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翻刻
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百二十
【本文】
《割書:ペリーの出|発》 るがイヨ〳〵我(わが)嘉永(かえい)五年十月十三日を以(もつ)て其(その)準備(じゆんび)全(まつた)く整(とゝの)ひペリーは本国(ほんごく)ノルフオークを出発(しゆつぱつ)したので
ある而(しか)して喜望峯(きばうほう)を廻(めぐ)り漸(やうや)く東亜(とうあ)の海面(かいめん)に浮(うか)びて澳門(まかを)に到着(たうちやく)したのは翌年(よくねん)の四月六日であつたが五月
四日には上海(しやんはい)に到達(たうたつ)し此処(こゝ)にてペリー自身(じしん)はシユスクエハンナに坐乗(ざぜう)し外(ほか)にミスシツピー及(およ)びサツブ
《割書:ペリー琉球|に至る》 ライの二 艦(かん)を率(ひき)ひて五月廿六日 先(ま)づ琉球(りうきう)を見舞(みま)つたのである此(この)琉球(りうきう)に於(お)けるペリーの挙動(きよどう)等(とう)に就(つい)ては
実(じつ)に注目(ちうもく)すべき事が多(おほ)いのであるが今(いま)はそれ等(ら)迄(まで)をも詳説(せうせつ)すべき余裕(よゆう)がないから略(りやく)することとしたいが
それからペリーは一たび小笠原島(をがさはらじま)の探検(たんけん)に赴(おもむ)き更(さら)に琉球(りうきう)に引(ひ)き返(かへ)し遂(つひ)に七月二日を以(もつ)て我国(わがくに)への航路(かうろ)
に向(むか)つたのである此(この)時(とき)ペリーの率(ひき)ゐたる船(ふね)は先(ま)づ旗艦(きかん)シユスクエハンナ(蒸滊軍艦(ぜうきぐんかん))を初(はじめ)としミスシツ
ピー(仝上(どうぜう))並(ならび)にサラトガ(帆船(はんせん))ブライマウス(仝上(どうぜう))の四 艘(そう)であつたが右(みぎ)の内(うち)帆船(はんせん)二 艘(そう)は後(あと)から来(きた)り会(くわい)
したもので先(さき)に率(ひき)ゐて来(き)たサツブライ丈(だけ)は之(これ)を琉球(りうきう)那覇港(なはかう)に残(のこ)し置(お)いた次第(しだい)である
《割書:ペリー浦賀|湾に投錨す》 かくてペリーは我(わが)嘉永(かえい)六年六月三日(千八百五十三年七月八日)未刻(ひつじのこく)を以(もつ)て相模国(さがみのくに)城(しろ)ケ島(しま)沖(おき)に現(あら)はれ
直(たゞ)ちに其(その)率(ひき)ゆる処の四 艦(かん)に対(たい)し戦闘準備(せんたうじゆんび)を命(めい)じたのであるソコで浦賀奉行(うらがぶぎやう)配下(はいか)の小吏(せうり)は之(これ)を抑止(よくし)する
為(ため)に数艘(すうそう)の小舟(こぶね)に乗(ぜう)じて之(これ)に近(ちか)づかむとしたが彼等(かれら)は泰然自若(たいぜんじじやく)として一 向(かう)之(これ)等(ら)の小舟(こぶね)を寄(よ)せ付(つ)けざる
のみか帆(ほ)もなく櫓(ろ)もなきに逆風(ぎやくふう)に快走(かいさう)して益々(ます〳〵)湾内(わんない)に進入(しんにふ)せる光景(くわうけい)に対(たい)しては当時(たうじ)我(わが)幕吏(ばくり)の呆然(ばうぜん)なり
しも無理(むり)ならぬ次第(しだい)であつたと思(おも)ふソコで此(この)艦隊(かんたい)の浦賀(うらが)湾内(わんない)に投錨(とうべう)するを見(み)るや浦賀奉行(うらがぶぎやう)戸田伊豆守(とだいづのかみ)
氏栄(うぢひで)は部下(ぶか)をして早速(さつそく)米艦(べいかん)に赴(おもむ)かしめたが米艦(べいかん)は矢張(やはり)之(これ)を受付(うけつ)けない此(この)時(とき)我(わが)陸上(りくぜう)に於(おい)ては号砲(がうほう)を放(はな)つ
やら海岸守備(かいがんしゆび)の任(にん)にあるものが各(おの〳〵)其(その)担当区域(たんたうくゐき)の守衛(しゆえい)に就(つ)くやらで其(その)混雑(こんざつ)と云ふものは実(じつ)に名状(めいぜう)すべ
からざるものがあつたのである此(この)時(とき)与力(よりき)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)と云ふ人は蘭語(らんご)の出来(でき)る人であつたが自(みづか)ら次官(しくわん)だ
と称(せう)して上船(ぜうせん)を許(ゆる)され暫(しばら)くペリーの旗手(きしゆ)と談話(だんわ)を交換(かうくわん)したのであるソコでイヨ〳〵此(この)船(ふね)が予想(よさう)の如(ごと)く
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百六十四号附録(大正二年五月十三日発行)
【本文】
米国(べいこく)の艦隊(かんたい)であることが確(たしか)まつたのみならず其(その)大統領(だいとうれう)より我(わが)将軍(せうぐん)に送(おく)るべき書翰(しよかん)を所持(しよぢ)して居(を)る事を知(し)
つたのである併(しか)し此方(こちら)から出(だ)した禁令(きんれい)だの用事(ようじ)があるならば長崎(ながさき)へ来(こ)いだのと云ふ注文(ちうもん)は一も二もな
く先方(せんぱう)の峻拒(しゆんきよ)する処となつたのであるそれのみならず我(わが)警備船(けいびせん)に対(たい)しても其(その)立退(たちのき)を要求(えうきう)し若(も)し肯(がゑん)ぜざ
《割書:与力中島三|郎助》 れば打(う)ち払(はら)ひもしまじき態度(たいど)を示(しめ)したのであるが只今(たゞいま)一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた与力(よりき)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)と云ふ人は私(わたくし)が後(のち)
に段々(だん〴〵)御話(おはなし)致(いた)したいと思(おも)ふ吉田藩士(よしだはんし)穂積清軒(ほづみせいけん)と云ふ人の叔父(おぢ)で実(じつ)は我(わが)吉田藩(よしだはん)に於(お)ける蘭学者(らんがくしや)とは最(もつと)も
関係(くわんけい)の深(ふか)い人である此(この)人(ひと)は後(のち)に榎本釜次郎(ゑのもとかまじらう)に従(したがつ)て函館(はこだて)に脱走(だつそう)したのであるが之(これ)等(ら)開国論者(くわいこくろんしや)の議論(ぎろん)が
我(わが)吉田藩士(よしだはんし)の間(あひだ)に影響(えいけう)した事の少(すくな)からざりしことは頗(すこぶ)る注意(ちうゐ)すべき事柄(ことがら)であると信(しん)ずるのである
《割書:浦賀湾頭の|光景》 トコロで此(この)夜(よ)に於(お)ける浦賀湾頭(うらがわんとう)の光景(くわうけい)と云ふものは実(じつ)に物凄(ものすご)い訳(わけ)であつたので陸上(りくぜう)には到(いた)る処(ところ)に烽火(ほうくわ)
を飛(と)ばして遠近(ゑんきん)に警報(けいほう)を伝(つた)えあらゆる警鐘(けいせう)を夜(よ)を徹(てつ)して打(う)ち鳴(な)らされると云ふ有様(ありさま)であつたが米国(べいこく)の
旗艦(きかん)からは又(ま)た午後(ごご)九時の号砲(がうほう)を放(はな)つたので邦人(ほうじん)を驚(おどろ)かした事が少(すくな)くなかつたと云ふ話(はなし)であるかゝる
有様(ありさま)で当時(たうじ)に於(お)ける混雑(こんざつ)と云ふものは今日(こんにち)より想像(さうぞう)する以上(いぜう)の事であつたと思(おも)ふのであるが其(その)明日(あくるひ)も
空(むな)しく此(かく)の如(ごと)き事を繰(く)り返(かへ)しつゝ浦賀奉行(うらがぶぎよう)は一 方(ぱう)に之(これ)に対(たい)する幕府(ばくふ)の指揮(しき)を仰(あふ)いだのであるがサテ幕(ばく)
府(ふ)に於(おい)ても此(この)処置(しよち)には実(じつ)に当惑(たうわく)したのであつて到底(たうてい)従来(じうらい)の如(ごと)き筆法(ひつぱう)では此(この)米艦(べいかん)を逐(お)ひ去(さ)らしむることは
不可能(ふかのう)であることが明(あきら)かであると云ふ処から最(もつと)も苦心(くしん)したのであつたが何(なに)を言(い)ふても万(まん)一 米艦(べいかん)と戦端(せんたん)で
も開(ひら)くようになつて其(その)艦隊(かんたい)が次第(しだい)に江戸(えど)の近海(きんかい)に進入(しんにふ)して来(き)た場合(ばあひ)には江戸市民(えどしみん)に必須(ひつす)なる物質(ぶつし)の輸(ゆ)
入(にふ)と云ふものは全(まつた)く杜絶(とぜつ)さるゝ事になると云ふのが先(ま)づ第一の苦痛(くつう)であつた様(やう)に察(さつ)せらるゝのである
ソコで成(な)るべき丈(だけ)は無事(ぶじ)に米艦(べいかん)をして去(さ)らしむる方法(はう〳〵)が必要(ひつえう)であると云ふ処から兎(と)に角(かく)彼(か)れの要求(えうきう)に
応(おう)じて特使(とくし)を派(は)し其(その)齎(もた)らせる処の書翰(しよかん)を受取(うけと)るより外(ほか)致方(いたしかた)がなかろうと云ふのに帰着(きちやく)したのであるモ
【欄外】
豊橋市史談 (松平信古の襲職) 四百二十一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百二十
【本文】
《ペリーの出発》
るが、いよいよ我が嘉永五年十月十三日を以てその準備全く整い、ペリーは本国ノーフォークを出発したのである。そして喜望峰を廻り、漸く東亜の海面に浮かんで澳門に到着したのは翌年の四月六日であったが、五月四日には上海に到達し、ここにてペリー自身はサスケハナに座乗し、外にミシシッピー及びサプライの二艦を率いて五月二十六日、まず琉球を見舞ったのである。
《ペリー琉球に至る》
この琉球におけるペリーの挙動等については実に注目すべき事が多いのであるが、今はそれ等までをも詳説すべき余裕がないから略することとしたい。それからペリーは一たび小笠原島の探検に赴き、更に琉球に引き返し、遂に七月二日を以て我が国への航路に向かったのである。この時ペリーの率いた船は、まず旗艦サスケハナ(蒸気軍艦)を初めとし、ミシシッピー(同上)並びにサラトガ(帆船)、プリマス(同上)の四隻であったが、右の内帆船二隻は後から来たり会したもので、先に率いて来たサプライだけはこれを琉球那覇港に残し置いた次第である。
《ペリー浦賀湾に投錨す》
かくてペリーは我が嘉永六年六月三日(千八百五十三年七月八日)未刻を以て相模国城ヶ島沖に現れ、直ちにその率いる処の四艦に対し戦闘準備を命じたのである。そこで浦賀奉行配下の小吏はこれを阻止するために数隻の小舟に乗じてこれに近づこうとしたが、彼等は泰然自若として一向これ等の小舟を寄せ付けざるのみか、帆もなく櫓もなきに逆風に快走して益々湾内に進入せる光景に対しては、当時我が幕吏の呆然なりしも無理ならぬ次第であったと思う。
そこでこの艦隊の浦賀湾内に投錨するを見るや、浦賀奉行戸田伊豆守氏栄は部下をして早速米艦に赴かしめたが、米艦は矢張りこれを受け付けない。この時我が陸上においては号砲を放つやら、海岸守備の任にあるものが各々その担当区域の守衛に就くやらで、その混雑というものは実に名状すべからざるものがあったのである。この時与力中島三郎助という人は蘭語の出来る人であったが、自ら次官だと称して上船を許され、暫くペリーの旗手と談話を交換したのである。そこでいよいよこの船が予想の如く
【欄外】
発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千三百六十四号附録(大正二年五月十三日発行)
【本文】
米国の艦隊であることが確かまったのみならず、その大統領より我が将軍に送るべき書翰を所持していることを知ったのである。しかしこちらから出した禁令だの、用事があるならば長崎へ来いだのという注文は、一も二もなく先方の峻拒する処となったのである。それのみならず我が警備船に対してもその立退を要求し、若し肯んぜざれば打ち払いもしまじき態度を示したのである。
《与力中島三郎助》
ただ今一寸申し述べた与力中島三郎助という人は、私が後に段々お話し致したいと思う吉田藩士穂積清軒という人の叔父で、実は我が吉田藩における蘭学者とは最も関係の深い人である。この人は後に榎本釜次郎に従って函館に脱走したのであるが、これ等開国論者の議論が我が吉田藩士の間に影響した事の少なからざりしことは頗る注意すべき事柄であると信ずるのである。
《浦賀湾頭の光景》
ところでこの夜における浦賀湾頭の光景というものは実に物凄い訳であったので、陸上には至る処に烽火を飛ばして遠近に警報を伝え、あらゆる警鐘を夜を徹して打ち鳴らされるという有様であったが、米国の旗艦からは又た午後九時の号砲を放ったので邦人を驚かした事が少なくなかったという話である。
かかる有様で当時における混雑というものは今日より想像する以上の事であったと思うのであるが、その明日も空しくかくの如き事を繰り返しつつ、浦賀奉行は一方にこれに対する幕府の指揮を仰いだのである。がさて幕府においてもこの処置には実に当惑したのであって、到底従来の如き筆法ではこの米艦を追い去らしむることは不可能であることが明らかであるという処から最も苦心したのであったが、何を言うても万一米艦と戦端でも開くようになってその艦隊が次第に江戸の近海に進入して来た場合には、江戸市民に必須なる物質の輸入というものは全く杜絶さるることになるというのがまず第一の苦痛であった様に察せられるのである。
そこで成るべきだけは無事に米艦をして去らしむる方法が必要であるという処から、兎に角彼れの要求に応じて特使を派しその齎らせる処の書翰を受け取るより外致方がなかろうというのに帰着したのであるも
【欄外】
豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百二十一
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 420
**Main Text:**
**Perry's Departure**
Finally, on October 13th of our Kaei 5 (1852), all preparations were complete and Perry departed from Norfolk in his home country. After rounding the Cape of Good Hope and gradually emerging onto East Asian waters, he arrived in Macao on April 6th of the following year, reached Shanghai on May 4th, where Perry himself boarded the Susquehanna and, leading two other ships, the Mississippi and Supply, first visited Ryukyu on May 26th.
**Perry's Arrival in Ryukyu**
There were indeed many noteworthy aspects of Perry's behavior in Ryukyu, but as I do not have the time to describe them in detail now, I shall omit them. Perry then proceeded to explore the Ogasawara Islands, returned again to Ryukyu, and finally set course for our country on July 2nd. At this time, Perry's fleet consisted of four ships: first the flagship Susquehanna (steam warship), the Mississippi (same), and the sailing ships Saratoga and Plymouth. Of these, the two sailing ships had joined later, while the Supply that he had brought earlier was left behind at Naha Port in Ryukyu.
**Perry Anchors in Uraga Bay**
Thus Perry appeared off Jōgashima in Sagami Province at the hour of the sheep on June 3rd of our Kaei 6 (July 8th, 1853) and immediately ordered his four ships to prepare for battle. The junior officials under the Uraga magistrate attempted to approach in several small boats to deter them, but the Americans remained completely calm and not only refused to let these small boats approach, but also, having neither sails nor oars, sailed swiftly against the headwind and advanced further into the bay—a sight that naturally left our shogunate officials stunned.
When this fleet anchored in Uraga Bay, Uraga Magistrate Toda Izunokami Ujihide immediately sent his subordinates to the American ships, but the Americans still refused to receive them. At this time on our shore, signal guns were fired and those responsible for coastal defense took up their positions in their respective areas, creating indescribable confusion. At this time, a yoriki (magistrate's assistant) named Nakajima Saburosuke, who could speak Dutch, identified himself as a vice-official and was permitted to board the ship, where he briefly conversed with Perry's flag officer. Thus it was confirmed that this ship was indeed, as expected,
**Margin:**
Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Partnership Company, 48 Konyamachi, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Hisano [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyō Newspaper No. 4,364 Supplement (Published May 13th, Taishō 2)
**Main Text:**
an American fleet, and moreover, that it carried a letter from the American president to our shogun. However, our prohibitions and demands that they go to Nagasaki if they had business were flatly rejected by them. Furthermore, they demanded that our guard boats withdraw and showed an attitude suggesting they would attack if we refused to comply.
**Yoriki Nakajima Saburosuke**
The yoriki Nakajima Saburosuke I just mentioned was the uncle of a Yoshida domain retainer named Hozumi Seiken, whom I hope to discuss in detail later, and was actually someone with very close connections to the Dutch scholars in our Yoshida domain. This man later fled to Hakodate with Enomoto Kamajirō, and I believe the considerable influence that these advocates of opening the country had on our Yoshida domain retainers is quite noteworthy.
**The Scene at Uraga Bay**
Now, the scene at Uraga Bay that night was truly terrifying, with beacon fires being lit everywhere on land to spread warnings far and wide, and all manner of alarm bells being rung throughout the night. The American flagship also fired its 9 PM signal gun, which greatly alarmed the Japanese.
Given these circumstances, the confusion of that time was beyond what we can imagine today. The next day passed with similar repetitions while the Uraga magistrate sought instructions from the shogunate. But the shogunate too was truly perplexed by this situation, and realizing that it was clearly impossible to drive away these American ships using conventional methods, they were greatly troubled. Above all, if hostilities were to break out with the American ships and their fleet gradually advanced into waters near Edo, the import of materials essential to Edo's citizens would be completely cut off—this seems to have been their primary concern.
Therefore, concluding that methods to make the American ships depart peacefully were necessary, they decided that there was no choice but to comply with their demands by dispatching a special envoy to receive the letter they had brought.
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 421