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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 228

ページ: 228

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【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百二十八 【本文】       つたのであるが結局(けつきよく)長崎奉行(ながさきぶぎよう)からの伺(うかゞひ)によつて幕府(ばくふ)は一 応(おう)諭告(ゆこく)して尚(なほ)強(しゐ)て請(こ)ふ処があるならば国書(こくしよ)       を受取(うけと)るべしと命(めい)じたのであるソコで長崎奉行(ながさきぶぎよう)は八月十九日を以(もつ)て遂(つひ)に露国(ろこく)使節(しせつ)の上陸(ぜうりく)を許(ゆる)し書翰(しよかん)授(じゆ)       受(じゆ)の儀(ぎ)を挙(あ)ぐるに至(いた)つたのであるが其(その)書翰(しよかん)の要旨(えうし)とする処は一に両国(れうこく)の国境(こくけう)を定(さだ)むる事二に露国(ろこく)の為(ため)       に我国(わがくに)の一二 港(かう)を開(ひら)きて交易(かうえき)を許(ゆる)し又(ま)た露船(ろせん)に食料(しよくれう)並(ならび)に其他(そのた)の必要品(ひつえうひん)を供給(けふきう)する事と云ふのであつ       たが幕府(ばくふ)では十月八日を以(もつ)て留守居(るすゐ)筒井肥前守(つゝゐひぜんのかみ)、勘定奉行(かんでうぶぎよう)川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)二 人(にん)を任命(にんめい)し之(これ)に荒尾土佐守(あらをとさのかみ)       並(ならび)に古賀謹(こがきん)一 郎(らう)の二 人(にん)を付(つ)き添(そ)はしめて長崎(ながさき)に派遣(はけん)し返書(へんしよ)を与(あた)へしめむとしたのである而(しか)して其(その)要旨(えうし)       とする処は国境(こくけう)に関(くわん)しては余程(よほど)の調査(てうさ)を要(えう)する事項(じこう)であることは言(い)ふ迄(まで)もないから到底(たうてい)一 朝(てう)一 夕(せき)に取(と)り       定(さだ)むることは出来(でき)ない又(ま)た開港(かいかう)交易(かうえき)の事は祖法(そはふ)として厳禁(げんきん)せられて居(を)る事ではあるが此(この)頃(ごろ)米国(べいこく)からも請(こ)       ふ処があつたし宇内(うだい)の形勢(けいせい)に鑑(かんが)みて古例(これい)をのみ守(まも)る訳(わけ)にも行(ゆ)くまいが之(これ)を決行(けつかう)するには十 分(ぶん)に利害(りがい)得(とく)       失(しつ)を調査(てうさ)する必要(ひつえう)があるは勿論(もちろん)の事であるのみならず事 重大(ぢうだい)であるから天朝(てんてう)にも奏(そう)し又(ま)た列侯(れつこう)の意見(いけん)       を緩和(くわんわ)する必要(ひつえう)もあるから此処(こゝ)四五年も立(た)つて国論(こくろん)の一 定(てい)するのを待(ま)たれたいものであると云ふので       あつた之(これ)で見(み)ると米艦(べいかん)の渡来(とらい)後(ご)まだ数(すう)ヶ月(げつ)であるが幕府(ばくふ)は既(すで)に開港(かいかう)の止(やむ)を得(え)ざるのを認(みと)めて居(を)つた様(やう)       子(す)で只(た)だ国論(こくろん)の趨向(すうかう)に顧慮(こりよ)する処があつて急(きふ)には之(これ)を断行(だんかう)し兼(か)ねたものと見(み)えるモツトモ此(この)肥前守(ひぜんのかみ)は       頗(すこぶ)る外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)に通(つう)じて開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざることを認(みと)めて居(を)つた人(ひと)であるが左衛門尉(さゑもんぜう)とても矢張(やはり)無謀(むばう)の戦(せん)       争(さう)をなすが如(ごと)きは決(けつ)して国家(こくか)に利益(りえき)でないと云ふ事を承知(せうち)して居(を)つたのである殊(こと)に古賀謹(こがきん)一 郎(らう)の如(ごと)き       は其(その)父(ちゝ)洞庵(どうあん)以来(いらい)の開国論者(かいこくろんしよ)であるから此(この)時(とき)の長崎(ながさき)下向(げかう)は幕議(ばくぎ)も頗(すこぶ)る開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざる事を認(みと)めたる結(けつ)       果(くわ)であることと思(おも)はるゝのである然(しか)るに彼(か)の露使(ろし)プーチヤチンは屡々(しば〳〵)長崎奉行(ながさきぶぎよう)に促(うなが)す処があつたが意(い)の       如(ごと)くならないので段々(だん〳〵)前(まへ)の態度(たいど)を一 変(へん)して頗(すこぶ)る強硬(けうこう)と成(な)つたのであるが十月廿二日に至(いた)り長崎奉行(ながさきぶぎよう)が 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百七十七号附録    (大正二年五月二十七日発行) 【本文】       種々(しゆ〴〵)に慰諭(ゐゆ)せるにも拘(かゝは)らず遂(つひ)に老中(らうちう)に宛(あて)たる書翰(しよかん)の写(うつし)を托(たく)して其(その)率(ひき)ゆる処(ところ)の四 艦(かん)を携(たづさ)へて卒然(そつぜん)長崎(ながさき)を       立(た)ち去(さ)つたのである此(この)退去(たいきよ)に就(つい)て当時(たうじ)プーチヤチンは種々(しゆ〴〵)なる口実(こうじつ)を設(まを)けて長崎奉行(ながさきぶぎやう)に告(つ)げたのであ       るが今日(こんにち)から観察(くわんさつ)すれば其(その)時(とき)恰(あたか)も露国(ろこく)と英仏(えいふつ)両国(れうこく)との間(あひだ)に国交(こくかう)が断絶(だんぜつ)せむとする場合(ばあひ)で其(その)報知(ほうち)を得(え)た       るプーチヤチンは終(つひ)に我国(わがくに)に居堪(ゐたま)らずして一たび上海(しやんはい)に立退(たちの)いたのであると信(しん)ぜられるのである然(しか)れ       共(ども)長崎奉行(ながさきぶぎやう)に於(おい)ては元(もと)よりそれ等(ら)の事を知(し)るよしもなく直(たゞ)ちに其(その)一 伍(ぶ)一 什(じう)を幕府(ばくふ)に通知(つうち)したのである       其(その)時(とき)恰(あたか)も筒井肥前守(つゝゐひぜんのかみ)等(ら)の一 行(かう)は既(すで)に西下(さいか)の途上(とぜう)にあつたのであるが幕府(ばくふ)は露使(ろし)の再来(さいらい)を予期(よき)したもの       であるから其(その)侭(まゝ)一 行(かう)をして西下(さいか)を継続(けいぞく)せしめたが一 行(かう)は十二月 初旬(しょじゅん)を以(もつ)て佐賀(さが)に達(たつ)したのである然(しか)る       に同月五日 露艦(ろかん)は果(はた)して再(ふたゝ)び長崎(ながさき)に入港(にふかう)したので左衛門尉(さゑもんぜう)等(ら)は至急(しきう)佐賀(さが)から長崎(ながさき)に到着(たうちやく)してイヨ〳〵       十二月十四日を以(もつ)てプーチヤチンと初度(しよど)の会見(くわいけん)をなし引続(ひきつゞ)いて数度(すうど)の談判(だんぱん)は開始(かいし)せられたが容易(ようい)に決(けつ)       することのなかつたのは当然(たうぜん)の事で殊(こと)に露国(ろこく)に於(おい)ては国境問題(こくけうもんだい)に就(つい)て択捉島(えとろふとう)を以(もつ)て全(まつた)く其(その)所領(しよれう)なりと抗(かう)       弁(べん)し唐太(からふと)も亦(ま)た其(その)大部分(だいぶゞん)を自己(じこ)の所領(しよれう)なりと主張(しゆてう)したのであつたが肥前守(ひぜんのかみ)、左衛門尉(さゑもんぜう)の両人(れうにん)は勿論(もちろん)勘(かん)       定組頭(でうくみがしら)中村為彌(なかむらためや)(出羽守(ではのかみ)時萬)等(ら)は熱心(ねつしん)に抗議(かうぎ)を申込(まをしこ)むで択捉島(えとろふとう)は無論(むろん)全部(ぜんぶ)我国(わがくに)の所領(しよれう)であることは明瞭(めいれう)       なるのみならず唐太(からふと)も亦(ま)た少(すくな)くとも天度(てんど)五十 度(ど)以南(いなん)は我(わ)が有(いう)でなければならぬと論争(ろんさう)したがいづれ実(じつ)       地調査(ちてうさ)の上(うへ)で更(さら)に談判(だんぱん)をなすべきこととなり又(ま)た開港(かいこう)の事に対(たい)しても結局(けつきよく)日本(にほん)は最(もつと)も露国(ろこく)に親近(しんきん)すること       を欲(ほつ)するが故(ゆゑ)に若(も)し他(た)の国(くに)に通商(つうせう)を許(ゆる)す場合(ばあひ)には必(かなら)ず先(ま)づ露国(ろこく)に許(ゆる)し且(か)つ隣国(りんこく)の交誼(かうぎ)を以(もつ)て特(とく)に露国(ろこく)       を厚遇(かうぐう)すべしと云ふ意味(いみ)の約束(やくそく)をなしたまでゞ此(この)事(こと)も一 時落着(じらくちやく)を告(つ)ぐるに至(いた)つたのであるが此(この)談判(だんぱん)中(ちう)       に嘉永(かえい)六年も過(す)ぎて翌年(よくねん)の春(はる)を迎(むか)へプーチヤチンの長崎(ながさき)を辞(じ)し去(さ)つたのは嘉永(かえい)七年の正月八日であつ       たと云ふ訳(わけ)である 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百二十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百二十八 【本文】 ったのであるが、結局長崎奉行からの伺いによって幕府は一応諭告して、なお強いて請う処があるならば国書を受け取るべしと命じたのである。そこで長崎奉行は八月十九日をもってついに露国使節の上陸を許し、書翰授受の儀を挙げるに至ったのであるが、その書翰の要旨とする処は、一に両国の国境を定める事、二に露国のために我国の一二港を開きて交易を許し、また露船に食料並びにその他の必要品を供給する事というのであった。 しかし幕府では十月八日をもって留守居筒井肥前守、勘定奉行川路左衛門尉二人を任命し、これに荒尾土佐守並びに古賀謹一郎の二人を付き添わせて長崎に派遣し、返書を与えしめんとしたのである。そしてその要旨とする処は、国境に関してはよほどの調査を要する事項であることは言うまでもないから、到底一朝一夕に取り定めることはできない。また開港交易の事は祖法として厳禁されている事ではあるが、この頃米国からも請う処があったし、宇内の形勢に鑑みて古例をのみ守る訳にも行くまいが、これを決行するには十分に利害得失を調査する必要があるのは勿論のことであるのみならず、事重大であるから天朝にも奏し、また列侯の意見を緩和する必要もあるから、ここ四五年も経って国論の一定するのを待たれたいものであるというのであった。 これで見ると、米艦の渡来後まだ数ヶ月であるが、幕府は既に開港の止むを得ざるのを認めていた様子で、ただ国論の趨向に顧慮する処があって急にはこれを断行しかねたものと見える。もっともこの肥前守は頗る外国の事情に通じて開国の止むを得ざることを認めていた人であるが、左衛門尉とてもやはり無謀の戦争をなすがごときは決して国家に利益でないということを承知していたのである。殊に古賀謹一郎のごときはその父洞庵以来の開国論者であるから、この時の長崎下向は幕議も頗る開国の止むを得ざる事を認めたる結果であることと思われるのである。 しかるにかの露使プーチャチンはしばしば長崎奉行に促す処があったが、意のごとくならないので段々前の態度を一変して頗る強硬となったのであるが、十月二十二日に至り長崎奉行が 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百七十七号附録(大正二年五月二十七日発行) 【本文】 種々に慰諭せるにも拘らず、ついに老中に宛てたる書翰の写しを託してその率いる処の四艦を携えて卒然長崎を立ち去ったのである。この退去について当時プーチャチンは種々なる口実を設けて長崎奉行に告げたのであるが、今日から観察すればその時恰もロシアと英仏両国との間に国交が断絶せんとする場合で、その報知を得たるプーチャチンはついに我国に居堪らずして一たび上海に立退いたのであると信じられるのである。 しかれども長崎奉行においては元よりそれ等の事を知るよしもなく、直ちにその一部始終を幕府に通知したのである。その時恰も筒井肥前守等の一行は既に西下の途上にあったのであるが、幕府は露使の再来を予期したものであるから、そのまま一行をして西下を継続せしめたが、一行は十二月初旬をもって佐賀に達したのである。 しかるに同月五日、露艦は果たして再び長崎に入港したので、左衛門尉等は至急佐賀から長崎に到着して、いよいよ十二月十四日をもってプーチャチンと初度の会見をなし、引き続いて数度の談判は開始されたが、容易に決することのなかったのは当然の事で、殊に露国においては国境問題について択捉島をもって全くその所領なりと抗弁し、樺太もまたその大部分を自己の所領なりと主張したのであったが、肥前守、左衛門尉の両人は勿論、勘定組頭中村為彌(出羽守時萬)等は熱心に抗議を申し込んで、択捉島は無論全部我国の所領であることは明瞭なるのみならず、樺太もまた少なくとも天度五十度以南は我が有でなければならぬと論争したが、いずれ実地調査の上でさらに談判をなすべきこととなり、また開港の事に対しても結局日本は最も露国に親近することを欲するが故に、若し他の国に通商を許す場合には必ず先ずロシアに許し、かつ隣国の交誼をもって特にロシアを厚遇すべしという意味の約束をなしたまでで、この事も一時落着を告ぐるに至ったのであるが、この談判中に嘉永六年も過ぎて翌年の春を迎え、プーチャチンの長崎を辞し去ったのは嘉永七年の正月八日であったという訳である。 【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百二十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 428 **Main Text:** However, ultimately based on an inquiry from the Nagasaki magistrate, the shogunate ordered that they should first admonish them, and if they still pressed their requests, then accept their state letter. So the Nagasaki magistrate finally permitted the Russian envoys to land on August 19th and proceeded with the ceremony of exchanging documents. The main points of their letter were: first, to establish the national borders between the two countries, and second, to open one or two ports in our country for Russia's sake to permit trade, and also to supply Russian ships with food and other necessary supplies. However, on October 8th the shogunate appointed two men - Resident Deputy Tsutsui Hizen-no-kami and Finance Magistrate Kawaji Saemon-no-jo - and had them accompanied by Arao Tosa-no-kami and Koga Kin'ichiro, dispatching them to Nagasaki to deliver a reply. The main points were: regarding borders, it goes without saying that these are matters requiring considerable investigation, so they cannot possibly be decided overnight. As for opening ports for trade, while this has been strictly forbidden by ancestral law, recently America has also made such requests, and considering the state of world affairs, we cannot simply adhere to old precedents alone. However, to carry this out would naturally require thorough investigation of the advantages and disadvantages, and moreover, since the matter is so important, it must be reported to the Imperial Court and the opinions of the various lords must be reconciled, so they should wait four or five years for national opinion to be settled. From this we can see that although only a few months had passed since the American ships' arrival, the shogunate had already recognized the inevitability of opening ports, but there were considerations about the direction of national opinion that made them hesitant to carry this out immediately. This Hizen-no-kami was quite familiar with foreign affairs and recognized the inevitability of opening the country, and Saemon-no-jo also understood that reckless warfare would certainly not benefit the nation. Particularly, someone like Koga Kin'ichiro had been an advocate of opening the country since his father Doan's time, so this mission to Nagasaki appears to have resulted from the shogunate council recognizing the inevitability of opening the country. However, the Russian envoy Putyatin repeatedly urged the Nagasaki magistrate, but when things did not go as he wished, he gradually changed his previous attitude and became quite aggressive. On October 22nd, despite the Nagasaki magistrate's various attempts at consolation, **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Partnership Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno □kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4377 Supplement (Published May 27, Taisho 2 [1913]) **Main Text:** he suddenly left Nagasaki with the four ships under his command, entrusting a copy of a letter addressed to the Senior Councilors. Regarding this withdrawal, Putyatin gave various pretexts to the Nagasaki magistrate at the time, but observing from today's perspective, it was precisely when relations between Russia and Britain and France were about to be severed, and having received this information, Putyatin could no longer remain in our country and temporarily withdrew to Shanghai. However, the Nagasaki magistrate naturally had no way of knowing these circumstances and immediately reported the entire affair to the shogunate. At that time, Tsutsui Hizen-no-kami's party was already en route westward, but since the shogunate anticipated the Russian envoy's return, they had the party continue westward, and they reached Saga in early December. However, on the 5th of the same month, the Russian ships indeed entered Nagasaki port again, so Saemon-no-jo and others hurried from Saga to Nagasaki, and finally on December 14th held their first meeting with Putyatin. Negotiations continued over several sessions, but it was natural that they could not easily reach agreement. Particularly regarding the border issue, Russia insisted that Etorofu Island was entirely their territory and claimed that most of Karafuto (Sakhalin) was also their territory. However, both Hizen-no-kami and Saemon-no-jo, as well as Finance Group Leader Nakamura Tameya (Dewa-no-kami Tokimaro) and others, earnestly protested, arguing that Etorofu Island was clearly entirely our country's territory, and that at least the area south of 50 degrees north latitude of Karafuto must belong to us. It was decided that further negotiations would be conducted after field surveys. Regarding the opening of ports, they ultimately made a promise that since Japan most desired to be close to Russia, if trade were permitted with other countries, it would first be granted to Russia, and as a neighboring country, Russia should be given special favorable treatment. This matter was temporarily settled, but during these negotiations Kaei 6 passed and they welcomed the following spring. Putyatin left Nagasaki on January 8th of Kaei 7. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 429