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【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 二十
【本文】
馬見塚 見塚(みづか)と呼(よ)びしや否(いなや)は元(もと)より疑問(ぎもん)である、 併(しか)しながら此(この)記事(きじ)は却(かへつ)て牛久保密談(うしくぼみつだんき)の著(あらは)された元禄(げんろく)の当時(とうじ)
此地(このち)が吉田(よしだ)の内(うち)でも馬見塚(まみづか)に属(ぞく)した村地(そんち)であつて町地(てうち)の部(ぶ)ではなかつたと云(い)ふ参考(さんこう)となるものである
と信(しん)ぜられる、 又(ま)た、 此時(このとき)に吉祥山(きちぜうざん)の吉(きち)の字(じ)と牧野氏(まきのし)の本姓(ほんせい)たる田口(たぐち)の田(た)の字(じ)とを取(とつ)て、 此地(このち)を吉田(よしだ)
と命名(めい〳〵)したのであると云(い)ふ説(せつ)が伝(つた)はつて居(を)るが、 之(これ)は全然(ぜん〴〵)誤(あやまり)で今橋(いまはし)の地名(ちめい)を吉田(よしだ)と改(あらた)めたのは、之
より以後(いご)の事である、 之(これ)は後(のち)に至(いた)つて詳論(せうろん)する考(かんが)へである爾来(じらい)古白(こはく)は自(みづか)ら今橋城(いまはしぜう)に移(うつ)つたのであるが
牧野成勝 一 色城(しきぜう)をば牧野成勝(まきのなりかつ)に譲(ゆづ)つたと云ふ事は之(これ)亦(ま)た牛久保密談(うしくぼみつだんき)幷(ならび)にみ宮嶋伝記(みやしまでんき)に載(の)つて居(を)る処(ところ)である、 此(この)
成勝(なりかつ)と云ふ人(ひと)は初(はじ)め新次郎(しんじろう)と云ひ後(のち)に民部丞(みんぶのぜう)又(また)右馬允(うまのすけ)と云つたので宮島伝記(みやしまでんき)には、 古白(こはく)の子(こ)であると
してあるが其(その)新次郎(しんじろう)又(また)は右馬允(うまのすけ)と云つた処(ところ)より見(み)ると長岡(ながをか)牧野氏(まきのし)の祖先(そせん)成定(なりさだ)に関係(かんけい)のある様(やう)に思(おも)はれ
る即(すなは)ち成定(なりさだ)も亦(ま)た新次郎(しんじらう)右馬允(うまのすけ)と称(とな)へたのである、 従(したがつ)て私(わたくし)は其(その)古白(こはく)の子(こ)にあらざることを信(しん)ずるもの
であるが田辺(たなべ)牧野家(まきのけ)の調(しら)べによると果(はた)して成定(なりさだ)の養祖父(やうそふ)に成勝(なりかつ)と云ふのがある而(しか)して此(この)成勝(なりかつ)と云ふ人(ひと)
が享禄(けうろく)二 年(ねん)(今(いま)を距(さ)る三百八十三 年(ねん))に初(はじ)めて一 色(しき)を改(あらた)めて牛窪(うしくぼ)と命名(めい〳〵)したとの事であるから牛久保町(うしくぼてう)
に取(と)つては歴史上(れきしぜう)研究(けんきう)すべき人物(じんぶつ)であると思(おも)ふ。
⦿牧野古白の戦死
此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)で牧野古白(まきのこはく)は今橋(いまはし)の城主(ぜうしゆ)となつたのであるが其(その)翌(よく)永正(えいせう)三 年(ねん)には城(しろ)は遂(つひ)に陥(おちい)りて古白(こはく)を初(はじ)め
《割書:古白戦死の|月日》 其(その)一 類(るい)のお多(おほ)くは戦死(せんし)したのである、 然(しか)るに此(この)戦(たゝかひ)の事に就(つい)ても異説(ゐせつ)紛々(ふん〳〵)で、 頗(すこぶ)る困難(こんなん)なる研究(けんきう)である
が先(ま)づ、 此(この)古白(こはく)戦死(せんし)の月日(つきひ)に就(つい)ても之(これ)を十一月三日であると云(い)ふのと十一月四日であると云(い)ふのと、
仝(どう)十二日であると云(い)ふのと合(あは)せて三 説(せつ)あるのである、 此(この)十一月三日と云(い)ふ説(せつ)は寛政重修諸家譜(かんせいじうしうしよかふ)幷(ならび)に牧(まき)
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百六号附録 ( 明治四十四年三月十四日発行 )
【本文】
吉田城主考 野家譜(のかふ)を初(はじ)め書(か)いたものゝ 種類(しゆるい)が多(おほ)いのであるが十一月四日と云ふ説(せつ)は吉田城主考(よしだぜうしゆこう)と云(い)ふ書物(しよもつ)の説(せつ)で
ある、 此(この)吉田城主考(よしだぜうしゆこう)と云(い)ふ書物(しよもつ)は戸田家系校正余録(とだかけいこうせいよろく)と云(い)ふ書物(しよもつ)の中(なか)の一 部(ぶ)で、 之(これ)は二 連木戸田(れんぎとだ)即(すなは)ち、
維新前(ゐしんぜん)信州(しんしう)松本(まつもと)の藩主(はんしゆ)たりし戸田家(とだけ)の家臣(かしん)が主家(しゆか)の家系(かけい)を研究(けんきう)したもので、 天保年間(てんほうねんかん)の著書(ちよしよ)であるが
頗(すこぶ)る精細(せうさい)に調査(てうさ)したもので参考(さんこう)とすべき処(ところ)が多(おほ)いのである、 而(しか)して此書(このしよ)は何故(なにゆえ)に古白の死(し)を十一月の
《割書:光輝庵過去|帳》 四日であると断定(だんてい)したかと云ふに、 牛久保(うしくぼ)の光輝庵(こうきあん)の過去帳(くわこてう)に拠(よ)つたもので光輝庵(こうきあん)の過去帳(くわこてう)に月(げつ)誉(よ)古(こ)
白(はく)居士(こじ)とあつて十一月四日の条(くだり)に記入(きにふ)せられてあるからである、 因(よつ)て光輝庵(こうきあん)に就(つい)て調(しら)べて見(み)ると現在(げんぞん)
せる過去帳(くわこてう)では、 元禄(げんろく)四 年(ねん)と仝七年との序(ぢよ)と跋(ばつ)とのあるものが、 最(もつと)も古(ふる)いので成程(なるほど)其中(そのなか)には其通(そのとほ)りに
記(しる)されてある、 併(しか)し能(よ)く〳〵 研究(けんきう)して見(み)ると、それと仝月日(どうがつひ)の処(ところ)に古白(こはく)の子(こ)成三(しげかづ)信成(のぶしげ)等(ら)の浄土宗(ぜうどしう)にて
付(つ)けた戒名(かいめう)が列記(れつき)せられて居(を)る、 此(この)成三(しげかづ)信成(のぶしげ)の事に就(つい)ては、 後(のち)に詳論(せうろん)する考(かんがへ)であるから其時(そのとき)に会得(えとく)
せらるゝ事であろうと信(しん)ずるが、 如何(いか)にしても父(ちゝ)の古白(こはく)と仝月日の戦死(せんし)ではない、それのみならず六
日の処(ところ)に更(さら)に同(おな)じ成三(しげかづ)信成(のぶしげ)等(ら)の曹洞宗(そうどうしう)にて付(つ)けた戒名(かいめう)が記入(きにう)せられて居(を)る、 此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)であるから
吉田城主考(よしだぜうしゆこう)の著者(ちよしや)が調査(てうさ)した過去帳(くわこてう)が果(はた)して、 此(こ)の現存(げんぞん)せるものであつたならば、 殆(ほとん)ど証拠(せうこ)とする丈(だけ)
のものではなかろうと思(おも)ふ、 又(ま)た十二日 説(せつ)を取(と)つて居(を)るのは何(なん)であるかと云(い)ふに、 朝野旧聞裒稿(てうやきうぶんほうこう)であ
る此書(このしよ)は三 州本間氏(しうほんまし)の覚書(おぼへがき)と云ふものを主(おも)なる論拠(ろんきよ)として居(を)るのであるが、 此(この)覚書(おぼへがき)と云(い)ふものも直(たゞ)ち
に之(これ)を確信(かくしん)すべきものなるや否(いな)や、 大(だい)なる疑問(ぎもん)である、 従(したがつ)て私(わたくし)は他(た)に確実(かくじつ)なる証拠(せうこ)を発見(はつけん)する迄(まで)は
今(いま)は広(ひろ)く伝(つた)はつて居(を)る、 第(だい)一 説(せつ)即(すなは)ち十一月三日 説(せつ)に従(したが)ふの外(ほか)はないと信(しん)するのである、 然(しか)るに牛久保(うしくぼ)
《割書:古白非戦死|説の誤謬》 密談記(みつだんき)には此時(このとき)古白は戦死(せんし)の事に偽(いつは)り其実(そのじつ)は宝飯郡(ほゐぐん)の瀬木(せぎ)に落(お)ち延(の)びたものであると記(しる)してあるが茲(こゝ)
に面白(おもしろ)いのは宮島伝記(みやしまでんき)幷(ならび)に享保(けうほ)十六 年(ねん)に牧野伊予守家(まきのいよのかみけ)からの依頼(いらい)でニ 葉松(ばまつ)の著者(ちよしや)佐野監物(さのけんもつ)渡邊自休(わたなべじきう)両(れう)
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 廿一
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 二十
【本文】
馬見塚 見塚と呼んでいたかどうかは、もとより疑問である。しかしながら、この記事はかえって『牛久保密談記』が著された元禄の当時、
この地が吉田の内でも馬見塚に属した村地であって町地の部分ではなかったという参考となるもの
である と信じられる。また、この時に吉祥山の「吉」の字と牧野氏の本姓である田口の「田」の字とを取って、この地を吉田
と命名したのであるという説が伝わっているが、これは全然誤りで、今橋の地名を吉田と改めたのは、これ
より以後の事である。これは後に至って詳論する考えである。爾来古白は自ら今橋城に移ったのであるが、
牧野成勝 一色城を牧野成勝に譲ったということは、これまた『牛久保密談記』並びに『宮島伝記』に載っている処である。この
成勝という人は初め新次郎と言い、後に民部丞また右馬允と言ったので、『宮島伝記』には古白の子であると
してあるが、その新次郎また右馬允と言った処より見ると、長岡牧野氏の祖先成定に関係があるように思われ
る。即ち成定もまた新次郎・右馬允と称したのである。従って私はその古白の子にあらざることを信ずるもの
であるが、田辺牧野家の調べによると果たして成定の養祖父に成勝というのがある。而してこの成勝という人
が享禄二年(今を距る三百八十三年)に初めて一色を改めて牛窪と命名したとの事であるから、牛久保町
にとっては歴史上研究すべき人物であると思う。
⦿牧野古白の戦死
このような訳で牧野古白は今橋の城主となったのであるが、その翌永正三年には城は遂に陥って古白を初め
《割書:古白戦死の月日》 その一類の多くは戦死したのである。然るにこの戦いの事についても異説紛々で、頗る困難なる研究である
が、まずこの古白戦死の月日についても、これを十一月三日であるというのと十一月四日であるというのと、
同じく十二日であるというのと、合わせて三説あるのである。この十一月三日という説は『寛政重修諸家譜』並びに牧
【左頁】
【欄外】
参陽新報三千七百六号附録 (明治四十四年三月十四日発行)
【本文】
吉田城主考 野家譜を初めとして書かれたものの種類が多いのであるが、十一月四日という説は『吉田城主考』という書物の説で
ある。この『吉田城主考』という書物は『戸田家系校正余録』という書物の中の一部で、これは二連木戸田、即ち
維新前信州松本の藩主であった戸田家の家臣が主家の家系を研究したもので、天保年間の著書であるが
頗る精細に調査したもので参考とすべき処が多いのである。而してこの書は何故に古白の死を十一月の
《割書:光輝庵過去帳》 四日であると断定したかというに、牛久保の光輝庵の過去帳に拠ったもので、光輝庵の過去帳に月誉古
白居士とあって十一月四日の条に記入されてあるからである。因って光輝庵について調べてみると、現存
する過去帳では、元禄四年と同七年との序と跋とのあるものが、最も古いので、成程その中にはその通りに
記されてある。しかしよくよく研究してみると、それと同月日の処に古白の子成三・信成等の浄土宗にて
付けた戒名が列記されている。この成三・信成の事については、後に詳論する考えであるから、その時に理解
されることであろうと信ずるが、いかにしても父の古白と同月日の戦死ではない。それのみならず六
日の処に更に同じ成三・信成等の曹洞宗にて付けた戒名が記入されている。このような次第であるから、
『吉田城主考』の著者が調査した過去帳が果たして、この現存するものであったならば、殆ど証拠とするだけ
のものではなかろうと思う。また十二日説を取っているのは何であるかというに、『朝野旧聞裒稿』であ
る。この書は三州本間氏の覚書というものを主なる論拠としているのであるが、この覚書というものも直ちに
これを確信すべきものなるや否や、大なる疑問である。従って私は他に確実なる証拠を発見するまでは、
今は広く伝わっている第一説、即ち十一月三日説に従うの外はないと信ずるのである。然るに『牛久保
《割書:古白非戦死説の誤謬》 密談記』にはこの時古白は戦死の事に偽り、その実は宝飯郡の瀬木に落ち延びたものであると記してあるが、ここ
に面白いのは『宮島伝記』並びに享保十六年に牧野伊予守家からの依頼で『二葉松』の著者佐野監物・渡邊自休両
【欄外】
豊橋市史談 (牧野古白の戦死) 二十一
英語訳
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (The Death in Battle of Makino Kohaku) 20
【Main text】
Mamizuka Whether it was called Mizuka or not is naturally questionable. However, this account rather serves as reference that when "Ushikubo Mitsudan-ki" was written during the Genroku era,
this area belonged to village land under Mamizuka within Yoshida and was not part of the town area,
which can be believed. Also, there is a theory passed down that at this time the place was named Yoshida by taking the character "yoshi" (吉) from Kichijō-zan and the character "da" (田) from Taguchi, the original surname of the Makino clan, but this is completely wrong, and the renaming of Imahashi to Yoshida came
later. This is something I intend to discuss in detail later. Since then, Kohaku moved to Imahashi Castle himself, and
Makino Narikatsu the fact that he transferred Isshiki Castle to Makino Narikatsu is also recorded in both "Ushikubo Mitsudan-ki" and "Miyajima Denki." This
person called Narikatsu was initially called Shinjirō, and later Minbu-no-jō or Uma-no-suke, and "Miyajima Denki" states he was Kohaku's son,
but from his names Shinjirō or Uma-no-suke, he appears to be related to Narisada, the ancestor of the Nagaoka Makino clan.
That is, Narisada was also called Shinjirō and Uma-no-suke. Therefore, I believe he was not Kohaku's son,
but according to research by the Tanabe Makino family, there was indeed a Narikatsu who was Narisada's adoptive grandfather. And this person Narikatsu
first changed Isshiki to Ushikubo in Kyōroku 2nd year (383 years ago from now), making him
a historically significant figure for Ushikubo town.
⦿The Death in Battle of Makino Kohaku
For these reasons, Makino Kohaku became lord of Imahashi Castle, but in the following year, Eishō 3rd year, the castle finally fell and Kohaku and
《Marginal note: Date of Kohaku's death in battle》 many of his clan died in battle. However, regarding this battle there are conflicting theories making it quite difficult research,
but first, regarding the date of Kohaku's death in battle, there are three theories altogether: November 3rd, November 4th, and
November 12th. The November 3rd theory is found in "Kansei Chōshū Shokafu" and the Maki-
【Left page】
【Margin】
San'yō Shimbun No. 3706 Supplement (Published March 14, Meiji 44 [1911])
【Main text】
Yoshida Castle Lord Study no family genealogy among many written sources, but the November 4th theory comes from a book called "Yoshida Castle Lord Study."
This book "Yoshida Castle Lord Study" is part of a book called "Toda Family Genealogy Correction Supplement," which is
research on the family lineage conducted by retainers of the Toda family of Niregi-Toda, namely the Toda family that was lord of Matsumoto in Shinshū before the Restoration. It was written during the Tenpō era and
was quite thoroughly researched with many points worthy of reference. Why this book
《Marginal note: Kōki-an death register》 concluded that Kohaku died on November 4th was based on the death register of Kōki-an temple in Ushikubo, which recorded "Getsuyo Ko-
haku Koji" under the November 4th entry. Therefore, when investigating Kōki-an temple, the existing
death registers with prefaces and postscripts from Genroku 4th and 7th years are the oldest, and indeed they record it as stated.
However, upon close study, the same date lists posthumous Buddhist names given by the Jōdo sect to Kohaku's sons Shigekazu and Nobushige.
Regarding Shigekazu and Nobushige, I intend to discuss this in detail later, so it will be understood then,
but they certainly did not die in battle on the same date as their father Kohaku. Moreover, under the 6th
day entry, posthumous Buddhist names given by the Sōtō sect to the same Shigekazu and Nobushige are recorded. Given such circumstances,
if the death register investigated by the author of "Yoshida Castle Lord Study" was indeed this existing one, it would hardly serve as adequate evidence.
The source for the 12th day theory is "Chōya Kyūbun Hōkō."
This book uses as its main evidence something called notes by Honma of Sanshū, but whether these notes
should be trusted immediately is highly questionable. Therefore, until I discover other reliable evidence,
I believe we must follow the widely accepted first theory, namely the November 3rd theory. However, "Ushikubo
《Marginal note: Error of non-death theory》 Mitsudan-ki" records that Kohaku did not actually die in battle but escaped to Segi in Hōi District, and what's interesting here
is that both "Miyajima Denki" and at the request of the Makino Iyo-no-kami family in Kyōhō 16th year, the authors of "Futaba-matsu," Sano Kenmotsu and Watanabe Jikyū,
【Margin】
Toyohashi Historical Discussion (The Death in Battle of Makino Kohaku) 21