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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 222

ページ: 222

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十六 【本文】       の属領(ぞくれう)となつたので御承知(ごせうち)の通(とほ)り当時(たうじ)仏国(ふつこく)と英国(えいこく)とは敵対(てきた)つて居(を)る場合(ばあひ)であるから英船(えいせん)は此(この)東洋(とうよう)に於(おい)       て和蘭(おらんだ)の貿易船(ばうえきせん)を捕獲(ほくわく)したいものであると云ふので和蘭(おらんだ)の東洋(とうよう)に於(お)ける根拠地(こんきよち)バタビアから此(この)長崎(ながさき)に       渡航(とかう)せる処の定期船(ていきせん)を差押(さしおさ)ふる目的(もくてき)を以(もつ)て文化(ぶんくわ)五年八月十五日 遂(つひ)に我(わが)長崎港(ながさきこう)に侵入(しんにふ)して来(き)たのである       此(この)時(とき)が即(すなは)ち彼(か)の長崎奉行(ながさきぶぎよう)松平図書頭康英(まつだひらづしよのかみやすひで)が自殺(じさつ)して以(もつ)て責任(せきにん)を明(あきらか)にしたと云ふ話(はなし)のあつた時(とき)である       之等(これら)の事情(じぜう)が能(よ)く通(つう)じない処から英船(えいせん)が我国(わがくに)に与(あた)へた悪影響(あくえいけう)は少(すくな)からざるもので当時(たうじ)我国(わがくに)に於(おい)ては露(ろ)       船(せん)と同(おな)じく英人(えいじん)を以(もつ)て国(くに)に寇(かう)するものであるとの印象(いんせう)をのみ与(あた)へたる次第(しだい)である其(その)後(のち)英国(えいこく)は遂(つひ)に先(さき)に       和蘭領(おらんだれう)であつた処のジャバを占領(せんれう)しバタビアに自己(じこ)の総督府(そうとくふ)を置(お)いたので和蘭(おらんだ)から我国(わがくに)の長崎(ながさき)に出張(しゆつてう)       して居(を)る出島(でじま)の商館(せうくわん)と云ふものをも己(おの)れの手(て)に収(おさ)めむと云ふ目的(もくてき)から文化(ぶんくわ)十年に又々(また〳〵)我(わが)長崎(ながさき)へ其(その)船(ふね)を       送(おく)つたのであるが此(この)時(とき)なども右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)は少(すこ)しも我国(わがくに)には通(つう)じなかつたのであるが今日(こんにち)から考(かんが)へて       見(み)ると実(じつ)に不可思儀(ふかしぎ)とも言(い)ふべきは和蘭国(おらんだこく)と云ふものは前(まへ)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く当時(たうじ)仏国(ふつこく)の属邦(ぞくはう)と相成(あほな)つ       て居(を)るのであるから世界中(せかいちう)に和蘭(おらんだ)の国旗(こくき)の立(た)てられてある場所(ばしよ)はない訳(わけ)であるのに独(ひと)り我国(わがくに)の長崎港(ながさきこう)       出島(でじま)にある蘭館(らんくわん)許(ばか)りは我国(わがくに)が鎖国主義(さこくしゆぎ)であつた御蔭(おかげ)を蒙(かうむ)つて独(ひと)り相変(あひかは)らずに和蘭(おらんだ)の国旗(こくき)を建(た)て通(とほ)した       のは頭(すこぶ)る面白(おもしろ)い現象(げんせう)と云ふべきであつたのである即(すなは)ち此(この)和蘭(おらんだ)の商館(せうくわん)が其後(そののち)初(はじ)めて本国(ほんごく)に消息(せうそく)を通(つう)じ得(え)       たのは後年(こうねん)オレンヂ王家(わうか)が和蘭(おらんだ)を復(ふく)せられた後(のち)であつたとは随分(ずゐぶん)奇態(きたい)なる事柄(ことがら)であつたのであるがソ       ンナ事情(じぜう)は其(その)当時(たうじ)我国(わがくに)では誰(たれ)も知(し)るものはなかつたのであるから話(はなし)は実(じつ)に面白(おもしろ)いのであると思(おも)ふ其後(そののち)       とても英船(えいせん)は屡々(しば〴〵)我(わが)海岸(かいがん)に来往(らいおう)したが之(これ)は多(おほ)く捕鯨船(ほげいせん)位(くらゐ)で格別(かくべつ)の事はなかつたのである併(しか)し之(これ)等(ら)のも       のゝ中(なか)には度々(たび〴〵)陸地(りくち)に上(あが)つて暴行(ばうかう)をなした事があるので寛政(かんせい)九年一たび弛(ゆる)められた夷船打払(えびすせんうちはらひ)の事は       文政(ぶんせい)八年二月に至(いた)つて再(ふたゝ)び二 念(ねん)よく打払(うちはら)ふべしと云ふ発令(はつれい)の一 動機(どうき)ともなつたのである 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百五十八号附録    (大正二年五月六日発行) 【本文】       かくて其(その)後(のち)十 余年(よねん)を経過(けいくわ)し天保(てんほう)十 年(ねん)に至(いた)つては前(まへ)に申述(まをしの)べたる欧州(おうしう)の内乱(ないらん)も稍(やゝ)平定(へいてい)に近(ちか)づいたのであ       るが当時(たうじ)英国(えいこく)は勿論(もちろん)仏国(ふつこく)の如(ごと)き欧州(おうしう)に於(お)ける新興(しんこう)の国(くに)と云ふものは漸(やうや)く其(その)力(ちから)を此(この)東洋(とうやう)に傾注(けいちう)するに至(いた)       つたが其(その)影響(えいけふ)として先(ま)づ支那(しな)に御承知(ごせうち)の阿片戦争(あへんせんそう)が起(おこ)つたのである而(しか)も戦争(せんそう)の結果(けつくわ)は我(わが)天保(てんはう)十三年に       至(いた)つて之(これ)等(ら)の欧州(おうしう)諸国(しよこく)に向(むか)ひ広東(かんとん)以下(いか)の五 港(こう)を開(ひら)き且(か)つ支那(しな)は香港(ほんこん)の一 島(とう)を英国(えいこく)に割譲(かつぜう)して我(わが)東洋(とうやう)史(し)       に一 新紀元(しんきげん)を劃(くわく)するに至(いた)つたのである此(こゝ)に於(おい)て英国(えいこく)が東洋(とうやう)に対(たい)する計画(けいくわく)は益々(ます〳〵)進捗(しんせん)せむとするのみな       らず其(その)他(た)の新興国(しんこうこく)をして新天地(しんてんち)を求(もと)め利源(りげん)を開発(かいはつ)せむとするの希望(きばう)を強大(けうだい)ならしめた事は一 層(そう)で我国(わがくに)       に対(たい)する開国(かいこく)の圧迫(あつぱく)も亦(ま)た之(これ)より漸(やうや)く盛(さかん)なるの形勢(けいせい)を作成(さくせい)したのである       当時(たうじ)幕府(ばくふ)に於(おい)ても此(こ)の世界(せかい)の大勢(たいせい)に余儀(よぎ)なくせられ天保(てんはう)十三年 復(ふたゝ)び外船打払(ぐわいせんうちはらひ)の禁(きん)を弛(ゆる)めたが弘化(こうくわ)二       年 英(えい)の軍艦(ぐんかん)サラマングは長崎(ながさき)に来(きた)り嘉永(かえい)二年 其(その)測量船(そくれうせん)マリナーは又(ま)た浦賀(うらが)並(ならび)に下田(しもだ)に至(いた)り幕吏(ばくり)の頗(すこぶ)る       苦慮(くりよ)した事は之(こ)れ亦(ま)た諸君(しよくん)の既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)くである       それから米国(べいこく)の我国(わがくに)に対(たい)する挙動(きよどう)であるが元来(がんらい)米国(べいこく)と我国(わがくに)とは余(あま)り古(ふる)くからの関係(くわんけい)ではなく寛政(かんせい)十年       蘭領(らんれう)バタビアに住(す)む米人(べいじん)が蘭人(らんじん)と称(せう)して長崎(ながさき)に来(き)て貨物(くわもつ)の売買(ばい〴〵)をしたのが先(ま)づ最初(さいしよ)であると云ふことで       ある其(その)後(のち)もチヨイ〳〵来航(らいかう)したものがあつたが彼(か)の天保(てんぱう)八年六月モリソン船(せん)の浦賀(うらが)に来(きた)つたのは頗(すこぶ)る       注意(ちうゐ)すべきことである此(この)事(こと)は前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べたと考(かんが)へるが実(じつ)に我国(わがくに)に重大(ぢうだい)なる影響(えいけふ)を及(およ)ぼしたもので       ある初(はじ)め米国(べいこく)の一 商館(せうくわん)に於(おい)ては我国(わがくに)の漂流民(へうりうみん)を得(え)て之(これ)を送還(そうくわん)し之(これ)に依(よ)つて通商(つうせう)の機会(きくわい)を得(え)むとしたの       であるソコでモリソンと云ふ名前(なまへ)の船(ふね)を艤(ぎ)して我国(わがくに)へ向(むか)はしめソレが天保(てんぱう)八年の六月に浦賀(うらが)に到着(たうちやく)し       たのであるトコロで其(その)渡来(とらい)の目的(もくてき)が元(も)と通商(つうせう)にあるのであるから勉(つと)めて平和(へいわ)を示(しめ)したいと云ふ処から       凡(すべ)ての武装(ぶさう)を解除(かいぢよ)してやつて来(き)たのである当時(たうじ)我国(わがくに)に於(おい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く異船打払(ゐせんうちはらひ)の令(れい) 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百十六 【本文】 の属領となったので、ご承知の通り当時フランス国と英国とは敵対している場合であるから、英船はこの東洋においてオランダの貿易船を捕獲したいものであるということで、オランダの東洋における根拠地バタビアからこの長崎に渡航する定期船を差し押さえる目的をもって、文化五年八月十五日遂に我が長崎港に侵入してきたのである。 この時が即ちかの長崎奉行松平図書頭康英が自殺して以て責任を明らかにしたという話のあった時である。 これらの事情がよく通じない処から、英船が我が国に与えた悪影響は少なからざるもので、当時我が国においてはロシア船と同じく英人を以て国に攻め寄せるものであるとの印象のみを与えた次第である。その後英国は遂に先きにオランダ領であった処のジャワを占領し、バタビアに自己の総督府を置いたので、オランダから我が国の長崎に出張している出島の商館というものをも己れの手に収めんという目的から、文化十年に又々我が長崎へその船を送ったのであるが、この時なども右の如き事情は少しも我が国には通じなかったのである。 しかし今日から考えて見ると実に不可思議とも言うべきは、オランダ国というものは前に申し述べたる如く当時フランス国の属邦と相成っているのであるから、世界中にオランダの国旗の立てられてある場所はない訳であるのに、ひとり我が国の長崎港出島にある蘭館ばかりは、我が国が鎖国主義であった御蔭を蒙って、ひとり相変わらずにオランダの国旗を建て通したのは頗る面白い現象と言うべきであったのである。即ちこのオランダの商館がその後初めて本国に消息を通じ得たのは、後年オレンジ王家がオランダを復された後であったとは随分奇怪なる事柄であったのであるが、そんな事情はその当時我が国では誰も知るものはなかったのであるから、話は実に面白いのであると思う。 その後とても英船は屡々我が海岸に来往したが、これは多く捕鯨船位で格別の事はなかったのである。併しこれ等のもののうちには度々陸地に上がって暴行をなした事があるので、寛政九年一たび弛められた異船打払の事は、文政八年二月に至って再び厳念よく打ち払うべしという発令の一動機ともなったのである。 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百五十八号附録(大正二年五月六日発行) 【本文】 かくてその後十余年を経過し、天保十年に至っては前に申し述べたるヨーロッパの内乱もやや平定に近づいたのであるが、当時英国は勿論フランス国の如きヨーロッパにおける新興の国というものは漸くその力をこの東洋に傾注するに至ったが、その影響としてまず支那にご承知の阿片戦争が起こったのである。しかも戦争の結果は我が天保十三年に至って、これ等のヨーロッパ諸国に向かい広東以下の五港を開き、かつ支那は香港の一島を英国に割譲して、我が東洋史に一新紀元を画するに至ったのである。 ここにおいて英国が東洋に対する計画は益々進捗せんとするのみならず、その他の新興国をして新天地を求め利源を開発せんとするの希望を強大ならしめた事は一層で、我が国に対する開国の圧迫も亦これより漸く盛んなるの形勢を作成したのである。 当時幕府においてもこの世界の大勢に余儀なくされ、天保十三年復び外船打払の禁を弛めたが、弘化二年英の軍艦サラマング号は長崎に来たり、嘉永二年その測量船マリナー号は又た浦賀並びに下田に至り、幕吏の頗る苦慮した事はこれ亦た諸君の既にご承知の如くである。 それから米国の我が国に対する挙動であるが、元来米国と我が国とはあまり古くからの関係ではなく、寛政十年蘭領バタビアに住む米人が蘭人と称して長崎に来て貨物の売買をしたのがまず最初であるということである。その後もちょいちょい来航したものがあったが、かの天保八年六月モリソン船の浦賀に来たったのは頗る注意すべきことである。 この事は前にも一寸申し述べたと考えるが、実に我が国に重大なる影響を及ぼしたものである。初め米国の一商館においては我が国の漂流民を得てこれを送還し、これに依って通商の機会を得んとしたのである。そこでモリソンという名前の船を艤装して我が国へ向かわしめ、それが天保八年の六月に浦賀に到着したのである。ところでその渡来の目的が元と通商にあるのであるから、努めて平和を示したいという処から凡ての武装を解除してやって来たのである。当時我が国においては前にも申し述べて置いた如く異船打払の令 【欄外】 豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 416 **Main Text:** became a French territory, and as you know, France and Britain were enemies at that time, so British ships wanted to capture Dutch trading vessels in this East Asian region. With the purpose of seizing regular ships sailing from Batavia, the Dutch base in the East Indies, to Nagasaki, they finally invaded our Nagasaki harbor on August 15th of Bunka 5. This was the very time when Nagasaki magistrate Matsudaira Zusho-no-kami Yasuhide committed suicide to take responsibility, as the story goes. Because these circumstances were not well understood, the negative impact that British ships had on our country was considerable, and at that time our country formed the impression that the British, like the Russians, were invaders attacking our nation. Later, Britain finally occupied Java, which had previously been Dutch territory, and established its own governor-general's office in Batavia. With the aim of taking control of the Dutch trading post on Dejima, which operated from the Netherlands to our Nagasaki, they again sent ships to our Nagasaki in Bunka 10, but even at this time, such circumstances were not understood at all in our country. However, looking back from today's perspective, what can truly be called mysterious is this: since the Netherlands had become a French vassal state as I mentioned earlier, there should have been no place in the world where the Dutch flag was flying, yet only the Dutch post on Dejima in our Nagasaki harbor continued to fly the Dutch flag unchanged, benefiting from our country's isolationist policy. This was indeed a most interesting phenomenon. The fact that this Dutch trading post could not communicate with its homeland until after the House of Orange was restored to the Netherlands in later years was quite a strange circumstance, but since no one in our country knew of these affairs at the time, I think the story is truly fascinating. Thereafter, British ships frequently appeared off our coasts, but these were mostly whaling ships and nothing particularly significant occurred. However, among these vessels, some repeatedly landed and committed violent acts, so the policy of expelling foreign ships, which had been relaxed in Kansei 9, became one of the motivations for the decree issued in February of Bunsei 8 to again strictly expel foreign ships. **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Konya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno □kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyō Newspaper No. 4358 Supplement (Published May 6, Taishō 2) **Main Text:** Thus, after more than ten years had passed, by Tenpō 10 the European civil wars I mentioned earlier had nearly settled, but at that time Britain and of course rising European powers like France gradually began to concentrate their strength on this East Asian region. As a result of this influence, the well-known Opium War first broke out in China. Moreover, the outcome of the war was that by our Tenpō 13, China opened five ports including Canton to these European nations and ceded the island of Hong Kong to Britain, marking a new epoch in our East Asian history. At this point, not only did Britain's plans for East Asia advance further, but other rising powers were encouraged to seek new territories and develop sources of profit, and the pressure for our country to open its doors became increasingly intense from this time forward. The shogunate at that time was also compelled by this global trend and again relaxed the prohibition on expelling foreign ships in Tenpō 13, but in Kōka 2 the British warship Samarang came to Nagasaki, and in Kaei 2 its survey ship Mariner reached Uraga and Shimoda, causing considerable concern among shogunate officials, as you are already aware. Now regarding America's actions toward our country: originally, the relationship between America and our country was not very old, and it began in Kansei 10 when Americans living in Dutch Batavia came to Nagasaki claiming to be Dutch and engaged in trade. There were occasional visits thereafter, but the arrival of the Morrison ship at Uraga in June of Tenpō 8 was particularly noteworthy. I believe I mentioned this matter briefly before, but it truly had a significant impact on our country. Initially, an American trading company obtained some of our country's castaways and sought to return them, hoping thereby to gain an opportunity for trade. So they outfitted a ship named Morrison and sent it toward our country, and it arrived at Uraga in June of Tenpō 8. Since the purpose of their visit was originally trade, they wanted to demonstrate peace, so they came after removing all armaments. At that time in our country, as I mentioned before, the order to expel foreign ships... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 417