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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 238

ページ: 238

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百四十八 【本文】       に就(つい)ては水戸斉昭(みとなりあきら)などを初(はじ)め反対(はんたい)の議論(ぎろん)が多(おほ)かつたのでイヨ〳〵米国(べいこく)から其(その)協議(けふぎ)に来(き)た場合(ばあひ)には此(この)条(でう)       件(けん)に付(つ)ては何処迄(どこまで)も拒絶(きよぜつ)せんとの意気込(いきご)みであつたのがサテ之(これ)も前轍(ぜんてつ)を踏(ふ)むだのでハリスが来(き)て見(み)ると       段々(だん〴〵)談判(だんぱん)を持(も)ち込(こ)まれて矢張(やはり)世界(せかい)の大勢上(たいせいぜう)から如何(いか)にしても拒絶(きよぜつ)がし仕兼(しか)ぬると云(い)ふことになつたのであ 《割書:ハリスの要|求》  るソコで遂(つひ)にハリスを伊豆国(いづのくに)柿崎村(かきざきむら)の玉泉寺(ぎよくせんじ)と云(い)ふ寺(て)に置(お)く事になつたのであるが之(これ)より先(さ)き安政(あんせい)二       年の十二月に長崎(ながさき)の出嶋(でじま)に居(を)る和蘭(おらんだ)の総領事(そうれうじ)と時(とき)の長崎奉行(ながさきぶぎやう)との間(あひだ)に条約(でうやく)の締結(ていけつ)をなしたのであるが       其(その)中(なか)に和蘭国(おらんだこく)商人(せうにん)住居(ぢうきよ)の事(こと)があつたのでハリスは今度(こんど)それを捉(とら)へて所謂(いはゆる)最恵国(さいけいこく)条欵(でうくわん)を根拠(こんきよ)として自国(じこく)       も亦(ま)たそれと同等(どうとう)の権利(けんり)に均霑(きんてん)するものであると主張(しゆてう)したのである幕府(ばくふ)は之(これ)に対(たい)し和蘭(おらんだ)と我国(わがくに)との古(こ)       来(らい)の関係(くわんけい)を述(の)べて弁(べん)ずる処(ところ)があつたがハリスは遂(つひ)に之(これ)を聴(き)き入(い)れぬので安政(あんせい)四年の初(はじめ)から五月に至(いた)る       までも幕府(ばくふ)に於(おい)ては之(これ)に向(むかつ)て協議(けふぎ)したのであるが結局(けつきよく)止(やむ)を得(え)ざることに陥(おちゐ)つて下田(しもだ)函館(はこだて)両港(れうこう)に米国(べいこく)商人(せうにん)       の在住(ざいぢう)を許(ゆる)し函館(はこだて)には副領事(ふくれうじ)をも置(お)くことを承諾(せうだく)するに至(いた)つたので其(その)五月廿六日 規定書(きていしよ)なるものに調印(てういん)       するに至(いた)つたのであるそれのみならずハリスは来着(らいちやく)の年(とし)(安政三年)九月廿七日 付(づけ)を以(もつ)て一 書(しよ)を下田奉(しもだぶ)       行(ぎよう)に差出(さしだ)して親(した)しく江戸(えど)に上(のぼ)り最高有司(さいかういうし)に面会(めんくわい)して談(だん)じたいことがあると申出(まをしい)でたのである海防係(かいぼうかゝり)、大(おほ)       目付(めつけ)、目付(めつけ)等(ら)の人々は之(これ)は到底(たうてい)防(ふせ)ぎ切(き)れる事ではない彼(か)れより自国(じこく)の軍艦(ぐんかん)の渡来(とらい)を待(ま)ちそれより江戸海(えどかい)       に乗(の)り込(こ)むなどと威脅(ゐかつ)の言(げん)を用(もち)ゐられてからそれでは止(やむ)を得(え)ぬからなどと先方(せんぽう)の申出(まをしで)を許(ゆる)すようにな       つては却(かへつ)て我国(わがくに)の威信(ゐしん)を損(そん)ずる訳(わけ)になるから寧(むし)ろ此(この)際(さい)和蘭国(おらんだこく)の例(れい)に準(じゆん)じて老中(らうちう)に面接(めんせつ)せしめ登城(とじやう)謁見(えつけん)       をも許(ゆる)いてはどうであるかと論(ろん)じたのである之(これ)は蓋(けだ)し当時(たうじ)にありては卓見(たくけん)とも云(い)ふべきものであると       思(おも)ふが何(なに)にせよ一 般(ぱん)の輿論(よろん)と云(い)ふものはかゝる請(こひ)を許(ゆる)すなどは実(じつ)に国辱(こくじよく)であるとまで考(かんが)へられて居(を)つ       たのであるから幕吏(ばくり)の多数(たすう)は之(これ)を憚(はゞか)つて此(この)登城(とじやう)謁見(えつけん)を許(ゆる)すは結局(けつきよく)時機(じき)尚(なほ)少(すこ)しと云ふ議論(ぎろん)に帰着(きちやく)したの 【欄外】      発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百六号附録    (大正二年七月一日発行) 【本文】       である然(しか)るに之(これ)に対(たい)してハリスの抗弁(かうべん)と云(い)ふものは実(じつ)に強硬(けうこう)であつたもので数々(しば〴〵)幕吏(ばくり)との間(あひだ)に交渉(かうせう)を       重(かさ)ねた結果(けつくわ)此(この)問題(もんだい)は実(じつ)に一 大難件(だいなんけん)と相成(あひな)つたのであるがヨウ〳〵翌年(よくねん)即(すなは)ち安政(あんせい)四年の七月廿一日に至(いた) 《割書:ハリスの登|城謁見》  つて遂(つひ)に幕府(ばくふ)の方(はう)が屈(くつ)することとなりハリスの出府(しゆつぷ)登城謁見(とじやうえつけん)を許(ゆる)すことに相成(あひな)つたのであるソコでハリス       は十月七日 下田(しもだ)を発(はつ)して陸路(りくろ)出府(しゆつぷ)し其(その)廿一日を以(もつ)て遂(つひ)に登城謁見(とじやうえつけん)を終(をは)り閣老(かくらう)堀田備中守(ほつたびちうのかみ)を経(へ)て大統領(だいとうれう)       からの書翰(しよかん)を捧呈(ほうてい)したのであつたが之(これ)が和蘭人(おらんだじん)以外(いぐわい)に欧米人(おうべいじん)謁見(えつけん)の初(はじ)めで外国(ぐわいこく)通交(つうかう)の礼節(れいせつ)も茲(こゝ)に初(はじ)め       て形(かたち)を成(な)したものと云(い)ふべきである 列侯の異論 然(しか)るに前(まへ)にも段々(だん〴〵)申述(まをしの)べたる如(ごと)き当時(たうじ)の国情(こくぜう)であつたから此(この)ハリスの出府(しゆつぷ)登城謁見(とじやうえつけん)と云(い)ふ事(こと)に就(つい)ては       実(じつ)に反対(はんたい)の議論(ぎろん)が沸騰(ふつとう)したのであつた幕府(ばくふ)でも初(はじ)めから之(これ)は黙(もく)しては置(お)けぬ事(こと)であるとなしたものと       見(み)へハリスに登城謁見(とじやうえつけん)を許(ゆる)す事(こと)にした後(のち)先(ま)づ三 家(け)並(ならび)に溜間詰(たまりまづめ)諸侯(しよこう)に其(その)内意(ないい)を達(たつ)して而(しか)して八月の十四       日を以(もつ)て一 般(ぱん)の諸侯(しよこう)に向(むか)つて其(その)理由(りゆう)を示(しめ)して許可(きよか)せし旨(むね)を布告(ふこく)したのであるトコロが之(これ)に対(たい)しては彦(ひこ)       根(ね)、高松(たかまつ)、会津(あひづ)などを初(はじ)め寧(むし)ろ開国論(かいこくろん)に傾(かたむ)いて居(を)る処(ところ)の溜間詰(たまりまづめ)の諸侯(しよこう)でさへそれは将軍(せうぐん)の威信(ゐしん)に関(くわん)す       る大屈辱(だいくつじよく)であるとなして反対(はんたい)の意見(いけん)を述(の)べ且(か)つ予(あらかじ)め諮問(しもん)のなかつたのを攻撃(こうげき)した程(ほど)であるから最初(さいしよ)       よりの攘夷論者(ぜうゐろんしや)に至(いた)つては中々(なか〳〵)喧(やかま)しい議論(ぎろん)となつたのである併(しか)し何(なん)と云(い)つた処(ところ)で既(すで)にハリスに許(ゆる)した       後(のち)の事(こと)であるから如何(いかん)とも致方(いたしかた)がない結局(けつきよく)は之(これ)を利用(りよう)して益(ます〳〵)我国(わがくに)の武備(ぶび)を彼等(かれら)に示(しめ)し外面(ぐわいめん)は和親(わしん)な       るも内部(ないぶ)には十 分(ぶん)に戦闘準備(せんとうじゆんび)を整(とゝの)へて大(おほい)に威信(ゐしん)を張(は)り彼等(かれら)をして自(みづか)ら非望(ひぼう)を捨(す)つるに至(いた)らしむべしと       論(ろん)するに至(いた)つたのである之(これ)等(ら)の論(ろん)は彼(か)の松平慶永(まつだひらよしなが)等(ら)の唱(とな)えた処(ところ)であるが慶永(よしなが)等(ら)は初(はじめ)から熱心(ねつしん)なる攘夷(ぜうゐ)       論者(ろんしや)であつたが嘉永(かえい)年間(ねんかん)に唱(とな)えたような極端(きよくたん)なる議論(ぎろん)をなさず比較的(ひかくてき)凱切(がいせつ)なる説(せつ)をなすに至(いた)つたのは       其(その)謀臣(ぼうしん)橋本左内(はしもとさない)などの啓沃(けいよく)が大(おほい)に力(ちから)あつたものであろうと云(い)ふ話(はなし)である兎(と)に角(かく)此(かく)の如(ごと)き説(せつ)をなすに至(いた) 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百四十九

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百四十八 【本文】 については水戸斉昭などをはじめ反対の議論が多かったので、いよいよ米国からその協議に来た場合には、この条件については何処までも拒絶しようとの意気込みであったのが、さてこれも前轍を踏むのでハリスが来てみると段々談判を持ち込まれて、やはり世界の大勢上からいかにしても拒絶しかねるということになったのである。 《小見出し:ハリスの要求》 そこで遂にハリスを伊豆国柿崎村の玉泉寺という寺に置くことになったのであるが、これより先、安政二年の十二月に長崎の出島にいるオランダの総領事と時の長崎奉行との間に条約の締結をなしたのであるが、その中にオランダ国商人住居の事があったので、ハリスは今度それを捉えて、いわゆる最恵国条款を根拠として自国もまたそれと同等の権利に均霑するものであると主張したのである。幕府はこれに対しオランダと我が国との古来の関係を述べて弁ずるところがあったが、ハリスは遂にこれを聞き入れぬので、安政四年の初めから五月に至るまでも幕府においてはこれに向かって協議したのであるが、結局やむを得ざることに陥って下田・函館両港に米国商人の在住を許し、函館には副領事をも置くことを承諾するに至ったので、その五月廿六日、規定書なるものに調印するに至ったのである。 それのみならずハリスは来着の年(安政三年)九月廿七日付を以って一書を下田奉行に差出して、親しく江戸に上り最高有司に面会して談じたいことがあると申し出たのである。海防係、大目付、目付等の人々は、これは到底防ぎ切れる事ではない、彼れより自国の軍艦の渡来を待ち、それより江戸湾に乗り込むなどと威嚇の言を用いられてから、それでは止むを得ぬからなどと先方の申出を許すようになっては却って我が国の威信を損ずる訳になるから、むしろこの際オランダ国の例に準じて老中に面接させ、登城謁見をも許いてはどうであるかと論じたのである。これは蓋し当時にありては卓見とも言うべきものであると思うが、何にせよ一般の与論というものは、かかる請いを許すなどは実に国辱であるとまで考えられていたのであるから、幕吏の多数はこれを憚って、この登城謁見を許すは結局時機尚少しという議論に帰着したの 【欄外】 発行兼印刷所 豊橋市紺屋町四十八番戸 参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三 発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百六号附録(大正二年七月一日発行) 【本文】 である。しかるにこれに対してハリスの抗弁というものは実に強硬であったもので、度々幕吏との間に交渉を重ねた結果、この問題は実に一大難件と相成ったのであるが、ようよう翌年即ち安政四年の七月廿一日に至って遂に幕府の方が屈することとなり、ハリスの出府登城謁見を許すことに相成ったのである。 《小見出し:ハリスの登城謁見》 そこでハリスは十月七日下田を発して陸路出府し、その廿一日を以って遂に登城謁見を終り、閣老堀田備中守を経て大統領からの書翰を捧呈したのであったが、これが和蘭人以外に欧米人謁見の初めで、外国通交の礼節もここに初めて形を成したものと言うべきである。 《小見出し:列侯の異論》 しかるに前にも段々申し述べたような当時の国情であったから、このハリスの出府登城謁見ということについては実に反対の議論が沸騰したのであった。幕府でも初めからこれは黙しては置けぬ事であるとなしたものと見え、ハリスに登城謁見を許す事にした後、まず三家並びに溜間詰諸侯にその内意を達して、而して八月の十四日を以って一般の諸侯に向かってその理由を示して許可せし旨を布告したのである。ところがこれに対しては彦根、高松、会津などをはじめ、むしろ開国論に傾いているところの溜間詰の諸侯でさえ、それは将軍の威信に関する大屈辱であるとなして反対の意見を述べ、かつ予め諮問のなかったのを攻撃した程であるから、最初よりの攘夷論者に至っては中々やかましい議論となったのである。 しかし何と言ったところで既にハリスに許した後の事であるから如何ともし難い。結局はこれを利用して益々我が国の武備を彼等に示し、外面は和親なるも内部には十分に戦闘準備を整えて大いに威信を張り、彼等をして自ら非望を捨つるに至らしむべしと論するに至ったのである。これ等の論は彼の松平慶永等の唱えたところであるが、慶永等は初めから熱心なる攘夷論者であったが、嘉永年間に唱えたような極端なる議論をなさず、比較的穏切なる説をなすに至ったのは、その謀臣橋本左内などの啓沃が大いに力があったものであろうという話である。とにかくこのような説をなすに至った 【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百四十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 448 **Main Text:** Regarding this matter, there was much opposition from Mito Nariaki and others, so when America came to negotiate on this issue, they were determined to reject these conditions at all costs. However, this also followed the same pattern as before - when Harris arrived and gradually brought up negotiations, it became clear that refusal was impossible given the global situation. *Subheading: Harris's Demands* Consequently, Harris was eventually stationed at a temple called Gyokusen-ji in Kakizaki Village, Izu Province. Prior to this, in December of Ansei 2, a treaty had been concluded between the Dutch Consul-General residing at Dejima in Nagasaki and the Nagasaki magistrate of the time. This treaty contained provisions regarding Dutch merchant residences, which Harris now seized upon, arguing that based on the so-called most-favored-nation clause, his country should also enjoy equal rights. The shogunate responded by explaining the long-standing relationship between the Netherlands and our country, but Harris ultimately refused to accept this. From early Ansei 4 until May, the shogunate negotiated with him on this matter, but eventually found itself in an unavoidable position and consented to allow American merchants to reside in both Shimoda and Hakodate ports, and to station a vice-consul in Hakodate. On May 26th, they signed what was called a "regulation document." Moreover, in the year of his arrival (Ansei 3), on September 27th, Harris submitted a letter to the Shimoda magistrate, requesting to personally come to Edo and meet with the highest officials to discuss matters. The coastal defense officials, senior inspectors, and inspectors reasoned that this could not possibly be prevented - if he were to wait for warships from his own country and then force entry into Edo Bay with threatening language, and if they then had to reluctantly grant his requests, this would damage our nation's prestige. Rather, they argued, following the Dutch precedent, they should allow him to meet with senior councillors and permit an audience at the castle. I believe this was indeed a wise view for that time, but since general public opinion considered granting such requests to be a national humiliation, the majority of shogunal officials were reluctant, and the argument concluded that the timing for allowing such an audience was still premature. **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Partnership, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4406 Supplement (Published July 1, Taisho 2) **Main Text:** However, Harris's objections to this were extremely forceful, and after repeated negotiations with shogunal officials, this issue became a major diplomatic crisis. Finally, in the following year, on July 21st of Ansei 4, the shogunate capitulated and agreed to allow Harris to come to Edo for an audience at the castle. *Subheading: Harris's Castle Audience* Harris departed Shimoda on October 7th and traveled overland to Edo, completing his castle audience on the 21st and presenting a letter from the President through Senior Councillor Hotta Bitchu-no-kami. This was the first audience by a Westerner other than the Dutch, marking the establishment of proper diplomatic protocol for foreign relations. *Subheading: Opposition from the Feudal Lords* However, given the national sentiment I have described, Harris's journey to Edo and castle audience provoked intense opposition. The shogunate apparently recognized from the beginning that this could not be passed over in silence. After deciding to allow Harris's castle audience, they first communicated their intentions to the Three Houses and the tamarizume daimyo, then on August 14th issued a proclamation to all daimyo explaining the reasons for their decision. However, even the tamarizume daimyo including Hikone, Takamatsu, and Aizu - who actually leaned toward opening the country - opposed this as a great humiliation to the shogun's dignity and criticized the lack of prior consultation. The original anti-foreign faction naturally engaged in even more vehement debate. However, since Harris had already been granted permission, nothing could be done about it. The conclusion was that this situation should be used to further demonstrate our nation's military preparedness to them - maintaining friendly relations on the surface while fully preparing for combat internally, thus projecting strength and forcing them to abandon their unreasonable demands. These arguments were advocated by Matsudaira Yoshinaga and others. While Yoshinaga had been a fervent anti-foreign advocate from the beginning, the fact that he no longer made the extreme arguments of the Kaei period but adopted relatively moderate positions was likely due to the enlightening influence of his advisor Hashimoto Sanai. In any case, the development of such views... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 449