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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 232

ページ: 232

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【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十六 【本文】 高嶋秋帆  炉(ろ)を建設(けんせつ)して銃砲(じうほう)の製造(せいざう)に尽瘁(じんすゐ)したものである元来(がんらい)此(この)高嶋秋帆(たかしましはん)と云ふ人は元(もと)長崎(ながさき)の町奉行(まちぶぎやう)で早(はや)くから       蘭人(らんじん)に就(つい)て近年(きんねん)最(もつと)も発達(はつたつ)せる洋式(ようしき)の砲術(ほうじゆつ)を学(まな)び遂(つひ)に高島流(たかしまりう)と云ふ一 派(ぱ)を成(な)したのであるが天保(てんぱう)の末年(まつねん)       に一 度(ど)其(その)技(ぎ)は幕府(ばくふ)の採用(さいよう)する所(ところ)とならむとしたのである然(しか)るに当時(たうじ)は尚(な)ほ守旧派(しゆきうは)の勢力(せいりよく)が旺盛(わうせい)であつ       た為(た)めに例(れい)の鳥居甲斐守(とりゐかひのかみ)一 派(ぱ)の陥(おとしめ)る処となつて弘化(こうくわ)三年七月 中(ちう)追放(つゐほう)と云ふ処置(しよち)に遭(あ)つて安部虎之助(あべとらのすけ)に       永預(ながあづけ)と相成(あひな)つて居(を)つたのであるソレを今度(こんど)門人(もんじん)たる江川(えがは)の尽力(じんりよく)で(嘉永(かえい)六年八月)赦免(しやめん)となり砲術(ほうじゆつ)の師(し)       範(はん)たるに至(いた)つたのであるが其(その)翌(よく)安政(あんせい)元年(がんねん)七月には又(ま)た和蘭(おらんだ)から我(わが)海軍建設(かいぐんけんせつ)に就(つい)ても種々(しゆ〴〵)忠告(ちうこく)する処が 観 光 丸 あつたのである而(しか)して越(こ)へて一 年(ねん)同国(どうこく)より一艘(さう)の蒸気船(ぜうきせん)を我国(わがくに)に贈(おく)るに至(いた)つたのであるが之(これ)が即(すなは)ち有(いう)       名(めい)なる観光丸(くわんくわうまる)で幕府(ばくふ)は早速(さつそく)勝麟太郎(かつりんたらう)初(はじ)め俊秀(しゆんしう)の子弟(してい)を長崎(ながさき)に送(おく)つて蘭人(らんじん)の教授(けうじゆ)を受(う)けしめ造船(ざうせん)、運(うん) 《割書:海軍創設の|端緒》  転(てん)、砲術(ほうじゆつ)等(とう)の稽古(けいこ)をなさしめたが之(これ)が我国(わがくに)海軍創設(かいぐんさうせつ)の端緒(たんちよ)ともなすべきである之(これ)と同時(どうじ)に幕府(ばくふ)は又(ま)た 講 武 所 大(おほい)に武術(ぶじゆつ)の奨励(せうれい)をなし士気(しき)を鼓舞(こぶ)すべしと云ふので安政(あんせい)二年二月 江戸(えど)の築地(つきぢ)、筋違外(すじちがひそと)、四谷(よつや)の三ヶ所(しよ)       へ講武所(かうぶしよ)を設(まを)くる事に決(けつ)し三年の四月から実施(じつし)したが幕府(ばくふ)は更(さら)に軍制改正(ぐんせいかいせい)の必要(ひつえう)をも認(みと)めて曩(さき)に此(この)件(けん)       を水戸斉昭(みとなりあきら)に委任(ゐにん)したのである然(しか)るに其(その)事(こと)がまだ十 分(ぶん)進行(しんかう)しなかつたので今度(こんど)此(この)講武所(かうぶしよ)創設(さうせつ)に方(あた)つて       斉昭(なりあきら)の発意(はつい)で其(その)事業(じげふ)を講武所(かうぶしよ)に移(うつ)す事となり総裁(そうさい)久貝因幡守(くがいゐなばのかみ)、池田甲斐守(いけだかひのかみ)両人(れうにん)に其(その)調査(てうさ)を命(めい)ずる事と       相成(あひな)つたのである       右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)で米英露(べいえいろ)三 国(こく)の使節(しせつ)は続々(ぞく〴〵)相接(あひせつ)して来航(らいかう)し其(その)反響(はんけふ)とも云ふべき結果(けつくわ)として以上(いぜう)の如(ごと)く一       部(ぶ)に於(おい)ては海防(かいばう)を初(はじ)め造船(ざうせん)、砲術(ほうじゆつ)など洋式(ようしき)の学芸(がくげい)が盛(さかん)に採用(さいよう)せらるゝに至(いた)つたがまだ中々(なか〳〵)一 般(ぱん)にはソ       ウは行(ゆ)き渡(わた)らなかつたので実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける我国人(わがこくじん)の意想(いさう)と云ふものは互(たがひ)に其(その)懸隔(けんかく)に著(いちじるし)いものがあ       つたのであるソコで我(わが)吉田藩(よしだはん)の状況(ぜうけふ)は当時(たうじ)如何(いか)なものであつたか之(これ)に対(たい)して今(いま)少(すこ)しく申述(まをしの)べて置(お)きた 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百八十八号附録    (大正二年六月十日発行) 【本文】       いと思(おも)ふのである 彦坂菊作  ソコで此(この)吉田(よしだ)に於(お)ける洋学者(やうがくしや)の事に就(つい)て少(すこ)しく御話(おはなし)して置(お)きたいと思(おも)ふのであるが当時(たうじ)此(この)吉田(よしだ)の新銭(しんせん)       町(まち)に彦坂菊作(ひこさかきくさく)と云(い)ふ数学(すうがく)の大家(たいか)があつたのである此(この)人(ひと)は父(ちゝ)を彦坂喜平(ひこさかきへい)と云(い)つたが町人(てうにん)には珍(めづ)らしく和(わ)       歌(か)を能(よ)くした人(ひと)で名(な)を千善(ちよし)号(がう)を杉園(すぎその)と云(い)つたのである菊作(きくさく)は享和(けうわ)三年の生(うまれ)で名(な)を範善(のりよし)字(あざな)を徳元(とくもと)号(がう)を成(なり)       通(みつ)と云(い)つたが幼少(ようせう)の時(とき)から窮理的(きうりてき)の思想(しさう)に富(と)むで居(を)つて数学(すうがく)を牟呂村(むろむら)の人(ひと)牧野傳蔵(まきのでんざう)に就(つい)て学(まな)むだが其(その)       後(のち)江戸(えど)に出(い)でゝ内田観斉(うちだくわんさい)(彌太郎)の門(もん)に入(い)り天象(てんせう)、地理(ちり)、経緯(けいゐ)、暦歩(れきほ)は勿論(もちろん)窮理(きうり)の学(がく)を修(をさ)め其(その)蘊奥(うんおう)を       究(きは)めたが一 方(ぱう)には蘭書(らんしよ)をも読(よ)むだものである此(この)内田観斉(うちだくわんさい)と云(い)ふ人(ひと)は其(その)頃(ころ)芝(しば)の新銭座(しんせんざ)に住む例(れい)の江川太(えがはた)       郎左衛門(らうざゑもん)の屋敷内(やしきない)に居(を)つたのであるが此(この)人(ひと)から菊作(きくさく)に寄越(よこ)した書翰(しよかん)には実(じつ)に当時(たうじ)の状況(ぜうけふ)を知(し)るべき面(おも)       白(しろ)いものがあるのである之(これ)は幸(さいはひ)其(その)子孫(しそん)の家(いへ)に存在(ぞんざい)して居(を)るから市史(しゝ)資料(しれう)の中(なか)へ蒐集(しう〳〵)することになつて       居(を)るのであるトコロで安政(あんせい)四年に至(いた)つて菊作(きくさく)は初(はじ)めて吉田藩(よしだはん)に召(め)し出(だ)されて士分(しぶん)に列(れつ)し藩校(はんかう)の数理教(すうりけふ)       授(じゆ)を命(めい)ぜられたのであるが御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)人(ひと)が工夫(くふう)した吉田方村(よしだがたむら)の灌漑法(くわんがいはふ)と云(い)ふものは頗(すこぶ)る進歩(しんぽ)した       もので其(その)頃(ころ)藩(はん)からの命(めい)を受(う)けて師匠(しせう)の内田観斉(うちだくわんさい)とも協議(けふぎ)したる上(うへ)泰西(たいせい)の理学(りがく)を応用(おうよう)して折衷的(せつちうてき)揚水器(ようすゐき)       を作(つく)り以(もつ)て灌漑(くわんがい)に便(べん)ならしめむとしたのである其(その)一 件書類(けんしよるい)は之(これ)も矢張(やはり)其(その)家(いへ)に残(のこ)つて居(を)るのであるから       今日(こんにち)から見(み)ることも出来(でき)るので頗(すこぶ)る面白(おもしろ)いものである而(しか)して此(この)人(ひと)は七十七 歳(さい)まで寿(じゆ)があつて明治十二年       一月廿八日を以(もつ)て此(この)地(ち)で病歿(びやうぼつ)したが其(その)門(もん)に入(い)つて教(おしへ)を受(う)けたものは実(じつ)に数(すう)百 人(にん)の多(おほ)さに上(のぼ)つたので従(したがつ)       て泰西(たいせい)究理(きうり)の学(がく)を夙(つと)に我(わが)地方(ちはう)へ輸入(ゆにふ)した事に就(つい)ては此(この)人(ひと)の力(ちから)は実(じつ)に少(すくな)からざりしものであると思(おも)ふの       である此(この)人(ひと)の碑(ひ)は龍拈寺(りうねんじ)構内(こうない)にあつて撰文(せんぶん)は石川鴻斉(いしかはこうさい)氏(し)である又(ま)た此(この)人(ひと)の研究(けんきう)した数理(すうり)の書中(しよちう)には実(じつ)       に参考(さんかう)になるものが沢山(たくさん)にあつたので先日(せんじつ)も御承知(ごせうち)の遠藤利貞(えんどうとしさだ)氏(し)が和算学史取調(わさんがくしとりしらべ)の為(た)め学士会院(がくしくわいゐん)から 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十六 【本文】 **高島秋帆** 炉を建設して銃砲の製造に尽力したものである。元来この高島秋帆という人は元長崎の町奉行で、早くから蘭人について近年最も発達した洋式の砲術を学び、ついに高島流という一派を成したのであるが、天保の末年に一度その技は幕府の採用するところとなろうとしたのである。しかるに当時は尚守旧派の勢力が旺盛であった為めに、例の鳥居甲斐守一派の陥れるところとなって、弘化三年七月中追放という処置に遭って安部虎之助に永預けと相成っていたのである。それを今度門人たる江川の尽力で(嘉永六年八月)赦免となり、砲術の師範たるに至ったのであるが、その翌安政元年七月にはまたオランダから我が海軍建設についても種々忠告するところがあったのである。 **観光丸** そして越えて一年、同国より一艘の蒸気船を我国に贈るに至ったのであるが、これが即ち有名なる観光丸で、幕府は早速勝麟太郎をはじめ俊秀の子弟を長崎に送って蘭人の教授を受けしめ、造船、運転、砲術等の稽古をなさしめたが、これが我国海軍創設の端緒ともなすべきである。 **講武所** これと同時に幕府はまた大いに武術の奨励をなし士気を鼓舞すべしということで、安政二年二月江戸の築地、筋違外、四谷の三ヶ所へ講武所を設くる事に決し、三年の四月から実施したが、幕府は更に軍制改正の必要をも認めて、さきにこの件を水戸斉昭に委任したのである。しかるにその事がまだ十分進行しなかったので、今度この講武所創設に当たって斉昭の発意でその事業を講武所に移す事となり、総裁久貝因幡守、池田甲斐守両人にその調査を命ずる事と相成ったのである。 右のような事情で米英露三国の使節は続々相接して来航し、その反響ともいうべき結果として以上のごとく一部においては海防をはじめ造船、砲術など洋式の学芸が盛んに採用されるに至ったが、まだなかなか一般にはそうは行き渡らなかったので、実に当時における我国人の意想というものは互いにその懸隔に著しいものがあったのである。そこで我が吉田藩の状況は当時如何なるものであったか、これに対して今少しく申し述べて置きたい 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百八十八号附録(大正二年六月十日発行) 【本文】 と思うのである。 **彦坂菊作** そこでこの吉田における洋学者の事について少しくお話しして置きたいと思うのであるが、当時この吉田の新銭町に彦坂菊作という数学の大家があったのである。この人は父を彦坂喜平といったが、町人には珍しく和歌を能くした人で、名を千善、号を杉園といったのである。菊作は享和三年の生まれで、名を範善、字を徳元、号を成通といったが、幼少の時から窮理的の思想に富んでいて、数学を牟呂村の人牧野傳蔵について学んだが、その後江戸に出て内田観斉(彌太郎)の門に入り、天象、地理、経緯、暦歩はもちろん窮理の学を修め、その蘊奥を究めたが、一方には蘭書をも読んだものである。 この内田観斉という人はその頃芝の新銭座に住む例の江川太郎左衛門の屋敷内にいたのであるが、この人から菊作に寄こした書簡には実に当時の状況を知るべき面白いものがあるのである。これは幸いその子孫の家に存在しているから、市史資料の中へ蒐集することになっているのである。 ところで安政四年に至って菊作は初めて吉田藩に召し出されて士分に列し、藩校の数理教授を命ぜられたのであるが、御承知のごとくこの人が工夫した吉田方村の灌漑法というものは頗る進歩したもので、その頃藩からの命を受けて師匠の内田観斉とも協議したる上、泰西の理学を応用して折衷的揚水器を作り、以て灌漑に便ならしめようとしたのである。その一件書類はこれもやはりその家に残っているのであるから、今日から見ることも出来るので頗る面白いものである。 そしてこの人は七十七歳まで寿があって明治十二年一月二十八日をもってこの地で病没したが、その門に入って教えを受けたものは実に数百人の多さに上ったので、従って泰西窮理の学を夙に我が地方へ輸入した事については、この人の力は実に少なからざりしものであると思うのである。この人の碑は龍拈寺構内にあって、撰文は石川鴻斉氏である。またこの人の研究した数理の書中には実に参考になるものが沢山にあったので、先日も御承知の遠藤利貞氏が和算学史取調の為め学士会院から 【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 436 **Main Text:** **Takashima Shuhan** He built reverberatory furnaces and devoted himself to the manufacture of guns and cannons. Originally, this Takashima Shuhan was formerly a Nagasaki magistrate who had long studied the most advanced Western-style gunnery from the Dutch, eventually establishing a school called the Takashima-ryu. In the final years of Tenpō, his techniques were once about to be adopted by the shogunate. However, since the conservative faction still held strong influence at that time, he fell victim to the machinations of the Torii Kai-no-kami faction and was banished in the seventh month of Kōka 3, being placed under permanent custody of Abe Toranosuke. Now, through the efforts of his disciple Egawa, he was pardoned (in the eighth month of Kaei 6) and became an instructor in gunnery. The following year, in the seventh month of Ansei 1, there were also various advisements from the Dutch regarding our naval construction. **Kanko-maru** A year later, that country presented our nation with a steamship, which was the famous Kanko-maru. The shogunate immediately sent promising young men including Katsu Rintarō to Nagasaki to receive instruction from the Dutch in shipbuilding, navigation, gunnery, and other subjects. This became the beginning of our country's naval establishment. **Kōbusho (Military Arts Academy)** Simultaneously, the shogunate also decided to greatly encourage martial arts to boost morale, establishing military academies at three locations in Edo - Tsukiji, Sujichigai-soto, and Yotsuya - in the second month of Ansei 2, implementing this from the fourth month of the third year. The shogunate also recognized the need for military system reform and had previously entrusted this matter to Mito Nariaki. However, since that matter had not progressed sufficiently, when establishing these military academies, at Nariaki's initiative the project was transferred to the academies, and commanders Kugai Inaba-no-kami and Ikeda Kai-no-kami were ordered to investigate this matter. Under such circumstances, envoys from America, Britain, and Russia arrived in succession, and as a result of this impact, Western learning in coastal defense, shipbuilding, gunnery and other fields began to be actively adopted in some quarters as described above. However, this had not yet spread to the general population, so there were indeed remarkable differences in the thinking of our countrymen at that time. Therefore, I would like to describe a bit more about what the situation in our Yoshida domain was like at that time. **Margin:** Publisher and Printer: Sanyo Printing Partnership Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City. Editor: Nakanishi Kenzo. Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Supplement to Sanyo Newspaper No. 4388 (Published June 10, Taishō 2) **Main Text:** **Hikosaka Kikusaku** Now I would like to talk a bit about Western scholars in this Yoshida. At that time, there was a great mathematician named Hikosaka Kikusaku living in Shinsen-machi in Yoshida. His father was called Hikosaka Kihei, who unusually for a townsman was skilled in waka poetry, with the given name Chizen and pen name Sugisono. Kikusaku was born in Kyōwa 3, with the given name Noriyo shi, courtesy name Tokumoto, and pen name Narimichi. From childhood he was rich in rational thinking and studied mathematics under Makino Denzō from Muro village. Later he went to Edo and entered the school of Uchida Kansai (Yatarō), studying astronomy, geography, surveying, calendar calculation, and of course natural philosophy, mastering their profound principles, while also reading Dutch books. This Uchida Kansai lived within the estate of the aforementioned Egawa Tarō-zaemon in Shinsen-za, Shiba at that time. The letters he sent to Kikusaku contain truly interesting material for understanding the circumstances of that time. Fortunately these survive in his descendants' house and are being collected into the city historical materials. In Ansei 4, Kikusaku was first summoned by Yoshida domain and enrolled among the samurai class, being appointed as mathematics instructor at the domain school. As you know, the irrigation method for Yoshida-gata-mura that this man devised was quite advanced - at that time, under orders from the domain and after consulting with his teacher Uchida Kansai, he attempted to apply Western natural philosophy to create an eclectic water pump to improve irrigation. The documents for this project also remain in his family house and can be viewed today, making them quite interesting. This man lived to age 77, dying of illness in this place on January 28, Meiji 12. Those who entered his school and received instruction numbered in the hundreds, so his contribution to early introduction of Western natural philosophy to our region was indeed considerable. His monument is in the grounds of Ryūnen-ji temple, with the inscription composed by Ishikawa Kōsai. Also, among the mathematical works he researched were many truly valuable references, so recently the well-known Endō Toshisada from the Academy of Sciences for research into the history of Japanese mathematics... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 437