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【欄外】
豊橋市史談 (松平伊豆守信璋と其時代) 四百十
【本文】
永(えい)三年正月 年(とし)六十四で歿(ばつ)したのである
鈴木三岳 ソレから鈴木(すゞき)三 岳(がく)の話(はなし)であるが三 岳(がく)は吉田(よしだ)新銭町(しんせんまち)の人(ひと)で通称(つうせう)を与平(よへい)と云ひ推迺舎(しゐのや)又(ま)た再少年(さいせうねん)等(ら)の号(がう)が
あつたが彼(か)の士朗(しらう)の門人(もんじん)で俳諧(はいかい)を能(よ)くした且(か)つ渡辺崋山(わたなべくわざん)と深交(しんかう)があつて其(その)門(もん)に画(ぐわ)を学(まな)むだが崋山(くわざん)が田(た)
原(はら)へ蟄居中(ちつきよちう)は専(もつぱ)ら其(その)家計(かけい)を補助(ほじよ)したものである当時(たうじ)崋山(くわざん)は謹慎中(きんしんちう)であるから表向(おもてむ)き絵画(くわいぐわ)を他人(たにん)に画(えが)い
てやると云ふような事(こと)は憚(はゞか)つたものであるが多(おほ)くは此(この)三 岳(がく)の手(て)を経(へ)てワザと蟄居(ちつきよ)以前(いぜん)の年号(ねんがう)なとを用(もち)
ゐ他人(たにん)の依頼(いらい)に応(おう)じたものであるそれ故(ゆへ)に三 岳(がく)の家(いへ)には崋山(くわざん)の画幅屏風(ぐわふくべうぶ)など大小(だいせう)の傑作(けつさく)五十 余点(よてん)を所(しよ)
蔵(ざう)して居(を)つたもので彼(か)の有名(ゆうめい)なる千山万水(せんざんばんすゐ)の図(づ)なども其(その)一であるが三 岳(がく)の歿後(ばつご)追々(おい〳〵)四 方(はう)へ散乱(さんらん)して目(もく)
今(こん)では其(その)画幅(ぐわふく)の中(なか)で我(わが)豊橋市(とよはしし)に残(のこ)つて居(を)るものは甚(はなは)だ僅(わづか)である三 岳(がく)は嘉永(かえい)七年九月四日 年(とし)六十 歳(さい)で病(びやう)
鈴木吉兵衛 歿(ばつ)したが其頃(そのころ)又(ま)た此(この)三 岳(がく)の本家(ほんけ)に当(あた)る家(いへ)で今(いま)の花園町(はなぞのてう)に鈴木吉兵衛(すゞききちべゑ)と云ふ人(ひと)があつた此(この)人(ひと)は明治四年
十月十二日 年(とし)六十四 歳(さい)で歿(ぼつ)したが現今(げんこん)の鈴木吉兵衛(すゞききちべゑ)君(くん)即(すなは)ち梅厳(ばいがん)と号(がう)さるゝ方(かた)の先代(せんだい)である此(この)人(ひと)も亦(ま)た
壮年(さうねん)の頃(ころ)に崋山(くわざん)と交(まじはり)のあつたものであるが其(その)祖父(そふ)に法林(はふりん)と云ふ人(ひと)があつて此(この)人(ひと)は一 種(しゆ)の面白(おもしろ)い識見(しきけん)を
有(ゆう)して居(を)つたものである其(その)自筆(じひつ)の家憲(かけん)が今(いま)も其(その)家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るが之(これ)へ崋山(くわざん)が書(か)き添(そ)へをしたものが中(なか)
中(なか)面白(おもしろ)いモツトモ其(その)筆者(ひつしや)は吉兵衛(きちべゑ)の事(こと)になつて居(を)るが其(その)実(じつ)は崋山(くわざん)が代作(だいさく)代書(だいしよ)をしたものである即(すなは)ち之(これ)
には其(その)家憲(かけん)の来歴(らいれき)から祖父(そふ)の法林(はふりん)及(およ)び父(ちゝ)の慈全(じぜん)が事蹟(じせき)などをも明記(めいき)したものであつて其(その)人々(ひと〴〵)の履歴(りれき)は
勿論(もちろん)蟄居中(ちつきよちう)の崋山(くわざん)が消息(せうそく)も分(わか)る訳(わけ)で甚(はなは)だ趣味(しゆみ)あるものと信(しん)ぜらるゝのである
《割書:柴田猪助の|米価記》 次(つぎ)に尚(なほ)一つ御話(おはなし)したいのは柴田猪助(しばたゐすけ)と云ふ人(ひと)の事(こと)であるが此(この)人(ひと)は吉田藩士(よしだはんし)で今(いま)の柴田豊水(しばたほうすゐ)君(くん)の先代(せんだい)で
ある嘉永(かえい)二年四月六十六 歳(さい)を以(もつ)て病没(びやうばつ)したのであるが此(この)人(ひと)の著書(ちよしよ)に米価記(べいかき)と云ふものがあつて遠(とほ)くは
元亀(げんき)三年の昔(むかし)から近(ちか)くは病没(びやうばつ)の前年(ぜんねん)即(すなは)ち嘉永(かえい)元年(がんねん)迄(まで)長(なが)い間(あひだ)ズツト引(ひ)き続(つゞ)いて米価(べいか)の統計(とうけい)を集(あつ)めたもの
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
である其(その)根気(こんき)のよい事(こと)と緻密(ちみつ)なる事には誠(まこと)に驚(おどろ)くの外(ほか)ないのであるが又(ま)た実(じつ)に今日(こんにち)の経済上(けいざいぜう)からも容(よう)
易(ゐ)ならざる参考(さんかう)になるものであると思(おも)ふ此(この)書(しよ)は明治維新後(めいぢゐしんご)大蔵省(おほくらせう)に借上(かりあ)げられた事(こと)があつたが同省(どうせう)か
らは鄭重(ていちよう)なる謝状(しやぜう)を添(そ)へて返附(へんふ)して来(き)たので其(その)原本(げんぽん)は今(いま)も柴田家(しばたけ)に蔵(ざう)せられて居(を)るのである
《割書:弘化嘉永間|の吉田の人|口》 ソコで此(この)信璋(のぶあき)時代(じだい)に於(お)ける吉田(よしだ)の人口(じんこう)であるが当時(たうじ)の宗旨改人別帳(しうしあらためじんべつてう)で見(み)ると弘化(こうくわ)二年に総人口(そうじんこう)男女(たんぢよ)合(がう)
計(けい)五千五百三十五 人(にん)とあつて且(か)つ前年(ぜんねん)に比(ひ)し十人 減(げん)であると記(しる)してある又(ま)た嘉永(かえい)元年(がんねん)のものに依(よ)ると
総人口(そうじんこう)五千五百十九 人(にん)とあつて前年(ぜんねん)に比(ひ)し十 人(にん)増加(ぞうか)であると記(しる)してあるモツトモ之(こ)れは藩士(はんし)までが加(くは)
はつて居(を)るものかどうか未(いま)だ能(よ)く取調(とりしら)べては見(み)ぬが兎(と)に角(かく)連年(れんねん)人口(じんこう)に大差(たいさ)なく寧(むし)ろ何分(なにぶん)減(げん)じ行(ゆ)く状態(せうたい)
であつたのである之(これ)には種々(しゆ〴〵)の原因(げんゐん)があつた事(こと)であろうがズツト以前(いぜん)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く町(てう)
家(か)には彼(か)の伝馬役(てんまやく)などの掛(かゝ)りのものが多(おほ)かつた為(ため)に市民(しみん)は頗(すこぶ)る苦痛(くつう)を感(かん)じたもので今日(こんにち)の如(ごと)く百 姓(せう)が農(のう)
家(か)を捨(す)てゝ都会(とくわい)に集中(しふちう)すると云ふが如(ごと)き事(こと)は全(まつた)くなかつた事(こと)が分(わか)るのである又(ま)た弘化(こうくわ)二年には吉田(よしだ)大(おほ)
橋(はし)の修繕(しうぜん)が行(おこな)はれたが其事(そのこと)に関(くわん)し船町(ふなまち)の人(ひと)大村久米蔵(おほむらくめざう)と云ふ者(もの)の記録(きろく)が今(いま)船町(ふなまち)の倉庫(さうこ)に保存(ほぞん)されて居(お)
る事(こと)を序(ついで)ながら此処(こゝ)に御紹介(ごせうかい)して置(お)きたいと思(おも)ふ
◉正誤 本章(ほんせう)中村井楽所(なかむらゐらくしよ)に関(くわん)し井村弦斉君(●●●●●)の(●)厳父(●●)で(●)とあるは村井弦斉君(●●●●●)の(●)祖父(●●)で(●)の誤(あやまり)に付(つき)訂正(ていせい)す
◉松平信古の襲職
前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く松平伊豆守信璋(まつだひらいづのかみのぶあき)は嘉永(かえい)二年七月廿七日を以(もつ)て病卒(びやうそつ)せられたのであるが享年(けうねん)は廿
三 歳(さい)で(前章(ぜんせう)に廿一 歳(さい)としたるは誤(あやまり)なり)未(いま)だ嗣子(しし)がなかつたのであるソコで彼(か)の間部詮勝(まなべのりかつ)の二 男(なん)信古(のぶひさ)
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平伊豆守信璋と其時代) 四百十
【本文】
永三年正月、年六十四で歿したのである。
それから鈴木三岳の話であるが、三岳は吉田新銭町の人で、通称を与平といい、推迺舎またた再少年等の号があったが、かの士朗の門人で俳諧を能くした。かつ渡辺崋山と深い交際があってその門に画を学んだが、崋山が田原へ蟄居中は専らその家計を補助したものである。当時崋山は謹慎中であるから、表向き絵画を他人に画いてやるというような事は憚ったものであるが、多くはこの三岳の手を経てわざと蟄居以前の年号などを用い、他人の依頼に応じたものである。それ故に三岳の家には崋山の画幅屏風など大小の傑作五十余点を所蔵していたもので、かの有名なる千山万水の図なども其の一であるが、三岳の歿後追々四方へ散乱して、目今ではその画幅の中で我が豊橋市に残っているものは甚だ僅かである。三岳は嘉永七年九月四日、年六十歳で病歿したが、その頃またこの三岳の本家に当る家で、今の花園町に鈴木吉兵衛という人があった。この人は明治四年十月十二日、年六十四歳で歿したが、現今の鈴木吉兵衛君即ち梅厳と号される方の先代である。この人もまた壮年の頃に崋山と交わりのあったものであるが、その祖父に法林という人があって、この人は一種の面白い識見を有していたものである。その自筆の家憲が今もその家に残っているが、これへ崋山が書き添えをしたものが中々面白い。もっともその筆者は吉兵衛の事になっているが、その実は崋山が代作代書をしたものである。即ちこれには其の家憲の来歴から祖父の法林および父の慈全が事跡なども明記したものであって、その人々の履歴は勿論、蟄居中の崋山が消息も分かる訳で、甚だ趣味あるものと信ぜられるのである。
次になお一つお話したいのは柴田猪助という人の事であるが、この人は吉田藩士で、今の柴田豊水君の先代である。嘉永二年四月、六十六歳を以て病没したのであるが、この人の著書に米価記というものがあって、遠くは元亀三年の昔から近くは病没の前年即ち嘉永元年まで長い間ずっと引き続いて米価の統計を集めたもの
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し[文字不明]
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
である。その根気のよい事と緻密なる事には誠に驚くの外ないのであるが、また実に今日の経済上からも容易ならざる参考になるものであると思う。この書は明治維新後大蔵省に借上げられた事があったが、同省からは鄭重なる謝状を添えて返付してきたので、その原本は今も柴田家に蔵されているのである。
そこでこの信璋時代における吉田の人口であるが、当時の宗旨改人別帳で見ると、弘化二年に総人口男女合計五千五百三十五人とあって、かつ前年に比し十人減であると記してある。また嘉永元年のものによると、総人口五千五百十九人とあって、前年に比し十人増加であると記してある。もっともこれは藩士までが加わっているものかどうか、未だ能く取調べては見ぬが、兎に角連年人口に大差なく、寧ろ何分減じ行く状態であったのである。これには種々の原因があった事であろうが、ずっと以前にも一寸申し述べて置いた如く、町家には彼の伝馬役などの掛りのものが多かった為に、市民は頗る苦痛を感じたもので、今日の如く百姓が農家を捨てて都会に集中するというが如き事は全くなかった事が分かるのである。また弘化二年には吉田大橋の修繕が行われたが、その事に関し船町の人大村久米蔵という者の記録が、今船町の倉庫に保存されている事を序でながらここにご紹介して置きたいと思う。
◉正誤 本章中村井楽所に関し井村弦斉君の厳父でとあるは、村井弦斉君の祖父での誤りに付き訂正す
◉松平信古の襲職
前章に申し述べたる如く、松平伊豆守信璋は嘉永二年七月廿七日を以て病卒せられたのであるが、享年は廿三歳で(前章に廿一歳としたるは誤りなり)未だ嗣子がなかったのである。そこで彼の間部詮勝の二男信古
【欄外】
豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百十一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki and His Era) 410
**Main Text:**
...died in Ka'ei 3, first month, at age 64.
Next is the story of Suzuki Sangaku. Sangaku was from Yoshida Shinsen-chō, his common name was Yohei, and he had pen names including Suinoya and Saishōnen. He was a disciple of the aforementioned Shirō and was skilled in haikai poetry. He also had close relations with Watanabe Kazan and studied painting under him. While Kazan was confined to Tahara, Sangaku exclusively supported his household finances. Since Kazan was under house arrest at the time, he refrained from openly painting for others, but mostly worked through Sangaku's hands, deliberately using era names from before his confinement to fulfill commissions from others. Therefore, Sangaku's house contained over fifty masterpieces by Kazan, including paintings and folding screens of various sizes. The famous "Thousand Mountains and Ten Thousand Waters" painting was among them, but after Sangaku's death they gradually scattered in all directions, and today very few of those paintings remain in our Toyohashi city. Sangaku died of illness on September 4, Ka'ei 7, at age 60.
Around that time, at the main family house related to this Sangaku, in present-day Hanazono-chō, there was a man named Suzuki Kichibei. This person died on October 12, Meiji 4, at age 64, and was the predecessor of the current Suzuki Kichibei, who goes by the pen name Baigan. This person also had relations with Kazan during his youth. His grandfather was named Hōrin, who possessed a unique and interesting perspective. His handwritten family constitution still remains in the house, and Kazan's additions to it are quite interesting. Although the writer is listed as Kichibei, in reality it was ghostwritten by Kazan. It clearly records the history of the family constitution, as well as the achievements of grandfather Hōrin and father Jizen, and through the biographies of these people, one can also understand the circumstances of Kazan during his confinement, making it a work of great interest.
Next, I would like to discuss one more person - Shibata Inosuke. This person was a Yoshida retainer and the predecessor of the current Shibata Hōsui. He died of illness in Ka'ei 2, fourth month, at age 66. Among his writings was something called "Rice Price Record," which continuously collected rice price statistics over a long period from the distant past of Genki 3 up to the year before his death, Ka'ei 1.
**Margin:**
Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his manuscript nears completion...
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of Sanyō Newspaper.
**Main Text:**
His perseverance and meticulousness are truly amazing, and I believe this work serves as an invaluable reference for today's economic studies as well. After the Meiji Restoration, this book was borrowed by the Ministry of Finance, which returned it with a formal letter of thanks, so the original is still preserved in the Shibata family.
Now, regarding the population of Yoshida during Nobuaki's era, according to the religious registry records of the time, in Kōka 2 the total population of men and women combined was 5,535 people, representing a decrease of ten people from the previous year. According to the records from Ka'ei 1, the total population was 5,519 people, an increase of ten people from the previous year. It's unclear whether these figures include retainers, as I haven't thoroughly investigated this, but in any case, the population showed little change from year to year and was actually somewhat declining. There were various causes for this, but as I mentioned briefly much earlier, townspeople suffered greatly from duties such as post-horse services, so unlike today where farmers abandon agriculture to concentrate in cities, such phenomena were completely absent. Also in Kōka 2, repairs were made to Yoshida's great bridge, and I would like to mention in passing that records by a man named Ōmura Kumezō from Funa-machi regarding this matter are still preserved in a warehouse in Funa-machi.
◉Correction: In this chapter regarding Nakai Rakusho, where it says "strict father of Imura Gensai," it should be corrected to "grandfather of Murai Gensai."
◉Matsudaira Nobuhisa's Succession
As stated in the previous chapter, Matsudaira Izu-no-kami Nobuaki died of illness on July 27, Ka'ei 2, at the age of 23 (the previous chapter's statement of age 21 was an error), and he had no heir. Therefore, Nobuhisa, the second son of Manabe Norikatu...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 411