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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 231

ページ: 231

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【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十四 【本文】       らず巧(たくみ)に両国船(れうこくせん)の捜索(さうさく)を避(さ)け安政(あんせい)元年(がんねん)の九月十八日を以(もつ)て又々(また〳〵)我(わ)が大阪(おほさか)の安治川沖(あじがはおき)に到着(たうちやく)したのであ       るソコで大阪城代(おほさかじやうだい)を初(はじ)め頗(すこぶ)る苦心(くしん)する処があつたが遂(つひ)に其(その)外人(ぐわいじん)応接(おうせつ)の地(ち)にあらざる由(よし)を諭(さと)して下田(しもだ)に       赴(おもむ)かしめむとしたのであるプーチヤチンも亦(ま)た何(なん)と考(かんが)へたか十月三日を以(もつ)て俄(にはか)に大阪(おほさか)を出発(しゆつぱつ)し此方(このはう)の       諭告(ゆこく)の如(ごと)く下田(しもだ)に向(むか)つたのであるが露船(ろせん)に取(と)つては此処(こゝ)に気(き)の毒(どく)なる一 事件(じけん)が起(おこ)つたのである既(すで)に露(ろ)       船(せん)再来(さいらい)に就(つい)ては幕府(ばくふ)に於(おい)ても之(これ)に対(たい)する応接係(おうせつかゝり)も定(さだ)まつて談判(だんぱん)も開始(かいし)に至(いた)つたのであるが其(その)十一月四       日に至(いた)つて東海沿岸(とうかいえんがん)に大津嘯(おほつなみ)が起(おこ)つてプーチヤチンの乗(の)つて居(を)つた船艦(せんかん)ヂアナは遂(つひ)に顚覆(てんぷく)の運命(うんめい)に逢(あ)       ひ下田(しもだ)全町(ぜんてう)は流失(りうしつ)したと云ふ不慮(ふりよ)の災変(さいへん)が生(せう)じたのであるソコでプーチヤチンは全(まつた)くの漂民(へうみん)同様(どうよう)の境(けう)       遇(ぐう)に陥(おちゐ)つたが終(つひ)に幕府(ばくふ)の許可(きよか)を得(え)て伊豆(いづ)の戸田(へだ)に根拠(こんきよ)を構(かま)へて其(その)船(ふね)を修理(しうり)することとなつたのである然(しか)       るに不運(ふうん)な時(とき)には何処迄(どこまで)も不運(ふうん)なもので其(その)船(ふね)は将(まさ)に戸田港(へだかう)に引(ひ)き入(い)れらむとした時(とき)又々(また〳〵)暴風(ばうふう)に遭(あ)つ       て結局(けつきよく)沈没(ちんぼつ)の運命(うんめい)に終(をは)つたのであるトコロでプーチヤチンは之(これ)に屈(くつ)せず戸田(へだ)にあつて新船(しんせん)建造(けんざう)の事を       企(くはだ)て苦心(くしん)惨憺(さんたん)ではあつたが数月(すうげつ)の内(うち)に其(その)帰国(きこく)に用(もち)ゐ得(う)べき大船(たいせん)を造(つく)り出(いだ)すに至(いた)つたのである       而(しか)して幕府(ばくふ)の露使応接係(ろしおうせつかゝり)は矢張(やはり)筒井肥前守(つゝゐひぜんのかみ)、川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)等(ら)五 人(にん)であつたが応接(おうせつ)の結果(けつくわ)先(さき)に長崎(ながさき)に於(おい)       てなしたる協約(けふやく)もあることであるから少(すくな)くも米国(べいこく)と同等(どうとう)の条約(でうやく)は結(むす)ばねばならぬ訳(わけ)であると云ふ道理(どうり)で 《割書:日露条約成|る》  大体(たいだい)に於(おい)て先(ま)づそれと同(どう)一のものが成立(せいりつ)したのであるが併(しか)し只(た)だ其(その)国(くに)の官吏(くわんり)を開港場(かいかうぜう)に駐在(ちうざい)せしむる       と云ふことに就(つい)ては米国(べいこく)に対(たい)せるものと少(すこ)しく違(ちが)ひがあつたのである即(すなは)ち米国(べいこく)との条約(でうやく)によれば尚(なほ)協議(けふぎ)       の余地(よち)が残(のこ)してあつたのであるが今度(こんど)露国(ろこく)との条約(でうやく)によれば殆(ほとん)ど其(その)余地(よち)がないので帰(き)する処は安政(あんせい)三       年(ねん)以後(いご)に於(おい)ては其(その)駐在(ちうざい)は遂(つひ)に拒(こば)み難(がた)いように見(み)ゆるのである従(したがつ)て此(この)一 事(じ)は後日(ごじつ)物議(ぶつぎ)を惹起(ひきおこ)すの種(たね)と       相成(あひな)つた次第(しだい)であるが其他(そのた)国境問題(こくけうもんだい)は暫(しばら)く中止(ちうし)の姿(すがた)となり又(ま)た水戸斉昭(みとなりあきら)の意見(いけん)もありて切支丹宗門(きりしたんしうもん)等(ら) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       の談判(だんぱん)もあつたのである併(しか)し之(これ)も遂(つひ)に要領(えうれう)を得(え)ずに終(をは)つたのであるが恰(あたか)も其(その)年(とし)の十二月 彼(か)の米使(べいし)アダ       ムスが批准(ひじゆん)交換(かうくわん)の為(た)め下田(しもだ)に来(きた)つて露国水兵(ろこくすゐへい)等(ら)の窮迫(きうはく)の状(ぜう)を目撃(もくげき)して帰(かへ)つたのでそれかあらぬか程(ほど)な       く米国(べいこく)のスクーナーが一 艘(さう)下田(しもだ)に来(き)て露兵(ろへい)百五十人 許(ばかり)を乗(の)せて之(これ)をカムサツカに送(おく)り其(その)内(うち)又(ま)た新造(しんざう)の       船(ふね)も出来上(できあが)つたのでプーチヤチンは終(つひ)に翌(よく)安政(あんせい)二年三月廿二日を以(もつ)て下田(しもだ)を去(さ)るに至(いた)つたのである 《割書:外船渡来が|及ぼせる影|響》  嘉永(かえい)六年から安政(あんせい)二年へかけて僅(わづか)三 年間(ねんかん)であるが我国(わがくに)が外交方針(ぐわいかうはうしん)に関(くわん)し著(いちじ)しき変化(へんくわ)を来(きた)せる事は実(じつ)に       前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くである而(しか)も此(かく)の如(ごと)き変化(へんくわ)と云ふものは殆(ほとん)ど前代未聞(ぜんだいみぶん)とも云ふべきであるから此(この)外交(ぐわうかう)の問題(もんだい)       が当時(たうじ)に於(お)ける総(すべ)ての風潮(ふうてう)を激変(げきへん)せしめた事は容易(ようい)でない先(ま)づ之(これ)迄(まで)は長(なが)い間(あひだ)鎖国(さこく)一 点張(てんばり)でやり通(とほ)して       来(き)たのであるから我国(わがくに)に大船(たいせん)などを作(つく)る必要(ひつえう)はない寧(むし)ろ千 石(ごく)以上(いぜう)の大船(たいせん)を作(つく)る事は御承知(ごせうち)の如(ごと)く厳禁(げんきん)       してあつたのである又(また)砲術(はうじゆつ)の如(ごと)きも幕府(ばくふ)に世襲(せいしう)せる鉄砲方(てつぽうかた)と云ふものはあつても之(これ)は徒(いたづ)らに形式的(けいしきてき)で       あつて到底(たうてい)時世(じせい)の進歩(しんぽ)に適応(てきおう)せるものではない特(とく)に海防(かいばう)の如(ごと)きは嘗(かつ)て松平定信(まつだひらさだのぶ)等(ら)の注意(ちうい)する処もあり       其(その)後(のち)渡辺崋山(わたなべくわざん)等(ら)を初(はじ)め痛切(つうせつ)に之(これ)を論(ろん)じたものがなかつたではないが一 般(ぱん)に鎖国(さこく)の夢(ゆめ)が醒(さ)めぬのと幕府(ばくふ)       を初(はじ)め諸侯(しよこう)が財政(ざいせい)に窮乏(きうばう)せる結果(けつくわ)殆(ほとん)ど何等(なんら)の備(そなへ)をもなし能(あた)はなかつたと云ふ訳(わけ)であつたがイヨ〳〵今(こん)       度(ど)と云ふ今度(こんど)こそは頗(すこぶ)る覚醒(かくせい)せざるを得(え)なかつた次第(しだい)であるソコで幕府(ばくふ)に於(おい)ては嘉永(かえい)六年九月十五日       を以(もつ)て大船製造(たいせんせいざう)の禁(きん)を解(と)き又(ま)た同年(どうねん)六月廿三日には若年寄(わかとしより)本多越中守(ほんだゑつちうのかみ)、勘定奉行(かんでうぶぎやう)川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)等(ら)に命(めい)       じて江戸近海(えどきんかい)の見分(けんぶん)をなさしめ其(その)結果(けつくわ)として同年(どうねん)八月廿三日を以(もつ)て勘定奉行(かんでうぶぎやう)松平河内守(まつだひらかはちのかみ)、同(どう)川路左衛(かはぢさゑ)       門尉(もんぜう)等(ら)五 人(にん)に命(めい)じて例(れい)の品川沖(しながはおき)の台場(だいば)を建築(けんちく)することになつたのであるがそれに備(そな)へ付(つ)ける大砲(たいほう)の鋳造(ちうざう) 《割書:江川太郎左|衛門》  を彼(か)の伊豆(いづ)の代官(だいくわん)江川太郎左衛門(えがはたらうざゑもん)に命(めい)ぜられたのである諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)江川太郎左衛門(えがはたらうざゑもん)と云ふ       人は前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べた高嶋喜平(たかしまきへい)(秋帆)の門人(もんじん)で夙(つと)に最新洋式(さいしんようしき)の砲術(ほうじゆつ)を学(まな)むだのであるが其(その)管内(くわんない)に反射(はんしや) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十四 【本文】 らず、巧みに両国船の捜索を避け、安政元年の九月十八日をもって又々我が大阪の安治川沖に到着したのである。そこで大阪城代をはじめ頗る苦心するところがあったが、ついにその外人応接の地にあらざる由を諭して下田に赴かせようとしたのである。プチャーチンもまた何と考えたか、十月三日をもって俄かに大阪を出発し、この方の諭告のごとく下田に向かったのであるが、露船にとってはここに気の毒なる一事件が起こったのである。 既に露船再来については幕府においてもこれに対する応接係も定まって談判も開始に至ったのであるが、その十一月四日に至って東海沿岸に大津波が起こって、プチャーチンの乗っていた船艦ディアナはついに転覆の運命に遭い、下田全町は流失したという不慮の災変が生じたのである。そこでプチャーチンは全くの漂民同様の境遇に陥ったが、終に幕府の許可を得て伊豆の戸田に根拠を構えてその船を修理することとなったのである。 しかるに不運な時には何処までも不運なもので、その船は将に戸田港に引き入れられようとした時又々暴風に遭って結局沈没の運命に終わったのである。ところでプチャーチンはこれに屈せず戸田にあって新船建造の事を企て、苦心惨憺ではあったが数ヶ月の内にその帰国に用い得べき大船を造り出すに至ったのである。 そして幕府の露使応接係はやはり筒井肥前守、川路左衛門尉等五人であったが、応接の結果、先に長崎においてなしたる協約もあることであるから少なくも米国と同等の条約は結ばねばならぬ訳であるという道理で、大体において先ずそれと同一のものが成立したのであるが、しかしただその国の官吏を開港場に駐在せしめるということについては米国に対するものと少しく違いがあったのである。すなわち米国との条約によれば尚協議の余地が残してあったのであるが、今度露国との条約によれば殆どその余地がないので、帰するところは安政三年以後においてはその駐在はついに拒み難いように見ゆるのである。従ってこの一事は後日物議を惹起するの種と相成った次第であるが、その他国境問題は暫く中止の姿となり、また水戸斉昭の意見もありて切支丹宗門等 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 の談判もあったのである。しかしこれもついに要領を得ずに終わったのであるが、恰もその年の十二月かの米使アダムスが批准交換の為め下田に来て露国水兵等の窮迫の状を目撃して帰ったのでそれからあらぬか程なく、米国のスクーナーが一艘下田に来て露兵百五十人許りを乗せてこれをカムサツカに送り、その内また新造の船も出来上がったのでプチャーチンはついに翌安政二年三月二十二日をもって下田を去るに至ったのである。 **外船渡来が及ぼせる影響** 嘉永六年から安政二年へかけて僅か三年間であるが、我国が外交方針に関し著しき変化を来せる事は実に前述のごとくである。しかもかくのごとき変化というものは殆ど前代未聞とも云うべきであるから、この外交の問題が当時における総ての風潮を激変せしめた事は容易でない。 先ずこれまでは長い間鎖国一点張りでやり通してきたのであるから、我国に大船などを作る必要はない、寧ろ千石以上の大船を作る事は御承知のごとく厳禁してあったのである。また砲術のごときも幕府に世襲せる鉄砲方というものはあっても、これは徒らに形式的であって到底時世の進歩に適応せるものではない。特に海防のごときは、かつて松平定信等の注意するところもあり、その後渡辺崋山等をはじめ痛切にこれを論じたものがなかったではないが、一般に鎖国の夢が醒めぬのと幕府をはじめ諸侯が財政に窮乏せる結果、殆ど何等の備えをもなし能わなかったという訳であったが、いよいよ今度という今度こそは頗る覚醒せざるを得なかった次第である。 そこで幕府においては嘉永六年九月十五日をもって大船製造の禁を解き、また同年六月二十三日には若年寄本多越中守、勘定奉行川路左衛門尉等に命じて江戸近海の見分をなさしめ、その結果として同年八月二十三日をもって勘定奉行松平河内守、同川路左衛門尉等五人に命じて例の品川沖の台場を建築することになったのであるが、それに備え付ける大砲の鋳造を、かの伊豆の代官江川太郎左衛門に命ぜられたのである。 諸君も御承知のごとく、この江川太郎左衛門という人は前に一寸申し述べた高島喜平(秋帆)の門人で、夙に最新洋式の砲術を学んだのであるが、その管内に反射 【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 434 **Main Text:** Nevertheless, skillfully avoiding searches by ships of both nations [Britain and France], [Putiatin] again arrived at Ajikawa off Osaka on September 18th of Ansei 1. The Osaka castle keeper and others were greatly troubled by this, but finally persuaded him that this was not a place for receiving foreign envoys and tried to get him to proceed to Shimoda. Putiatin, for whatever reason, suddenly departed Osaka on October 3rd and headed for Shimoda as advised. However, an unfortunate incident befell the Russian ship. Reception officials had already been appointed by the shogunate for the Russian ship's return visit and negotiations had begun, but on November 4th a great tsunami struck the Tokai coast. Putiatin's ship Diana was capsized and the entire town of Shimoda was swept away in this unexpected disaster. Thus Putiatin found himself in circumstances no different from a shipwrecked sailor, but eventually obtained permission from the shogunate to establish a base at Heda in Izu to repair his ship. However, when misfortune strikes, it continues relentlessly - just as the ship was about to be brought into Heda harbor, it encountered another storm and ultimately met its fate by sinking. But Putiatin did not give up, and at Heda undertook the construction of a new ship. Though it required tremendous hardship and effort, within several months he managed to build a large vessel suitable for his return journey. The shogunate's reception officials for the Russian envoy were again Tsutsui Hizen-no-kami, Kawaji Saemon-jo, and three others. As a result of negotiations, since there had been prior agreements made at Nagasaki, it was reasonable that a treaty at least equal to that with America should be concluded. Generally speaking, one essentially identical to the American treaty was established, but there was a slight difference regarding the stationing of that country's officials at the open ports. Namely, the treaty with America still left room for further discussion, but the current treaty with Russia left almost no such room, so it appeared that after Ansei 3, such stationing would ultimately be difficult to refuse. Consequently, this matter became a source of future controversy. Other matters such as border issues were temporarily suspended, and there were also negotiations regarding Christianity due to opinions from Mito Nariaki. **Margin:** Mayor of Toyohashi Oguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper. **Main Text:** But these too ultimately ended without achieving their objectives. However, in December of that year, American envoy Adams came to Shimoda for the ratification exchange and witnessed the dire straits of the Russian sailors before returning. Whether related to this or not, soon afterward an American schooner arrived at Shimoda and took about 150 Russian soldiers to Kamchatka. Meanwhile, the newly constructed ship was also completed, so Putiatin finally departed Shimoda on March 22nd of the following year, Ansei 2. **The Impact of Foreign Ships' Arrival** Though only three years passed from Kaei 6 to Ansei 2, the remarkable changes in our country's foreign policy were indeed as described above. Moreover, such changes were virtually unprecedented, so the profound transformation this foreign affairs issue brought to all contemporary trends was considerable. First, having maintained strict isolationism for so long, there had been no need to build large ships in our country - indeed, as you know, construction of ships over 1,000 koku was strictly forbidden. Regarding gunnery as well, though the shogunate had hereditary gun magistrates, these were merely formal and completely inadequate for contemporary progress. Particularly regarding coastal defense, while figures like Matsudaira Sadanobu had paid attention to this matter, and later Watanabe Kazan and others had argued for it earnestly, generally the dream of isolationism remained unbroken, and due to the financial difficulties of the shogunate and various domains, virtually no preparations could be made. But this time, this very time, a great awakening was unavoidable. Therefore, the shogunate lifted the prohibition on large ship construction on September 15th of Kaei 6. Also, on June 23rd of the same year, it ordered Junior Councilor Honda Etchu-no-kami and Finance Magistrate Kawaji Saemon-jo to survey the waters near Edo. As a result, on August 23rd of the same year, Finance Magistrates Matsudaira Kawachi-no-kami, Kawaji Saemon-jo, and three others were ordered to construct the famous battery platforms off Shinagawa. The casting of the cannons to be installed there was entrusted to Egawa Taro-zaemon, the Izu magistrate. As you know, this Egawa Taro-zaemon was a disciple of Takashima Kihei (Shuhan) whom I mentioned briefly before, and had long studied the latest Western-style gunnery. In his domain he had a reverberatory... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 435