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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 226

ページ: 226

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【欄外】    豊橋市史談  (松平信古の襲職)                    四百二十四 【本文】       あつたものらしく誠(まこと)に致(いた)しよかつたのであるがサテ今度(こんど)イヨ〳〵開国(かいこく)か鎖国(さこく)かと云ふ段(だん)になつては中(なか)       中(なか)強硬(けうかう)な鎖国説(さこくせつ)を取(と)つて承知(せうち)しないモツトモ幕府(ばくふ)枢要(すうやう)の地位(ちゐ)にある人々とても必(かなら)ずしも開国(かいこく)を欲(ほつ)した       訳(わけ)ではない出来(でき)る事なれば攘夷(ぜうゐ)も致(いた)したいのであるが今(いま)は到底(たうてい)武備(ぶび)足(た)らず財政(ざいせい)も亦(ま)た窮乏(きうぼう)の極(きよく)である       から暫(しばら)く権宜(けんぎ)を以(もつ)て外交(ぐわいかう)を塗抹(とまつ)し幸(さいはひ)に機(き)を得(え)たならば再(ふたゝ)び攘夷(ぜうゐ)を決行(けつかう)しては遅(おそ)からずと云ふような考(かんが)       であつたものと察(さつ)せられる然(しか)るに斉昭(なりあきら)の意見(いけん)は前(まへ)に申述(まをしの)ぶる如(ごと)く最(もつと)も強硬(けうかう)なる鎖国(さこく)にあるのでドウモ       幕議(ばくぎ)と意見(いけん)が一 致(ち)せなかつたのが少(すくな)くとも政局紛乱(せいきょくふんらん)の一 因(ゐん)をなしたものと信(しん)ぜられるのであるトコロ       へ此(この)場合(ばあひ)又(ま)た一 大不幸(だいふかう)が起(おこ)つたと云ふことは将軍(せうぐん)家慶(いへよし)の薨去(こうきよ)である家慶(いへよし)は此(この)国家無前(こくかむぜん)の大事件(だいじけん)の起(おこ)れる 《割書:将軍家慶の|薨去》  に方(あた)つて恰(あたか)も病(やまひ)革(あらた)まり此(この)年(とし)六月廿ニ日を以(もつ)て遂(つひ)に薨去(こうきよ)せられたのであるが世子(せいし)の家定(いへさだ)は元来(がんらい)病身(びやうしん)の 《割書:世子家定の|襲職》  人で到底(たうてい)此(この)大事(だいじ)を裁決(さいけつ)せらるべき人ではないソコで家慶(いへよし)は病(やまひ)大漸(たいぜん)に至(いた)つた時(とき)伊勢守(いせのかみ)を病床(びやうせう)に召(め)して後(こう)       事(じ)を托(たく)し後々(のち〳〵)の事(こと)は幸(さいはひ)に水戸斉昭(みとなりあきら)を起(おこ)して登城(とじやう)せしめ之(これ)に外事(ぐわいじ)を謀(はか)るの外(ほか)はなかろうと云つたとの事       である勿論(もちろん)伊勢守(いせのかみ)も此際(このさい)はドウあつても斉昭(なりあきら)と協和(けふわ)するの必要(ひつえう)を感(かん)じて居(を)つたのみならず松永慶永(まつながよしなが)【松平慶永(まつだひらよしなが)ヵ】、       島津斉彬(しまづせいひん)の如(ごと)きも亦(ま)た偏(ひとへ)に之(これ)に依(よ)るの外(ほか)なき事を唱(とな)えたのである以(もつ)て当時(たうじ)斉昭(なりあきら)の心(こゝろ)を収(おさ)むるは則(すなは)ち天(てん)       下(か)の人心(じんしん)を収攬(しうらん)する所以(ゆゑん)であると云ふ意味(いみ)を現(あら)はして居(を)つたものと見(み)るべきであると思(おも)ふ       ソコで伊勢守(いせのかみ)は七月三日 遂(つひ)に斉昭(なりあきら)を起(おこ)して幕議(ばくぎ)に参加(さんか)せしむるに至(いた)つたのみならず其(その)臣(しん)藤田東湖(ふぢたとうこ)等(ら)に       も書(しよ)を送(おく)らしめて説(と)く所(ところ)あらしめたのであるが幕議(ばくぎ)は終(つひ)に開鎖(かいさ)に関(くわん)し広(ひろ)く諸侯(しよこう)並(ならび)に諸士(しよし)の与論(よろん)を徴(てう)す       ることとなつたのである御承知(ごせうち)の通(とほ)り此(この)諸侯(しよこう)諸士(しよし)の与論(よろん)を聴(き)くと云ふ事に就(つい)ては後世(こうせい)の史家中(しかちう)に頗(すこぶ)る議(ぎ)       論(ろん)のある事で之(こ)れありしが為(ため)に却(かへ)つて議論(ぎろん)の沸騰(ふつとう)を来(き)たし幕府(ばくふ)の威権(ゐけん)は地(ち)に落(お)ちて処士横議(しよしわうぎ)の弊(へい)を生(せう)じ       結局(けつきよく)其(その)衰亡(すゐぼう)を招(まね)いたものであると論(ろん)ずるものもあるようであるが当時(たうじ)幕府(ばくふ)の声望(せいぼう)が漸(やうや)く軽(かる)きに傾(かたむ)き其(その) 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百七十一号附録  (大正二年五月二十日発行) 【本文】       衰態(すゐたい)は諸侯(しよこう)の眼(まなこ)にも映(えい)じて居(を)つた事(こと)は勿論(もちろん)であつたであろうと思(おも)ふが併(しか)し事(こと)の外国(ぐわいこく)に関係(くわんけい)なき限(かぎ)りは       断(だん)じて未(いま)だ諸侯(しよこう)の拮抗(きつこう)を蒙(こうむ)るが如(ごと)き事は之(こ)れなかつた筈(はづ)である然(しか)るに今(いま)や事(こと)外国(ぐわいこく)との交渉(かうせう)であつて如(い)       何(か)なる場合(ばあひ)も挙国(きよこく)一 致(ち)でなくては事(こと)の致(いた)し様(やう)がないと云ふ大切(たいせつ)の時(とき)に方(あた)つて多年(たねん)幕府(ばくふ)の取(と)り来(きた)つた極(きよく)       端(たん)なる鎖国(さこく)の方針(はうしん)は到底(たうてい)急(きふ)に之(これ)を開国(かいこく)に導(みちび)くの方法(はう〳〵)なくさりとて従来(じうらい)の如(ごと)き鎖国主義(さこくしゆぎ)を取(と)れば此(この)際(さい)国(こく)       家(か)を危殆(きたい)の地位(ちゐ)に陥(おとしい)るゝも分(わか)らぬと云ふ現状(げんぜう)に際(さい)しては幕府(ばくふ)たるものは茲(こゝ)に初(はじ)めて衆議(しうぎ)の赴(おもむ)く処に決(けつ)       し与論(よろん)を尊重(そんちよう)すると云ふ態度(たいど)を取(と)つて如何様(いかやう)にも天下(てんか)の人心(じんしん)を纏(まと)めたいと云ふ事になつたので之(これ)は実(じつ)       に自然(しぜん)の勢(いきほひ)止(やむ)を得(え)ざるの運命(うんめい)であつたと解(かい)せねばならぬと信(しん)ずるのである             ⦿外国問題と吉田藩       ソコで当時(たうじ)に於(お)ける我(わが)吉田藩(よしだはん)の傾向(けいかう)は如何(いかん)であつたか之(これ)は此処(こゝ)に少(すこ)しく申述(まをしの)べねばならぬ事であると 和田肇   思(おも)ふが当時(たうじ)此(この)吉田藩(よしだはん)に於(おい)て国老(こくろう)として最(もつと)も重(おも)きをなして居(を)つたのは和田肇(わだはじめ)である此(この)人(ひと)は寛政(かんせい)十二年九       月の生(うま)れで既(すで)に大河内家(おほかうちけ)の累代(るいだい)に歴仕(れきし)し頗(すこぶ)る勢力(せいりよく)のあつたものであるが名(な)は元長(もとなが)と云ひ後(のち)に信古(のぶひさ)の偏(へん)       諱(ゐ)を賜(たまは)つて古元(ひさもと)と改(あらた)めたが号(がう)を挑川(ちようせん)と云つたのである歌(うた)を善(よ)くし書(しよ)にも妙(みよう)を得(え)て居(を)つたが又(ま)た極(きは)めて 《割書:西村治右衛|門》  書画(しよぐわ)の鑑識(かんしき)に巧(たくみ)であつたのである其(その)頃(ころ)同(おな)じ国老(こくろう)で西村治右衛門(にしむらぢうゑもん)と云ふ人があつたが之(これ)も亦(ま)た藩中(はんちう)で重(おも)       きをなしたもので此(この)人(ひと)は名(な)を為周(ためかね)号(がう)を峯庵(ほうあん)と云つて頗(すこぶ)る古今(ここん)の学(がく)に通(つう)じ武芸(ぶげい)にも長(てう)じて居(を)つたのであ 西岡翠園  る当時(たうじ)藩校(はんかう)時習館(じしうくわん)の教授(けふじゆ)には西岡翠園(にしをかすゐゑん)があり又(ま)は監理(かんり)としては山本謙斉(やまもとけんさい)などと云ふ人があつたが此(この)西(にし)       岡翠園(をかすゐゑん)と云ふ人は前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた西岡天津(にしをかてんしん)と云つた人の次子(じし)で名(な)を宣(せん)字(あざな)を季廸(すへみち)通称(つうせう)を介蔵(すけざう)と云つ       たが初(はじ)め教(おしへ)を父(ちゝ)に受(う)け後(のち)太田錦城(おほたきんじやう)に就(つい)て学(まな)むだのである最(もつと)も毛詩(もうし)に通(つう)じて居(を)つたが人(ひと)となり澹泊寡言(たんぱくかごん) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百二十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(松平信古の襲職) 四百二十四 【本文】 あったもののようで、まことに困ったことであった。しかし今度はいよいよ開国か鎖国かという段階になっては、なかなか強硬な鎖国説を取って承知しない。もっとも幕府枢要の地位にある人々とても必ずしも開国を欲したわけではない。できることなら攘夷も致したいのであるが、今は到底武備足らず財政もまた窮乏の極であるから、しばらく権宜を以て外交を塗り抹し、幸いに機会を得たならば再び攘夷を決行してからでも遅くはないというような考えであったものと察せられる。然るに斉昭の意見は前に申し述べるように最も強硬なる鎖国にあるので、どうも幕議と意見が一致しなかったのが、少なくとも政局紛乱の一因をなしたものと信ぜられるのである。 ところがこの場合、また一大不幸が起こったということは将軍家慶の薨去である。 《将軍家慶の薨去》 家慶はこの国家無前の大事件の起こるにあたって、恰も病が重くなり、この年六月二十二日を以て遂に薨去されたのであるが、世子の家定は元来病身の人で到底この大事を裁決されるべき人ではない。 《世子家定の襲職》 そこで家慶は病が重篤に至った時、伊勢守を病床に召して後事を託し、後々の事は幸いに水戸斉昭を起こして登城させ、これに外事を謀るの他はなかろうと言ったとのことである。勿論伊勢守もこの際はどうあっても斉昭と協和するの必要を感じていたのみならず、松平慶永、島津斉彬の如きもまた偏にこれに依るの他なき事を唱えたのである。以て当時斉昭の心を収めるのは則ち天下の人心を収攬する所以であるという意味を現していたものと見るべきであると思う。 そこで伊勢守は七月三日、遂に斉昭を起こして幕議に参加させるに至ったのみならず、その臣藤田東湖等にも書を送らせて説くところがあらせたのであるが、幕議は終に開鎖に関し広く諸侯並びに諸士の輿論を徴することとなったのである。御承知の通り、この諸侯諸士の輿論を聴くということについては、後世の史家中に頗る議論のあることで、これありしが為に却って議論の沸騰を来たし、幕府の威権は地に落ちて処士横議の弊を生じ、結局その衰亡を招いたものであると論ずるものもあるようであるが、当時幕府の声望が漸く軽きに傾き、その 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人 中西謙三 発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百七十一号附録(大正二年五月二十日発行) 【本文】 衰態は諸侯の眼にも映じていたことは勿論であっただろうと思うが、しかし事の外国に関係なき限りは、断じて未だ諸侯の拮抗を蒙るがごとき事はこれなかった筈である。然るに今や事外国との交渉であって、如何なる場合も挙国一致でなくては事の致しようがないという大切の時にあたって、多年幕府の取り来った極端なる鎖国の方針は到底急にこれを開国に導く方法なく、さりとて従来のごとき鎖国主義を取ればこの際国家を危殆の地位に陥れるも分からぬという現状に際しては、幕府たるものはここに初めて衆議の赴く処に決し、輿論を尊重するという態度を取って、如何様にも天下の人心を纏めたいということになったので、これは実に自然の勢い止むを得ざるの運命であったと解せねばならぬと信ずるのである。 ◉外国問題と吉田藩 そこで当時における我が吉田藩の傾向は如何であったか。これはここに少しく申し述べねばならぬ事であると思うが、当時この吉田藩において国老として最も重きをなしていたのは和田肇である。この人は寛政十二年九月の生まれで既に大河内家の累代に歴仕し、頗る勢力のあったものであるが、名は元長といい、後に信古の偏諱を賜って古元と改めたが、号を挑川といったのである。歌を善くし書にも妙を得ていたが、また極めて書画の鑑識に巧みであったのである。 《西村治右衛門》 その頃同じ国老で西村治右衛門という人があったが、これもまた藩中で重きをなしたもので、この人は名を為周、号を峯庵といって頗る古今の学に通じ、武芸にも長じていたのである。 当時藩校時習館の教授には西岡翠園があり、また監理としては山本謙斉などという人があったが、この西岡翠園という人は前にも一寸申し述べた西岡天津といった人の次子で、名を宣、字を季廸、通称を介蔵といったが、初め教えを父に受け、後太田錦城について学んだのである。最も毛詩に通じていたが、人となり澹泊寡言 【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百二十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Matsudaira Nobuhisa's Succession) 424 **Main Text:** It seemed to be the case, and it was truly troublesome. However, when it came to the stage of decisively choosing between opening the country or maintaining isolation, he took a rather hardline isolationist position and would not consent. Of course, even those in key positions within the shogunate did not necessarily desire to open the country. If possible, they would have liked to expel the foreigners, but at present their military preparations were utterly inadequate and their finances were also extremely impoverished, so they thought it best to temporarily use expedient measures to manage foreign relations and, if they were fortunate enough to find an opportunity, it would not be too late to carry out the expulsion of foreigners again. However, Nariaki's opinion, as I mentioned before, was the most hardline isolationist position, so his views did not align with the shogunate council, which I believe was at least one cause of political turmoil. But in this situation, another great misfortune occurred—the death of Shogun Ieyoshi. **The Death of Shogun Ieyoshi** Ieyoshi fell gravely ill just as this unprecedented national crisis was unfolding, and finally passed away on June 22nd of that year. His heir Iesada was originally a person of poor health and certainly not someone who could make decisions on such grave matters. **The Succession of Heir Iesada** So when Ieyoshi's illness became critical, he summoned Isenokami to his sickbed, entrusted him with future affairs, and said that for future matters, the only option would be to restore Mito Nariaki and have him come to the castle to consult on foreign affairs. Of course, Isenokami also felt the necessity of cooperating with Nariaki under these circumstances, and figures like Matsudaira Yoshinaga and Shimazu Nariakira also advocated that there was no choice but to rely entirely on him. This showed that winning over Nariaki's heart at that time was indeed the way to win over the hearts of people throughout the realm. Therefore, on July 3rd, Isenokami finally restored Nariaki and had him participate in shogunate councils, and also had letters sent to his retainers such as Fujita Toko to persuade them. The shogunate council ultimately decided to widely seek the opinions of daimyo and retainers regarding opening or closing the country. As you know, this matter of listening to the opinions of daimyo and retainers has been considerably debated among later historians, who argue that this actually caused a boiling over of debates, the shogunate's authority fell to the ground, creating the evil of private scholars making presumptuous arguments, ultimately leading to its decline and fall. But I think that the shogunate's prestige had gradually been declining, and this deterioration **Margin:** Publisher and Printing House: Sanyo Printing Partnership Company, 48 Konyamachi, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4371 Supplement (Published May 20, Taisho 2 [1913]) **Main Text:** was certainly visible to the daimyo as well. However, as long as matters did not involve foreign countries, there had never been any resistance from the daimyo. But now that these were negotiations with foreign countries, and at this crucial time when national unity was essential regardless of circumstances, the extreme isolationist policy that the shogunate had maintained for many years could not possibly be suddenly redirected toward opening the country. Yet if they maintained the same isolationist ideology as before, the nation might well be placed in a perilous position. Under these circumstances, the shogunate had no choice but to decide according to public deliberation and adopt an attitude of respecting public opinion, wanting to unite the hearts of people throughout the realm in whatever way possible. I believe this must be understood as an inevitable fate driven by natural forces. ◉ Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain So what was the tendency of our Yoshida Domain at that time? I think this is something that must be mentioned here briefly. At that time, the person who held the most important position as chief retainer (kokuro) in Yoshida Domain was Wada Hajime. This person was born in September of Kansei 12 (1800) and had already served the Okouchi family for generations, wielding considerable influence. His name was originally Motonaga, and later he received a character from Nobuhisa's name and changed it to Hisamoto, taking the pen name Chosentei. He was skilled in poetry and calligraphy, and was also extremely adept at appraising paintings and calligraphy. **Nishimura Jiuemon** At that time there was another chief retainer named Nishimura Jiuemon, who also held an important position in the domain. This person's name was Tamekane, his pen name was Hoan, and he was well-versed in ancient and modern learning and skilled in martial arts. At that time, the domain school Jishukan had Nishioka Suien as professor, and Yamamoto Kensai and others as supervisors. This Nishioka Suien was the second son of Nishioka Tenshin, whom I mentioned briefly before. His name was Sen, his courtesy name was Suemichi, and his common name was Sukezo. He first received instruction from his father and later studied under Ota Kinjo. He was most accomplished in the Book of Songs (Moshi) and had a character that was modest and reticent. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 425