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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 225

ページ: 225

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百二十二 【本文】       ツトモ之(これ)迄(まで)に立至(たちいた)るに就(つい)ては種々(しゆ〴〵)の混雑(こんざつ)があつた事であるがそれ等(ら)は今(いま)細(こま)かに申述(まをしの)ぶる必要(ひつえう)もないと       考(かんが)へるのであるが結局(けつきよく)かゝる次第(しだい)で在京(ざいけう)の浦賀奉行(うらがぶぎよう)井戸石見守弘道(ゐどいわみのかみひろみち)が幕命(ばくめい)を受(う)けて戸田伊豆守(とだいづのかみ)と共(とも)に       イヨ〳〵米使(べいし)に接見(せつけん)することと相成(あひな)つたのであるサテ此(この)米使(べいし)接見(せつけん)の模様(もやう)は既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)くであ 《割書:久里浜の会|見》  るが久里浜(くりはま)に会見所(くわいけんじよ)を設置(せつち)し中々(なか〳〵)威儀堂々(いぎどう〴〵)たるものであつたのであるモツトモ此(この)時(とき)の事(こと)に関(くわん)しては御(お)       話(はなし)すべき事(こと)が沢山(たくさん)にあるのであるが之(これ)は大概(たいがい)世(よ)に知(し)られて居(を)る事柄(ことがら)が多(おほ)いのであるから諸君(しよくん)も略(ほゞ)御存(ごぞん)       知(ぢ)の事(こと)であると思(おも)ふソコで大統領(だいとうれう)よりの書翰(しよかん)授受(じゆ〴〵)の事を終(をは)り我(わが)幕府(ばくふ)からも諭書(ゆしよ)を渡(わた)したのであるがペ       リーは更(さら)に来春(らいしゆん)四五月を以(もつ)て再(ふたゝ)び来航(らいかう)すべき旨(むね)を言(い)ひ残(のこ)して相別(あひわか)れたのであるそれよりペリーは船(ふね)を       神奈川沖(かながはおき)まで進(すゝ)め水深(すゐしん)を測量(そくれう)するなど悠然(ゆうぜん)として動作(どうさ)し漸(やうや)く十二日に到(いた)つて琉球(りうきう)に向(むか)ひ浦賀(うらが)を去(さ)つた       のであるが此(この)時(とき)我(わが)邦人(ほうじん)の驚愕(けうがく)せる事は一方(ひとかた)でなく老中(らうちう)初(はじ)め幕府(ばくふ)の枢要(すうえう)なる人々(ひと〴〵)は火事装束(くわじせうぞく)で武器(ぶき)を携(たづさ)       へて登城(とうじやう)し徹宵謀議(てつせうばうぎ)に及(およ)むだと云ふ程(ほど)である此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)で此(この)米艦(べいかん)来航(らいかう)の問題(もんだい)は之(こ)れ迄(まで)の外船渡来(ぐわいせんとらい)と       は頗(すこぶ)る趣(おもむき)を異(こと)にし実(じつ)に我(わが)邦(くに)の外交(ぐわいかう)に関(くわん)して一 大覚醒(だいかくせい)を促(うなが)さしめたもので実(じつ)に我(わが)邦(くに)開国(かいこく)の起源(きげん)とも云       ふべきであるから一 般(ぱん)邦人(ほうじん)に対(たい)する刺激(しげき)も実(じつ)に容易(ようい)ならざりし訳(わけ)であつたのである 《割書:幕府当局者|と水戸斉昭》  尚(な)ほ此処(こゝ)に一 言(げん)して置(お)きたいと思(おも)ふのは当時(たうじ)に於(お)ける幕府(ばくふ)当局者(たうきよくしや)の意見(いけん)である勿論(もちろん)当時(たうじ)の老中(ろうちう)上座(ぜうざ)は       阿部伊勢守正弘(あべいせのかみまさひろ)であつたが正弘(まさひろ)は米艦(べいかん)の浦賀(うらが)に入(い)れる報知(ほうち)に接(せつ)するや先(ま)づ同(おな)じ閣老(かくらう)の牧野備前守(まきのびぜんのかみ)に謀(はか)       り諸有司(しよいうし)の意見(いけん)を徴(てう)したる後(のち)私(ひそ)かに一 書(しよ)を水戸(みと)の斉昭(なりあきら)に致(いた)して其(その)策(さく)を問(と)つたのである蓋(けだ)し斉昭(なりあきら)は前(まへ)に       も申述(まをしの)べたる如(ごと)く現代(げんだい)の政界(せいかい)に多大(ただい)の勢力(せいりよく)を有(いう)し特(とく)に其(その)外交(ぐわいかう)意見(いけん)は極(きは)めて強硬(けうかう)なるもので頗(すこぶ)る天下(てんか)に       傾聴(けいてう)せられて居(を)つた次第(しだい)であるから其(その)意見(いけん)を聴(き)いて之(これ)を纏(まと)めて置(お)くのは当時(たうじ)最(もつと)も得策(とくさく)となしたのであ       ると思(おも)はれる然(しか)るに斉昭(なりあきら)とても別(べつ)に妙案(めうあん)のある筈(はづ)もなく最初(さいしよ)の答(こたへ)は先年来(せんねんらい)自分(じぶん)の海防建議(かいぼうけんぎ)が容(い)れられ 【欄外】   豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】  此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       なかつたのであるから今更(いまさら)何(なん)とも致方(いたしかた)はないが併(しか)し彼(か)れの要求(えうきう)は容(い)れないようにしたいと云ふような       意味(いみ)で頗(すこぶ)る不得要領(ふとくえうれう)なものであつたが余程(よほど)之(これ)には斉昭(なりあきら)も苦心(くしん)したものと見(み)えて更(さら)に将軍(せうぐん)の命(めい)とあらば       登城(とじやう)の上(うへ)衆議(しゆうぎ)をも聴(き)き又(ま)た自分(じぶん)の意見(いけん)をも開陳(かいちん)すべしと申出(まをしい)でたのであるソコで伊勢守(いせのかみ)は渡(わた)りに船(ふね)と       でも言(い)ふべきか早速(さつそく)将軍(せうぐん)の旨(むね)を請(こ)ふて自(みづか)ら斉昭(なりあきら)の邸(やしき)を訪(と)ひ諸有司(しよいうし)の意見書(いけんしよ)をも示(しめ)して所見(しよけん)を問(と)つたの       であるが其(その)結果(けつくわ)幕議(ばくぎ)は遂(つひ)に米使(べいし)の齎(もた)らせる書翰(しよかん)を受取(うけと)る事(こと)に決定(けつてい)したのであるから斉昭(なりあきら)も別(べつ)の策(さく)の施(ほどこ)       すべきものなしとして矢張(やはり)之(これ)に同意(どうい)したものか少(すくな)くとも之(これ)を黙認(もくにん)したものと思(おも)はるゝのであるソコ       で先(ま)づ米国(べいこく)の書翰(しよかん)受取(うけと)りの事丈(ことだけ)は無事(ぶじ)に相済(あひす)むでペリーは兎(と)に角(かく)一 度(ど)退(しりぞ)き去(さ)つたのであるがいづれペ       リーは再(ふたゝ)び渡来(とらい)して今度(こんど)は一 層(そう)強(つよ)き意味(いみ)に於(おい)て開国(かいこく)の催促(さいそく)をするに相違(さうゐ)ないサテ此(この)点(てん)に対(たい)する我(わが)邦(くに)の       覚悟(かくご)如何(いかん)は其(その)後(のち)に残(のこ)る大問題(だいもんだい)で幕府(ばくふ)に於(おい)ては其(その)後(のち)開鎖(かいさ)の疑議(ぎゞ)に日(ひ)も亦(ま)た足(た)らざるの有様(ありさま)であつたが当(たう)       時(じ)我国(わがくに)の弱点(じやくてん)は第一 武備(ぶび)の不足(ふそく)である之(これ)は既(すで)に年来(ねんらい)の宿題(しゆくだい)で有識者間(いうしきしやかん)には数々(しば〴〵)唱導(せうどう)されたる処(ところ)であつ       たが天下(てんか)一 般(ぱん)の人に至(いた)つては中々(なか〳〵)右(みぎ)様(やう)な事は分(わか)らぬ言(い)はば元寇殲滅(げんかうせんめつ)など我国(わがくに)が歴史上(れきしぜう)未(いま)だ嘗(かつ)て外国(ぐわいこく)に       敗(やぶ)れた事のないと云ふ例(れい)を深(ふか)く印象(いんせう)して只(た)だ〳〵鎖国(さこく)すべし攘夷(ぜうゐ)何(なに)かあらむと威張(ゐば)り手(て)が多(おほ)いと云ふ       のが普通(ふつう)の状態(ぜうたい)であつたのであるトコロが幕府(ばくふ)の枢機(すうき)にあるものから云ふとまだ武備(ぶび)の不足(ふそく)よりも一       層(そう)痛切(つうせつ)に困難(こんなん)を感(かん)じたのが実(じつ)に財政(ざいせい)の窮乏(きうぼう)で之(これ)は下手(へた)に打明(うちあ)くる訳(わけ)にも行(ゆ)かず只だ〳〵苦慮(くりよ)の外(ほか)はな       かつたのであるかゝる内情(ないぜう)であつたから幕府(ばくふ)に開国主義(かいこくしゆぎ)と云ふ迄(まで)の見地(けんち)は之(こ)れなくとも対外上(たいぐわいぜう)の政策(せいさく)       としては自然(しぜん)退嬰軟弱(たいえいなんじやく)の方針(はうしん)に傾(かたむ)くのは致方(いたしかた)がなかつたのである然(しか)るに一つ困(こま)つた事は矢張(やはり)水戸(みと)の斉(なり)       昭(あきら)である前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く最初(さいしよ)ペリーの持参(ぢさん)せる書翰(しよかん)を受取(うけと)るべきや又(また)は之(これ)を拒絶(きよぜつ)すべきやと云       ふ時(とき)に方(あた)つては幸(さいはひ)に止(やむ)を得(え)ぬから之(これ)を受取(うけと)るも仕方(しかた)がないであろうと云ふような不得要領(ふとくえうれう)の意見(いけん)で 【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百二十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百二十二 【本文】 もっともこれまでに立ち至るについては種々の混雑があった事であるが、それ等は今細かに申し述べる必要もないと考えるのであるが、結局かかる次第で在京の浦賀奉行井戸石見守弘道が幕命を受けて戸田伊豆守と共にいよいよ米使に接見することと相成ったのである。さてこの米使接見の模様は既に諸君も御承知の如くであるが、 《久里浜の会見》 久里浜に会見所を設置し中々威儀堂々たるものであったのである。もっともこの時の事に関しては御話しすべき事が沢山にあるのであるが、これは大概世に知られている事柄が多いのであるから諸君も略御存知の事であると思う。そこで大統領よりの書翰授受の事を終わり、我が幕府からも諭書を渡したのであるが、ペリーは更に来春四五月を以て再び来航すべき旨を言い残して相別れたのである。それよりペリーは船を神奈川沖まで進め水深を測量するなど悠然として動作し、漸く十二日に到って琉球に向かい浦賀を去ったのである。 この時我が邦人の驚愕せる事は一方でなく、老中初め幕府の枢要なる人々は火事装束で武器を携えて登城し、徹宵謀議に及ぶだという程である。かくの如き事情でこの米艦来航の問題はこれまでの外船渡来とは頗る趣を異にし、実に我が邦の外交に関して一大覚醒を促さしめたもので、実に我が邦開国の起源とも云うべきであるから、一般邦人に対する刺激も実に容易ならざりし訳であったのである。 《幕府当局者と水戸斉昭》 なおここに一言して置きたいと思うのは当時における幕府当局者の意見である。勿論当時の老中上座は阿部伊勢守正弘であったが、正弘は米艦の浦賀に入れる報知に接するや、まず同じ閣老の牧野備前守に謀り、諸有司の意見を徴したる後、私かに一書を水戸の斉昭に致してその策を問うたのである。蓋し斉昭は前にも申し述べたる如く現代の政界に多大の勢力を有し、特にその外交意見は極めて強硬なるもので頗る天下に傾聴せられていた次第であるから、その意見を聴いてこれを纏めて置くのは当時最も得策となしたのであると思われる。 然るに斉昭とても別に妙案のある筈もなく、最初の答えは先年来自分の海防建議が容れられなかったのであるから今更何とも致方はないが、しかし彼れの要求は容れないようにしたいというような 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 意味で頗る不得要領なものであったが、余程これには斉昭も苦心したものと見えて、更に将軍の命とあらば登城の上衆議をも聴き又た自分の意見をも開陳すべしと申し出でたのである。そこで伊勢守は渡りに船とでも言うべきか、早速将軍の旨を請うて自ら斉昭の邸を訪い、諸有司の意見書をも示して所見を問うたのであるが、その結果幕議は遂に米使の齎らせる書翰を受け取る事に決定したのであるから、斉昭も別の策の施すべきものなしとして矢張りこれに同意したものか、少くともこれを黙認したものと思われるのである。 そこでまず米国の書翰受け取りの事だけは無事に相済んでペリーは兎に角一度退き去ったのであるが、いづれペリーは再び渡来して今度は一層強き意味において開国の催促をするに相違ない。さてこの点に対する我が邦の覚悟如何はその後に残る大問題で、幕府においてはその後開鎖の疑議に日もまた足らざるの有様であったが、当時我国の弱点は第一武備の不足である。これは既に年来の宿題で有識者間には数々唱導されたる処であったが、天下一般の人に至っては中々右様な事は分からぬ。言わば元寇殲滅など我国が歴史上未だ嘗て外国に敗れた事のないという例を深く印象して、ただただ鎖国すべし攘夷何かあらむと威張り手が多いというのが普通の状態であったのである。 ところが幕府の枢機にあるものから云うと、まだ武備の不足よりも一層痛切に困難を感じたのが実に財政の窮乏で、これは下手に打明くる訳にも行かず、ただただ苦慮の外はなかったのである。かかる内情であったから、幕府に開国主義というまでの見地はこれなくとも、対外上の政策としては自然退嬰軟弱の方針に傾くのは致方がなかったのである。 然るに一つ困った事は矢張り水戸の斉昭である。前にも申し述べたる如く、最初ペリーの持参せる書翰を受け取るべきや又はこれを拒絶すべきやという時に方っては、幸に止むを得ぬからこれを受け取るも仕方がないであろうというような不得要領の意見で 【欄外】 豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百二十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 422 **Main Text:** However, there had been various complications leading up to this point, but I consider it unnecessary to describe them in detail now. In any case, due to these circumstances, Uraga Magistrate Ido Iwamikami Hiromichi, who was in Kyoto, received shogunate orders and together with Toda Izunokami would finally meet with the American envoy. Now, regarding the manner of this meeting with the American envoy, as you already know, **The Meeting at Kurihama** a meeting place was established at Kurihama with quite dignified ceremony. There are indeed many things to discuss about this occasion, but since most of these matters are already well known to the world, I believe you are roughly familiar with them. Thus, after completing the exchange of the president's letter and our shogunate presenting its reply document, Perry left word that he would return again in April or May of the coming spring before departing. Perry then advanced his ships as far as off Kanagawa, leisurely conducting activities such as measuring water depth, and finally departed Uraga on the 12th, heading toward Ryukyu. At this time, the shock among our people was extraordinary—even the senior councilors and other key shogunate officials dressed in fire-fighting attire, carried weapons, and entered the castle for all-night deliberations. Given these circumstances, this problem of American ships' arrival differed greatly in character from previous foreign vessel visits and truly prompted a great awakening regarding our country's foreign relations. It could indeed be called the origin of our country's opening, so the impact on the general population was truly extraordinary. **Shogunate Authorities and Mito Nariaki** I would like to add a word here about the opinions of the shogunate authorities at that time. Of course, the senior councilor at the time was Abe Isenokami Masahiro, but when Masahiro received news of the American ships entering Uraga, he first consulted with fellow senior councilor Makino Bizennokami, sought the opinions of various officials, and then privately sent a letter to Mito's Nariaki asking for his strategy. Indeed, as I mentioned before, Nariaki wielded great influence in contemporary politics, and particularly his foreign policy views were extremely hardline and commanded considerable attention throughout the realm, so listening to his opinions and consolidating them was considered the best policy at the time. However, even Nariaki had no particular brilliant plan, and his initial response was rather vague, meaning that since his coastal defense proposals from previous years had not been accepted, there was nothing he could do now, but he would like to avoid accepting their demands. **Margin:** Mayor of Toyohashi, Mr. Oguchi Kiroku, has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now his manuscript is nearly complete. **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published weekly (on Tuesdays) and presented to readers of Sanyo Newspaper. **Main Text:** This was quite inconclusive, but Nariaki seemed to have struggled considerably with this, as he further proposed that if it were the shogun's command, he would come to the castle to listen to various opinions and also present his own views. So Isenokami, as if finding a boat at a crossing, immediately sought the shogun's approval, personally visited Nariaki's residence, showed him the opinion papers of various officials, and asked for his views. As a result, the shogunate council finally decided to accept the letter brought by the American envoy, so Nariaki either agreed to this, having no other strategy to implement, or at least tacitly approved it. Thus, at least the matter of accepting the American letter was settled peacefully and Perry withdrew for the time being. However, Perry would certainly return and this time urge the opening of the country with even greater force. Now, how our country would prepare for this point remained a major problem for the future, and the shogunate was so occupied with debates over opening or closing that days were insufficient. At that time, our country's weakness was primarily the inadequacy of military preparations. This had been a long-standing issue repeatedly advocated among knowledgeable people, but the general population did not understand such matters well. So to speak, with the deep impression of examples like the annihilation of the Mongol invasions and our country never having been defeated by foreign countries in history, the common attitude was simply to boast about maintaining isolation and expelling foreigners. However, from the perspective of those at the center of shogunate power, what caused even more acute difficulty than inadequate military preparation was indeed financial poverty, which could not be easily revealed and left them with nothing but worry. Given such internal circumstances, even if the shogunate did not have a perspective that could be called opening-country ideology, it was inevitable that foreign policy would naturally tend toward a passive and weak direction. But one troublesome matter was indeed Mito's Nariaki. As I mentioned before, when it came to whether to accept Perry's letter or reject it, his inconclusive opinion was that perhaps there was no choice but to accept it since it could not be helped, and **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 423