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【欄外】
豊橋市史談 (攘夷論の勃興) 四百四十四
【本文】
《割書:外交と内治|の紛糾》 サテ前章(ぜんせう)に申述(まをしの)べたる如(ごと)き事情(じぜう)を以(もつ)て幕府(ばくふ)と外国(ぐわいこく)との関係(くわんけい)は次第(しだい)に進捗(しんせう)し来(きた)つたのであるが此(この)外交(ぐわいかう)の
問題(もんだい)と云(い)ふものは勿論(もちろん)延(ひ)いて内政(ないせい)に容易(ようい)ならざる変転(へんてん)を来(き)たさしめたもので之(これ)より内治(ないぢ)と外交(ぐわいかう)との両(れう)
者(しや)は互(たがひ)に錯雑(さくざつ)紛糾(ふんきふ)して底止(ていし)する処を知(し)らざるに至(いた)つたのである既(すで)に屡々(しば〴〵)申述(まをしの)べたるが如(ごと)く徳川氏(とくがはし)が固(かた)
く鎖国(さこく)の政策(せいさく)を立(た)てたのは寛永(かんえい)以後(いご)であるが元来(がんらい)諸外人(しよぐわいじん)の我(われ)に対(たい)する挙動(きよどう)と云(い)ふものは至極(しごく)面白(おもしろ)から
ずして寧(むし)ろ我(われ)に対(たい)して異図(いと)あるものゝ如(ごと)く思(おも)はしめた事は屡々(しば〴〵)であつたが其(その)不法乱暴(ふはうらんぼう)の挙動(きよどう)が多(おほ)かつ
た事は少(すくな)からず我国民(わがこくみん)をして彼(かれ)に向(むか)ひ嫌悪(けんを)の情(ぜう)を高(たか)めしめたのであるかゝる有様(ありさま)であつたから徳川幕(とくがはばく)
府(ふ)としては我国(わがくに)の自衛上(じゑいぜう)之(こ)れ迄(まで)寧(むし)ろ排外鎖国(はいぐわいさこく)の政策(せいさく)を確定(かくりつ)せむとしたのは致方(いたしかた)のない事情(じぜう)であつた事
と信(しん)ずるが当時(たうじ)に於(お)ける彼(か)の漢学(かんがく)の影響(えいけう)と云(い)ふものも亦(ま)た少(すくな)からぬ事で極端(きよくたん)なる自尊心(じそんしん)を我国民(わがこくみん)に与(あた)
へた事は大(おほい)に与(あづか)つて力(ちから)ありと云(い)はねばならぬ其(その)結果(けつくわ)は諸外国(しよぐわいこく)は勿論(もちろん)支那(しな)をさえ皆(みな)夷狄(ゐてき)の国(くに)なりとして
侮蔑(ぶべつ)するに至(いた)つたのであるが殊(こと)に中世(ちうせい)以後(いご)に至(いた)つては水戸(みと)並(ならび)に本居(ほんおり)一 派(ぱ)の如(ごと)き尚古的(せうこてき)学風(がくふう)が漸(やうや)く勃興(ぼつこう)
し従(したがつ)て史学(しがく)の発達(はつたつ)、古学(こがく)の復興(ふくこう)となり益(ます〳〵)我国民(わがこくみん)の自覚心(じかくしん)を喚起(くわんき)した事は容易(ようい)ならざりし事で遂(つひ)には
之(これ)が一 方(ぱう)に於(おい)て尊王論(そんわうろん)の源泉(げんせん)ともなり又(ま)た一 方(ぱう)に於(おい)ては多年(たねん)浸潤(しんじゆん)せる我国民(わがこくみん)の尊内卑外(そんないひぐわい)の気風(きふう)と相結(あひむす)
むで一 種(しゆ)偏狭(へんけう)なる愛国心(あいこくしん)を生(う)み出(だ)すに至(いた)つたのは争(あらそ)ふべからざる事実(じじつ)であると信(しん)ずる而(しか)して此(この)一 種(しゆ)の
愛国心(あいこくしん)と相結合(あひけつがふ)せる我国民(わがこくみん)の排外思想(はいぐわいしさう)と云(い)ふものは当局者(たうきよくしや)の政策(せいさく)により或(あるひ)は学堂(がくごう)の講演(かうえん)により或(あるひ)は家(か)
庭(てい)の訓育(くんいく)によりて自然(しぜん)々(〳〵)々(〳〵)に之(これ)を国民(こくみん)の頭脳(づのう)に膠着(こうちやく)せしめ所謂(いはゆる)国民的(こくみんてき)感情(かんぜう)となり漸(やうや)く此(この)幕末(ばくまつ)に及(およ)むだ
ものであるから御承知(ごせうち)の如(ごと)く一 部(ぶ)蘭学者(らんがくしや)の如(ごと)く海外(かいぐわい)の事情(じぜう)に通(つう)じたる有識(いうしき)のものが出(い)で警醒(けいせい)を促(うなが)さむ
とするに至(いた)つてもモーこうなつては殆(ほとん)ど之(これ)を容(い)るゝの能力(のうりよく)がなきまでに世界(せかい)の智識(ちしき)に遠(とほ)ざかつたもの
となさねばならぬ運命(うんめい)に遭遇(そうぐう)したのである
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百一号附録 (大正二年六月二十四日発行)
【本文】
此(この)点(てん)に対(たい)しては水戸斉昭(みとなりあきら)の如(ごと)きは寧(むし)ろ先覚(せんかく)の士(し)で早(はや)くより盛(さかん)に海防論(かいぼうろん)を主張(しゆてう)し特(とく)に時代(じだい)の改革者(かいかくしや)とし
て当代(たうだい)に敬慕(けいぼ)せられたのであるが如何(いかん)せむ排外鎖国(はいぐわいさこく)の主義(しゆぎ)に於(おい)ては此(この)時流(じりう)を抜(ぬ)く事が出来(でき)なかつたの
で終始(しうし)之(これ)によりて一 貫(くわん)せむとし結局(けつきよく)偏固(へんこ)なる識見(しよけん)に落(お)ちて開国論者(かいこくろんしや)との間(あひだ)に大(だい)なる衝突(せうとつ)を惹起(じやくき)するに
至(いた)つた次第(しだい)であるが云(い)ふ迄(まで)もなく幕府(ばくふ)の当局者(たうきよくしや)と雖(いへど)も初(はじ)めは矢張(やはり)此(この)排外政策(はいぐわいせいさく)を断行(だんかう)せむとしたもので
此(この)点(てん)に就(つい)ては他(た)と少(すこ)しの変(かは)りもなかつたのである然(しか)るにイヨ〳〵之(これ)を実行(じつかう)せむとして其(その)衝(せう)に当(あた)つて見(み)
ると中々(なか〳〵)自分(じぶん)等(ら)が初(はじめ)に予期(よき)して居(を)つたような訳(わけ)には行(ゆ)かないのみならず次第(しだい)々々(〳〵)に諸外国(しよぐわいこく)の事情(じぜう)が分(わか)
つて来(く)るので世界(せかい)の大勢(たいせい)と云(い)ふものには決(けつ)して打勝(うちか)つことが出来(でき)なかろうと云(い)ふことを悟(さと)つて来(き)たのが之(これ)
が次第(しだい)に当局者(たうきよくしや)と局外者(きよくぐわいしや)との間(あひだ)に意志(いじ)の相違(さうゐ)を来(きた)した所以(ゆえん)であると思(おも)ふ殊(こと)に殆(ほとん)ど恃(たの)み難(がた)ない我国(わがくに)の
武備(ぶび)を恃(たの)みにし明日(あす)をも計(はか)り難(がた)いような財政(ざいせい)を扣(ひか)えて居(を)つてはイヨ〳〵致方(いたしかた)がないと云(い)ふので誰(たれ)が替(かは)
つて見(み)た処(ところ)で其(その)局(きよく)に当(あた)ることになれば結局(けつきよく)は遂(つひ)に退縮的(たいしゆくてき)外交(ぐわいかう)に陥(おちゐ)るのは誠(まこと)に余義(よぎ)なき事情(じぜう)であつたの
である
然(しか)るに一 般(ぱん)の人気(にんき)と云(い)ふものは到底(たうてい)之(これ)と相伴(あひともな)ふ能(あた)はざるのは前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)き訳(わけ)で多年(たねん)膠着(りようちやく)せる排外思想(はいぐわいしさう)と
云(い)ふものは益(ます〳〵)外国(ぐわいこく)に対(たい)する反感(はんかん)を惹起(じやくき)し一 概(がい)に当局(たうきよく)の有司(いうし)を以(もつ)て外夷(ぐわいい)の感迫(かんはく)に屈(くつ)する怯懦(きようだ)の行為(かうゐ)と
なしたのである
右(みぎ)の如(ごと)き事情(じぜう)であつたから前章(ぜんせう)に大要(たいえう)申述(まをしの)べたる如(ごと)く幕府(ばくふ)に於(おい)てなしたる安政(あんせい)元年(がんねん)及(およ)び二年の米(べい)、英(えい)
露(ろ)三 国条約(ごくでうやく)と云(い)ふものは天下(てんか)の大勢(たいせい)が容易(ようい)に承知(せうち)すべきではない殊(こと)に幕府(ばくふ)に於(おい)てはペリーの再航(さいかう)以前(いぜん)
に各(かく)諸侯(しよこう)を営中(えいちう)に集(あつ)めて布告(ふこく)したる主旨(しゆし)を本具(ほんぐ)にしたと云(い)ふ訳(わけ)に当(あた)るのであるから中々(なか〳〵)輿論(よろん)は承知(せうち)が
出来(でき)ない其中(そのなか)でも彼(か)の水戸斉昭(みとなりあきら)の如(ごと)きは所謂(いはゆる)対外(たいぐわい)硬(かう)の主(おも)なるもので或(あるひ)は当時(たうじ)は自分(じぶん)も幕政(ばくせい)に参与(さんよ)して
【欄外】
豊橋市史談 (攘夷論の勃興) 四百四十五
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百四十四
【本文】
《小見出し:外交と内治の紛糾》
さて前章で申し述べたような事情によって、幕府と外国との関係は次第に進展してきたのであるが、この外交問題というものは当然ながら内政にも容易ならざる変転をもたらしたもので、これより内治と外交の両者は互いに複雑に絡み合って、収拾のつかない状況に至ったのである。
既に度々申し述べたように、徳川氏が固く鎖国政策を確立したのは寛永以後であるが、そもそも外国人の我が国に対する行動というものは極めて好ましくなく、むしろ我が国に対して悪意があるもののように思わせることが度々あった。その不法で乱暴な行動が多かったことは、少なからず我が国民をして彼らに向かい嫌悪の情を高めさせたのである。このような有様であったから、徳川幕府としては我が国の自衛上、これまでむしろ排外鎖国の政策を確定しようとしたのは致し方のない事情であったと信ずる。
しかし当時における漢学の影響というものもまた少なからぬもので、極端な自尊心を我が国民に与えたことは大いに関係があると言わねばならぬ。その結果、諸外国はもちろん中国をさえ皆夷狄の国であるとして侮蔑するに至ったのである。
殊に中世以後に至っては、水戸学派並びに本居宣長一派のような尚古的学風が漸く勃興し、従って史学の発達、古学の復興となり、益々我が国民の自覚心を喚起したことは容易ならざることで、遂にはこれが一方において尊王論の源泉ともなり、また一方においては多年浸透した我が国民の尊内卑外の気風と相結んで、一種偏狭な愛国心を生み出すに至ったのは争うべからざる事実であると信ずる。
そしてこの一種の愛国心と相結合した我が国民の排外思想というものは、当局者の政策により、あるいは学校の講義により、あるいは家庭の教育によって自然に国民の頭脳に植え付けられ、いわゆる国民的感情となり、漸くこの幕末に及んだものであるから、御承知のように一部蘭学者のような海外の事情に通じた有識者が出て警鐘を鳴らそうとするに至っても、もうこうなってはほとんどそれを受け入れる能力がないまでに世界の知識から遠ざかったものとならねばならぬ運命に遭遇したのである。
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編集人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百一号附録(大正二年六月二十四日発行)
【本文】
この点に対しては水戸の斉昭のようなものは、むしろ先覚の士で早くより盛んに海防論を主張し、特に時代の改革者として当代に敬慕されたのであるが、いかんせん排外鎖国の主義においてはこの時流を抜くことが出来なかったので、終始これによって一貫しようとし、結局偏狭な識見に陥って開国論者との間に大なる衝突を引き起こすに至った次第である。
言うまでもなく幕府の当局者といえども初めはやはりこの排外政策を断行しようとしたもので、この点については他と少しの変わりもなかったのである。しかるにいよいよこれを実行しようとしてその衝に当たって見ると、なかなか自分等が初めに予期していたような訳には行かないのみならず、次第に諸外国の事情が分かって来るので、世界の大勢というものには決して打ち勝つことが出来なかろうということを悟って来たのが、これが次第に当局者と局外者との間に意志の相違をもたらした理由であると思う。
殊にほとんど頼み難い我が国の武備を頼みにし、明日をも計り難いような財政を控えていてはいよいよ致し方がないということで、誰が代わって見たところでその局に当たることになれば結局は遂に退縮的外交に陥るのは誠にやむを得ない事情であったのである。
しかるに一般の人気というものは到底これと相伴うことができないのは前述のような訳で、多年固着した排外思想というものは益々外国に対する反感を引き起こし、一概に当局の官吏を外夷の感迫に屈する怯懦な行為とみなしたのである。
右のような事情であったから、前章に大要申し述べたように幕府において為した安政元年及び二年の米、英、露三国条約というものは、天下の大勢が容易に承知すべきものではない。殊に幕府においてはペリーの再来以前に各諸侯を江戸城中に集めて布告した主旨を本意としたというわけに当たるのであるから、なかなか世論は承知が出来ない。その中でも水戸の斉昭のようなものは、いわゆる対外強硬派の主なるもので、あるいは当時は自分も幕政に参与して
【欄外】
豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百四十五
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 444
**Main Text:**
*Subheading: The Entanglement of Foreign Affairs and Domestic Administration*
Now, due to the circumstances described in the previous chapter, relations between the shogunate and foreign countries gradually developed, but these foreign policy issues naturally brought about serious changes to domestic politics as well. From this point forward, domestic administration and foreign affairs became mutually intertwined in complex ways, reaching an unmanageable situation.
As I have repeatedly mentioned, the Tokugawa firmly established their isolationist policy after the Kan'ei era. Originally, the behavior of foreigners toward our country was extremely disagreeable and often made it seem as if they harbored malicious intentions toward us. Their many unlawful and violent actions considerably heightened our people's feelings of disgust toward them. Given such circumstances, I believe it was unavoidable that the Tokugawa shogunate sought to establish an isolationist, anti-foreign policy for our country's self-defense.
However, the influence of Chinese learning at that time was also considerable, instilling extreme pride in our people, which must be said to have played a significant role. As a result, not only various foreign countries but even China came to be despised as barbarian nations.
Particularly from the medieval period onward, archaic scholarly trends like those of the Mito school and Motoori Norinaga's group gradually emerged, leading to the development of historical studies and the revival of ancient learning, which increasingly awakened our people's self-consciousness. This was no trivial matter, ultimately becoming a source of reverence for the emperor on one hand, while on the other hand combining with the long-established spirit of honoring the domestic while despising the foreign to produce a kind of narrow patriotism - an indisputable fact, I believe.
This anti-foreign sentiment, combined with this particular form of patriotism among our people, was naturally instilled in the people's minds through government policies, school lectures, or family education, becoming what might be called national sentiment that gradually reached this end of the shogunate period. Therefore, as you know, even when some knowledgeable individuals like Dutch scholars who understood overseas conditions emerged to sound warnings, by this point they encountered the fate of being almost unable to accept such ideas, having become so distant from world knowledge.
**Margin:**
Publisher and Printer: Sanyo Printing Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyo Newspaper No. 4,401 Supplement (Published June 24, Taisho 2 [1913])
**Main Text:**
Regarding this point, figures like Mito's Nariaki were rather enlightened individuals who had long advocated coastal defense theories and were particularly revered by their contemporaries as reformers of the age. However, unfortunately, they could not transcend the current of isolationist, anti-foreign principles, seeking to maintain consistency with these throughout, ultimately falling into narrow-minded views and causing great conflicts with those advocating opening the country.
Needless to say, even the shogunate authorities initially sought to implement this anti-foreign policy, showing no difference from others in this regard. However, when they actually tried to implement it and took charge of the matter, it not only failed to proceed as they had initially expected, but as they gradually came to understand foreign circumstances, they realized they could never prevail against world trends. I believe this is why differences of opinion gradually emerged between those in authority and those outside it.
Particularly, relying on our country's hardly dependable military preparations while facing financial difficulties that made even tomorrow uncertain, there was truly no alternative. No matter who might have taken their place in handling the situation, they would ultimately have had to resort to retreating diplomacy - this was truly an unavoidable circumstance.
However, general public opinion could not possibly accommodate this, for the reasons mentioned above. The anti-foreign sentiment that had been entrenched for many years increasingly provoked antagonism toward foreign countries, generally regarding the actions of government officials as cowardly behavior in yielding to foreign pressure.
Given such circumstances, the treaties with America, Britain, and Russia concluded by the shogunate in Ansei 1 and 2, which I outlined in the previous chapter, were not easily accepted by the general trend of the realm. Particularly since the shogunate had gathered various daimyo in Edo Castle before Perry's return and announced principles that supposedly reflected their true intentions, public opinion could hardly accept this. Among them, figures like Mito's Nariaki represented the main advocates of a hard line against foreign countries, and at that time he himself participated in shogunal government...
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 445