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【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十八
【本文】
が布(し)かれてあつたのであるから之(これ)に向(むかつ)て直(たゞ)ちに発砲(はつほう)したのみならず其(その)武装(ぶさう)のないのを見(み)て余程(よほど)軽蔑(けいべつ)の
様子(やうす)を現(あら)はしたのである此(この)時(とき)米船(べいせん)は種々(しゆ〴〵)の方法(はう〳〵)を以(もつ)て其(その)他意(たい)なきことを示(しめ)さむとしたが我国(わがくに)の幕吏(ばくり)の為(ため)
に峻拒(しゆんきよ)せられて遂(つひ)に浦賀(うらが)を去(さ)るに至(いた)つたのである後(のち)此(この)米船(べいせん)は八月廿日を以(もつ)て鹿児島(かごしま)に寄港(きかう)したが之(こ)れ
亦(ま)た拒絶(きよぜつ)されたので匇惶(そうくわう)として澳門(まかを)に向(むか)つて去(さ)つたと云ふのが事実(じゞつ)である然(しか)るに翌年(よくねん)即(すなは)ち天保(てんぱう)九年に
至(いた)つて和蘭(おらんだ)の甲比丹(かぴたん)からモリソンが我国(わがくに)に来航(らいかう)すると云ふ風説書(ふうせつがき)を幕府(ばくふ)に差出(さしいだ)したので之(これ)が忽(たちま)ち一 問(もん)
題(だい)と相成(あひな)つたのである其(その)実(じつ)モリソンと云ふのは米国(べいこく)の船名(せんめい)で前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)く既(すで)に昨年(さくねん)我国(わがくに)に来(きた)り目的(もくてき)を達(たつ)
せずしてミス〳〵皈(かへ)り去(さ)つたのであるが我国(わがくに)に於(おい)ては昨年(さくねん)浦賀(うらが)に来(きた)つた処の船(ふね)が其(その)モリソンであつた
と云ふことは知(し)るに由(よし)なく殊(こと)に和蘭(おらんだ)の風説書(ふうせつがき)に此(この)モリソンを以(もつ)て英国船(えいこくせん)と記(しる)してあつたので其(その)頃(ころ)の蘭学(らんがく)
者(しや)等(ら)は之(これ)は彼(か)の東洋学者(とうやうがくしや)で支那(しな)に在留中(ざいりうちう)たるロバート、モリソンが英国(えいこく)から派遣(はけん)せられて我国(わがくに)に使(し)す
るものであると信(しん)じて大(おほい)に其(その)打払(うちはらひ)の非(ひ)なる事を憂慮(いうりよ)するに至(いた)つたのである渡辺崋山(わたなべくわざん)、高野長英(たかのてうえい)等(ら)の疑(ぎ)
獄(ごく)も実(じつ)は之(これ)が原因(げんゐん)となつて起(おこ)つたものであるが今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)るとかゝる事実(じじつ)の間違(まちがひ)から多(おほ)くの人(じん)
物(ぶつ)を困死(こんし)せしむるに至(いた)つたのは返(かへ)す〳〵も遺憾(ゐかん)なることであつたと思(おも)ふ其(その)後(のち)弘化(こうくわ)二年に至(いた)つて米国(べいこく)の捕(ほ)
鯨船(けいせん)が浦賀(うらが)に来(きた)つた事があるが其(その)携(もた)らし来(きた)つた我(わが)漂流民(へうりうみん)丈(だけ)は特別(とくべつ)の詮議(せんぎ)と云ふので受取(うけと)られたが総(すで)て
の武器(ぶき)などは取上(とりあ)げられてホウ〳〵の体(てい)で皈(かへ)り去(さ)つたのである其(その)頃(ころ)米国政府(べいこくせいふ)は東亜(とうあ)に来住(らいぢう)せる其(その)国民(こくみん)
の利益(りえき)を擁護(えうご)する為(ため)に有力(いうりよく)なる一 艦隊(かんたい)を支那近海(しなきんかい)に出航(しゆかう)せしむることとなつたが同時(どうじ)に我国(わがくに)に於(おい)て外国(ぐわいこく)
の為(ため)に港湾(かうわん)の開放(かいはう)をなさしむる見込(みこみ)があるかどうかと云ふことに就(つい)て確(たしか)むる為(ため)に提督(ていとく)ビツトルと云ふ人
に命(めい)じて之(これ)を試(こゝろ)みしめたのであるソコでビツトルは嘉永(かえい)元年(がんねん)六月廿日 米艦(べいかん)二 雙(そう)を率(ひき)ゐて浦賀(うらが)に来(きた)り通(つう)
商条約(せうでうやく)を締結(ていけつ)せむことを申込(まをしこ)むだのであるが此(この)時(とき)も矢張(やはり)幕吏(ばくり)の拒(こば)む処(ところ)と相成(あひな)つたのであるモツトモ此(この)時(とき)
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
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【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
に於(おい)ても米船(べいせん)は極(きは)めて穏和(おんわ)なる態度(たいど)を示(しめ)して邦人(ほうじん)に対(たい)し自由(じゆう)に船内(せんない)の観覧(くわんらん)を許(ゆる)すなど頗(すこぶ)る交意(かうい)を表(へう)し
たのであるが帰(き)する処は彼(か)れの失敗(しつぱい)に終(をは)つて之(こ)れ亦(ま)た遂(つひ)に空(むな)しく皈(かへ)り去(さ)らざるを得(え)なかつたのである
ソコで其(その)翌(よく)二年の三月廿五日 米国(べいこく)の提督(ていとく)グリンが其(その)国(くに)の漂流民(へうりうみん)受取(うけとり)の為(ため)に長崎(ながさき)に来(きた)つた時(とき)は中々(なか〳〵)強硬(けうこう)
の態度(たいど)で之(これ)迄(まで)の穏和主義(おんわしゆぎ)一 点張(てんば)りではなかつたのであるがイヨ〳〵嘉永(かえい)六年に乗(の)り込(こ)むで来(き)たペリー
に至(いた)つては最(‘もつと)も強硬(けうこう)なる態度(たいど)を示(しめ)したのである
時(とき)の米国大統領(べいこくだいとうれう)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)くミラルド、フヒルモーアであつたが我国(わがくに)に対(たい)して開国(かいこく)を促(うなが)すべ
しと云ふ議論(ぎろん)が漸(やうや)く其(その)国(くに)に盛(さかん)となつて千八百五十年に至(いた)り遂(つひ)にそれが議会(ぎくわい)に現(あら)はれて決議(けつぎ)となり其(その)東(とう)
洋(やう)印度(いんど)支那(しな)海(かい)にある艦隊(かんたい)の勢力(せいりよく)を増加(ぞうか)して我国(わがくに)に対(たい)する開国(かいこく)を試(こゝろ)みむとしたのである而(しか)してマシウー
ペリーは新(あらた)に其(その)提督(ていとく)に任命(にんめい)せられたのであつたが大統領(だいとうれう)は我(わが)将軍(せうぐん)に致(いた)すの書(しよ)並(ならび)にペリーの信任状(しんにんぜう)を彼(かれ)
に授(さづ)け以(もつ)て其(その)使命(しめい)を達(たつ)せしめむとしたのであるソコで米国(べいこく)は先(ま)づ此(この)事(こと)を和蘭(おらんだ)に告(つ)げて適当(てきたう)なる助力(じよりよく)を
求(もと)め和蘭(おらんだ)に於(おい)ても之(これ)を承諾(せうだく)したのであるが英国(えいこく)海軍省(かいぐんせう)も亦(ま)た此(この)挙(きよ)に対(たい)し好意(かうい)を表(へう)し最新(さいしん)の海図(かいづ)を供給(けうきふ)
して東洋(とうよう)への航路(かうろ)に付(つき)指示(しじ)する処があつたのであるソコで和蘭(おらんだ)に於(おい)ては長崎(ながさき)にある処の甲比丹(かぴたん)をして
右(みぎ)の事情(じぜう)を我国(わがくに)に報知(ほうち)せしめ且(か)つ忠告(ちうこく)する処あらしめたが其(その)頃(ころ)我国(わがくに)に於(おい)ては未(いま)だ米国(べいこく)を以(もつ)て英領(えいれう)であ
る如(ごと)く思惟(しい)するもの多(おほ)く従(したがつ)て米国(べいこく)が世界(せかい)に於(お)ける独立(どくりつ)の強国(けうこく)だなどとは考(かんが)へなかつたのが一 般(ぱん)であつ
たそれのみならず和蘭(おらんだ)に対(たい)しても近来(きんらい)は頻(しき)りに疑惑(ぎわく)の眼(まなこ)を以(もつ)て見(み)るような場合(ばあひ)であつたから今度(このたび)の忠(ちう)
告(こく)に対(たい)してもそれ程(ほど)に留意(りうい)もしなかつたのであるがイヨ〳〵ペリーの来航(らいかう)に方(あた)つては我(わが)幕府(ばくふ)の狼狽(らうばい)は
実(じつ)に甚(はなはだ)しきものがあつたのである
サテ米国(べいこく)に於(おい)ては其(その)議会(ぎくわい)がペリー遠征(ゑんせい)の事を決(けつ)して後(のち)其(その)軍艦(ぐんかん)蒸滊船(ぜうきせん)などの選定(せんてい)に時日(じじつ)を費(つひや)したのであ
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百十九
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百十八
【本文】
が布かれてあったのであるから、これに向かって直ちに発砲したのみならず、その武装のないのを見て余程軽蔑の様子を現したのである。この時米船は種々の方法を以てその他意なきことを示そうとしたが、我が国の幕吏のために峻拒されて遂に浦賀を去るに至ったのである。後にこの米船は八月二十日を以て鹿児島に寄港したが、これ亦た拒絶されたので匆々として澳門に向かって去ったというのが事実である。
然るに翌年即ち天保九年に至って、オランダの甲比丹からモリソンが我が国に来航するという風説書を幕府に差し出したので、これが忽ち一問題と相成ったのである。その実モリソンというのは米国の船名で、前述の如く既に昨年我が国に来たり目的を達せずして空しく帰り去ったのであるが、我が国においては昨年浦賀に来た処の船がそのモリソンであったということは知る由なく、殊にオランダの風説書にこのモリソンを以て英国船と記してあったので、その頃の蘭学者等はこれはかの東洋学者で支那に在留中たるロバート・モリソンが英国から派遣されて我が国に使するものであると信じて、大いにその打払の非なる事を憂慮するに至ったのである。
渡辺崋山、高野長英等の疑獄も実はこれが原因となって起こったものであるが、今日から考えて見ると、かかる事実の間違いから多くの人物を困死せしむるに至ったのは返す返すも遺憾なることであったと思う。
その後弘化二年に至って米国の捕鯨船が浦賀に来た事があるが、その携らし来た我が漂流民だけは特別の詮議ということで受け取られたが、総ての武器などは取り上げられてほうほうの体で帰り去ったのである。その頃米国政府は東亜に来住せるその国民の利益を擁護するために有力なる一艦隊を支那近海に出航せしむることとなったが、同時に我が国において外国のために港湾の開放をなさしむる見込みがあるかどうかということについて確かむるために、提督ビッドルという人に命じてこれを試みしめたのである。
そこでビッドルは嘉永元年六月二十日、米艦二隻を率いて浦賀に来たり、通商条約を締結せんことを申し込んだのであるが、この時も矢張り幕吏の拒む処と相成ったのである。もっともこの時
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際…
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
においても米船は極めて穏和なる態度を示して邦人に対し自由に船内の観覧を許すなど頗る好意を表したのであるが、帰する処は彼の失敗に終わってこれ亦た遂に空しく帰り去らざるを得なかったのである。
そこでその翌二年の三月二十五日、米国の提督グリンがその国の漂流民受取りのために長崎に来た時は中々強硬の態度でこれまでの穏和主義一点張りではなかったのである。がいよいよ嘉永六年に乗り込んで来たペリーに至っては最も強硬なる態度を示したのである。
時の米国大統領は諸君もご承知の如くミラード・フィルモアであったが、我が国に対して開国を促すべしという議論が漸くその国に盛んとなって千八百五十年に至り遂にそれが議会に現れて決議となり、その東洋印度支那海にある艦隊の勢力を増加して我が国に対する開国を試みんとしたのである。而してマシュー・ペリーは新たにその提督に任命されたのであったが、大統領は我が将軍に致すの書並びにペリーの信任状を彼に授け以てその使命を達せしめんとしたのである。
そこで米国はまずこの事をオランダに告げて適当なる助力を求め、オランダにおいてもこれを承諾したのであるが、英国海軍省も亦たこの挙に対し好意を表し、最新の海図を供給して東洋への航路に付き指示する処があったのである。そこでオランダにおいては長崎にある処の甲比丹をして右の事情を我が国に報知せしめ且つ忠告する処あらしめたが、その頃我が国においては未だ米国を以て英領である如く思惟するもの多く、従って米国が世界における独立の強国だなどとは考えなかったのが一般であった。
それのみならずオランダに対しても近来は頻りに疑惑の眼を以て見るような場合であったから、今度の忠告に対してもそれ程に留意もしなかったのであるが、いよいよペリーの来航に方っては我が幕府の狼狽は実に甚だしきものがあったのである。
さて米国においてはその議会がペリー遠征の事を決して後、その軍艦蒸気船などの選定に時日を費やしたのである
【欄外】
豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百十九
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 418
**Main Text:**
was in effect, so they not only immediately opened fire on it, but also showed considerable contempt upon seeing that it was unarmed. At this time, the American ship tried various methods to demonstrate its peaceful intentions, but was sternly rejected by our country's shogunate officials and finally had to leave Uraga. Later, this American ship called at Kagoshima on August 20th, but was also refused there, so it hastily departed for Macao.
However, in the following year, Tenpō 9, when the Dutch captain submitted to the shogunate a report stating that Morrison would come to our country, this immediately became a major issue. In fact, Morrison was the name of an American ship that, as mentioned earlier, had already come to our country the previous year and departed without achieving its purpose. However, our country had no way of knowing that the ship that had come to Uraga the previous year was that Morrison, and particularly because the Dutch report described this Morrison as a British ship, the Dutch scholars of that time believed it was the Oriental scholar Robert Morrison, who was residing in China, being sent by Britain as an envoy to our country, and they became greatly concerned about the impropriety of expelling such a mission.
The persecution of Watanabe Kazan, Takano Chōei, and others actually originated from this cause, but looking back from today's perspective, I think it was truly regrettable that such factual misunderstandings led to the persecution of so many people.
Later, in Kōka 2, an American whaling ship came to Uraga, and while the Japanese castaways it brought were received under special consideration, all weapons were confiscated and it departed in disgrace. Around this time, the American government decided to dispatch a powerful fleet to Chinese waters to protect the interests of its nationals residing in East Asia, but simultaneously ordered Commodore Biddle to test whether there was any prospect of having our country open its ports to foreign nations.
So Biddle came to Uraga on June 20th of Kaei 1 with two American warships, requesting the conclusion of a trade treaty, but this time too he was refused by the shogunate officials. However, at this time
**Margin:**
Toyohashi City Mayor Ōguchi Kiroku, with his extensive knowledge and inexhaustible energy, has devoted over a year to compiling the Toyohashi City History, and now as the manuscript nears completion...
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesday) and presented to readers of the Sanyō Newspaper
**Main Text:**
the American ship showed an extremely peaceful attitude, allowing Japanese people to freely tour the ship and displaying considerable goodwill, but ultimately it ended in failure and had to depart empty-handed.
Then on March 25th of the following second year, when American Commodore Glynn came to Nagasaki to retrieve his country's castaways, his attitude was quite firm and no longer adhered solely to the previous peaceful approach. Finally, when Perry arrived in Kaei 6, he displayed the most forceful attitude of all.
The American president at the time was, as you know, Millard Fillmore, and arguments for urging our country to open its doors gradually became popular in that country. By 1850, this finally appeared in Congress as a resolution to increase the strength of their fleet in the East Indies and China Sea and attempt to open our country. Matthew Perry was newly appointed as commodore for this mission, and the president gave him a letter addressed to our shogun along with Perry's credentials to accomplish this mission.
So America first informed the Netherlands of this matter and requested appropriate assistance, which the Netherlands agreed to provide. The British Admiralty also showed favor toward this undertaking, supplying the latest nautical charts and providing guidance on routes to the East. The Netherlands then had the captain at Nagasaki inform our country of these circumstances and offer advice, but at that time in our country, many still thought of America as British territory, and generally did not consider that America was an independent great power in the world.
Moreover, recently they had begun to view the Netherlands with suspicion, so they paid little attention to this advice, but when Perry's arrival finally came, our shogunate's consternation was truly extreme.
Now, in America, after Congress decided on Perry's expedition, time was spent selecting warships, steamships, and the like.
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 419