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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 229

ページ: 229

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【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十 【本文】       此(この)嘉永(かえい)七年と云ふ年(とし)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く安政(あんせい)と改元(かいげん)せられた年(とし)であるが我国(わがくに)の外交史(ぐわいかうし)に対(たい)しては頗(すこぶ) 《割書:ペリーの再|航》  る記憶(きおく)すべき年(とし)である即(すなは)ち露国船(ろこくせん)の長崎(ながさき)を去(さ)つた後(のち)僅(わづか)に七日 米使(べいし)ペリーは復(ふたゝ)び数艘(すうさう)の艦隊(かんたい)を率(ひき)ゐて江(え)       戸湾(どわん)に入(い)り来(きた)つたのである之(これ)より先(さ)きペリーは一 時(じ)我国(わがくに)を去(さ)つて香港(ほんこん)にあつたが絶(た)えず我国(わがくに)に関(かん)する       近状(きんぜう)を偵察(ていさつ)し露船(ろせん)の入港(にふかう)をも承知(せうち)したのであるから結局(けつきよく)之(これ)は打捨(うちす)て置(お)かれずと思考(しかう)したものと見(み)へて       去年(さるとし)の十二月 既(すで)に琉球(りうきう)に向(むか)つて出航(しゆつかう)し琉球(りうきう)には若干(じやくかん)の士卒(しそつ)をさへ止(とゞ)めて用意周到(よういしうたう)を極(きは)め遂(つひ)に江戸湾(えどわん)に       至(いた)つたのであるトコロが今度(こんど)は浦賀(うらが)などに止(とゞむ)るのを肯(がえん)ぜず直(たゞ)ちに内湾(うちわん)に進入(しんにふ)し総艦(そうかん)九 隻(せき)堂々(どう〴〵)として神(か)       奈川沖(ながはおき)に碇泊(ていはく)したのであるから之(これ)には少(すくな)からず我国人(わがこくじん)も驚(おどろ)いた事であるかゝる有様(ありさま)で当時(たうじ)に於(お)ける我(わが)       国情(こくぜう)と云ふものは実(じつ)に沸騰(ふつたう)した事であつたが前(まへ)にも申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く其(その)頃(ころ)はまだ極(きは)めて少数(せうすう)の人士(じんし)       の外(ほか)は外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)などに通暁(つうげふ)して居(ゐ)なかつたので勿論(もちろん)祖法(そはふ)固守(こしゆ)で鎖国(さこく)攘夷(ぜうゐ)の説(せつ)が大多数(だいたすう)であつたので       あるから幕府(ばくふ)に於(おい)ても既(すで)に昨(さく)嘉永(かえい)六年の十一月朔日 伊勢守(いせのかみ)から台旨(たいし)を奉(ほう)して登営(とゑい)の諸侯(しよこう)に向(むか)ひ対米(たいべい)問(もん)       題(だい)に付(つい)て左(さ)の如(ごと)き諭告(ゆこく)をなしたのである即(すなは)ち其(その)大要(たいえう)を申述(まをしの)ぶれば仮令(たとへ)米使(べいし)が再(ふたゝ)び来航(らいかう)して通商(つうせう)を促(うなが)す       処ありとも何(なん)とか事に托(たく)して其(その)決答(けつたう)を遷延(せんえん)し和親通商(わしんつうせう)の願意聴許(ぐわんいてうきよ)の有無(うむ)を告(つ)げずして退去(たいきよ)せしめ且(か)つ       能(あた)ふ限(かぎ)り穏和(おんわ)の処置(しよち)を施(ほどこ)すべきも万(まん)一 彼(か)れより乱暴(らんぼう)を仕掛(しか)けまいとも限(かぎ)らないから諸大名(しよだいめよう)は防備(ぼうび)を厳(げん)       重(じう)にし忠憤(ちうふん)を忍(しの)び義勇(ぎゆう)を蓄(たくは)へ彼(かれ)の動静(どうせい)を熟察(じゆくさつ)して若(も)し兵端(へいたん)の開(ひら)かれた場合(ばあひ)には一 同奮発(どうふんぱつ)して毫髪(もうはつ)も国(くに)       體(たい)を汚(けが)さざる様(やう)上下(ぜうげ)挙(こぞ)つて力(ちから)を尽(つく)すべしと云ふのにあつたのである而(しか)して尚(なほ)此(この)外(ほか)にも色々(いろ〳〵)其(その)準備(じゆんび)に就(つい)       て計劃(けいくわく)された処があつたが一 方(ぽう)には彼(か)の水戸斉昭(みとなりあきら)も頗(すこぶ)る之(これ)に干与(かんよ)したのであるかゝる事情(じぜう)であつたか       ら内(うち)にありては盲進的(もうしんてき)の与論(よろん)を節制(せつせい)しつゝ外(そと)に対(たい)しては外人(ぐわいじん)の強求(きようきう)を抑(おさ)へねばならぬと云ふのが伊勢(いせの)       守(かみ)初(はじ)め幕府(ばくふ)当局者(たうきよくしや)の立場(たちば)で実(じつ)に其(その)苦心(くしん)の程(ほど)は今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)ても一 面(めん)に於(おい)て同情(どうぜう)に堪(た)へぬ次第(しだい)であ 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       ると思(おも)ふ       ソコで今度(こんど)イヨ〳〵ペリー再渡航(さいとかう)となつて幕府(ばくふ)の応接係(おうせつかゝり)は林大学頭煒、町奉行(まちぶぎやう)井戸対馬守(ゐどたじまのかみ)学弘、目付(めつけ)       鵜殿民部少輔(うどのみんぶのせうゆう)長鋭、儒者(じゆしや)松崎満太郎(まつざきまんたらう)並(ならび)に浦賀奉行(うらがぶぎやう)伊沢美作守政義(いざはみまさかのかみまさよし)であつたが会見(くわいけん)の場所(ばしよ)はペリーの意(い) 《割書:神奈川条約|の締結》  見(けん)で神奈川(かながは)と定(さだ)まり矢張(やはり)前年(ぜんねん)の様(やう)な仮会見所(かりくわいけんしよ)が建設(けんせつ)せられて此処(こゝ)で此(この)年(とし)の二月十日から談判(だんぱん)が初(はじ)まつ       たのである然(しか)るにペリーは此(この)時(とき)通商(つうせう)の開始(かいし)に就(つい)ては深(ふか)く求(もと)むる処なく只(た)だ和親条約(わしんでうやく)の締結(ていけつ)をのみ望(のぞ)む       だので其(その)主張(しゆてう)する処が比較的(ひかくてき)急劇(きふげき)でなかつたのみならず一 方(ぱう)にはペリーの威圧(ゐあつ)と云ふものが甚(はなはだ)しか       つたので幕府(ばくふ)も全(まつた)く初(はじ)めの予想(よさう)に反(はん)し遂(つひ)に之(これ)を拒(こば)むに由(よし)なく既(すで)に諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)時(とき)大要(たいえう)左(さ)の如(ごと)       き条約(でうやく)を締結(ていけつ)するに至(いた)つたのである即(すなは)ち此(この)神奈川条約(かながわでうやく)の大要(たいえう)と云ふのは第(だい)一、漂民(へうみん)の取扱方(とりあつかひかた)に就(つい)て       は従来(じうらい)仇敵(きうてき)を以(もつ)て遇(ぐう)し禁獄幽囚(きんごくゆうしう)等(とう)をなした事があつたがそれは今後(こんご)一 親同仁寛大(しんどうにんかんだい)なる取扱(とりあつかひ)をなすべ       き事(こと)第(だい)二、食糧(しよくれう)薪炭(しんたん)等(とう)船中(せんちう)に於(おい)て欠乏(けつばう)したる時(とき)は何時(いつ)にても求(もとめ)に応(おう)じて供給(けうきふ)し且(か)つ必(かなら)ず代金(だいきん)を支払(しはら)ふ       べき事(こと)第(だい)三、米艦(べいかん)の立寄(たちよ)る事を許(ゆる)すべき港(みなと)は長崎(ながさき)の外(ほか)に明年(みようねん)三月から函館(はこだて)と伊豆(いづ)の下田(しもだ)を許(ゆる)す事(こと)第四       下田(しもだ)函館(はこだて)両湊(れうみなと)には米国人(べいこくじん)の上陸(ぜうりく)遊歩(ゆうほ)を許(ゆる)し其(その)里程(りてい)下田(しもだ)は七 里(り)函館(はこだて)は追(おつ)て調査(てうさ)の上(うへ)定(さだ)むる事 第(だい)五、下田(しもだ)       には両国民(れうこくみん)の紛争(ふんさう)を解(と)き相互(あひたがひ)の利益(りえき)を進(すゝ)むる為(た)め米国官吏(べいこくくわんり)の駐在(ちうざい)を許(ゆる)されたしとのペリーの要求(えうきう)に対(たい)       し尚(なほ)今後(こんご)十八ケ月に至(いた)り双方(さうはう)更(さら)に協議(けふぎ)の上(うへ)若(も)しイヨ〳〵止(やむ)を得(え)ざる場合(ばあひ)があつたならば之(これ)を許(ゆる)す事と       云ふに決定(けつてい)したのであるモツトモペリーからは尚(なほ)二三の要求(えうきう)があつたがそれは段々(だん〴〵)に撤回(てつくわい)することにな       つて以上(いぜう)申述(まをしの)べた如(ごと)きことが条約(でうやく)として締結(ていけつ)さるゝことになつたのであるが其(その)後(ご)右(みぎ)の文案(ぶんあん)に就(つい)て討議(たうぎ)を重(かさ)       ねたる結果(けつくわ)三月三日を以(もつ)て遂(つひ)に十二ケ条(でう)の和親条約(わしんでうやく)となつて之(これ)に調印(てういん)せらるゝに至(いた)つたのである       然(しか)るに此(この)条約(でうやく)と云ふものは当時(たうじ)に取(と)りては実(じつ)に破天荒(はてんくわう)の事とも云ふべきであるから水戸斉昭(みとなりあきら)の如(ごと)きは 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十 【本文】 この嘉永七年という年は諸君もご承知のように安政と改元された年であるが、我国の外交史に対しては極めて記憶すべき年である。すなわち露国船の長崎を去った後わずかに七日、米使ペリーは再び数隻の艦隊を率いて江戸湾に入り来たのである。 これより先、ペリーは一時我国を去って香港にあったが、絶えず我国に関する近状を偵察し、露船の入港をも承知していたのであるから、結局これは打ち捨てておかれずと思考したものと見えて、去年の十二月既に琉球に向かって出航し、琉球には若干の士卒をさえ留めて用意周到を極め、ついに江戸湾に至ったのである。 ところが今度は浦賀などに留まるのを承諾せず、直ちに内湾に進入し、総艦九隻堂々として神奈川沖に碇泊したのであるから、これには少なからず我国人も驚いた事である。かかる有様で当時における我国情というものは実に沸騰した事であったが、前にも申し述べておいたように、その頃はまだ極めて少数の人士の外は外国の事情などに通暁していなかったので、もちろん祖法固守で鎖国攘夷の説が大多数であったのであるから、幕府においても既に昨嘉永六年の十一月朔日、伊勢守から台旨を奉って登営の諸侯に向かい、対米問題について左のごとき諭告をなしたのである。 すなわちその大要を申し述べれば、たとえ米使が再び来航して通商を促す処ありとも、何とか事に託してその決答を遷延し、和親通商の願意聴許の有無を告げずして退去せしめ、かつ能う限り穏和の処置を施すべきも、万一彼れより乱暴を仕掛けまいとも限らないから、諸大名は防備を厳重にし、忠憤を忍び義勇を蓄え、彼の動静を熟察して、若し兵端の開かれた場合には一同奮発して毫髪も国体を汚さざるよう、上下挙って力を尽くすべしというのにあったのである。 そしてなおこの外にも色々その準備について計画された処があったが、一方には彼の水戸斉昭も頗るこれに干与したのである。かかる事情であったから、内にありては盲進的の与論を節制しつつ、外に対しては外人の強求を抑えねばならぬというのが伊勢守初め幕府当局者の立場で、実にその苦心の程は今日から考えて見ても一面において同情に堪えぬ次第である 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 と思う。 そこで今度いよいよペリー再渡航となって、幕府の応接係は林大学頭煒、町奉行井戸対馬守学弘、目付鵜殿民部少輔長鋭、儒者松崎満太郎並びに浦賀奉行伊沢美作守政義であったが、会見の場所はペリーの意見で神奈川と定まり、やはり前年のような仮会見所が建設されて、ここでこの年の二月十日から談判が始まったのである。 しかるにペリーはこの時通商の開始については深く求める処なく、ただ和親条約の締結をのみ望んだので、その主張する処が比較的急劇でなかったのみならず、一方にはペリーの威圧というものが甚だしかったので、幕府も全く初めの予想に反し、ついにこれを拒むに由しなく、既に諸君もご承知のようにこの時大要左のごとき条約を締結するに至ったのである。 すなわちこの神奈川条約の大要というのは、第一、漂民の取扱方については従来仇敵をもって遇し禁獄幽囚等をなした事があったが、それは今後一親同仁寛大なる取扱をなすべき事。第二、食糧薪炭等船中において欠乏したる時は何時にても求めに応じて供給し、かつ必ず代金を支払うべき事。第三、米艦の立寄る事を許すべき港は長崎の外に明年三月から函館と伊豆の下田を許す事。第四、下田函館両湊には米国人の上陸遊歩を許し、その里程下田は七里、函館は追って調査の上定める事。第五、下田には両国民の紛争を解き相互の利益を進むるため米国官吏の駐在を許されたしとのペリーの要求に対し、なお今後十八ヶ月に至り双方さらに協議の上、若しいよいよ止むを得ざる場合があったならばこれを許す事というに決定したのである。 もっともペリーからはなお二三の要求があったが、それは段々に撤回することになって、以上申し述べたごときことが条約として締結されることになったのであるが、その後右の文案について討議を重ねたる結果、三月三日をもってついに十二ヶ条の和親条約となってこれに調印されるに至ったのである。 しかるにこの条約というものは当時に取りては実に破天荒の事とも言うべきであるから、水戸斉昭のごときは 【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 430 **Main Text:** This year of Kaei 7 was, as you all know, the year when the era name was changed to Ansei, and it was an extremely memorable year for our country's diplomatic history. Namely, only seven days after the Russian ships left Nagasaki, American envoy Perry again entered Edo Bay leading a fleet of several ships. Prior to this, Perry had temporarily left our country and was in Hong Kong, but he had been constantly gathering intelligence about recent conditions in our country and was aware of the Russian ships' entry into port. It appears he thought this situation could not be left unattended, so in December of the previous year he had already set sail for Ryukyu, where he left some soldiers to make thorough preparations, and finally arrived at Edo Bay. However, this time he would not consent to remaining at Uraga and immediately proceeded into the inner bay, anchoring nine ships in total majestically off Kanagawa, which greatly surprised our countrymen. Given such circumstances, the national sentiment at the time was truly at a boiling point. But as I mentioned before, at that time only a very small number of people were familiar with foreign affairs, so naturally the majority held to maintaining ancestral laws and advocated national isolation and expelling foreigners. Therefore, on November 1st of last year, Kaei 6, the shogunate, through Ise-no-kami receiving imperial orders, issued the following proclamation to the lords attending the castle regarding the American problem. The main points were: even if the American envoy comes again to urge trade, they should somehow find pretexts to delay a definitive answer, not reveal whether requests for friendship and trade would be granted, and have them withdraw. While they should implement peaceful measures as much as possible, since there was no guarantee the foreigners wouldn't resort to violence, all daimyo should strengthen their defenses, endure loyal indignation, store up righteous courage, carefully observe their movements, and if hostilities should break out, all should unite in determination and spare no effort, high and low together, to avoid staining the national honor. Furthermore, various other preparations were planned, and notably Mito Nariakira was heavily involved in this. Under such circumstances, the position of Ise-no-kami and other shogunate officials was to restrain reckless public opinion internally while suppressing foreign demands externally. Their difficulties are truly worthy of sympathy even when considered from today's perspective. **Margin:** Toyohashi Mayor Oguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of Sanyo Newspaper **Main Text:** I believe. So when Perry's second voyage finally materialized, the shogunate's reception committee consisted of Hayashi Daigaku-no-kami Akira, Town Magistrate Ido Tsushima-no-kami Gakuhiro, Inspector Udono Minbu-no-sho Chōei, Confucian scholar Matsuzaki Mantarō, and Uraga Magistrate Izawa Mimasaka-no-kami Masayoshi. The meeting place was decided as Kanagawa according to Perry's wishes, and a temporary meeting hall like the previous year was constructed, where negotiations began on February 10th of this year. However, at this time Perry did not deeply press for the commencement of trade, but only sought the conclusion of a treaty of friendship. Not only were his demands relatively moderate, but Perry's show of force was so overwhelming that the shogunate, completely contrary to their initial expectations, had no choice but to accept, and as you all know, they concluded a treaty with roughly the following main points. Namely, the main points of this Kanagawa Treaty were: First, regarding treatment of castaways, whereas previously they had been treated as enemies and subjected to imprisonment and confinement, henceforth they should receive benevolent and generous treatment. Second, when food, firewood, charcoal and other supplies are lacking aboard ship, they should be supplied upon request at any time, with payment always to be made. Third, ports where American ships may call shall be, in addition to Nagasaki, Hakodate and Shimoda in Izu from March of next year. Fourth, at both Shimoda and Hakodate, American nationals may land and walk about, with the distance being seven ri for Shimoda and to be determined after investigation for Hakodate. Fifth, regarding Perry's request that American officials be permitted to reside at Shimoda to resolve disputes between the two nations' peoples and advance mutual interests, it was decided that after eighteen months both sides would consult further, and if it proved absolutely necessary, this would be permitted. Perry had made two or three other demands, but these were gradually withdrawn, and the above-mentioned points were to be concluded as a treaty. After repeated discussions of the draft, it finally became a twelve-article treaty of friendship signed on March 3rd. However, this treaty could be called truly unprecedented for that time, so someone like Mito Nariakira... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 431