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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 227

ページ: 227

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【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩職)                    四百二十六 【本文】       で全(まつた)くの儒者(じゆしや)と云ふ風(ふう)であつたから政治向(せいぢむき)などには殆(ほとん)ど関係(くわんけい)がなかつたように思(おも)ふ又(また)其頃(そのころ)前(まへ)に申述(まをしの)べ       て置(お)いた彼(か)の太田錦城(おほたきんじやう)の子(こ)晴軒(せいけん)も矢張(やはり)藩(はん)の儒者(じゆしや)ではあつたが此(この)人(ひと)も矢張(やはり)学問(がくもん)一 徹(てつ)で藩政(はんせい)の顧問(こもん)と云ふ       ような訳(わけ)ではなかつたものと信(しん)ぜられるモツトモ此(この)人(ひと)は当時(たうじ)江戸(えど)の方(はう)に居(を)つたのであるがトコロで御(お) 児島閑牕  話(はなし)して置(お)きたいのは諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)である彼(か)の児島閑牕(こじまかんさう)である此(この)人(ひと)は名(な)を義和(よしかづ)通称(つうせう)を七五郎と云つ       たが矢張(やはり)此(この)吉田藩士(よしだはんし)で児島(こじま)六 助忠恕(すけたゞひろ)と云ふ人の長男(てうなん)であつた文政(ぶんせい)十一年八月の生(うまれ)で初(はじ)めは江戸(えど)にあつ       て荻野緑野(おぎのりよくや)の門(もん)に入(い)り其(その)塾長(じゆくてう)に推(お)されたが頗(すこぶ)る英邁(えいまい)強記(けうき)で出藍(しゆつらん)の誉(ほまれ)が高(たか)かつたのである後(のち)藩主(はんしゆ)の許可(きよか)       を得(え)て昌平黌(せうへいこう)に遊(あそ)び居(を)ること数年(すうねん)薩藩(さつはん)の重野安繹(しげのあんやく)、会津藩(あひづはん)の南摩綱紀(なんまこうき)、西條藩(せいでうはん)の三浦安 等(ら)と同窓(どうさう)で古賀(こが)       茶渓(さけい)、佐藤(さとう)一 斉(さい)などの鴻儒(こうじゆ)に就(つい)て学(まな)むだのである当時(たうじ)重野(しげの)は同窓(どうさう)の塾長(じゆくてう)であつたが閉窓(かんさう)【閑牕ヵ】とは最(もつと)も親密(しんみつ)       であつた様子(やうす)である後(のち)嘉永(かえい)六年の正月に至(いた)つて閑窓(かんさう)【閑牕ヵ】は更(さら)に藩主(はんしゆ)の許可(きよか)を得(え)て水戸(みと)、会津(あひづ)、米沢(よねざは)等(とう)の各(かく)       藩(はん)を遊歴(ゆうれき)したが其中(そのなか)でも水戸(みと)の藤田東湖(ふぢたとうこ)、会沢安(あひざはやすし)、内藤恥叟(ないとうちそう)などと交(まぢは)つて内藤(ないとう)とは晩年(ばんねん)までも友誼(いうぎ)を       続(つゞ)けて居(を)つたのであるかゝる訳(わけ)であつたから嘉永(かえい)六年の十一月 藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)は閑窓(かんさう)【閑牕ヵ】を召(め)し寄(よ)せて扈従役(こじうやく)と       し程(ほど)なく近習(きんじふ)に転(てん)じたが実(じつ)に君側(くんそく)にあつて顧問(こもん)に備(そな)はり藩政(はんせい)を輔翼(ほよく)したのである併(しか)し閑牕(かんさう)は其(その)当時(たうじ)は       まだ廿六 歳(さい)の青年(せいねん)で最初(さいしよ)から十 分(ぶん)に其(その)意見(いけん)が行(おこな)はれたかドウかは疑問(ぎもん)であるが要(えう)するに吉田藩(よしだはん)は御承(ごせう)       知(ち)の如(ごと)く徳川氏(とくがはし)譜代(ふだい)の家筋(いへすぢ)で殊(こと)に小藩(せうはん)でもあり只々(たゞ〴〵)公儀(こうぎ)に対(たい)する忠義(ちうぎ)一 徹(てつ)と云ふ志操(しさう)が充満(じうまん)して居(を)つ       たのであるから其頃(そのころ)は兎(と)に角(かく)幕府(ばくふ)の方針(はうしん)には逆(さから)はず只(た)だ〳〵それに対(たい)して忠誠(ちうせい)を励(はげ)むと云ふ志(こゝろざし)が盛(さかん)で       あつたものと考(かんが)へられる之(これ)は老人(らうじん)の実話(じつわ)又(また)は之(これ)から段々(だん〴〵)御紹介(ごせうかい)しようと思(おも)ふ記録(きろく)などでも推測(すゐそく)すること       が出来(でき)ると思ふのである       サテ前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)に於(おい)てはイヨ〳〵米艦(べいかん)の渡来(とらい)に付(つき)此後(このご)の処置(しよち)に関(くわん)して諸侯(しよこう)の意見(いけん)を諮(と) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:諸侯諸士等|の建議》  ふことと成(な)つたのであるが諸侯(しよこう)に於(おい)てはソコで所謂(いはゆる)藩論(はんろん)を定(さだ)めて漸次(ぜんじ)建議(けんぎ)する処があつたのである然(しか)る       に其(その)多(おほ)くと云ふものはまだ〳〵容易(ようい)に旧套(きうたう)を脱(だつ)することが出来(でき)ぬのは当然(たうぜん)の事で祖法(そはふ)は容易(ようい)に変改(へんかい)すべ       からずと云ふ意味(いみ)で鎖国的意見(さこくてきいけん)を具申(ぐしん)したのであるが独(ひと)り彦根侯(ひこねこう)井伊掃部守直弼(ゐいかもんのかみなほすけ)のみは結局(けつきよく)開国(かいこく)の止(やむ)       を得(え)ざる所以(ゆゑん)を陳述(ちんじゆつ)したのである而(しか)して浦賀奉行(うらがぶぎよう)戸田伊豆守(とだいづのかみ)の建議(けんぎ)も亦(ま)た殆(ほとん)ど直弼(なほすけ)と同論(どうろん)であつたが       殊(こと)に当時(たうじ)の小普請役(こふしんやく)勝麟太郎(かつりんたらう)(安房)、長崎(ながさき)の砲術家(はうじゆつか)高嶋喜平(たかしまきへい)(初(はじめ)四 郎太夫(らうたいう)、秋帆(しうほ))、並(ならび)に韮山(にらやま)の代官(だいくわん)江(え)       川太郎左衛門(がはたらうさゑもん)、仙台(せんだい)の藩士(はんし)大槻磐渓(おほつきばんけい)の如(ごと)きは蘭書(らんしよ)の講究(かうきう)によりて最(もつと)も外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)に通(つう)じて居(を)つた人々(ひと〴〵)       であるから孰(いづ)れも上書(ぜうしよ)して開国論(かいこくろん)を主張(しゆてう)したのである特(とく)に其(その)中(なか)でも高島秋帆(たかしましうほ)の建白(けんぱく)の如(ごと)きは当世(たうせ)第一       の卓見(たくけん)であるとして今日(こんにち)に於(おい)ても称賛(せうさん)せらるゝ処であるかゝる有様(ありさま)で一二の大名(だいみよう)又(また)は五六の学者(がくしや)志士(しゝ)       等(ら)は熱心(ねつしん)に開国論(かいこくろん)を主張(しゆてう)したのであるが大勢(たいせい)と云ふものはまだ〳〵旧習(きふしう)に固着(こちやく)し到底(たうてい)鎖国(さこく)の思想(しさう)は免(まぬが)       れざるのみならず一 方(ぱう)には熱心(ねつしん)なる攘夷論者(ぜうゐろんしや)もあつたのである吉田藩(よしだはん)に於(おい)ては此(この)時(とき)如何(いか)なる事を建議(けんぎ)       したるかそれは遺憾(ゐかん)ながら今(いま)分(わか)り兼(か)ぬるのであるが私(わたくし)は前(ぜん)申述(まをしの)べたる如(ごと)き志操(しさう)から勿論(もちろん)幕府(ばくふ)の処置(しよち)に       は逆(さから)はざる範囲内(はんゐない)に於(おい)て矢張(やはり)多分(たぶん)に漏(も)れぬ鎖国説(さこくせつ)であつた事と想像(さうぞう)するのである 《割書:露国使節の|来航》  然(しか)るに米艦(べいかん)の浦賀(うらが)を去(さ)れる後(のち)僅(わづか)に一月余に露国(ろこく)の使節(しせつ)プーチヤチンは亦(ま)た長崎(ながさき)へやつて来(き)たのである       当時(たうじ)和蘭(おらんだ)の通報(つうほう)によると露国(ろこく)の使節(しせつ)は米国使節(べいこくしせつ)の行動監視(かうどうかんし)の為(ため)であると伝(つた)えられたのであるが露国(ろこく)が       其(その)指(ゆび)を我(わが)北辺(ほくへん)に染(そ)めつゝあることは既(すで)に御承知(ごせうち)の如(ごと)くであるから機会(きくわい)だにあらば何等(なんら)かの利益(りえき)を我国(わがくに)に       求(もと)めむと欲(ほつ)して居(を)つた事は疑(うたが)ふべからざる事である従(したがつ)て今度(こんど)の来航(らいかう)とても亦(ま)た其(その)意味(いみ)に漏(も)れざる事       は明(あきらか)であると信(しん)ぜられるのであるが露艦(ろかん)は長崎(ながさき)に入港(にふかう)しても至極(しごく)穏和(おんわ)なる態度(たいど)を取(と)つたので其(その)点(てん)は米(べい)       艦(かん)と大(だい)なる差違(さゐ)があつたのであるから幕府(ばくふ)に於(おい)ては余程(よほど)之(これ)に満足(まんぞく)したものと見(み)え稍々(やゝ)寛大(かんだい)の処置(しよち)を取(と) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百二十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百二十六 【本文】 で全くの儒者という風であったから、政治向きなどにはほとんど関係がなかったように思う。また、その頃前に申し述べておいた、かの太田錦城の子晴軒も、やはり藩の儒者ではあったが、この人もやはり学問一徹で、藩政の顧問というような訳ではなかったものと信じられる。もっともこの人は当時江戸の方にいたのであるが。 ところで、お話ししておきたいのは諸君もよく御承知である、かの児島閑牕である。この人は名を義和、通称を七五郎といったが、やはりこの吉田藩士で、児島六助忠恕という人の長男であった。文政十一年八月の生まれで、初めは江戸にあって荻野緑野の門に入り、その塾長に推されたが、頗る英邁強記で、出藍の誉れが高かったのである。後に藩主の許可を得て昌平黌に学ぶこと数年、薩摩藩の重野安繹、会津藩の南摩綱紀、西条藩の三浦安等と同窓で、古賀茶渓、佐藤一斎などの鴻儒について学んだのである。当時重野は同窓の塾長であったが、閑牕とは最も親密であった様子である。 後に嘉永六年の正月に至って、閑牕はさらに藩主の許可を得て水戸、会津、米沢等の各藩を遊歴したが、その中でも水戸の藤田東湖、会沢正志斎、内藤恥叟などと交わって、内藤とは晩年まで友誼を続けていたのである。かかる訳であったから、嘉永六年の十一月、藩主信古は閑牕を召し寄せて扈従役とし、程なく近習に転じたが、実に君側にあって顧問に備わり、藩政を補翼したのである。しかし閑牕はその当時はまだ二十六歳の青年で、最初から十分にその意見が行われたかどうかは疑問であるが、要するに吉田藩は御承知のように徳川氏譜代の家筋で、殊に小藩でもあり、ただただ公儀に対する忠義一徹という志操が充満していたのであるから、その頃は兎に角幕府の方針には逆らわず、ただただそれに対して忠誠を励むという志が盛んであったものと考えられる。これは老人の実話、またはこれから段々御紹介しようと思う記録などでも推測することができると思うのである。 さて、前章に申し述べたる如く、幕府においてはいよいよ米艦の渡来につき、この後の処置に関して諸侯の意見を諮 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《諸侯諸士等の建議》 ることとなったのであるが、諸侯においてはそこでいわゆる藩論を定めて漸次建議するところがあったのである。しかるにその多くというものは、まだまだ容易に旧套を脱することができぬのは当然のことで、祖法は容易に変改すべからずという意味で鎖国的意見を具申したのであるが、独り彦根侯井伊掃部守直弼のみは、結局開国の止むを得ざる所以を陳述したのである。そして浦賀奉行戸田伊豆守の建議もまたほとんど直弼と同論であったが、殊に当時の小普請役勝麟太郎(安房)、長崎の砲術家高島喜平(初め四郎太夫、秋帆)、並びに韮山の代官江川太郎左衛門、仙台の藩士大槻磐渓のごときは、蘭書の講究により最も外国の事情に通じていた人々であるから、いずれも上書して開国論を主張したのである。 特にその中でも高島秋帆の建白のごときは、当世第一の卓見であるとして今日においても称賛される処である。かかる有様で一二の大名または五六の学者志士等は熱心に開国論を主張したのであるが、大勢というものはまだまだ旧習に固着し、到底鎖国の思想は免れざるのみならず、一方には熱心なる攘夷論者もあったのである。 吉田藩においてはこの時如何なることを建議したるか、それは遺憾ながら今分りかぬるのであるが、私は前申し述べたるごとき志操から、勿論幕府の処置には逆らわざる範囲内において、やはり多分に漏れぬ鎖国説であったことと想像するのである。 《露国使節の来航》 しかるに米艦の浦賀を去られる後、わずかに一月余に露国の使節プーチャチンはまた長崎へやって来たのである。当時オランダの通報によると、露国の使節は米国使節の行動監視のためであると伝えられたのであるが、露国がその指を我が北辺に染めつつあることは既に御承知のごとくであるから、機会だにあらば何等かの利益を我国に求めんと欲していた事は疑うべからざることである。従って今度の来航とてもまたその意味に漏れざることは明らかであると信じられるのであるが、露艦は長崎に入港しても至極穏和なる態度を取ったので、その点は米艦と大なる差違があったのであるから、幕府においては余程これに満足したものと見え、稍々寛大の処置を取 【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百二十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 426 **Main Text:** being entirely of the scholarly type, so I think he had almost no involvement in political matters. Also, at that time, the son of the aforementioned Ota Kinjo, named Seiken, was likewise a domain scholar, but this person too was devoted entirely to learning and I believe was not an advisor on domain administration. Though this person was in Edo at the time. Now, what I would like to discuss is the well-known Kojima Kanso. This person's name was Yoshikazu, his common name was Shichigoro, and he was also a retainer of Yoshida Domain, the eldest son of a man named Kojima Rokusuke Tadahiro. Born in August of Bunsei 11 (1828), he initially entered the school of Ogino Ryokuya in Edo and was promoted to head of the academy, being renowned for his exceptional intelligence and strong memory, earning high praise as a student surpassing his teacher. Later, with his lord's permission, he studied at Shoheiko for several years, where he was classmates with Shigeno Yasutsugu of Satsuma Domain, Nanma Tsunanori of Aizu Domain, Miura Yasushi of Saijo Domain, and others, studying under great scholars such as Koga Seikei and Sato Issai. At that time, Shigeno was the head student among his classmates, but he appears to have been most intimate with Kanso. Later, in January of Kaei 6 (1853), Kanso obtained further permission from his lord to travel through various domains including Mito, Aizu, and Yonezawa. Among these, he associated particularly with Fujita Toko, Aizawa Seishisai, and Naito Chiso of Mito, maintaining friendship with Naito until his later years. For these reasons, in November of Kaei 6, Lord Nobuhisa summoned Kanso to serve as an attendant, soon transferring him to close retainer status. He truly served at his lord's side as an advisor, assisting in domain administration. However, Kanso was still only twenty-six years old at that time, so it is questionable whether his opinions were fully implemented from the beginning. In any case, Yoshida Domain, as you know, was a hereditary retainer house of the Tokugawa, and being particularly a small domain, was filled with the spirit of unwavering loyalty to the shogunate. Therefore, at that time they would not oppose the shogunate's policies in any case, but rather were enthusiastic about demonstrating their loyalty to it. This can be inferred from the actual accounts of elderly people and from the records I intend to gradually introduce. Now, as I mentioned in the previous chapter, the shogunate finally began consulting with the daimyo regarding future measures concerning the arrival of American ships. **Margin:** Toyohashi Mayor Oguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (on Tuesdays) and presented to readers of Sanyo Newspaper. **Main Text:** **Proposals from Daimyo and Retainers** The daimyo then established what were called domain policies and gradually began making proposals. However, most of them naturally could not easily break from old conventions, and submitted isolationist opinions meaning that ancestral laws should not be easily changed. Only Hikone lord Ii Kamon-no-kami Naosuke presented the inevitable reasons for opening the country. The proposal of Uraga magistrate Toda Izu-no-kami was also almost identical to Naosuke's position. Particularly, people like Katsu Rintaro (Awa) who held a minor construction post at the time, the gunnery expert Takashima Kihei of Nagasaki (originally Shirōdayū, later Shūhan), Nirayama magistrate Egawa Tarōzaemon, and Sendai retainer Otsuki Bankei, who were most familiar with foreign affairs through their study of Dutch books, all submitted memorials advocating opening the country. Particularly among these, Takashima Shūhan's proposal was considered the foremost insight of the time and is still praised today. In this situation, one or two daimyo and five or six scholars and patriots enthusiastically advocated opening the country, but the general tendency still adhered to old customs, unable to escape isolationist thinking, and there were also enthusiastic advocates of expelling foreigners. Regarding what Yoshida Domain proposed at this time, regrettably this is not clear now, but based on the spirit I described earlier, I imagine it was probably an isolationist position within the bounds of not opposing the shogunate's measures. **The Arrival of Russian Envoys** However, barely a month after the American ships left Uraga, the Russian envoy Putyatin also came to Nagasaki. At that time, according to Dutch reports, the Russian envoy was said to be monitoring the American envoy's actions, but as you know, Russia was already extending its influence into our northern territories, so it is undoubtable that they wanted to gain some benefit from our country if the opportunity arose. Therefore, this visit was clearly also for that purpose. However, when the Russian ships entered Nagasaki port, they took an extremely peaceful attitude, which was greatly different from the American ships, so the shogunate appears to have been quite satisfied with this and took somewhat lenient measures. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 427