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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 221

ページ: 221

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十四 【本文】       て申述(まをしの)ぶるのも無用(むよう)ではなかろうと思(おも)ふのみならず然(しか)る後(のち)追々(おい〳〵)に前(まへ)に向(むか)つて話(はなし)を進(すゝ)めるのが順序(じゆんぢよ)であ       ると考(かんがへ)ふるから或(あるひ)は重複(ちようふく)の事もあるであろうが成(な)るべくそれを避(さ)けて大要(たいえう)を左(さ)に御話(おはなし)する事にする       諸君(しよくん)も既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)く徳川氏(とくがはし)の最初(さいしよ)と云ふものは我国(わがくに)も極端(きよくたん)なる鎖国主義(さこくしゆぎ)ではなかつたのであるが       彼(か)の三代将軍(さんだいぜうぐん)家光(いへみつ)の時代(じだい)に方(あた)つて九 州(しう)に島原(しまばら)の乱(らん)があつて以来(いらい)は一 方(ぱう)に外教(ぐわいけふ)の禁(きん)を厳重(げんぢう)にすると同時(どうじ)       に愈々(いよ〳〵)鎖国(さこく)の方針(はうしん)に傾(かたむ)いたのであるが独(ひと)り和蘭国(おらんだこく)のみは引続(ひきつゞ)いて我国(わがくに)と交通(かうつう)をなして居(を)つたのである       然(しか)るに我国(わがくに)が長(なが)く太平(たいへい)の夢(ゆめ)を貪(むさば)つて居(を)る間(あひだ)に世界(せかい)の大勢(たいせい)と云ふものは漸(やうや)く一 変(ぺん)して英(えい)、仏(ふつ)、露(ろ)、米(べい)等(とう)       の新興国(しんこうこく)は益々(ます〳〵)西班牙(すぺいいん)、葡萄牙(ぽるとがる)、和蘭(おらんだ)などゝ云ふ国(くに)を凌駕(れうが)して其(その)勢力(せいりよく)を次第(しだい)に東方(とうはう)に伸(の)ばし露国(ろこく)が彼(か)       の西伯利亜(しべりや)の荒原(くわうげん)を過(す)ぎて終(つひ)に黒龍江(こくりうこう)辺(へん)の侵略(しんりやく)を初(はじ)めたのは既(すで)に慶安(けいあん)二年の昔(むかし)にあると云ふ事である       其(その)後(のち)其(その)東侵(とうしん)南下(なんか)の勢(いきほひ)は止(や)まずして漸(やうや)く千島(ちじま)並(ならび)に樺太(かばふと)の方面(はうめん)に進入(しんにふ)し元禄時代(げんろくじだい)に於(おい)ても既(すで)に屡々(しば〴〵)其(その)進(しん)       入(にふ)を見(み)たと云ふ事であるが明和(めいわ)の初(はじめ)に当(あた)つては其(その)著(いちじる)しきものがあつたのである此(この)事(こと)はズツト前章(せんせう)に       於(おい)ても既(すで)に申述(まをしの)べて置(お)いたのであるが寛政(かんせい)五年 露将(ろせう)ラツクスマンが蝦夷地(えぞち)に来(きた)りし時(とき)は初(はじ)めて徳川幕(とくがはゞく)       府(ふ)をして一 問題(もんだい)たらしめたのである此(この)時(とき)は更(さら)に長崎(ながさき)に来(きた)るべき旨(むね)を記(しる)せる信牌(しんはい)を与(あた)へて兎(と)に角(かく)一 時(じ)を       瀰縫(ひほう)したが当時(たうじ)は屡々(しば〴〵)露船(ろせん)の我(わが)北辺(ほくへん)を窺(うかゞ)ふものがあつたのであるモツトモ露国(ろこく)に於(おい)ても其(その)頃(ころ)欧州(おうしう)に仏(ふつ)       国革命(こくかくめい)の騒動(さうどう)がありそれのみならず波蘭分割(はうらんぶんかつ)の問題(もんだい)などが起(おこ)つて居(を)つたので其(その)後(のち)暫(しばら)く東方経略(とうはうけいりやく)の手(て)を       弛(ゆる)めたがアレキサンダー帝(てい)が即位(そくゐ)して後(のち)四年 我(わ)が享和(けうわ)三年に至(いた)つて又(ま)た使節(しせつ)レサノフを我国(わがくに)に派遣(はけん)し       それが翌年(よくねん)の九月 長崎(ながさき)へやつて来(き)たのであるモツトモ其(その)当時(たうじ)の事は先(さ)きに信明(のぶあき)時代(じだい)に於(おい)て種々(しゆ〴〵)申述(まをしの)べ       て置(お)いた如(ごと)くであるが其(その)時(とき)レサノフの一 行(かう)は皈途(きと)我(わが)北辺(ほくへん)を調査(てうさ)して警備(けいび)の少(すくな)いことを看破(かんぱ)したるものゝ       如(ごと)く其(その)一 行(かう)の紀行文中(きかうぶんちう)に於(おい)て樺太(かばふと)奪取(だつしゆ)の意見(いけん)を漏(もら)したのであるが之(これ)が八九年の後(のち)我国人(わがこくじん)の手(て)によりて 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       邦文(ほうぶん)に訳(やく)されたのである即(すなは)ち所謂(いはゆる)奉使日本紀行(ほうしにほんきかう)なるものであるが之(これ)は余程(よほど)我国(わがくに)が露国(ろこく)に対(たい)する外交(ぐわいかう)方(はう)       針(しん)に悪影響(あくえいけう)を与(あた)へたるものであると思(おも)ふ其(その)後(のち)露国船(ろこくせん)の侵掠(しんれう)は我(わが)北辺(ほくへん)に絶(た)ゆることなく一 時(じ)は世論(せろん)も沸騰(ふつとう)       したのであつたが其(その)内(うち)幸(さいはひ)に又(ま)た中絶(ちうぜつ)するに至(いた)つた事情(じぜう)は矢張(やはり)前章(ぜんせう)信明(のぶあき)時代(じだい)に申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)くで       あるトコロが露国(ろこく)に次(つい)で我国(わがくに)にやつて来(き)たのは英国(えいこく)である元来(がんらい)英国(えいこく)は諸君(しよくん)も知(し)らるゝ如(ごと)く既(すで)に元和(げんわ)の       昔(むかし)に於(おい)て肥前(ひぜん)の平戸(ひらど)に商館(せうくわん)を設置(せつし)して居(を)つたのであるが当時(たうじ)余(あま)り利益(りえき)がないと云ふので其(その)七年 遂(つひ)に自(みづか)       ら退去(たいきよ)したのである然(しか)るに其(その)後(のち)五十年を経(へ)て我(わが)延宝(えんほう)元年(がんねん)五月 英(えい)の東印度会社(ひがしいんどくわいしや)は再(ふたゝ)び我国(わがくに)との通商(つうせう)を開(ひら)       きたいと云ふので一 船(せん)を長崎(ながさき)に送(おく)つたのである蓋(けだ)し英国(えいこく)も此(この)数(すう)十 年(ねん)と云ふものは内乱(ないらん)が打続(うちつゞ)いて其(その)手(しゆ)       足(そく)を海外(かいぐわい)に伸(のば)す程(ほど)の余裕(よゆう)もなかつたものと思(おも)はるゝが此(この)頃(ころ)に至(いた)つて御承知(ごせうち)の東印度会社(ひがしいんどくわいしや)と云ふものは       次第(しだい)に印度(いんど)に於(おい)て成功(せいこう)し其(その)勢力(せいりよく)は著(いちじる)しく増大(ぞうだい)したので遂(つひ)に和蘭(おらんだ)の商勢(せうせい)に拮抗(きつこう)し東洋貿易(とうようぼうえき)の覇者(はしや)たら       むとするの希望(きぼう)を抱(いだ)いたものであるから茲(こゝ)に復(ふたゝ)び我国(わがくに)とも通商(つうせう)をしたいと云ふのでレターンと称(せう)する       一 船(せん)を我国(わがくに)に送(おく)つたのであるトコロが申(まを)す迄(まで)もなく我国(わがくに)に於(おい)ては当時(たうじ)一 層(そう)外交(ぐわいかう)に制限(せいげん)を加(くは)へて従来(じうらい)通(つう)       商(せう)せる処の清国(しんこく)並(ならび)に和蘭(おらんだ)の二 国(こく)にさへも貿易上(ぼうえきぜう)の制限(せいげん)を厳(げん)にしたる時(とき)であつたのみならず我国(わがくに)が外国(ぐわいこく)       の事情(じぜう)を知(し)るには当時(たうじ)独(ひと)り和蘭(おらんだ)の通信(つうしん)にのみ待(ま)つた時代(じだい)であるのに和蘭(おらんだ)と英国(えいこく)とは前(まへ)にも申述(まをしの)べた如(ごと)       き事情(じぜう)で通商上(つうせうぜう)講和(かうわ)し難(がた)き敵(てき)であるから和蘭人(おらんだじん)は勉(つと)めて英人(えいじん)と我国(わがくに)との通商(つうせう)を阻隔(そかく)せむとした様子(やうす)が       あつて英国王(えいこくわう)と葡萄牙王家(ほろとがるわうか)とは姻戚(いんせき)の間柄(あひだがら)である事などを申述(まをしの)べたので我国(わがくに)に於(おい)ては外教騒動(ぐわいけふさうどう)の一 件(けん)       から葡萄牙人(ほるとがるじん)は特(とく)に嫌(きら)つて居(を)る場合(ばあひ)であるから遂(つひ)に此(この)英国(えいこく)をも一も二もなく拒絶(きよぜつ)すると云ふ方針(はうしん)を取(と)       つたのである其(その)後(のち)英船(えいせん)は屡々(しば〴〵)我(わが)海岸(かいがん)に出没(しゆつぼつ)したが茲(こゝ)に是非(ぜひ)諸君(しよくん)に申述(まをしの)べたいと思(おも)ふのは其(その)頃(ころ)彼(か)のナポ       レオンが飛躍(ひやく)の為(ため)に欧州(おうしう)の天地(てんち)が攪乱(かくらん)されたる事である其(その)結果(けつくわ)我(わ)が文化(ぶんくわ)三年に和蘭(おらんだ)の本国(ほんこく)は遂(つひ)に仏国(ふつこく) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百十四 【本文】 て申し述べるのも無用ではなかろうと思うのみならず、その後追々に前に向かって話を進めるのが順序であると考えるから、或いは重複の事もあるであろうが、なるべくそれを避けて大要を左にお話しすることにする。 諸君も既にご承知の如く、徳川氏の最初というものは我が国も極端なる鎖国主義ではなかったのであるが、かの三代将軍家光の時代に当たって九州に島原の乱があって以来は、一方に外教の禁を厳重にすると同時に、いよいよ鎖国の方針に傾いたのであるが、ひとりオランダ国のみは引き続いて我が国と交通をなしていたのである。 然るに我が国が長く太平の夢を貪っている間に、世界の大勢というものは漸く一変して英、仏、露、米等の新興国は益々スペイン、ポルトガル、オランダなどという国を凌駕して、その勢力を次第に東方に伸ばし、ロシア国がかのシベリアの荒原を過ぎて終に黒龍江辺の侵略を始めたのは既に慶安二年の昔にあるということである。 その後その東侵南下の勢いは止まずして、漸く千島並びに樺太の方面に進入し、元禄時代においても既に屡々その進入を見たということであるが、明和の初めに当たってはその著しきものがあったのである。この事はずっと前章においても既に申し述べて置いたのであるが、寛政五年ロシア将ラクスマンが蝦夷地に来たりし時は初めて徳川幕府をして一問題たらしめたのである。この時は更に長崎に来るべき旨を記せる信牌を与えて兎に角一時を糊塗したが、当時は屡々ロシア船の我が北辺を窺うものがあったのである。もっともロシア国においてもその頃ヨーロッパに仏国革命の騒動があり、それのみならず波蘭分割の問題などが起こっていたので、その後暫く東方経略の手を弛めたが、アレキサンダー帝が即位して後四年、我が享和三年に至って又た使節レザノフを我が国に派遣し、それが翌年の九月長崎へやって来たのである。 もっともその当時の事は先きに信明時代において種々申し述べて置いた如くであるが、その時レザノフの一行は帰途我が北辺を調査して警備の少ないことを看破したるもののごとく、その一行の紀行文中において樺太奪取の意見を漏らしたのであるが、これが八九年の後我が国人の手によりて 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 邦文に訳されたのである。即ち所謂「奉使日本紀行」なるものであるが、これは余程我が国がロシア国に対する外交方針に悪影響を与えたものであると思う。その後ロシア国船の侵掠は我が北辺に絶ゆることなく、一時は世論も沸騰したのであったが、その内幸いに又た中絶するに至った事情は矢張り前章信明時代に申し述べて置いた如くである。 ところがロシア国に次いで我が国にやって来たのは英国である。元来英国は諸君も知らるる如く既に元和の昔において肥前の平戸に商館を設置していたのであるが、当時あまり利益がないということでその七年遂に自ら退去したのである。然るにその後五十年を経て我が延宝元年五月、英の東インド会社は再び我が国との通商を開きたいということで一船を長崎に送ったのである。 蓋し英国もこの数十年というものは内乱が打ち続いてその手足を海外に伸ばす程の余裕もなかったものと思われるが、この頃に至ってご承知の東インド会社というものは次第にインドにおいて成功し、その勢力は著しく増大したので遂にオランダの商勢に拮抗し、東洋貿易の覇者たらんとする希望を抱いたものであるから、ここに復び我が国とも通商をしたいということで「リターン号」と称する一船を我が国に送ったのである。 ところが申すまでもなく我が国においては当時一層外交に制限を加えて、従来通商せる処の清国並びにオランダの二国にさえも貿易上の制限を厳にしたる時であったのみならず、我が国が外国の事情を知るには当時ひとりオランダの通信にのみ待った時代であるのに、オランダと英国とは前にも申し述べた如き事情で通商上講和し難き敵であるから、オランダ人は努めて英人と我が国との通商を阻隔せんとした様子があって、英国王とポルトガル王家とは姻戚の間柄である事などを申し述べたので、我が国においては外教騒動の一件からポルトガル人は特に嫌っている場合であるから、遂にこの英国をも一も二もなく拒絶するという方針を取ったのである。 その後英船は屡々我が海岸に出没したが、ここに是非諸君に申し述べたいと思うのはその頃かのナポレオンが飛躍の為にヨーロッパの天地が攪乱されたる事である。その結果我が文化三年にオランダの本国は遂に仏国 【欄外】 豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 414 **Main Text:** I believe it would not be useless to describe these matters, and furthermore, I consider it proper procedure to then gradually advance the narrative forward. Though there may be some repetition, I shall avoid this as much as possible and discuss the main points below. As you are already aware, the Tokugawa clan in its early days did not practice an extreme isolationist policy, but after the Shimabara Rebellion occurred in Kyushu during the reign of the third shogun Iemitsu, while strictly prohibiting foreign religion on one hand, Japan increasingly inclined toward an isolationist policy. However, only the Netherlands continued to maintain relations with our country. While our country was long indulging in dreams of peace, the world situation gradually transformed completely. The rising powers of England, France, Russia, America, and others increasingly surpassed countries like Spain, Portugal, and the Netherlands, gradually extending their influence eastward. Russia's invasion of the Amur River region after crossing the Siberian wilderness is said to have begun as early as the second year of Keian. Thereafter, this eastward expansion and southward advance did not cease, gradually penetrating the Kuril Islands and Sakhalin regions. Even during the Genroku period, such intrusions were frequently observed, and they became particularly notable in the early Meiwa period. I have already discussed these matters in previous chapters, but when the Russian officer Laxman came to Ezo in Kansei 5, it first created a problem for the Tokugawa shogunate. At that time, they gave him a permit stating he should come to Nagasaki, somehow patching over the immediate situation, but Russian ships frequently reconnoitered our northern borders during this period. At that time, Russia was dealing with the turmoil of the French Revolution in Europe, and additionally problems like the partition of Poland had arisen, so they temporarily relaxed their eastern expansion efforts. However, four years after Emperor Alexander's accession, in our Kyōwa 3, they again dispatched envoy Rezanov to our country, who arrived in Nagasaki in September of the following year. The circumstances of that time were as I described in detail during the era of Nobuaki, but Rezanov's party apparently investigated our northern defenses on their return journey and perceived their weakness. In their travel accounts, they expressed opinions about seizing Sakhalin, which would be translated into Japanese by our countrymen eight or nine years later... **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper **Main Text:** ...into Japanese. This was the so-called "Record of an Embassy to Japan," which I believe had a considerably negative influence on our country's diplomatic policy toward Russia. Thereafter, Russian ships' incursions into our northern borders never ceased, and at times public opinion reached a fever pitch, but fortunately these eventually ceased for reasons I have already described in the previous chapter on Nobuaki's era. Now, following Russia, the next country to approach Japan was England. Originally, as you know, England had already established a trading post in Hirado, Hizen, in the distant past of the Genna era, but finding little profit at the time, they voluntarily withdrew after seven years. However, fifty years later, in May of our Enpō 1, the English East India Company sent a ship to Nagasaki, wanting to reopen trade with our country. Indeed, England had been plagued by continuous internal conflicts for these several decades and likely had no leisure to extend its reach overseas, but by this time the well-known East India Company had gradually achieved success in India, and its power had grown remarkably. Consequently, they hoped to compete with Dutch commercial power and become the hegemon of East Asian trade, so they sent a ship called the "Return" to our country, wanting to resume trade with Japan. However, needless to say, our country at that time had imposed even stricter limitations on foreign relations, restricting trade even with China and the Netherlands, the only two countries with which we had previously conducted commerce. Moreover, since our country relied solely on Dutch communications to learn of foreign affairs, and since the Netherlands and England were difficult commercial rivals for the reasons I mentioned earlier, the Dutch seemed to work to obstruct trade between the English and our country. They mentioned that the English king and Portuguese royal house were related by marriage, and since our country particularly disliked the Portuguese due to the foreign religion troubles, we ultimately adopted a policy of outright rejection of England as well. Thereafter, English ships frequently appeared off our coasts, but what I particularly want to tell you about is how Napoleon's rise disrupted the European world at that time. As a result, in our Bunka 3, the Netherlands homeland was finally [conquered by] France... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 415