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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 234

ページ: 234

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【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百四十 【本文】       藩士(はんし)に穂積清(ほづみせい)七 郎(らう)と云(い)ふ人(ひと)があつて之(これ)は実(じつ)に我(わが)吉田藩(よしだはん)に於(お)ける洋学(ようがく)の鼓吹者(こすゐしや)として大(おほい)に伝(つた)ふべき人物(じんぶつ)       であるから此処(こゝ)に其(その)人(ひと)に関(くわん)して話(はなし)の端緒(たんちよ)を開(ひら)いて置(お)きたいと思(おも)ふのである       清(せい)七 郎(らう)の父(ちゝ)は矢張(やはり)吉田藩士(よしだはんし)で穂積喜左衛門(ほづみきざゑもん)と云(い)つたのであるが清(せい)七 郎(らう)は其(その)長男(てうなん)である天保(てんぱう)七年正月 江(え)       戸(ど)の藩邸(はんてい)に生(うま)れ後(のち)号(がう)を清軒(せいけん)と云(い)つたのであるが父(ちゝ)喜左衛門(きざゑもん)は御用人筆頭(ごようにんひつとう)と云(い)ふので藩主(はんしゆ)信古(のぶひさ)の近臣(きんしん)と       なり専(もつぱ)ら弓(ゆみ)、馬(うま)、槍(やり)、劔道(けんどう)などの武技(ぶぎ)を主(しゆ)とする役目(やくめ)であつたが禄高(ろくだか)は百七十 石(こく)であつたのである而(しか)       して前(まへ)に一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた彼(か)の浦賀奉行(うらがぶぎやう)の与力(よりき)中島(なかじま)三 郎助(らうすけ)と云(い)ふ人(ひと)は喜左衛門(きざゑもん)の弟(おとゝ)であつたのであ       るから清(せい)七 郎(らう)から云(い)ふと叔父(おぢ)であるトコロで此(この)三 郎助(らうすけ)は嘉永(かえい)六年ペリーが初(はじ)めて浦賀(うらが)に来航(らいかう)した時(とき)其(その)       船(ふね)に訪問(はうもん)して米国人(べいこくじん)と最初(さいしよ)の問答(もんどう)を試(こゝろ)みたので有名(ゆうめい)な人(ひと)であるが安政(あんせい)二年 幕府(ばくふ)が選抜生(せんばつせい)を長崎(ながさき)の海軍(かいぐん)       伝習生(でんしふせい)として差送(さしおく)つた時(とき)には此(この)三 郎助(らうすけ)は勝麟太郎(かつりんたらう)等(ら)と共(とも)に其(その)選(せん)に当(あた)つて長崎(ながさき)へ赴(おもむ)いたのである即(すなは)ち海(かい)       軍(ぐん)修行中(しうげふちう)は前(まへ)に申述(まをしの)べた福谷啓吉(ふくたにけいきち)とも同学(どうがく)であつたが此(この)人(ひと)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く幕末(ばくまつ)に至(いた)つて彼(か)の榎本釜次(ゑのもとかまじ)       郎(らう)が函館(はこだて)に脱走(だつそう)五 稜郭(れうくわく)に籠(こも)つた時(とき)其(その)同志(どうし)に加(くは)はり遂(つひ)に榎本(ゑのもと)等(ら)は降服(こうふく)したが三 郎助(らうすけ)は独(ひと)り踏(ふ)み止(とゞま)つて       千代(ちよ)が岡(をか)の砲塁(ほうるい)を固守(こしゆ)し其(その)二 子(し)と共(とも)に打死(うちじに)をして仕舞(しま)つたのである清(せい)七 郎(らう)はかゝる人(ひと)を叔父(おぢ)に持(も)つて       居(を)つたのであるから夙(つと)に洋学(ようがく)講究(こうきう)の必要(ひつえう)なる事を聞(き)かされて居(を)つたもので其(その)二十 歳(さい)の時(とき)即(すなは)ち安政(あんせい)二年       丁度(ちようど)幕府(ばくふ)でも蕃書調所(ばんしよしらべしよ)を創設(さうせつ)した年(とし)であるが清(せい)七 郎(らう)は三 郎助(らうすけ)の勧誘(くわんゆう)によつて遂(つひ)に蘭学(らんがく)の研究(けんきう)を思(おも)ひ立(た)       つたのである然(しか)るに当時(たうじ)はまだ武技(ぶぎ)の研究(けんきう)をも怠(おこた)つてはならぬのであるから都合(つがふ)のよい処に蘭学(らんがく)の師(し) 《割書:蘭医坪井信|道》  匠(せう)を求(もと)めたいものであると思(おも)つて居(を)つたのであるが会々(たま〳〵)蘭医(らんゐ)の坪井信道(つぼゐのぶみち)と云(い)ふ人(ひと)が呉服橋外(ごふくばしそと)に門戸(もんこ)を       開(ひら)いて医業(ゐげふ)の傍(かたは)ら洋学(ようがく)の教授(けふじう)をもすると云(い)ふので清(せい)七 郎(らう)は初(はじ)め之(これ)に通学(つうがく)することとなつたのである其頃(そのころ)       清(せい)七 郎(らう)の家(いへ)は北新堀(きたしんぼり)にある藩(はん)の中屋敷内(なかやしきない)にあつたのであるからそれから毎日(まいにち)武技(ぶぎ)を修(をさ)むる傍(かたは)ら此(この)坪井(つぼゐ) 【欄外】       発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百九十四号附録    (大正二年六月十七日発行) 【本文】       の処(ところ)へ行(い)つて殆(ほとん)ど二 年間(ねんかん)の苦学(くがく)をしたのであるがそれでヨウ〳〵蘭語(らんご)文典(ぶんてん)一 部(ぶ)を習得(しふとく)するに過(す)ぎなか       つたのである然(しか)るに其頃(そのころ)は申(まを)す迄(まで)もなく攘夷論(ぜうゐろん)の盛(さかん)な時(とき)であるから蘭学(らんがく)などと云(い)ふ事は実(じつ)に同僚間(どうれうかん)に       も排斥(はいせき)を受(う)けたもので或時(あるとき)己(おの)れの隠(かく)し置(お)いた其(その)蘭語文典(らんごぶんてん)の表紙(へうし)へ藩中(はんちう)の同輩(どうはい)に落書(らくがき)をされた事がある       がその落書(らくがき)が今日(こんにち)から見(み)ると中々(なか〳〵)面白(おもしろ)いのであるソレは「団子(だんご)は喰(く)へるが蘭語(らんご)は喰(く)へぬ」と云ふので       あつた以(もつ)て当時(たうじ)に於(お)ける青年(せいねん)の志想(しさう)の一 部(ぶ)を見(み)るべしとも云(い)ふべきであると思(おも)ふ此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつた       から清(せい)七 郎(らう)は到底(たうてい)蘭学(らんがく)の研究(けんきう)をなすには一 意専心(いせんしん)でなくてはいかぬ武技(ぶぎ)修行(しゆげふ)の傍(かたは)ら公務(こうむ)の余暇(よか)を以(もつ)て       通学(つうがく)して居(ゐ)る位(くらゐ)では覚束(おぼつか)ないと云(い)ふ事を思(おも)つて遂(つひ)に藩主(はんしゆ)に願出(ねがひい)でゝ暇(いとま)請(こ)ひ且(か)つ武技(ぶぎ)をも廃(はい)して当時(たうじ) 村田蔵六  九 段坂(だんさか)上(うへ)に家塾(かじゆく)を開(ひら)いて居(を)つた村田蔵(むらたぞう)六の門(もん)に入(い)つたのである此(この)村田蔵(むらたぞう)六と云(い)ふ人(ひと)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の       如(ごと)く後(のち)に大村益次郎(おほむらますじらう)と称(せう)した人(ひと)で彼(か)の九 段(だん)の坂上(さかうへ)に大銅像(だいどうぞう)を設(まを)けられた人であるが清(せい)七 郎(らう)は此処(こゝ)にあ 高畑五郎  つて専心(せんしん)蘭学(らんがく)を修(をさ)め後(のち)阿州(あしう)の藩士(はんし)高畑(たかはた)五 郎(らう)(後(のち)に眉山(ひざん)と称(せう)す)の開(ひら)いて居(を)つた番町(ばんてう)の塾(じゆく)に(てん)転じたので       あつた然(しか)るに其(その)頃(ころ)は蘭書(らんしよ)の舶来(はくらい)などは実(じつ)に乏(とぼ)しかつたものであるから多(おほ)くは之(これ)を手写(しゆしや)したもので天文(てんぶん)       地理(ちり)、究理(きうり)、兵学(へいがく)、医術(ゐじゆつ)などが其(その)主(おも)なるものであるが実(じつ)に其(その)研究(けんきう)に苦心惨憺(くしんさんたん)たるものがあつたのであ       る而(しか)して其(その)頃(ころ)清(せい)七 郎(らう)の用(もち)ゐた書物(しよもつ)は幸(さいはひ)に保存(ほぞん)が出来(でき)て居(を)つて先年(せんねん)其(その)実弟(じつてい)たる穂積寅(ほづみとら)九 郎(らう)君(くん)から当市(たうし)に       寄付(きふ)になつて居(を)るから之(これ)は必(かなら)ず市(し)の図書館(としよくわん)に永久(えいきふ)に保存(ほぞん)さるゝものであると私(わたくし)は喜(よろこ)むで居(を)る次第(しだい)であ       る而(しか)して清(せい)七 郎(らう)が安政(あんせい)三 年(ねん)即(すなは)ち其(その)二十一 歳(さい)の時(とき)に藩(はん)に差出(さしだ)した建白書(けんぱくしよ)と云(い)ふものも今(いま)残(のこ)つて居(を)るので       之(これ)は実(じつ)に参考(さんかう)と相成(あひな)るものであると思(おも)ふから左(さ)に全文(ぜんぶん)を掲(かゝ)げたいと思(おも)ふ        近年海防之儀ニ付乍恐於 公辺モ厚御世話被為在候打柄当 御家ニテハ 御元君様ヨリ兼而御手厚        被成置候得共御時節柄猶更追々御世話モ御座候間不束之私共何歟事々敷申上候モ重々奉恐入候得共 【欄外】    豊橋市史談  (外国問題と吉田藩)                    四百四十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百四十 【本文】 藩士に穂積清七郎という人があって、これは実に我が吉田藩における洋学の鼓吹者として大いに伝えるべき人物であるから、ここにその人に関して話の端緒を開いておきたいと思うのである。 清七郎の父はやはり吉田藩士で穂積喜左衛門といったのであるが、清七郎はその長男である。天保七年正月江戸の藩邸に生まれ、後に号を清軒といったのであるが、父喜左衛門は御用人筆頭ということで藩主信古の近臣となり、専ら弓、馬、槍、剣道などの武技を主とする役目であったが、禄高は百七十石であったのである。 そして前に一寸申し述べておいた彼の浦賀奉行の与力中島三郎助という人は喜左衛門の弟であったのであるから、清七郎から言うと叔父である。ところでこの三郎助は嘉永六年ペリーが初めて浦賀に来航した時、その船に訪問して米国人と最初の問答を試みたので有名な人であるが、安政二年幕府が選抜生を長崎の海軍伝習生として差し送った時には、この三郎助は勝麟太郎等と共にその選に当たって長崎へ赴いたのである。即ち海軍修行中は前に申し述べた福谷啓吉とも同学であったが、この人は御承知のように幕末に至って彼の榎本釜次郎が函館に脱走し五稜郭に籠った時、その同志に加わり、遂に榎本等は降服したが、三郎助は独り踏み止まって千代が岡の砲塁を固守し、その二子と共に打死をしてしまったのである。 清七郎はかかる人を叔父に持っていたのであるから、夙に洋学講究の必要なる事を聞かされていたもので、その二十歳の時即ち安政二年、ちょうど幕府でも蕃書調所を創設した年であるが、清七郎は三郎助の勧誘によって遂に蘭学の研究を思い立ったのである。しかるに当時はまだ武技の研究をも怠ってはならぬのであるから、都合のよい処に蘭学の師匠を求めたいものであると思っていたのであるが、たまたま蘭医の坪井信道という人が呉服橋外に門戸を開いて医業の傍ら洋学の教授をもすると云うので、清七郎は初めこれに通学することとなったのである。その頃清七郎の家は北新堀にある藩の中屋敷内にあったのであるから、それから毎日武技を修める傍らこの坪井 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野○吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千三百九十四号附録(大正二年六月十七日発行) 【本文】 のところへ行ってほとんど二年間の苦学をしたのであるが、それでようやく蘭語文典一部を習得するに過ぎなかったのである。しかるにその頃は申すまでもなく攘夷論の盛んな時であるから、蘭学などということは実に同僚間にも排斥を受けたもので、ある時己れの隠し置いたその蘭語文典の表紙へ藩中の同輩に落書きをされた事があるが、その落書きが今日から見るとなかなか面白いのである。それは「団子は食えるが蘭語は食えぬ」というのであった。以って当時における青年の思想の一部を見るべしとも云うべきであると思う。 かくのごときわけであったから、清七郎は到底蘭学の研究をなすには一意専心でなくてはいけぬ、武技修行の傍ら公務の余暇をもって通学している位では覚束ないということを思って、遂に藩主に願い出て暇請いかつ武技をも廃して、当時九段坂上に家塾を開いていた村田蔵六の門に入ったのである。この村田蔵六という人は諸君も御承知のように後に大村益次郎と称した人で、彼の九段の坂上に大銅像を設けられた人であるが、清七郎はここにあって専心蘭学を修め、後に阿州の藩士高畑五郎(後に眉山と称す)の開いていた番町の塾に転じたのであった。 しかるにその頃は蘭書の舶来などは実に乏しかったものであるから、多くはこれを手写したもので、天文地理、究理、兵学、医術などがその主なるものであるが、実にその研究に苦心惨憺たるものがあったのである。そしてその頃清七郎の用いた書物は幸いに保存が出来ていて、先年その実弟たる穂積寅九郎君から当市に寄付になっているから、これは必ず市の図書館に永久に保存されるものであると私は喜んでいる次第である。 そして清七郎が安政三年即ちその二十一歳の時に藩に差し出した建白書というものも今残っているので、これは実に参考と相成るものであると思うから左に全文を掲げたいと思う。 「近年海防之儀ニ付乍恐於 公辺モ厚御世話被為在候打柄当 御家ニテハ 御元君様ヨリ兼而御手厚被成置候得共御時節柄猶更追々御世話モ御座候間不束之私共何歟事々敷申上候モ重々奉恐入候得共」 【欄外】 豊橋市史談(外国問題と吉田藩) 四百四十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 440 **Main Text:** There was a domain samurai named Hozumi Seishichirō, who was truly a great promoter of Western learning in our Yoshida domain and should be greatly remembered, so I would like to open the discussion about this person here. Seishichirō's father was also a Yoshida domain samurai named Hozumi Kizaemon, and Seishichirō was his eldest son. He was born in the first month of Tenpō 7 at the domain residence in Edo, and later took the name Seiken. His father Kizaemon was the chief retainer and became a close vassal to domain lord Nobuhisa, specializing in martial arts such as archery, horsemanship, spear fighting, and swordsmanship, with a stipend of 170 koku. The Uraga magistrate's assistant Nakajima Saburōsuke, whom I briefly mentioned earlier, was Kizaemon's younger brother, making him Seishichirō's uncle. This Saburōsuke became famous when Perry first arrived at Uraga in Kaei 6, as he visited the ships and conducted the first dialogue with the Americans. In Ansei 2, when the shogunate sent selected students to Nagasaki as naval cadets, Saburōsuke was chosen along with Katsu Rintarō and others to go to Nagasaki. During his naval training, he studied alongside Fukutani Keikichi, whom I mentioned earlier. As you know, at the end of the Edo period when Enomoto Kamejirō fled to Hakodate and holed up in Goryōkaku, Saburōsuke joined his cause. Although Enomoto and others eventually surrendered, Saburōsuke alone held his ground, defending the battery at Chiyogaoka, and died in battle along with his two sons. Having such a person as his uncle, Seishichirō had long been told of the necessity of studying Western learning. At age twenty, in Ansei 2 - coincidentally the year the shogunate established the Institute for the Investigation of Barbarian Books - Seishichirō was encouraged by Saburōsuke to finally undertake the study of Dutch learning. However, at that time he still could not neglect martial arts training, so he sought a Dutch learning teacher in a convenient location. It happened that a Dutch physician named Tsuboi Nobumichi had opened his practice outside Gofukubashi and taught Western learning alongside his medical practice, so Seishichirō initially began attending his school. At that time, Seishichirō's residence was in the domain's middle compound at Kitashinbori, so from there he would go daily to Tsuboi's place to study arduously for nearly two years while also practicing martial arts, **Margin:** Publisher and Printer: Sanyo Printing Partnership, 48 Konya-machi, Toyohashi City Editor: Nakanishi Kenzō Publisher and Printer: Kuno [○]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4394 Supplement (Published June 17, Taishō 2) **Main Text:** but he only managed to master one volume of Dutch grammar. However, this was naturally a time when anti-foreign sentiment was strong, so Dutch learning faced rejection even among colleagues. Once, someone from his domain wrote graffiti on the cover of his hidden Dutch grammar book. Looking back now, that graffiti is quite interesting - it read "You can eat dumplings, but you can't eat Dutch language." This shows part of the mindset of young people at that time. Given such circumstances, Seishichirō realized that to properly study Dutch learning required complete dedication - it would be unreliable to attend classes in his spare time from official duties while practicing martial arts. He finally petitioned his domain lord for leave, abandoned martial arts, and entered the school of Murata Kuraoku, who had opened a private academy on Kudanzaka. As you know, this Murata Kuraoku was the person later known as Ōmura Masujirō, who has a great bronze statue erected on Kudan slope. Seishichirō devoted himself to Dutch learning there, and later transferred to a school in Banchō run by Takahata Gorō (later called Bizan), a samurai from Awa domain. However, at that time imported Dutch books were extremely scarce, so most had to be hand-copied. The main subjects were astronomy, geography, physics, military science, and medicine, and the research involved tremendous hardship and effort. Fortunately, the books Seishichirō used during that time have been preserved and were donated to our city several years ago by his younger brother Hozumi Torakurō, so I am pleased that they will be permanently preserved in the city library. A memorial that Seishichirō submitted to his domain in Ansei 3, when he was twenty-one, also remains today. I believe this serves as valuable reference material, so I would like to present the full text below: "Regarding coastal defense in recent years, with all due reverence, the authorities have been taking great care in this matter, and although our domain house has been thoroughly prepared since the time of the former lord, given the current circumstances, there is even more need for attention. Although it is most presumptuous for inexperienced persons such as ourselves to speak on such detailed matters..." **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (Foreign Affairs Issues and Yoshida Domain) 441