばなし)ではない全(まつた)く事実(じじつ)であると信(しん)ずるが当時(たうじ)崋山(くわざん)の画(ぐわ)が人(ひと)に知(し)られなかつたと云(い)ふ一つの珍(ちん)       談(たん)にもなるが亦(ま)た一 方(ぱう)には石峯(せきばう)の名声(めいせい)が当時(たうじ)頗(すこぶ)る盛(さかん)であつた事(こと)をも意味(いみ)するのである又(ま)た其(その)頃(ころ)宝飯郡(ほゐぐん) 《割書:吉田名蹤踪|録の著》  の下地(しもぢ)に山本貞晨(やまもとていしん)と云(い)ふ人(ひと)があつたが此(この)人(ひと)は深(ふか)く地方(ちはう)の旧事古蹟(きうじこせき)を調査(てうさ)した人(ひと)で吉田名蹤踪録(よしだめいしようそうろく)の著(ちよ)が       ある同時(どうじ)に三 河名蹤踪録(かはめいしょうそうろく)と云(い)ふものをも著(あら)はす考(かんがへ)であつたようであるが之(これ)は脱稿(だつかう)に至(いた)らなかつたもの       と思(おも)はるゝが此(この)吉田名蹤踪録(よしだめいしようそうろく)の挿図(さうづ)は多(おほ)く石峯(せきばう)の画(ゑが)いたもので当時(たうじ)の風俗(ふうぞく)から神社(じんしや)、仏閣(ふつかく)、風景(ふうけい)など       孰(いづ)れも写生(しやせい)であるから今日(こんにち)から見(み)て甚(はなは)だ参考(さうかう)になるものであると思(おも)ふのである石峯(せきばう)は又(ま)た父(ちゝ)三 省(せう)に就(つ)       いて生花(せいくわ)をも学(まな)むだのであるが後(のち)に父(ちゝ)の名(な)を相続(さうぞく)して心応軒(しんおうけん)と称(せう)したのである而(しか)して其(その)逝去(せいきよ)は弘化(こうくわ)四       年五月である 佐藤大寛  又(ま)た其頃(そのころ)前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた佐藤南澗(さとうなんかん)の子(こ)に梅塢(ばいう)と云ふ画家(ぐわか)があつたが之(これ)は淑慎斉(しゆくしんさい)の門人(もんじん)で名(な)を       大寛(たいかん)と称(せう)した嘉永(かえい)元年(がんねん)五月十四日 年(とし)七十五で歿(ぼつ)した 福谷水竹  ソレカラ福谷水竹(ふくたにすゐちく)、此(この)人(ひと)は通称(つうせう)を藤左衛門(とうざゑもん)と云つて相当(さうたう)の資産家(しさんか)であつたが俳諧(はいかい)を青々(せう〳〵)処卓地(しよたくち)に学(まな)び       茶道(ちやどう)をも岡崎(をかざき)の人(ひと)不蔵庵(ふざうあん)に学(まな)むで共(とも)に妙(めう)を得(え)たが絵画(くわいぐわ)に就(つい)ても中々(なか〳〵)妙抜(めうぎ)と云ふべきものがあつたので       ある呉服町(ごふくまち)の佐藤弥吉氏(さとうやきちし)の処(ところ)に蔵(ざう)して居(を)られた釈迦(しやか)の涅槃像(ねはんぞう)の如(ごと)きは最(もつと)も面白(おもしろ)きものである此(この)人(ひと)は嘉(か) 【欄外】    豊橋市史談  (松平伊豆守信璋と其時代)                    四百九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平伊豆守信璋と其時代) 四百八 【本文】 巻その他にも三四の著書がある。 そこで、なお一つお話ししたいのは、かの川西士龍の事である。士龍、名は潜、字は確輔、後に三助と改む。士龍はその号であるが、後にまた函洲とも号したのである。吉田藩士中井行右衛門封豊という人の次男であったが、十二歳の時に出でて拳母藩士川西氏に養われたのである。しかるに天性卓異で逸気があり、初め学を竹村悔斉という人に受けたが、年二十余で昌平校に入って経術文章を学び、ついに同藩に重用されたのみならず、頗る天下の知る処となったのである。天保十三年二月、年四十二で歿したのは誠に惜しむべき事であったが、この人の著を集めて函洲遺稿という本ができているのである。もっともこの人の事については右のようであるから、信順時代において申し述べるのを適当としたのであるが、その節申し残したから、幸い今ここでお話しして置きたいと考えたのである。そしてこの有名なる人が我が吉田藩の出であるということについては、先に愛知県史編纂の田部井鉚太郎君から注意を受けて段々分かった次第であるから、この際深く同君に対して感謝の意を表したいと思うのである。 その次には絵師の山田洞雪の話であるが、先に私は横山文堂と間違えてこの人の名前を挙げたのであったが、それは全く誤りであったのである。しかしこの山田洞雪もまたやはり文堂と相前後して信順に仕えたのであるが、洞雪は狩野洞淋の門人で頗る名筆であった。今もその筆跡は残っているが、実に良いものがあるのである。もっともこの人は天保十三年六月、年六十一歳で歿したのであるが、その子の眞静、名は意誠という人もまた狩野眞笑の門人であって相当の画家であったが、一に香雪とも号し、かつて日光廟修復に際し師匠と共に絵画に従事した事がある。安政四年七月、年四十一で歿したが、これがご承知の明治十七年十一月、年三十六で豊橋に歿した永豊という画家の父であるのである。 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百四十号附録(大正二年四月十五日発行) 【本文】 さてその頃町人の内にも三四の画家があって相当に名筆のものもあったが、かの恩田石峯は前に申し述べて置いた恩田三省の子で、名は方、字は大矩、通称を吉作と呼んだが、画を京都の渡邊南岳について学び頗る妙に入ったのである。かの渡邊崋山がちょうど田原に蟄居中、田原の素封家某氏が金屏風を新調してこれに石峯の揮毫を請おうとしたが、崋山はこれを聞いて是非自分に画かせてくれよと申し込んだので、某氏はその応接に困し、内々屏風を船に積んで吉田に送り、崋山には程よく断ってこの石峯に揮毫させたという話が残っている。これは作り話ではない、全く事実であると信ずるが、当時崋山の画が人に知られなかったという一つの珍談にもなるが、また一方には石峯の名声が当時頗る盛んであった事をも意味するのである。またその頃宝飯郡の下地に山本貞晨という人があったが、この人は深く地方の旧事古跡を調査した人で、吉田名蹤踪録の著がある。同時に三河名蹤踪録というものをも著す考えであったようであるが、これは脱稿に至らなかったものと思われるが、この吉田名蹤踪録の挿図は多く石峯の画いたもので、当時の風俗から神社、仏閣、風景などいずれも写生であるから、今日から見て甚だ参考になるものであると思うのである。石峯はまた父三省について生花をも学んだのであるが、後に父の名を相続して心応軒と称したのである。そしてその逝去は弘化四年五月である。 また其頃、前に一寸申し述べて置いた佐藤南澗の子に梅塢という画家があったが、これは淑慎斉の門人で名を大寛と称した。嘉永元年五月十四日、年七十五で歿した。 それから福谷水竹、この人は通称を藤左衛門といって相当の資産家であったが、俳諧を青々処卓地に学び、茶道をも岡崎の人不蔵庵に学んで共に妙を得たが、絵画についても中々妙技というべきものがあったのである。呉服町の佐藤弥吉氏の処に蔵してあられた釈迦の涅槃像のようなものは最も面白きものである。この人は嘉 【欄外】 豊橋市史談(松平伊豆守信璋と其時代) 四百九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki and His Era) 408 **Main Text:** ...volumes and three or four other written works. Now, there is one more person I would like to discuss - Kawanishi Shiryū. Shiryū's given name was Sen, his courtesy name was Kakusuke, later changed to Sansuke. Shiryū was his pen name, but later he also used the name Kanshū. He was the second son of Yoshida retainer Nakai Gyōuemon Hōhō, but at age twelve he left and was adopted by Koromo domain retainer Kawanishi. He possessed exceptional natural talent and spirited character. He first studied under a man named Takemura Kaisai, but in his twenties entered Shōheikō school to study classical studies and literature, eventually becoming not only highly valued by his domain but also widely known throughout the realm. He died in Tenpō 13, second month, at age 42, which was truly regrettable. His writings have been collected into a book called "Kanshū Ikō" (Kanshū's Posthumous Manuscripts). Since this person's story belongs to the Nobuyori era, it would have been appropriate to discuss him then, but since I omitted him at that time, I am fortunate to be able to tell his story here now. The fact that this famous person was from our Yoshida domain came to my attention through Tabei Ryūtarō of the Aichi Prefecture History compilation project, and I would like to express my deep gratitude to him on this occasion. Next is the story of the painter Yamada Dōsetsu. Previously I mistakenly mentioned this person's name as Yokoyama Bundō, which was completely erroneous. However, this Yamada Dōsetsu also served Nobuyori around the same time as Bundō. Dōsetsu was a disciple of Kanō Dōrin and was quite skilled in calligraphy. His brushwork still remains today and includes truly excellent pieces. This person died in Tenpō 13, sixth month, at age 61. His son Shinsei, whose given name was Okisane, was also a disciple of Kanō Shinshō and was a considerable painter. He also used the pen name Kasetsu and once worked on paintings during the restoration of Nikkō Shrine alongside his master. He died in Ansei 4, seventh month, at age 41, and was the father of the painter Nagatoy, who as you know died in Toyohashi in Meiji 17, eleventh month, at age 36. **Margin:** Publisher and Printer: Sanyō Printing Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzō. Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4,340 Supplement (Published April 15, Taishō 2) **Main Text:** Now, among the townspeople at that time there were also three or four painters, some with considerable skill. Onda Sekihō was the son of Onda Sanshō whom I mentioned earlier. His given name was Hō, his courtesy name was Taiku, and his common name was Kichisaku. He studied painting under Watanabe Nangaku of Kyoto and achieved considerable mastery. When Watanabe Kazan was confined to Tahara, a wealthy family in Tahara had a new gold screen made and wanted to commission Sekihō to paint on it. When Kazan heard of this, he requested that he be allowed to paint it instead. The family was troubled by this request, so they secretly loaded the screen onto a boat and sent it to Yoshida, politely declined Kazan's offer, and had Sekihō paint it instead. This story remains, and I believe it is not fabricated but completely factual. While it serves as an interesting anecdote about how Kazan's painting was not yet widely recognized at the time, it also indicates how renowned Sekihō was in those days. Also at that time, in Shimoji in Hoi District, there was a man named Yamamoto Teishin who thoroughly investigated local historical sites and ancient remains, and authored "Yoshida Meishōsōroku" (Record of Famous Sites in Yoshida). He apparently also intended to write something called "Mikawa Meishōsōroku" (Record of Famous Sites in Mikawa), but this seems never to have been completed. The illustrations in "Yoshida Meishōsōroku" were mostly painted by Sekihō, depicting the customs of the time as well as shrines, temples, and landscapes, all done from life, making them extremely valuable references for us today. Sekihō also studied flower arrangement under his father Sanshō, and later inherited his father's name and was called Shin'ōken. He died in Kōka 4, fifth month. Also at that time, there was a painter named Baiu, son of Satō Nankan whom I mentioned briefly earlier. He was a disciple of Shukushinsai and was called Taikan. He died on May 14, Kaei 1, at age 75. Then there was Fukutani Suichiku. This person's common name was Tōzaemon, and he was quite wealthy. He studied haikai poetry under Seiseishō Takuchi and also studied tea ceremony under Fuzōan of Okazaki, achieving mastery in both. He also had considerable skill in painting that could be called masterful. Works like the Buddha's Nirvana image that was kept at Satō Yakichi's place in Gofuku-chō were most interesting. This person was in Ka- **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki and His Era) 409