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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 23

ページ: 23

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【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十八 【本文】       ぬと思(おも)ふ、 従(したがつ)て文明(ぶんめい)三 年(ねん)に古白(こはく)三十 歳(さい)たりしものとするも其(その)討死(うちじに)の時(とき)は六十六 歳(さい)となる訳(わけ)であるが此(この)        時(とき)に嫡子(ちやくし)の成三(しげかづ)が五 歳(さい)であつたと書(か)いたものがあるし又(また)其(その)弟(おとゝ)の信成(のぶしげ)があつたのあるから如何(いか)にも古(こ)        白(はく)の年齢(ねんれい)と不権衡(ふけんこう)の事になると思(おも)ふのである、 特(とく)に此(この)信成(のぶしげ)は後(のち)に至(いた)りて矢張(やはり)湖泊(こはく)と号(ごう)したのであるが        宗長(そうてう)にも亦(ま)た二 代目(だいめ)の宗長(そうてう)があつたのであるから古白(こはく)の号(ごう)も先人(せんにん)に古伯(こはく)と云(い)つた人(ひと)のあるのに因(ちな)むで        名(なづ)けたものと考(かんが)へても強(しい)て無利(むり)なる説(せつ)ではないと信(しん)ずる、 夫(そ)れのみならず豊川(とよかは)の花井寺(はなゐじ)に養林院(やうりんゐん)方順(はうじゆん)        大禅門(だいぜんもん)と云(い)ふ位牌(ゐはい)がある、 此人(このひと)は文明(ぶんめい)十四 年(ねん)七月七日に死(し)んだ人(ひと)であるが牧野村(まきのむら)牧野(まきの)さち氏(し)方(かた)の記録(きろく)       には之(これ)が古白(こはく)の戒名(かいめう)だと伝(つた)へられて居(を)るのみならず現(げん)に新(あた)らしき位牌(ゐはい)には古白(こはく)の二 字(じ)を加(くは)えて方順(はうじゆん)古(こ)        白(はく)と刻(こく)してある、 又(ま)た柳貝津(やながいつ)の成富(しげとみ)の墓(はか)の隣(とな)りに一 基(き)の古墳(こふん)があるが口碑(こうひ)には古白(こはく)の墓(はか)と伝(つた)へられて       ある、 然(しか)れ共(ども)古白(こはく)成時(しげとき)は前(ぜん)にも云(い)ひし如(ごと)く永正(えいせう)三 年(ねん)の死(し)で今橋城(いまはしぜう)に於(おい)て戦死(せんし)したのであるから此(この)位牌(ゐはい)       の人(ひと)とは年代(ねんだい)が違(ちが)ふのみならず牧野村(まきのむら)に墓(はか)のあるのは道理(どうり)に合(あ)はぬ、 従(したがつ)て此(この)位牌(ゐはい)又(また)は古墳(こふん)の人(ひと)が「コ       ハク」と云(い)つた人(ひと)であると云(い)ふ伝説(でんせつ)口碑(こうひ)は捨(す)てられぬが之(これ)と同時(どうじ)に此(この)「コハク」は今橋(いまはし)に築城(ちくぜう)した古白(こはく)        成時(しげとき)ではないと云(い)ふことも信(しん)ぜられるのである、 然(しか)らは此(この)位牌(ゐはい)の人(ひと)は古白(こはく)の父(ちゝ)成冨(しげとみ)であるかと云(い)ふに成(しげ)        冨(とみ)は文明(ぶんめい)より前(まへ)の文正(ぶんせい)三 年(ねん)に死(しん)で居(を)るから夫(そ)れでもない、 即(すなは)ち此(この)位牌(ゐはい)の人(ひと)は成冨(しげとみ)でもなく成時(しげとき)でもな       く別(べつ)に古伯(こはく)と号(ごう)した人(ひと)であつて文明(ぶんめい)三 年(ねん)財賀寺(ざいがじ)に棟札(むなふだ)を上(あ)げた願主(がんしゆ)ではなかろうか、 夫(そ)れ等(ら)こ之(こ)れ等(ら)の        点(てん)より考(かんが)へてドウモ古伯(こはく)と古白(こはく)とは仝(おな)じ牧野(まきの)の一 族(ぞく)ではあるが別人(べつじん)であるように信(しん)ぜられるのである        古白(こはく)の素性(すぜう)に関(くわん)しては大要(たいえう)以上(いぜう)述(のべ)た如(ごと)くであるが寛政重修諸家譜(かんせいしうしうしよかふ)に古白(こはく)は明応(めいおう)四 年(ねん)四月八日 足利義稙(あしかゞよしたね)       の命(めい)によつて三河国(みかはのくに)諸士(しよし)の旗頭(はたがしら)となつたとしてある、 蓋(けだ)し其頃(そのころ)の足利将軍(あしかゞせうぐん)の勢望(せいぼう)は頗(すこぶ)る衰(おとろ)へたもので       あるから、 仮令(たとへ)三河諸士(みかはしよし)の旗頭(はたがしら)を命(めい)ぜられた処(ところ)で、 事実(じじつ)に於(おい)ては余(あま)り巾(はゞ)の利(き)いたものでもなかつたで 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【本文】       あろうが兎(と)に角(かく)、 当時(とうじ)古白(こはく)が三河(みかは)に於(おい)て漸(やうや)く頭角(とうかく)を現(あら)はすに至(いた)つたことは事実(じじつ)である、 又(また)古白(こはく)が今(いま)の豊(とよ)        橋市(はしし)中(なか)八の神明社殿(しんめいしやでん)の造営(ざうえい)をしたのは此(この)明応(めいおう)の六 年(ねん)であるが、明応(めいおう)も 九 年(ねん)で文亀(ぶんき)と改(あらた)まり文亀(ぶんき)は僅(わづか)に       三 年(ねん)で四 年目(ねんめ)には永正(えいせう)となつたのである、 即(すなは)ち其(その)二 年(ねん)に今橋城(いまはしぜう)は落成(らくせい)したのであるが古白(こはく)が初(はじ)めて此(この)        今橋城(いまはしぜう)を築(きづ)いた時の事情(じぜう)に付(つい)ては矢張(やはり)色々(いろ〳〵)の説(せつ)がある、二 葉松(ばまつ)には今川氏親(いまがはうじちか)の命(めい)によつて築(きづ)いたもの       であるとしてあつて牛久保(うしくぼ)密談記(みつだんき)にも四月八日 古白(こはく)が牛窪(うしくぼ)の若宮(わかみや)八 幡(まん)に参詣(さんけい)の時に駿河(するが)から使者(ししや)が到(とう)        着(ちやく)して当国(とうごく)馬見塚(まみづか)辺(へん)に一 城(ぜう)を築(きづ)くべしとの命(めい)で、 古白(こはく)は身(み)の誉(ほま)れ何事(なにごと)か之(これ)に如(し)かんと喜(よろこ)んだとの事が        書(か)いてある、 併(しか)し此(この)築城(ちくぜう)が氏親(うじちか)の命(めい)であると云(い)ふことは今(いま)確実(かくじつ)なる証拠(せうこ)がなく又(ま)た其他(そのた)の信(しん)ずべき書物(しよもつ)       には熟(いづ)れも認(したゝめ)めて居(ゐ)ないから先(ま)づ疑問(ぎもん)であるが、 同(おな)じ密談記(みつだんき)に築城(ちくぜう)当時(とうじ)の模様(もやう)を記(しる)して         牧野成時(まきのしげとき)は牛窪(うしくぼ)組与力(くみよりき)の面々(めん〳〵)召連(めしつ)れ給(たま)ひ、 馬見塚(まみづか)の岡(をか)を撿分(けんぶん)して入道(にうどう)ケ淵(ふち)と云(い)ふ所(ところ)を城地(ぜうち)に定(さだ)め数(すう)        千の人歩(にんぷ)を集(あつ)め、 此(この)淵(ふち)半(なか)ば埋(うづ)めんとし給(たま)へ共(ども)、 豊川(とよかは)の流岸(ながれきし)を洗(あら)ひ其上(そのうへ)差(さ)し来(きた)る潮先(しほさき)にて中々(なか〳〵)事(こと)ゆか        ず、かゝる深淵(しんえん)には主有(ぬしあ)るものなり之(これ)を蔑(ないがしろ)にする時(とき)は祟(たゝ)り障(さは)りをなすもの也、さらば仏神(ほとけかみ)の力(ちから)を        からむ幸(さいはひ)当国(とうごく)吉祥山(きちぜうざん)は霊地(れいち)也(なり)此山(このやま)の塊(つちくれ)を申下(もうしくだ)して、 之(これ)にて埋初(うめはじ)めそれより岡土(こうど)を運(はこ)ぶ、其外(そのほか)貴僧(きそう)         高僧(こうそう)の御祈祷(ごきとう)別(べつ)して天王宮(てんわうぐう)若宮(わかみや)熊野(くまの)大権現(だいごんげん)祈願(きがん)川社(かはやしろ)の祭(まつり)執行(しつこう)抽丹(たんぜい)誠(ぬきんで)給(たま)へは、 水筋(みづすじ)息(いき)ながらかに永(えい)         正(せう)二 丑年(うしのとし)成就(ぜうじゆ)し、 名(なづ)けて今橋城(いまはしぜう)と云(い)ふ       とあるのは俗間(ぞくかん)の伝説(でんせつ)を書(か)いたもので牽強附会(けんけうふくわい)の様(やう)ではあるが又(ま)た実(じつ)に味(あじは)ふべき点(てん)があると思(おも)ふ、 即(すなは)       ち古白(こはく)が此時(このとき)に築(きづ)いた城(しろ)は矢張(やはり)今(いま)の豊橋城址(とよはしぜうし)の地(ち)で歩兵(ほへい)第十八 連隊(れんたい)のある処(ところ)であるが、 勿論(もちろん)其(その)当時(とうじ)は        今日(こんにち)の如(ごと)く広大(こうだい)なる城(しろ)ではなかつたに相違(さうゐ)ない、 併(しか)し其頃(そのころ)此川幅(このかははゞ)はまだ中々(なか〳〵)広(ひろ)くて流(なが)れも激(はげ)しく深淵(しんえん)       であつたのは事実(じじつ)と信(しん)ぜられる、 又(また)馬見塚(まみづか)の地名(ちめい)であるが此(この)城(しろ)の築(きづ)かれた永正(えいせう)の頃(ころ)に果(はた)して此辺(このへん)を馬(ま) 【欄外】 豊橋市史談    (今橋築城と牧野古白)                      十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (今橋築城と牧野古白)                      十八 【本文】       ないと思う。従って文明三年に古白が三十歳であったとしても、その討死の時は六十六歳となる訳であるが、この        時に嫡子の成三が五歳であったと書いたものがあるし、またその弟の信成があったのであるから、いかにも古        白の年齢と不釣り合いな事になると思うのである。特にこの信成は後に至って同じく湖白と号したのであるが、        宗長にも二代目の宗長があったのであるから、古白の号も先人に古伯と言った人があるのにちなんで        名づけたものと考えても決して無理な説ではないと信ずる。それのみならず豊川の花井寺に養林院方順        大禅門という位牌がある。この人は文明十四年七月七日に死んだ人であるが、牧野村牧野さち氏方の記録       には、これが古白の戒名だと伝えられているのみならず、現に新しい位牌には古白の二字を加えて方順古        白と刻してある。また柳貝津の成富の墓の隣に一基の古墳があるが、口碑には古白の墓と伝えられて       ある。しかしながら古白成時は前にも言ったように永正三年の死で今橋城において戦死したのであるから、この位牌       の人とは年代が違うのみならず、牧野村に墓があるのは道理に合わない。従ってこの位牌または古墳の人が「コ       ハク」と言った人であるという伝説・口碑は捨てられないが、これと同時にこの「コハク」は今橋に築城した古白        成時ではないということも信じられるのである。それならばこの位牌の人は古白の父成富であるかというに、成        富は文明より前の文正三年に死んでいるからそれでもない。即ちこの位牌の人は成富でもなく成時でもな       く、別に古伯と号した人であって、文明三年に財賀寺に棟札を上げた願主ではなかろうか。それ等これ等の        点より考えて、どうも古伯と古白とは同じ牧野の一族ではあるが別人であるように信じられるのである。        古白の素性に関しては大要以上述べたとおりであるが、『寛政重修諸家譜』に古白は明応四年四月八日足利義稙       の命によって三河国諸士の旗頭となったとしてある。蓋しその頃の足利将軍の勢望は頗る衰えたもので       あるから、たとえ三河諸士の旗頭を命ぜられた処で、事実においては余り効力のあるものでもなかった 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は、その該博なる知識と不断の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿がほぼ成るに際し 【左頁】 【本文】       であろうが、ともかく当時古白が三河において漸く頭角を現すに至ったことは事実である。また古白が今の豊        橋市中八の神明社殿の造営をしたのはこの明応の六年であるが、明応も九年で文亀と改まり、文亀はわずかに       三年で四年目には永正となったのである。即ちその二年に今橋城は落成したのであるが、古白が初めてこの        今橋城を築いた時の事情については、やはり色々の説がある。『二葉松』には今川氏親の命によって築いたもの       であるとしてあって、『牛久保密談記』にも「四月八日古白が牛窪の若宮八幡に参詣の時に駿河から使者が到        着して当国馬見塚辺に一城を築くべし」との命で、古白は「身の誉れ何事かこれに如かん」と喜んだとの事が        書いてある。しかしこの築城が氏親の命であるということは今確実なる証拠がなく、また其他の信ずべき書物       にはいずれも記されていないから、まず疑問であるが、同じ密談記に築城当時の模様を記して         「牧野成時は牛窪組与力の面々召し連れ給い、馬見塚の岡を検分して入道ヶ淵という所を城地に定め数        千の人夫を集め、この淵半ば埋めんとし給えども、豊川の流れが岸を洗いその上差し来る潮先にて中々事行か        ず、かかる深淵には主あるものなりこれを蔑ろにする時は祟り障りをなすもの也、さらば仏神の力を        借らん、幸い当国吉祥山は霊地なり、この山の土塊を申し下して、これにて埋め初めそれより岡土を運ぶ、その外貴僧         高僧の御祈祷別して天王宮若宮熊野大権現祈願川社の祭執行し丹精を尽し給えば、水筋穏やかに永         正二年丑年成就し、名づけて今橋城と言う」       とあるのは俗間の伝説を書いたもので牽強付会のようではあるが、また実に味わうべき点があると思う。即       ち古白がこの時に築いた城は、やはり今の豊橋城址の地で歩兵第十八連隊のある処であるが、もちろんその当時は        今日のごとく広大なる城ではなかったに相違ない。しかしその頃この川幅はまだ中々広くて流れも激しく深淵       であったのは事実と信じられる。また馬見塚の地名であるが、この城の築かれた永正の頃に果たしてこの辺を馬 【欄外】 豊橋市史談  (今橋築城と牧野古白)                      十九

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Construction of Imahashi Castle and Makino Kohaku)                      18 【Main text】       I think not. Therefore, even if Kohaku (古白) was thirty years old in Bunmei 3rd year, he would be sixty-six at the time of his death in battle, but       there are records stating that his eldest son Narimitsu was five years old at that time, and there was also his younger brother Nobushige, which would make Kohaku's       age quite disproportionate. Particularly, this Nobushige later also took the name Kohaku, and       since there was also a second-generation Sōchō, it would not be unreasonable to believe that the name Kohaku was adopted after an earlier person called Kohaku (古伯).       Moreover, at Hanai Temple in Toyokawa there is a memorial tablet reading "Yōrin-in Hōjun Daizen-mon." This person died on July 7th of Bunmei 14th year, and according to records at Mr. Makino Sachi's house in Makino Village,       not only is this said to be Kohaku's posthumous Buddhist name, but the newer memorial tablet actually has the two characters for Kohaku added, reading "Hōjun Ko-       haku." Also, next to Naritomi's grave at Yanagaizu there is an ancient tomb that according to oral tradition is said to be Kohaku's grave.       However, since Kohaku Shigetoki died in Eishō 3rd year as mentioned before, dying in battle at Imahashi Castle, not only does the date differ from this memorial tablet's person, but having a grave in Makino Village doesn't make sense. Therefore, while the legend and oral tradition that this memorial tablet or ancient tomb belongs to someone called "Ko-       haku" cannot be dismissed, it can simultaneously be believed that this "Kohaku" is not the same as the Kohaku Shigetoki who built the castle at Imahashi.       Then, is this memorial tablet's person Kohaku's father Naritomi? No, because Naritomi died in Bunshō 3rd year, before the Bunmei era. That is, this memorial tablet's person is neither Naritomi nor Shigetoki,       but another person who took the name Kohaku (古伯), and was perhaps the petitioner who erected the ridge beam tablet at Zaigaji Temple in Bunmei 3rd year. From these various       points, it seems quite believable that Kohaku (古伯) and Kohaku (古白) were of the same Makino clan but different people.       Regarding Kohaku's background, it is largely as described above, but the "Kansei Chōshū Shokafu" states that on April 8th of Meiō 4th year, Kohaku became the leader of Mikawa Province's warriors by order of Ashikaga Yoshitane.       Since the Ashikaga shogun's power and prestige had considerably declined by that time, even being appointed leader of Mikawa's warriors would not have carried much practical authority. 【Margin】  Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and tireless energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his manuscript nears completion... 【Left page】 【Main text】       However, it is a fact that Kohaku was beginning to make his mark in Mikawa at that time. Also, Kohaku's construction of the current Naka-ya Shinmei Shrine hall in Toyohashi City was in Meiō 6th year, but Meiō ended in its 9th year and changed to Bunki, and Bunki lasted only       three years before becoming Eishō in the fourth year. Imahashi Castle was completed in the second year of Eishō, but regarding the circumstances when Kohaku first       built this Imahashi Castle, there are various theories. "Futaba-matsu" states it was built by order of Imagawa Ujichika,       and "Ushikubo Mitsudan-ki" also records that "on April 8th when Kohaku was visiting Wakamiya Hachiman shrine at Ushikubo, a messenger arrived from Suruga       with orders to build a castle in the vicinity of Mamizuka in this province," and Kohaku rejoiced saying "what greater honor could there be for me?"       However, since there is no reliable evidence that this castle construction was ordered by Ujichika, and no other trustworthy documents       record this, it remains questionable. But the same Mitsudan-ki describes the situation during castle construction:         "Makino Shigetoki gathered the members of the Ushikubo group retainers, inspected the hill at Mamizuka and chose a place called Nyūdōgafuchi as the castle site, assembling several        thousand laborers to fill half of this deep pool, but the Toyokawa's current washed the banks and the incoming tide made progress very difficult.        Such deep pools have spiritual masters, and if treated carelessly will bring curses and hindrances, so let us borrow the power of buddhas and gods.        Fortunately, Kichijō-zan in this province is a sacred place, so soil was requested from this mountain to begin the filling, then hill soil was transported. Additionally, prayers by noble monks        and high priests, especially at Tennō-gū, Wakamiya, Kumano Daigongen, river shrine festivals were conducted with utmost devotion, and the water flow became calm, completing the work in Eishō        2nd year of the Ox, and it was named Imahashi Castle."       This appears to record folk legends and seems somewhat contrived, but I think it contains truly significant points. Indeed,       the castle that Kohaku built at this time was at the site of present-day Toyohashi Castle where the 18th Infantry Regiment is located, though of course it was not       as extensive as today's castle. However, it can be believed that at that time this river was still quite wide with swift currents and deep pools.       Regarding the place name Mamizuka, whether this area was actually called Ma- 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (Construction of Imahashi Castle and Makino Kohaku)                      19