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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 230

ページ: 230

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【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十二 【本文】       勿論(もちろん)輿論(よろん)の沸騰(ふつたう)と云ふものは甚(はなはだ)しかつたのである彼(か)の筒井(つゝゐ)、川路(かはぢ)の如(ごと)き開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざるを認(みと)めて       居(お)る人(ひと)までも自身(じしん)等(ら)が長崎(ながさき)に於(おい)て露使(ろし)プーチヤチンと応接(おうせつ)した結果(けつくわ)に比較(ひかく)対照(たいせう)して此(この)神奈川条約(かながはでうやく)の意(い)       気地(きぢ)のない事を非難(ひなん)した位(くらゐ)であるが今日(こんにち)から考(かんが)へて見(み)ると実(じつ)は之(これ)も止(やむ)を得(え)ざるの勢(いきほひ)で当時(たうじ)の情勢(ぜうせう)と       云ふものは到底(たうてい)之(これ)を拒絶(きよぜつ)することが出来(でき)なかつたのである       当時(たうじ)米艦(べいかん)の挙動(きよどう)と云ふものは実(じつ)に堂々(どう〴〵)たるもので嘗(かつ)て我国人(わがこくじん)の多(おほ)くが夢想(むさう)だにもしなかつた処(ところ)の山(やま)の       如(ごと)き軍艦(ぐんかん)の多数(たすう)を眼前(がんぜん)に控(ひか)へ而(しか)もその士官(しくわん)水兵(すゐへい)の挙止動作(きよしどうさ)と云ふものは実(じつ)に勇壮厳粛(ゆうさうげんしゆく)で其(その)武器(ぶき)の精鋭(せいえい)な       ることは到底(たうてい)我国人(わがこくじん)をして及(およ)ばざることを思(おも)はしめたるのみならず或(あるひ)は祝砲(しゆくほう)を連発(れんぱつ)し或(あるひ)は軍楽隊(ぐんがくたい)の吹奏(すゐそう)を       なし或(あるひ)は兵士(へいし)の操練(さうれん)を行(おこな)ひ或(あるひ)は艦隊(かんたい)の操縦(さうじう)を試(こゝろ)むるなど視(み)るとして我国人(わがこくじん)が吃驚(きつけう)せざるはなく尚(なほ)其(その)外(ほか)       にも汽車(きしや)電信機(でんしんき)などの模型(もけい)を使用(しよう)して其(その)奇智(きち)を示(しめ)し又(また)はメキシコ戦争(せんさう)の絵画(くわいぐわ)を贈(おく)りて其(その)惨憺(さんたん)たる光景(くわうけい)       に戦慄(せんりつ)せしむるなど殆(ほとん)ど我国人(わがこくじん)の意想(いさう)の外(ほか)に出(い)でたのであるから幕府(ばくふ)当局者(たうきよくしや)と雖(いへど)も最初(さいしよ)は前(まへ)に申述(まをしの)べ       たる如(ごと)き方針(はうしん)を以(もつ)て之(これ)に応接(おうせつ)し如何様(いかやう)にも一 時(じ)を切(き)り抜(ぬ)く事の考(かんがへ)であつた事は勿論(もちろん)であると信(しん)ずる       が事(こと)此(かく)の如(ごと)きに至(いた)つては殆(ほとん)ど之(これ)に対(たい)して何等(なんら)恃(たの)むに足(た)るべき武力(ぶりよく)のなき我(わが)幕府(ばくふ)に於(おい)ては或(あるひ)は国家(こくか)を焦(せう)       土(ど)となす迄(まで)の覚悟(かくご)があるでなければ先方(せんぱう)の要求(えうきう)を拒絶(きよぜつ)することなどは出来(でき)なかつたので結局(けつきよく)以上(いぜう)申述(まをしの)べ       た位(くらゐ)の条約(でうやく)を締結(ていけつ)するのは権宜上(けんぎぜう)誠(まこと)に止(やむ)を得(え)ざるの情勢(ぜうせい)に陥(おちゐ)つたるものであつた事を思(おも)ふのである之(これ)       と云ふも実(じつ)は世界(せかい)の進運(しんうん)が遂(つひ)に我国(わがくに)をして茲(こゝ)に至(いた)らしめたもので如何(いか)に強硬(けうかう)なる我(わが)日本武士(にほんぶし)と雖(いへど)も帰(き)       する処は此(この)世界(せかい)の大勢(たいせい)には打勝(うちか)つ事が出来(でき)なかつたものと思(おも)はねばならぬのである此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で日米(にちべい)       間(かん)の和親条約(わしんでうやく)は成立(せいりつ)したのであるがそれよりペリーは三月廿一日を以(もつ)て一たび神奈川(かながは)を去(さ)り函館(はこだて)に向(むか)       つたが更(さら)に五月十二日を以(もつ)て下田(しもだ)に渡来(とらい)し此処(こゝ)で又々(また〳〵)林大学頭(はやしだいがくのかみ)、井戸対馬守(ゐどたじまのかみ)の応接係(おうせつかゝり)と会見(くわいけん)し条約(でうやく) 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百八十二号附録    (大正二年六月三日発行) 【本文】       付則(ふそく)に調印(てういん)したのである而(しか)して此(この)条約(でうやく)並(ならび)に付則(ふそく)は翌年(よくねん)即(すなは)ち安政(あんせい)二年の正月(せうがつ)五日を以(もつ)て矢張(やはり)此(この)下田(しもだ)に於(おい)       て米使(べいし)アダムスと云ふ人と我国(わがくに)の応接係(おうせつかゝり)との間(あひだ)に批准(ひじゆん)交換(かうくわん)を了(れう)したのであつた 英艦の来航 然(しか)るにペリーが我国(わがくに)を退去(たいきよ)して後(のち)程(ほど)なく其(その)年(とし)の閏(うるふ)七月十五日に至(いた)つて今度(こんど)は又(また)英国(えいこく)の艦隊(かんたい)が長崎(ながさき)にや       つて来(き)たのである其(その)水師(すゐし)提督(ていとく)はゼームス、スターリングと云ふ人であつたが書(しよ)を奉行(ぶぎやう)に送(おく)つて当時(たうじ)英(えい)       国(こく)は仏国(ふつこく)と同盟(どうめい)して露国(ろこく)に対(たい)し戦争中(せんさうちう)であるが之(これ)は露国(ろこく)が欧羅巴(よろつぱ)を併呑(へいどん)せむとするのを制(せい)する為(ため)であ       るトコロが露国(ろこく)は此(この)東方(とうはう)に向(むかつ)ても手(て)を延(の)ばして既(すで)にサガレン、千島(ちじま)などには侵掠(しんれう)を加(くは)へて居(を)るから日(に)       本(ほん)の本土(ほんど)にも其(その)手(て)が及(およ)ばないものではないソコで今度(こんど)英艦(えいかん)は自国(じこく)の船舶保護(せんぱくほご)の為(た)め東洋(とうよう)に於(お)ける露艦(ろかん)       を撃退(げきたい)する目的(もくてき)を以(もつ)て来(きた)れるものであるから今後(こんご)とても自国(じこく)は勿論(もちろん)同盟国(どうめいこく)たる仏国(ふつこく)の船(ふね)も屡(しば〴〵)此(この)東洋(とうよう)       へは来航(らいかう)する事と思(おも)ふから艦隊(かんたい)の立寄(たちよ)るべき為(た)め然(しか)るべき港(みなと)を開(ひら)いて貰(もら)ひたいと云ふことを申出(まをしい)でたの       である因(よつ)て幕府(ばくふ)に於(おい)ても種々(しゆ〴〵)に議(ぎ)を凝(こ)らしたのであるが結局(けつきよく)薪水食糧(しんすゐしよくれう)の要求(えうきう)又(また)は船舶修理(せんぱくしうり)の為(ため)となら       ば其(その)求(もとめ)にも応(おう)じようが仮令(たとへ)何国(なにくに)にせよ戦争(せんさう)の為(ため)に便(べん)を我国(わがくに)に得(え)ようと云ふならば此(この)義(ぎ)には一 切(さい)応(おう)じ難(がた)       いと云ふ旨(むね)を答(こた)ふる事となつたのであるトコロでスターリングも之(これ)には承服(せうふく)して然(しか)らば戦争(せんさう)の事には 《割書:英国と協約|成る》  全(まつた)く無関係(むかんけい)として単(たん)に長崎(ながさき)函館(はこだて)二 港(かう)に入港(にふかう)を差許(さしゆる)されたいと云ふ事になつて結局(けつきよく)七ケ条(でう)より成(な)る協約(けふやく)       書(しよ)が出来(でき)て之(これ)に調印(てういん)するに至(いた)つたのである而(しか)して此(この)本条約(ほんでうやく)は矢張(やはり)翌(よく)安政(あんせい)二年の八月廿九日を以(もつ)て長崎(ながさき)      に於(おい)てスターリングと時(とき)の長崎奉行(ながさきぶぎやう)荒尾石見守(あらをいわみのかみ)、川村対馬守(かはむらつしまのかみ)との間(あひだ)に交換(かうくわん)さるゝに至(いた)つたのである 露使の再航 米英(べいえい)二 国(こく)が我国(わがくに)と協約(けふやく)をなせること前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くであるに就(つい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)き行掛(ゆきがゝ)りのある露国(ろこく)       に於(おい)ては勿論(もちろん)黙止(もくし)すべきものではないので彼(か)のプーチヤチンは先(さ)きに長崎奉行(ながさき)を去(さ)りしより上海(しやんはい)を根拠(こんきよ)と       せしものゝ如(ごと)く数々(しば〴〵)我(わが)近海(きんかい)を窺(うかゞ)つて居(を)つたのであるが当時(たうじ)其(その)本国(ほんごく)は英仏(えいふつ)二 国(こく)と交戦中(かうせんちう)であつたにも拘(かゝは) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十二 【本文】 もちろん世論の沸騰というものは甚だしかったのである。あの筒井、川路のような開国の止むを得ざることを認めている人までも、自分たちが長崎においてロシア使節プチャーチンと応接した結果に比較対照して、この神奈川条約の意気地のないことを非難した位であるが、今日から考えてみると実はこれも止むを得ない勢いで、当時の情勢というものは到底これを拒絶することができなかったのである。 当時米艦の行動というものは実に堂々たるもので、かつて我国人の多くが夢想だにもしなかった山のような軍艦の多数を眼前に控え、しかもその士官水兵の挙止動作というものは実に勇壮厳粛で、その武器の精鋭なることは到底我国人をして及ばざることを思わしめたのみならず、あるいは祝砲を連発し、あるいは軍楽隊の吹奏をなし、あるいは兵士の操練を行い、あるいは艦隊の操縦を試みるなど、見るとして我国人が吃驚せざるはなく、なおその外にも汽車電信機などの模型を使用してその奇智を示し、またはメキシコ戦争の絵画を贈ってその惨憺たる光景に戦慄せしむるなど、ほとんど我国人の意想の外に出たのであるから、幕府当局者といえども最初は前に申し述べたような方針をもってこれに応接し、いかようにも一時を切り抜くことの考えであった事はもちろんであると信ずるが、事かくのごとくに至っては、ほとんどこれに対して何等頼むに足るべき武力のない我が幕府においては、あるいは国家を焦土となすまでの覚悟があるのでなければ先方の要求を拒絶することなどはできなかったので、結局以上申し述べた位の条約を締結するのは権宜上誠に止むを得ざる情勢に陥ったるものであった事を思うのである。 これというも実は世界の進運が遂に我国をして茲に至らしめたもので、いかに強硬なる我が日本武士といえども、帰する処はこの世界の大勢には打ち勝つ事ができなかったものと思わねばならぬのである。 かくのごとき訳で日米間の和親条約は成立したのであるが、それよりペリーは三月二十一日をもって一たび神奈川を去り函館に向かったが、さらに五月十二日をもって下田に渡来し、ここで又々林大学頭、井戸対馬守の応接係と会見し、条約 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百八十二号附録(大正二年六月三日発行) 【本文】 付則に調印したのである。そしてこの条約並びに付則は翌年すなわち安政二年の正月五日をもってやはりこの下田において米使アダムスという人と我国の応接係との間に批准交換を了したのであった。 **英艦の来航** しかるにペリーが我国を退去して後程なく、その年の閏七月十五日に至って今度はまた英国の艦隊が長崎にやって来たのである。その水師提督はジェームス・スターリングという人であったが、書を奉行に送って「当時英国は仏国と同盟して露国に対し戦争中であるが、これは露国が欧羅巴を併呑せんとするのを制する為である。ところが露国はこの東方に向かっても手を延ばして既にサガレン、千島などには侵略を加えているから、日本の本土にもその手が及ばないものではない。そこで今度英艦は自国の船舶保護の為め東洋における露艦を撃退する目的をもって来れるものであるから、今後とても自国はもちろん同盟国たる仏国の船も屡々この東洋へは来航する事と思うから、艦隊の立寄るべき為め然るべき港を開いて貰いたい」ということを申し出たのである。 よって幕府においても種々に議を凝らしたのであるが、結局「薪水食糧の要求また は船舶修理の為めとならばその求めにも応じようが、たとえ何国にせよ戦争の為めに便を我国に得ようというならばこの義には一切応じ難い」という旨を答える事となったのである。ところでスターリングもこれには承服して、「然らば戦争の事には全く無関係として単に長崎函館二港に入港を差許されたい」ということになって、結局七ヶ条よりなる協約書ができてこれに調印するに至ったのである。そしてこの本条約はやはり翌安政二年の八月二十九日をもって長崎においてスターリングと時の長崎奉行荒尾石見守、川村対馬守との間に交換されるに至ったのである。 **露使の再航** 米英二国が我国と協約をなせること前述のごとくであるについては、前にも申し述べたるごとき行きがかりのある露国においてはもちろん黙止すべきものではないので、かのプチャーチンは先きに長崎を去りしより上海を根拠としたもののごとく、しばしば我が近海を窺っていたのであるが、当時その本国は英仏二国と交戦中であったにもかかわ 【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 432 **Main Text:** Of course, the boiling of public opinion was tremendous. Even people like Tsutsui and Kawaji, who acknowledged that opening the country was unavoidable, criticized the spinelessness of this Kanagawa Treaty compared to their own negotiations with Russian envoy Putiatin in Nagasaki. But looking back from today's perspective, this too was unavoidable given the momentum, and the circumstances at the time made it absolutely impossible to reject. The American fleet's behavior was truly magnificent - presenting before our eyes numerous mountain-like warships that most of our countrymen had never even dreamed of. Moreover, the conduct and bearing of their officers and sailors was truly brave and solemn, and the excellence of their weapons made our countrymen realize they could not compare. They would fire salutes in succession, have their military bands perform, conduct soldier drills, and test fleet maneuvers - there was nothing they did that did not astonish our countrymen. Furthermore, they used models of trains and telegraph machines to demonstrate their ingenious technology, and presented paintings of the Mexican War to make viewers shudder at the horrific scenes - all of this was beyond our countrymen's imagination. Therefore, while I believe the shogunate officials initially intended to handle this according to the policies I mentioned earlier and somehow get through the immediate crisis, when things reached this point, our shogunate, having virtually no reliable military force to oppose them, could not reject their demands unless prepared to see the nation reduced to scorched earth. Ultimately, concluding a treaty of the level I described above was truly an unavoidable situation born of expedience. This was actually the result of world progress finally bringing our country to this point, and no matter how resolute our Japanese warriors might be, ultimately they could not prevail against this global trend. For these reasons the Japan-America Treaty of Friendship was concluded. Perry then left Kanagawa on March 21st and headed for Hakodate, but again came to Shimoda on May 12th, where he once more met with the reception officials Hayashi Daigaku-no-kami and Ido Tsushima-no-kami and signed the treaty **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Partnership Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4382 Supplement (Published June 3rd, Taisho 2 [1913]) **Main Text:** additional provisions. This treaty and its additional provisions were ratified and exchanged the following year, namely on January 5th of Ansei 2, also at Shimoda, between American envoy Adams and our country's reception officials. **Arrival of British Ships** However, not long after Perry left our country, on the 15th day of the intercalary 7th month of that year, a British fleet arrived at Nagasaki. The naval admiral was a man named James Stirling, who sent a letter to the magistrate stating: "Britain is currently allied with France in war against Russia to prevent Russia from swallowing up Europe. However, Russia has also extended its reach eastward and has already invaded Sakhalin and the Kurils, so it's not impossible that they might reach Japan's mainland as well. Therefore, British ships have come with the purpose of protecting our nation's vessels and repelling Russian ships in the East. In the future, not only our own ships but also those of our ally France will frequently visit these eastern waters, so we would like you to open suitable ports where our fleets may call." The shogunate deliberated on this matter extensively, and ultimately decided to respond that "while we would accommodate requests for firewood, water, food, or ship repairs, we cannot under any circumstances assist any nation for military purposes." Stirling accepted this, saying that if the matter was completely unrelated to warfare, he would simply like permission to enter the two ports of Nagasaki and Hakodate. Eventually a seven-article agreement was concluded and signed. This formal treaty was exchanged on August 29th of the following year, Ansei 2, at Nagasaki between Stirling and the Nagasaki magistrates Arao Iwami-no-kami and Kawamura Tsushima-no-kami. **The Russian Envoy's Return** Given that America and Britain had concluded agreements with our country as described above, Russia, which had the prior relationship I mentioned earlier, could certainly not remain silent. That Putiatin, after leaving Nagasaki, appeared to have based himself in Shanghai and frequently reconnoitered our coastal waters, even though his home country was at war with Britain and France... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 433