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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 237

ページ: 237

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                   四百四十六 【本文】       居(を)つたのであるから一 面(めん)には事情(じぜう)止(やむ)を得(え)ざることをも諒(れう)せざるではなかつた筈(はづ)であるが併(しか)し其(その)不平(ふへい)と云(い)       ふものは一 方(かた)でなかつたのである其(その)結果(けつくわ)対米条約(たいべいでうやく)締結(ていけつ)の当事者(たうじしや)林大学頭(はやしだいがくのかみ)に切腹(せつぷく)せしむべしとまで絶(ぜつ) 《割書:斉昭と伊賀|守等の衝突》  叫(きう)したのであるが前章(ぜんせう)から申述(まをしの)べてある彼(か)の老中(らうちう)上座(ぜうざ)阿部伊勢守(あべいせのかみ)は其(その)間(あひだ)に立(た)つて頗(すこぶ)る苦心(くしん)したもので       常(つね)に其(その)調停(てうてい)に勉(つと)めたので僅(わづか)に破綻(はたん)を免(まぬか)れて居(を)つたのである然(しか)るに閣僚中(かくれうちう)松平伊賀守(まつだひらいがのかみ)忠優は頗(すこぶ)る気骨(きこつ)の       ある人(ひと)で数々(しば〴〵)斉昭(なりあきら)の説(せつ)を斥(しりぞ)くる処(ところ)から次第(しだい)に其(その)間(あひだ)に隔離(かくり)が甚(はなはだ)しくなつて遂(つひ)に斉昭(なりあきら)は伊賀守(いがのかみ)を免黜(めんちつ)す       るかさなくば自(みづか)ら引退(いんたい)せむとまで意気込(いきこ)むだのであるソコで伊賀守(いがのかみ)も之(これ)には持(も)て余(あま)したものと見(み)えて       安政(あんせい)二 年(ねん)八月 伊賀守(いがのかみ)と及(およ)び同(おな)じ閣老(かくらう)たる松平伊豆守(まつだひらいづみのかみ)乗全との二人(ふたり)を免(めん)ずることにしたのであるコレで先(ま)       づ一 時(じ)斉昭(なりあきら)の胸(むね)は静(しづ)まつたと云(い)ふもので攘夷論者(ぜうゐろんしや)の甘心(かんしん)をも得(え)たとなすべきものであるが困(こま)つた事(こと)に 《割書:溜間詰諸侯|の反抗》  はこうなると他(た)に又(ま)た之(これ)に反抗(はんかう)する一 勢力(せいりよく)が現(あら)はるゝ事と成(な)つたのであるそれは外(ほか)でもない溜間詰(たまりまづめ)の       一 列(れつ)で其(その)頭領(とうれう)とも云(い)ふべきは井伊掃部頭直弼(ゐいかもんのかみなほすけ)である直弼(なほすけ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く既(すで)に嘉永(かえい)六年ペリー       初航(しよかう)以来(いらい)開国論(かいこくろん)を発表(はつぺう)して居(を)る人(ひと)であるが爾来(じらい)次第(しだい)に外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)が分明(ぶんめい)になるに従(したが)ひ此(この)溜間詰(たまりまづめ)の諸侯(しよこう)       の如(ごと)きは漸(やうや)く開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざるを覚(さと)つて幕府(ばくふ)の処置(しよち)を以(もつ)て余義(よぎ)なき事(こと)となし攘夷論者(ぜうゐろんしや)の無謀(むぼう)を排(はい)       せむとする傾向(けいかう)を生(せう)じて居(を)つたのである御承知(ごせうち)でもあろうが此(この)溜間詰(たまりまづめ)の諸侯(しよこう)と云(い)ふものは家門(かもん)若(もし)くは       譜代(ふだい)の大諸侯(たいしよこう)であつて将軍(せうぐん)の諮詢(しじゆん)に応(おう)じさなくとも自(みづか)ら進(すゝ)むで献替(けんたい)することを得(え)しもので幕府(ばくふ)勢力(せいりよく)の中(ちう)       堅(けん)たるのみならず云(い)はゞ幕閣(ばくかく)の後援者(こうゑんしや)ともなすべきものである従(したがつ)て漸(やうや)く外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)が分(わか)るに就(つ)け益(ます〳〵)       幕閣(ばくかく)の処置(しよち)に同情(どうぜう)し且(か)つ之(これ)を補翼(ほよく)するのが徳川氏(とくがはし)に対(たい)する忠義(ちうぎ)である如(ごと)くも心得(こゝろえ)て居(を)つたものと信(しん)ず 《割書:堀田備中守|再び閣老と|なる》  る此(こゝ)に於(おい)て直弼(なをすけ)は自(みづか)ら起(た)ちて嘗(かつ)て閣老(かくらう)の上座(ぜうざ)であつた処(ところ)の堀田備中守(ほつたびちうのかみ)を推(お)して再(ふたゝ)び閣中(かくちう)に入(い)らしめ之(これ)       を以(もつ)て伊勢守(いせのかみ)の上座(ぜうざ)に置(お)かむことを計画(けいくわく)したのであるが之(これ)は又(ま)た伊勢守(いせのかみ)も拒(こば)む事が出来(でき)なかつたものと 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       見(み)えて遂(つひ)に其(その)年(とし)の十月 其(その)実行(じつかう)を見(み)るに至(いた)つたのである元来(がんらい)此(この)備中守(びちうのかみ)は到底(たうてい)鎖国(さこく)攘夷(ぜうゐ)の行(おこな)はるべからざ       るを熟知(じゆくち)せる人(ひと)であつたから右(みぎ)の事(こと)を知(し)つたる斉昭(なりあきら)初(はじ)め攘夷派(ぜうゐは)の人々(ひと〴〵)は一 時(じ)驚愕(けうがく)したのであつたが其(その)       直弼(なほすけ)等(ら)の推挙(すいきよ)に出(い)でたる事を探知(たんち)するに及(およ)むで益(ます〳〵)自身(じしん)等(ら)の位置(ゐち)をも懸念(けねん)する様(やう)になつたのが之(これ)が先(ま)       づ開国(かいこく)攘夷(ぜうゐ)二 派(は)の軋轢(あつれき)する原因(げんゐん)ともなすべきものである之(これ)を要(えう)するに伊勢守(いせのかみ)は之(これ)まで苦心(くしん)しつゝ水戸(みと)       斉昭(なりあきら)との連絡(れんらく)を保(たも)ち以(もつ)て諸侯(しよこう)の収攬(しうらん)をなし来(きた)つたのであるが茲(こゝ)に至(いた)つては遂(つひ)に幕府(ばくふ)有士(いうし)と斉昭(なりあきら)との所(しよ)       見(けん)は益(ます〳〵)相背反(あひはいはん)して到底(たうてい)相協合(あひけうがふ)調和(てうわ)すべき見込(みこみ)なく愈(いよ〳〵)相遠(あひとほ)ざかるのみであるので其(その)極(きよく)は例(れい)の幕閣(ばくかく)の       後援(こうゑん)となり幕府(ばくふ)勢力(せいりよく)の中心(ちうしん)ともなるべき溜間詰(たまりまづめ)諸侯(しよこう)の反抗(はんこう)となつたので時局(じきよく)は益(ます〳〵)紛糾(ふんきう)に陥(おちゐ)つたので 《割書:開国攘夷二|党軋轢の原|因》  あるが蓋(けだ)し備中守(びちうのかみ)のイヨ〳〵入閣(にふかく)して其(その)上座(ぜうざ)に就(つ)いたのは既(すで)に幕府(ばくふ)の所信(しよしん)を断行(だんかう)せむとする決心(けつしん)を示(しめ)       したもので攘夷論(ぜうゐろん)に満(み)ちて居(を)る当時(たうじ)の諸侯(しよこう)に対(たい)しては寧(むし)ろ挑戦(てうせん)の第(だい)一 矢(し)を放(はな)たむとするものと見(み)るべ       きであるがサテこうなつた処(ところ)で幕府(ばくふ)は到底(たうてい)外人(ぐわいじん)の逼迫(ふくはく)に抗(こう)する事は出来(でき)ないのであるから最初(さいしよ)に理想(りさう)       とした外交上(ぐわいかうぜう)の折衝(せつせう)は益(ます〳〵)困難(こんなん)に陥(おちゐ)り只々(たゞ〴〵)外交(ぐわいかう)の円満(ゑんまん)をのみ希(こひねが)ふの余(あま)りは益々(ます〳〵)内治(ないぢ)の紛擾(ふんぜう)を激増(げきぞう)せ       しむるの機会(きくわい)に陥(おちゐ)ることとなつたので之(こ)れも世界(せかい)の大勢(たいせい)が然(しか)らしめた処(ところ)のものと評(へう)すべきであろうかと       思(おも)ふ 《割書:ハリスの来|着》  トコロで益(ます〳〵)時局(じきよく)を困難(こんなん)ならしめたのは米国(べいこく)総領事(そうれうじ)ハリスの来着(らいちやく)であるハリスは安政(あんせい)三年七月廿一日       米国(べいこく)軍艦(ぐんかん)サンゼシントに乗(ぜう)じて下田(しもだ)に渡来(とらい)したのであるが勿論(もちろん)本国(ほんごく)の命(めい)を受(う)けて我国(わがくに)に駐在(ちうざい)する為(ため)で       あつたのである之(これ)は前章(ぜんせう)既(すで)に申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く安政(あんせい)元年(がんねん)三月の日米和親条約(にちべいわしんでうやく)中(ちう)に調印後(てういんご)十八ケ月を       経(へ)て必要(ひつえう)を認(みと)めたる場合(ばあひ)は両国(れうこく)協議(けふぎ)の上(うへ)米国(べいこく)官吏(くわんり)を我国(わがくに)に駐在(ちうざい)せしむる事の条文(でうぶん)があつたのである之(これ)       に準(じゆん)じて其(その)後(のち)露国(ろこく)とも亦(ま)た此(かく)の如(ごと)き条約(でうやく)を取結(とりむす)ぶに至(いた)つた事は既(すで)に御話(おはなし)した通(とほ)りであるが其(その)後(のち)此(この)問題(もんだい) 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                   四百四十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百四十六 【本文】 いたのであるから、一面には事情やむを得ないことをも理解していない訳ではなかった筈であるが、しかしその不平というものは一方だけではなかったのである。その結果、対米条約締結の当事者である林大学頭に切腹させるべきだとまで絶叫したのであるが、前章から申し述べている老中首座の阿部伊勢守は、その間に立って頗る苦心したもので、常にその調停に努めたので、わずかに破綻を免れていたのである。 《小見出し:斉昭と伊賀守等の衝突》 しかるに閣僚中、松平伊賀守忠優は頗る気骨のある人で、度々斉昭の説を退けるところから、次第にその間に対立が甚だしくなって、遂に斉昭は伊賀守を免職するか、さもなくば自ら引退しようとまで意気込んだのである。そこで伊賀守もこれには手を焼いたものと見えて、安政二年八月、伊賀守と及び同じ閣老である松平伊豆守乗全との二人を免職することにしたのである。これでまず一時斉昭の胸は静まったということで、攘夷論者の溜飲も下がったとするべきものである。 《小見出し:溜間詰諸侯の反抗》 しかし困ったことには、こうなると他にまたこれに反抗する一勢力が現れることとなったのである。それは他でもない溜間詰の一列で、その頭領とも言うべきは井伊掃部頭直弼である。直弼は前にも申し述べたように、既に嘉永六年ペリー初来以来開国論を発表している人であるが、爾来次第に外国の事情が分明になるに従い、この溜間詰の諸侯のようなものは漸く開国のやむを得ないことを悟って、幕府の処置を余儀ないこととなし、攘夷論者の無謀を排除しようとする傾向を生じていたのである。 御承知でもあろうが、この溜間詰の諸侯というものは家門もしくは譜代の大諸侯であって、将軍の諮問に応じるだけでなく、自ら進んで献策することを得るもので、幕府勢力の中核たるのみならず、言わば幕閣の後援者ともなすべきものである。従って漸く外国の事情が分かるにつけ、益々幕閣の処置に同情し、かつこれを補佐するのが徳川氏に対する忠義である如くも心得ていたものと信ずる。 《小見出し:堀田備中守再び閣老となる》 ここにおいて直弼は自ら起ちて、かつて閣老の首座であったところの堀田備中守を推して再び閣中に入らしめ、これを以って伊勢守の首座に置こうことを計画したのであるが、これはまた伊勢守も拒むことができなかったものと 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け、豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し、参陽新報読者諸君に進呈する 【本文】 見えて、遂にその年の十月、その実行を見るに至ったのである。もともとこの備中守は、到底鎖国攘夷の行われるべからざることを熟知した人であったから、右の事を知った斉昭初め攘夷派の人々は一時驚愕したのであったが、その直弼等の推挙に出たことを探知するに及んで、益々自身等の位置をも懸念するようになったのが、これがまず開国攘夷二派の軋轢する原因ともなすべきものである。 これを要するに、伊勢守はこれまで苦心しつつ水戸斉昭との連絡を保ち、以って諸侯の収攬をなし来たったのであるが、ここに至っては遂に幕府有司と斉昭との所見は益々相背反して、到底相協合調和すべき見込みなく、愈々相遠ざかるのみであるので、その極は例の幕閣の後援となり、幕府勢力の中心ともなるべき溜間詰諸侯の反攻となったので、時局は益々紛糾に陥ったのである。 《小見出し:開国攘夷二党軋轢の原因》 けだし備中守がいよいよ入閣してその首座に就いたのは、既に幕府の所信を断行しようとする決心を示したもので、攘夷論に満ちている当時の諸侯に対しては、むしろ挑戦の第一矢を放とうとするものと見るべきである。 さてこうなったところで、幕府は到底外人の逼迫に抗することはできないのであるから、最初に理想とした外交上の折衝は益々困難に陥り、ただただ外交の円満をのみ希望する余り、益々内治の紛擾を激増させる機会に陥ることとなったので、これも世界の大勢が然らしめたところのものと評すべきであろうかと思う。 《小見出し:ハリスの来着》 ところで益々時局を困難ならしめたのは、米国総領事ハリスの来着である。ハリスは安政三年七月廿一日、米国軍艦サンジャシントに乗じて下田に渡来したのであるが、勿論本国の命を受けて我が国に駐在するためであったのである。これは前章既に申し述べて置いたように、安政元年三月の日米和親条約中に、調印後十八ヶ月を経て必要を認めた場合は両国協議の上、米国官吏を我が国に駐在させることの条文があったのである。これに準じてその後露国ともまたこのような条約を取り結ぶに至った事は既にお話しした通りであるが、その後この問題 【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百四十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 446 **Main Text:** Since he was involved [in government affairs], he should have understood to some extent that the circumstances were unavoidable, but his dissatisfaction was not one-sided. As a result, he even shouted that Hayashi Daigaku-no-kami, the negotiator of the treaty with America, should be made to commit seppuku. However, Abe Ise-no-kami, the senior councilor whom I have been discussing since the previous chapter, found himself in a most difficult position between these factions and constantly endeavored to mediate, barely managing to avoid a complete breakdown. *Subheading: The Clash Between Nariaki and Iga-no-kami and Others* However, among the cabinet members, Matsudaira Iga-no-kami Tadamasa was a person of considerable backbone who frequently rejected Nariaki's proposals, leading to increasingly severe opposition between them. Eventually, Nariaki became so worked up that he demanded either Iga-no-kami's dismissal or his own retirement. Iga-no-kami apparently found this troublesome, and in August of Ansei 2, both he and fellow councilor Matsudaira Izumi-no-kami Norimasa were dismissed. This temporarily calmed Nariaki's anger and should be considered as satisfying the anti-foreign faction. *Subheading: The Resistance of the Tamarizume Daimyo* However, the troublesome thing was that this led to the emergence of another opposing force. This was none other than the tamarizume group, whose leader could be said to be Ii Kamon-no-kami Naosuke. As I mentioned before, Naosuke had already published arguments for opening the country since Perry's first arrival in Kaei 6. Since then, as foreign circumstances gradually became clearer, daimyo like those in the tamarizume group came to realize that opening the country was unavoidable, viewing the shogunate's measures as necessary and developing a tendency to reject the recklessness of the anti-foreign faction. As you may know, these tamarizume daimyo were major daimyo from the house branches or hereditary retainer families who could not only respond to the shogun's consultations but also proactively offer advice. They formed not only the core of shogunal power but could be said to be supporters of the shogunal cabinet. Therefore, as they gradually came to understand foreign circumstances, they increasingly sympathized with the cabinet's measures and believed that supporting them was their loyal duty to the Tokugawa house. *Subheading: Hotta Bitchu-no-kami Returns to the Cabinet* At this point, Naosuke took the initiative to recommend Hotta Bitchu-no-kami, who had formerly been senior councilor, to rejoin the cabinet and planned to place him above Ise-no-kami. It appears that Ise-no-kami could not refuse this... **Margin:** Mayor Oguchi Kiroku of Toyohashi City has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to the compilation of Toyohashi city history for more than a year, and now as the manuscript is nearly complete... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper **Main Text:** ...and this was finally implemented in October of that year. Originally, this Bitchu-no-kami was a person who well understood that isolationist anti-foreign policies were absolutely unworkable, so when Nariaki and other anti-foreign faction members learned of this, they were initially shocked. But when they discovered that this came about through Naosuke's recommendation, they became increasingly concerned about their own positions, which became the primary cause of friction between the two factions favoring opening the country and expelling foreigners. In summary, Ise-no-kami had until then maintained contact with Mito's Nariaki through considerable effort, thereby managing the various daimyo. But at this point, the views of shogunal officials and Nariaki became increasingly opposed, with no prospect of cooperation or harmony, only growing apart. This ultimately resulted in opposition from the tamarizume daimyo, who were supposed to be supporters of the cabinet and the center of shogunal power, throwing the political situation into even greater confusion. *Subheading: The Causes of Friction Between the Two Parties of Opening and Expelling* Indeed, Bitchu-no-kami's entry into the cabinet as senior member demonstrated the shogunate's determination to implement its convictions and should be seen as firing the first arrow of challenge against the daimyo who were then filled with anti-foreign sentiment. Now, given this situation, since the shogunate could not possibly resist foreign pressure, the diplomatic negotiations they had initially idealized became increasingly difficult. In their desire solely for smooth diplomacy, they fell into circumstances that only intensified domestic turmoil. I think this too should be evaluated as something brought about by world trends. *Subheading: Harris's Arrival* What made the political situation even more difficult was the arrival of American Consul-General Harris. Harris arrived at Shimoda on July 21, Ansei 3, aboard the American warship San Jacinto, having of course received orders from his home country to reside in our nation. As I already mentioned in the previous chapter, the Japan-US Treaty of Peace and Amity of March, Ansei 1, contained provisions that if deemed necessary after eighteen months from signing, American officials could be stationed in our country following consultation between both nations. Following this precedent, we subsequently concluded similar treaties with Russia, as I have already discussed, but afterward this issue... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 447