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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 233

ページ: 233

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【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十八 【本文】       派出(はしゆつ)になつた時(とき)にも私(わたくし)から段々(だん〴〵)御話(おはなし)した処(ところ)がそれは誠(まこと)に有難(ありがた)い事であると云(い)ふので残(その)らず其(その)遺書(ゐしよ)を閲(えつ)       覧(らん)せられ其(その)結果(けつくわ)多数(たすう)のものを孫(まご)の春次(はるじ)氏(し)から学士会院(がくしくわいゐん)へ寄贈(きぞう)すっることになつた次第(しだい)であるソレから御話(おはなし) 福谷啓吉  したいのは福谷啓吉(ふくたにけいきち)と云(い)ふ人(ひと)の事であるが之(これ)は恐(おそら)くは諸君(しよくん)も能(よ)く御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふ此(この)人(ひと)は吉田(よしだ)       萱町(かやまち)の人(ひと)で父(ちゝ)を喜久蔵(きくざう)と云(い)ひ文政(ぶんせい)二年七月の生(うまれ)であるが其(その)子息(しそく)は今(いま)も豊橋(とよはし)に住(す)むで居(を)られるのみなら       ず御承知(ごせうち)の福谷藤(ふくたにとう)七 氏(し)の如(ごと)きも其(その)親族(しんぞく)であられるのであるサテ前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)はイヨ〳〵       安政(あんせい)二年に至(いた)つて初(はじ)めて海軍(かいぐん)の伝習生(でんしふせい)を長崎(ながさき)に派遣(はけん)することとなつたのであるが此(この)時(とき)幕府(ばくふ)からは彼(か)の勝(かつ)       麟太郎(りんたらう)(安房、海舟)を初(はじ)め三十 余名(よめい)の選抜生(せんばつせい)を差送(さしおく)られたのである之(これ)が我国(わがくに)に於(お)ける海軍(かいぐん)の嚆矢(かうし)とも 《割書:初期の海軍|伝習生》  なすべきものであるが当時(たうじ)各藩(かくはん)からも亦(ま)た幕府(ばくふ)の許可(きよか)を得(え)てソレ〴〵伝習生(でんしふせい)を之(これ)に差出(さしだ)す事となつた       のである而(しか)して鹿児島(かごしま)、熊本(くまもと)、福岡(ふくおか)、萩(はぎ)、佐賀(さが)、津(つ)、福山(ふくやま)、掛川(かけがは)の諸藩(しよはん)は孰(いづ)れも多少(たせう)の学生(がくせい)を之(これ)に送(おく)       つたのであるが其中(そのなか)でも佐賀藩(さがはん)即(すなは)ち鍋島侯(なべしまこう)が一 番(ばん)多数(たすう)の学生(がくせい)を出(いだ)したのである即(すなは)ち啓吉(けいきち)は此(この)時(とき)其(その)鍋島(なべしま)       侯(こう)に採用(さいよう)せられ佐賀藩士(さがはんし)として右(みぎ)の海軍(かいぐん)伝習生(でんしふせい)に加(くは)はつたのであるが其(その)時(とき)の学生名簿(がくせいめいぼ)を見(み)ると佐賀藩(さがはん)       から出(で)た人(ひと)の中(なか)には右(みぎ)の啓吉(けいきち)を初(はじ)め佐野栄壽左衛門(さのえいじゆさゑもん)(常民)だの中牟田倉之助(なかむたくらのすけ)だのと云(い)ふ連名(れんめい)も見(み)ゆる       のである然(しか)るに此(この)学生(がくせい)が伝習(でんしふ)を受(う)くるに就(つい)ては実(じつ)に容易(ようい)ならざる困苦(こんく)をなしたもので少(すくな)きも二三 年(ねん)多(おほ)       きは四五 年(ねん)留学(りうがく)したことであつたが今(いま)其(その)苦学(くがく)の状況(ぜうけふ)を一々 申述(まをしの)べて居(を)る暇(いとま)はないと思(おも)ふから之等(これら)は略(りやく)す       ることとするがイヨ〳〵安政(あんせい)六年となつて学生(がくせい)の技倆(ぎれう)も略(ほ)ぼ熟達(じゆくたつ)したと云(い)ふ処から幕府(ばくふ)は遠洋航海(えんようかうかい)を試(こゝろ) 《割書:咸臨丸の遠|洋航海》  みしめたいと云(い)ふので安政(あんせい)四年九月 和蘭(おらんだ)から出来(でき)て来(き)た処の軍艦(ぐんかん)咸臨丸(かんりんまる)を米国(べいこく)桑港(さんふらんしすこ)に発(はつ)せしむる       こととなつたのである之(これ)には軍艦奉行(ぐんかんぶぎやう)木村摂津守(きむらせつゝのかみ)(芥舟)が乗(の)り込(こ)み選抜(せんばつ)せる学生(がくせい)を乗(の)せて同年(どうねん)の十二月       横浜(よこはま)から我国(わがくに)を出発(しゆつぱつ)して首尾能(しゆびよ)く彼国(かのくに)に達(たつ)し翌年(よくねん)即(すなは)ち万延(まんえん)元年(がんねん)の五月を以(もつ)て無事(ぶじ)帰朝(きてう)したのである之(これ) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       が我国人(わがこくじん)の手(て)を以(もつ)て我国(わがくに)の軍艦(ぐんかん)を運転(うんてん)し遠(とほ)く外国(ぐわいこく)に渡航(とかう)した嚆矢(かうし)で福沢諭吉(ふくざはゆうきち)が木村摂津守(きむらせつゝのかみ)の従僕(じうぼく)と云       ふ名前(なまへ)を以(もつ)て渡航(とかう)せられたのも即(すなは)ち此(この)時(とき)であつたのであるかゝる有様(ありさま)であつたから佐賀藩(さがはん)に於(おい)ても外(ぐわい) 《割書:福谷啓吉の|渡米》  国視察(こくしさつ)の為(ため)に其(その)学生(がくせい)の中(なか)から二 人(にん)を選抜(せんばつ)して米国(べいこく)に渡航(とかう)せしむることになつたのであるが啓吉(けいきち)は実(じつ)に其(その)       一 人(にん)に当(あた)つたので万延(まんえん)元年(がんねん)横浜(よこはま)から外国船(ぐわいこくせん)に乗(の)り込(こ)むで米国(べいこく)に渡航(とかう)したのである当時(たうじ)啓吉(けいきち)の父(ちゝ)喜久蔵(きくざう)       は病気(びやうき)で此(この)吉田(よしだ)萱町(かやまち)の宅(たく)に療養(れうやう)して居(を)つたのであるが啓吉(けいきち)は出発(しゆつぱつ)の途次(とじ)佐賀(さが)から横浜(よこはま)まで陸路(りくろ)を急行(きふかう)       し途中(とちう)僅(わづか)に数時間(すうじかん)父(ちゝ)の病床(びやうせう)を訪(と)つて訣別(けつべつ)したと云(い)ふことである而(しか)して其(その)父(ちゝ)は其(その)年(とし)の五月十六日を以(もつ)て遂(つひ)       に病死(びやうし)したのであるが其(その)時(とき)は既(すで)に啓吉(けいきち)が米国(べいこく)に着(ちやく)して居(を)つた後(あと)である蓋(けだ)し啓吉(けいきち)は米国(べいこく)に着(ちやく)してワシン       トン府(ふ)で彼(か)の井伊大老(ゐいたいらう)の遭難(そうなん)を聞(き)いたと云(い)ふ事であるが大老(たいらう)の遭難(そうなん)は其(その)年(とし)の三月三日であるから勿論(もちろん)       啓吉(けいきち)はそれより以前(いぜん)に我国(わがくに)を出発(しゆつぱつ)して居(を)つたことが分(わか)るのである而(しか)して啓吉(けいきち)が無事(ぶじ)帰朝(きてう)したのは其(その)年(とし)の       九月廿八日であるが其(その)帰航(きかう)に関(くわん)する日記(につき)が今(いま)福谷藤(ふくたにとう)七 氏(し)の家(いへ)に蔵(ざう)せられてあるが之(これ)は中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いもので       あるが只(た)だ其(そ)の前(まへ)の方(はう)が欠(か)けて居(を)るのは実(じつ)に惜(おし)いものであると思(おも)ふ此(この)後(のち)此(この)人(ひと)は矢張(やはり)鍋島侯(なべしまこう)の命(めい)を受(う)け       て数々(しば〴〵)支那(しな)に航(かう)し其(その)内地(ないち)に入(い)つて支那貿易(しなぼうえき)の事に研究(けんきう)を重(かさ)ねたのであるが維新後(ゐしんご)は工部省(こうぶせう)に出仕(しゆつし)し一       等属(とうぞく)まで進(すゝ)むだのである然(しか)るに明治十六年 頃(ころ)退隠(たいゐん)して多(おほ)く此(この)豊橋(とよはし)に居(を)つたが仝(どう)廿二年七十一 歳(さい)で病歿(びやうぼつ)       したのである墓(はか)は豊橋市(とよはしゝ)花園町(はなそのてう)正琳寺(せうりんじ)にあるが此(この)人(ひと)が万延(まんえん)元年(がんねん)帰朝(きてう)の時(とき)に米国(べいこく)から齎(もた)らした印刷物(いんさつぶつ)其(その)       他(た)器具(きぐ)などは勿論(もちろん)其(その)後(のち)支那(しな)から持(も)ち帰(かへ)つた織物(おりもの)の見本(みほん)なども今(いま)福谷藤(ふくたにとう)七 君(くん)の処に蔵(ざう)せられて居(を)るので       ある       右(みぎ)の如(ごと)く福谷啓吉(ふくたにけいきち)は佐賀藩士(さがはんし)として我国(わがくに)最初(さいしよ)の海軍(かいぐん)伝習生(でんしふせい)となり万延(まんえん)元年(がんねん)既(すで)に米国(べいこく)に渡航(とかう)したのであ 穂積晴軒  つたが其(その)実(じつ)は元(も)と我(わが)吉田(よしだ)の市人(しじん)であつたのである而(しか)し之(これ)とは少(すこ)しく後(おく)れて生(うま)れた人(ひと)であるが此(この)吉田(よしだ) 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百三十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十八 【本文】 派遣された時にも私から段々お話したところ、それは誠にありがたい事であるというので、残らずその遺書を閲覧され、その結果多数のものを孫の春次氏から学士会院へ寄贈することになった次第である。 **福谷啓吉** それからお話ししたいのは福谷啓吉という人の事であるが、これは恐らく諸君もよく御承知の事であると思う。この人は吉田萱町の人で、父を喜久蔵といい、文政二年七月の生まれであるが、その子息は今も豊橋に住んでおられるのみならず、御承知の福谷藤七氏のような方もその親族であられるのである。 さて前にも申し述べたように、幕府はいよいよ安政二年に至って初めて海軍の伝習生を長崎に派遣することとなったのであるが、この時幕府からは彼の勝麟太郎(安房、海舟)をはじめ三十余名の選抜生を送られたのである。これが我国における海軍の嚆矢ともなすべきものであるが、当時各藩からもまた幕府の許可を得てそれぞれ伝習生をこれに差し出すこととなったのである。 そして鹿児島、熊本、福岡、萩、佐賀、津、福山、掛川の諸藩はいずれも多少の学生をこれに送ったのであるが、その中でも佐賀藩即ち鍋島侯が一番多数の学生を出したのである。即ち啓吉はこの時その鍋島侯に採用され、佐賀藩士として右の海軍伝習生に加わったのであるが、その時の学生名簿を見ると、佐賀藩から出た人の中には右の啓吉をはじめ佐野栄壽左衛門(常民)だの中牟田倉之助だのという連名も見えるのである。 しかるにこの学生が伝習を受けるについては実に容易ならざる困苦をしたもので、少なきも二三年、多きは四五年留学したことであったが、今その苦学の状況を一々申し述べている暇はないと思うから、これ等は略することとする。 いよいよ安政六年となって学生の技量もほぼ熟達したというところから、幕府は遠洋航海を試みさせたいというので、安政四年九月オランダから出来て来たところの軍艦咸臨丸を米国桑港(サンフランシスコ)に発せしめることとなったのである。これには軍艦奉行木村摂津守(芥舟)が乗り込み、選抜せる学生を乗せて同年の十二月横浜から我国を出発して、首尾よく彼国に達し、翌年即ち万延元年の五月をもって無事帰朝したのである。 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその博い知識と不屈の精力を傾けて豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿ほぼ成るに際... 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 これが我国人の手をもって我国の軍艦を運転し、遠く外国に渡航した嚆矢で、福沢諭吉が木村摂津守の従僕という名前をもって渡航されたのも即ちこの時であったのである。 **福谷啓吉の渡米** かかる有様であったから、佐賀藩においても外国視察の為にその学生の中から二人を選抜して米国に渡航させることになったのであるが、啓吉は実にその一人に当たったので、万延元年横浜から外国船に乗り込んで米国に渡航したのである。当時啓吉の父喜久蔵は病気でこの吉田萱町の宅に療養していたのであるが、啓吉は出発の途次、佐賀から横浜まで陸路を急行し、途中わずかに数時間父の病床を訪って訣別したということである。そしてその父はその年の五月十六日をもってついに病死したのであるが、その時は既に啓吉が米国に着していた後である。 けだし啓吉は米国に着してワシントン府で彼の井伊大老の遭難を聞いたということであるが、大老の遭難はその年の三月三日であるから、もちろん啓吉はそれより以前に我国を出発していたことが分かるのである。そして啓吉が無事帰朝したのはその年の九月二十八日であるが、その帰航に関する日記が今福谷藤七氏の家に蔵されてあるが、これはなかなか面白いものであるが、ただその前の方が欠けているのは実に惜しいものであると思う。 この後この人はやはり鍋島侯の命を受けて数々支那に航し、その内地に入って支那貿易の事に研究を重ねたのであるが、維新後は工部省に出仕し一等属まで進んだのである。しかるに明治十六年頃退隠して多くこの豊橋にいたが、同二十二年七十一歳で病没したのである。墓は豊橋市花園町正琳寺にあるが、この人が万延元年帰朝の時に米国から齎らした印刷物その他器具などはもちろん、その後支那から持ち帰った織物の見本なども今福谷藤七君のところに蔵されているのである。 右のごとく福谷啓吉は佐賀藩士として我国最初の海軍伝習生となり、万延元年既に米国に渡航したのであったが、その実は元と我が吉田の市人であったのである。 **穂積晴軒** しかしこれとは少しく後れて生まれた人であるが、この吉田... 【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百三十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 438 **Main Text:** When dispatched, I gradually explained the situation to him, and he said it would be truly valuable, so he examined all the remaining manuscripts, and as a result, many items were donated to the Academy of Sciences by his grandson Haruji. **Fukutani Keikichi** Next I would like to discuss Fukutani Keikichi, which I believe you are all well acquainted with. This man was from Kaya-machi in Yoshida, his father was called Kikuzō, and he was born in the seventh month of Bunsei 2. Not only do his descendants still live in Toyohashi, but the well-known Fukutani Tōshichi and others are also his relatives. As I mentioned before, the shogunate finally decided in Ansei 2 to send naval cadets to Nagasaki for the first time. At this time, the shogunate sent over thirty selected students including the famous Katsu Rintarō (Awa, Kaishū). This marked the beginning of our country's navy, and at that time various domains also obtained shogunate permission to send their own cadets. The domains of Kagoshima, Kumamoto, Fukuoka, Hagi, Saga, Tsu, Fukuyama, and Kakegawa all sent varying numbers of students, but among them, Saga domain - that is, Lord Nabeshima - sent the most students. Keikichi was adopted by Lord Nabeshima at this time and joined the naval cadets as a Saga domain samurai. Looking at the student roster from that time, among those sent from Saga domain we can see names like Keikichi, Sano Eijūzaemon (Tsunetami), and Nakamuta Kuranosuke. However, these students faced considerable hardships in their studies, with some studying for two to three years and others for four to five years. I don't think I have time to describe all the details of their arduous studies, so I will omit these. Finally in Ansei 6, when the students' skills had become proficient, the shogunate decided to attempt ocean voyages, sending the warship Kanrin-maru (which had arrived from Holland in the ninth month of Ansei 4) to San Francisco in America. Naval magistrate Kimura Settsu-no-kami (Kaishu) boarded with selected students, departing Japan from Yokohama in the twelfth month of that year, successfully reaching that country and returning safely in the fifth month of the following year, Man'en 1. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and tireless energy to compiling the Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper **Main Text:** This was the first instance of Japanese operating a Japanese warship and traveling to foreign countries. It was also at this time that Fukuzawa Yukichi traveled abroad under the name of being Kimura Settsu-no-kami's servant. **Fukutani Keikichi's Journey to America** Under such circumstances, Saga domain also decided to select two students to send to America for foreign observation, and Keikichi was one of those chosen. In Man'en 1, he boarded a foreign ship from Yokohama and traveled to America. At that time, Keikichi's father Kikuzō was ill and recuperating at home in Kaya-machi, Yoshida. When departing, Keikichi rushed overland from Saga to Yokohama, stopping only briefly for a few hours to visit his father's sickbed for their final farewell. His father died on May 16 of that year, by which time Keikichi had already arrived in America. Indeed, Keikichi heard of the assassination of Senior Councilor Ii while in Washington. Since the Senior Councilor's assassination occurred on March 3 of that year, it's clear that Keikichi had departed Japan before then. Keikichi returned safely on September 28 of that year, and a diary of his return voyage is preserved in the Fukutani Tōshichi family house. This is quite interesting, though it's regrettable that the earlier portion is missing. After this, he continued to sail to China under Lord Nabeshima's orders, entering the interior to conduct research on Chinese trade. After the Meiji Restoration, he served in the Ministry of Public Works, advancing to first-class clerk. However, around Meiji 16 he retired and spent much time in Toyohashi, dying of illness at age 71 in Meiji 22. His grave is at Shōrin-ji temple in Hanazono-chō, Toyohashi City. The printed materials and other implements he brought back from America when he returned in Man'en 1, as well as textile samples he later brought back from China, are still preserved at Fukutani Tōshichi's residence. As described above, Fukutani Keikichi became one of Japan's first naval cadets as a Saga domain samurai and traveled to America in Man'en 1, but he was originally a townsman from our Yoshida. **Hozumi Seiken** However, there was another person born somewhat later in this Yoshida... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 439