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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 239

ページ: 239

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百五十 【本文】       つたとは云(い)へ決(けつ)して幕府(ばくふ)の処置(しよち)を是認(ぜにん)したものではない却(かへつ)て幕府(ばくふ)の処置(しよち)に就(つい)ては大(だい)なる非難者(ひなんしや)であつ       たのであるが其(その)他(た)外様(とざま)の大諸侯(だいしよこう)などに於(おい)ても表面(へうめん)は略(ほ)ぼ慶永(よしなが)等(ら)と同論(どうろん)であつたが其(その)内情(ないぜう)に至(いた)つては各(かく) 《割書:尾水両藩の|態度》  藩中(はんちう)頗(すこぶ)る激越(げきゑつ)なる議論(ぎろん)が行(おこな)はれたのであるそれのみならず当時(たうじ)徳川氏(とくがはし)の親藩(しんはん)たる尾(び)、水(すゐ)両藩(れうはん)の態度(たいど)と       云(い)ふものに就(つい)ては最(もつと)も注意(ちうい)すべきもので殊(こと)に水戸(みと)の斉昭(なりあきら)に至(いた)つては前(まへ)に申述(まをしの)べたる如(ごと)く次第(しだい)に時(とき)の閣(かく) 《割書:阿部伊勢守|の卒去》  老(らう)と衝突(せうとつ)し只(た)だ阿部伊勢守(あべいせのかみ)一 人(にん)の調和(てうわ)で僅(わづか)に其(その)間(あひだ)の連鎖(れんさ)が続(つな)がつて居(を)つたのであるが其(その)伊勢守(いせのかみ)は安政(あんせい)       四年六月十七日 病(やまひ)を以(もつ)て卒去(そつきよ)しそれからと云(い)ふものは到底(たうてい)此(この)両者(れうしや)の間(あひだ)に調和(てうわ)の見込(みこみ)なく且(か)つ老中(らうちう)上座(ぜうざ)       たる堀田備中守(ほつたびちうのかみ)と斉昭(なりあきら)との間(あひだ)は余(あまり)面白(おもしろ)からぬ間柄(あひだがら)である処(ところ)へ例(れい)の松平伊賀守(まつだひらいがのかみ)は其(その)年(とし)の九月十三日に       至(いた)つて再(ふたゝ)び入閣(にふかく)したと云(い)ふので益(ます〳〵)斉昭(なりあきら)の感情(かんぜう)を害(がい)し遂(つひ)に憤恨(ふんこん)の情(ぜう)を以(もつ)て幕府(ばくふ)に対(たい)するに至(いた)つたので       ある       ソコでイヨ〳〵ハリス登城(とじやう)の事(こと)が幕府(ばくふ)で決定(けつてい)して備中守(びちうのかみ)から八月十五日 付(づけ)封書(ふうしよ)を以(もつ)て尾(び)、紀(き)、水(すゐ)の三       親藩(しんはん)に通達(つうたつ)があつた時(とき)斉昭(なりあきら)は如何(いか)にもして之(これ)を阻止(そし)したいと思(おも)つたのであるが紀伊侯(きいこう)はまだ弱年(じやくねん)の人(ひと)       で余(あまり)相談相手(さうだんあひて)にもならぬ処(ところ)から之(これ)を尾張慶恕(をはりよしひろ)に謀(はか)つて共々(とも〴〵)に幕府(ばくふ)へ意見(ゐけん)を申込(まをしこ)むだのであるトコロ       が勿論(もちろん)省(かへり)みられる訳(わけ)はない因(よつ)て家臣(かしん)の安藤弥次郎(あんどうやじらう)と云(い)ふものを越前侯(ゑちぜんこう)松平慶永(まつだひらよしなが)の謀臣(ぼうしん)中根雪江(なかねゆきえ)の処(ところ)へ       やつて相談(さうだん)せしめたが之(これ)も発令後(はつれいご)であるから今更(いまさら)致(いた)しようがあるまいと云(い)ふので応(おう)じなかつたソコで 《割書:斉昭の京都|手入》  斉昭(なりあきら)は益(ます〳〵)国家(こくか)の前途(ぜんと)を憂(うれ)ふるの余(あま)りと一は又(ま)た憤恨(ふんこん)の情(ぜう)に堪(た)へ難(がた)い処(ところ)とから遂(つひ)に京都(けうと)に向(むか)つて運動(うんどう)       を開始(かいし)するに至(いた)つたのである御承知(ごせうち)の如(ごと)く斉昭(なりあきら)は初(はじ)めから公卿(くげ)の間(あひだ)には姻戚(ゐんせき)があつたのであるが其(その)中(なか)       でも二 條斉信(でうなりのぶ)と鷹司政通(たかつかさまさみち)との室(しつ)は孰(いづ)れも斉昭(なりあきら)の姉(あね)であつたのであるかゝる処(ところ)から先(ま)づ此(この)両家(れうけ)によつて       己(おの)れの意見(いけん)を朝廷(てうてい)に達(たつ)せむ事(こと)を図(はか)つたのであるが其(その)実(じつ)鷹司家(たかつかさけ)に対(たい)しては既(すで)に昨年来(さくねんらい)入説(にふせつ)する処(ところ)があつ 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       たとの事(こと)である然(しか)るにそれ等(ら)の事(こと)は時々(とき〴〵)漏(も)れて幕府(ばくふ)の方(はう)へも知(し)れたものであるから云(い)ふ迄(まで)もなく当時(たうじ)       の情況(ぜうけふ)に於(おい)て幕府(ばくふ)の政策上(せいさくぜう)之(これ)は実(じつ)に一 大事件(だいじけん)となさねばならぬので幕府(ばくふ)の方(はう)でも数々(しば〴〵)京都所司代(けうとしよしだい)の手(て)       を経(へ)て之(これ)に対(たい)する反抗策(はんこうさく)を朝廷(てうてい)に講(かう)じた次第(しだい)であつた然(しか)るに今度(こんど)斉昭(なりあきら)はイヨ〳〵憤慨(ふんがい)に堪(た)へぬ処(ところ)から       密(ひそか)に長文(てうぶん)の奏議(さうぎ)を草(さう)して之(これ)を九 条関白(でうくわんぱく)に奉(たてま)つたとの事であるが其(その)奏議(さうぎ)で一 般(ぱん)に流布(るふ)して居(お)るのは全(まつた)く       誰(だれ)かの偽作(ぎさく)であると云(い)ふ説(せつ)がある併(しか)し当時(たうじ)斉昭(なりあきら)の意見(いけん)と云(い)ふものは全(まつた)く其(その)奏議(さうぎ)にある主旨(しゆし)と大差(たいさ)のな       かつたものであろうとして之(これ)亦(また)一 般(ぱん)に信(しん)ぜられて居(を)るのであるが其(その)要旨(えうし)とする処(ところ)は大要(たいえう)左(さ)の如(ごと)くであ       る西洋(せいよう)の諸夷(しよゐ)は全(まつた)く我(わが)領土(れうど)を覬覦(きゆ)するもので漸次(ぜんじ)我国(わがくに)を侵略(しんりやく)せようと云(い)ふのが其(その)主眼(しゆがん)であると信(しん)ずる       然(しか)るに之(これ)に対(たい)する幕府(ばくふ)の処置(しよち)は失当(しつたう)なるもので有司(いうし)は己(おの)れの利禄(りろく)に恋々(れん〳〵)し眼前(がんぜん)の安逸(あんいつ)をのみ貪(むさぼ)り蘭学(らんがく)       者(しや)などの如(ごと)き庸俗(ようぞく)の見(けん)に迷(まよ)はされて結局(けつきよく)我国(わがくに)古来(こらい)の気風(きふう)なる勇猛果敢(ゆうもうくわかん)の精神(せいしん)を没却(ぼつきやく)するものであるか       ら廟議(びようぎ)が一 決(けつ)して攘夷(ぜうゐ)の発令(はつれい)さへあれば天下(てんか)の人心(じんしん)は忽(たちま)ち奮起(ふんき)して国恩(こくおん)に報(ほう)ぜむとするものヽみであ       る既(すで)に某藩(ぼうはん)の如(ごと)きは何時(いつ)にても朝旨(てうし)を奉體(ほうたい)せむとして熱心(ねつしん)なるのみならず大小名(だいせうめよう)の内(うち)には幕府(ばくふ)の処置(しよち)       に服(ふく)せざるものが大多数(だいたすう)であるから朝廷(てうてい)の厳令(げんれい)とあれば幸(さいはひ)に大小名(だいせうめよう)の戮力(きようりよく)によつて此(この)外夷(ぐわいゐ)の登城(とじやう)を       阻止(そし)して我国(わがくに)無前(ぶぜん)の国患(こくかん)を除(のぞ)く事(こと)が出来(でき)るであろうと云(い)ふ意味(いみ)であつたのであるかゝる事情(じぜう)であつた       から多年(たねん)鬱抑(うつよく)に終(をは)らせられて居(を)つた処(ところ)の朝廷(てうてい)に於(おい)ても次第(しだい)に気焔(きゑん)が高(たか)まるようになつて来(き)たは当然(たうぜん)の       事で之(これ)が抑(そもそ)も朝廷(てうてい)と幕府(ばくふ)而(しか)して又(ま)た列侯(れつこう)との間(あひだ)に錯綜(さくそう)せる事情(じけん)を生(せう)じ結局(けつきよく)明治維新(めいぢゐしん)を生(う)み出(いだ)すの端緒(たんちよ)       とも相成(あひな)つた次第(しだい)であると思(おも)ふ       トコロが欧米人(おうべいじん)渡来(とらい)の目的(もくてき)と云(い)ふものは強(あなが)ちに領土(れうど)を侵略(しんりやく)しようと云(い)ふ意味(いみ)ではなく其(その)本旨(ほんし)とする処(ところ)       は通商貿易(つうせうぼうえき)にあつたものと思(おも)ふ併(しか)しながら最初(さいしよ)は我国(わがくに)の祖法(そはふ)もあることであるから和親(わしん)開港(かいこう)位(ぐらゐ)の処(ところ)から 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百五十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十 【本文】 ったとはいえ、決して幕府の処置を是認したものではない。かえって幕府の処置については大いなる非難者であったのであるが、その他外様の大諸侯などにおいても表面はほぼ慶永等と同論であったが、その内情に至っては各藩中すこぶる激越なる議論が行われたのである。 《小見出し:尾水両藩の態度》 それのみならず当時徳川氏の親藩たる尾張、水戸両藩の態度というものについては最も注意すべきもので、特に水戸の斉昭に至っては前に申し述べたとおり次第に時の閣老と衝突し、ただ阿部伊勢守一人の調和でわずかにその間の連鎖が続いていたのであるが、その伊勢守は安政四年六月十七日病を以って卒去し、それからというものは到底この両者の間に調和の見込みなく、かつ老中上座たる堀田備中守と斉昭との間は余り面白からぬ間柄であるところへ、例の松平伊賀守はその年の九月十三日に至って再び入閣したというので、益々斉昭の感情を害し、ついに憤恨の情を以って幕府に対するに至ったのである。 《小見出し:阿部伊勢守の卒去》 そこでいよいよハリス登城の事が幕府で決定して、備中守から八月十五日付封書を以って尾張、紀州、水戸の三親藩に通達があった時、斉昭はいかにしてもこれを阻止したいと思ったのであるが、紀伊侯はまだ弱年の人で余り相談相手にもならぬところから、これを尾張慶恕に謀って共々に幕府へ意見を申し込むのであるところが、もちろん省みられる訳はない。よって家臣の安藤弥次郎というものを越前侯松平慶永の謀臣中根雪江のところへやって相談させしめたが、これも発令後であるから今更し様があるまいというので応じなかった。 《小見出し:斉昭の京都手入》 そこで斉昭は益々国家の前途を憂うるの余りと、一はまた憤恨の情に堪え難いところとから、ついに京都に向かって運動を開始するに至ったのである。ご承知のとおり斉昭は初めから公卿の間には姻戚があったのであるが、その中でも二條斉信と鷹司政通との室はいずれも斉昭の姉であったのである。かかるところからまずこの両家によって己れの意見を朝廷に達せん事を図ったのであるが、その実鷹司家に対しては既に昨年来入説するところがあった 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其博博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欛外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 との事である。しかるにそれ等の事は時々漏れて幕府の方へも知れたものであるから、言うまでもなく当時の情況において幕府の政策上これは実に一大事件となさねばならぬので、幕府の方でも度々京都所司代の手を経てこれに対する反抗策を朝廷に講じた次第であった。 しかるに今度斉昭はいよいよ憤慨に堪えぬところから、密かに長文の奏議を草してこれを九條関白に奉ったとの事であるが、その奏議で一般に流布しているのは全く誰かの偽作であるという説がある。しかし当時斉昭の意見というものは全くその奏議にある主旨と大差のなかったものであろうとして、これまた一般に信ぜられているのであるが、その要旨とするところは大要左のごとくである。 西洋の諸夷は全く我が領土を覬覦するもので、漸次我が国を侵略しようというのがその主眼であると信ずる。しかるにこれに対する幕府の処置は失当なるもので、有司は己れの利禄に恋々とし眼前の安逸をのみ貪り、蘭学者などのような庸俗の見に迷わされて、結局我が国古来の気風なる勇猛果敢の精神を没却するものであるから、廟議が一決して攘夷の発令さえあれば、天下の人心は忽ち奮起して国恩に報ぜんとするもののみである。 既に某藩のごときは何時にても朝旨を奉体せんとして熱心なるのみならず、大小名の内には幕府の処置に服せざるものが大多数であるから、朝廷の厳令とあれば幸いに大小名の戮力によってこの外夷の登城を阻止して、我が国無前の国患を除く事が出来るであろうという意味であったのである。 かかる事情であったから、多年鬱抑に終らせられていたところの朝廷においても次第に気焰が高まるようになって来たのは当然の事で、これがそもそも朝廷と幕府、そしてまた列侯との間に錯綜せる事情を生じ、結局明治維新を生み出すの端緒とも相成った次第であると思う。 ところが欧米人渡来の目的というものは強いて領土を侵略しようという意味ではなく、その本旨とするところは通商貿易にあったものと思う。しかしながら最初は我が国の祖法もあることであるから、和親開港位のところから 【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 450 **Main Text:** Although they had come to adopt such views, they by no means approved of the shogunate's measures. On the contrary, they were great critics of the shogunate's actions. While other major outer daimyo also generally agreed with Yoshinaga and others on the surface, within their respective domains extremely heated debates took place. *Subheading: Attitudes of Owari and Mito Domains* Moreover, the attitudes of Owari and Mito domains, which were Tokugawa family branches at the time, deserve particular attention. Especially regarding Mito's Nariaki, as I mentioned earlier, he gradually came into conflict with the senior councilors of the time, with only Abe Ise-no-kami serving as a mediator barely maintaining the connection between them. However, Ise-no-kami died of illness on June 17th of Ansei 4, and from then on there was no prospect of harmony between the two parties. Furthermore, since the relationship between senior councilor Hotta Bitchu-no-kami and Nariaki was already strained, when Matsudaira Iga-no-kami rejoined the cabinet on September 13th of that year, it further aggravated Nariaki's feelings, leading him to harbor deep resentment toward the shogunate. *Subheading: Death of Abe Ise-no-kami* When the shogunate finally decided on Harris's castle audience and Bitchu-no-kami sent sealed letters dated August 15th to the three family branches of Owari, Kii, and Mito, Nariaki desperately wanted to prevent this. However, since the Lord of Kii was still young and not much of a consultation partner, he conspired with Owari's Yoshihiro to jointly present their opinions to the shogunate, but of course these were not heeded. He then sent his retainer Ando Yajiro to consult with Nakane Yukie, an advisor to Echizen lord Matsudaira Yoshinaga, but since the order had already been issued, there seemed little point in pursuing the matter further, so no response was given. *Subheading: Nariaki's Kyoto Maneuvering* Consequently, Nariaki, increasingly worried about the nation's future and unable to bear his resentment, finally began political maneuvering in Kyoto. As you know, Nariaki had matrimonial connections among the court nobility from the beginning, particularly with the wives of Nijo Narinobu and Takatsukasa Masamichi, both of whom were Nariaki's sisters. Through these connections, he sought to convey his opinions to the imperial court via these two houses, having already begun influencing the Takatsukasa house since the previous year. **Margin:** Toyohashi Mayor Oguchi Kiroku, with his extensive knowledge and inexhaustible energy, has devoted over a year to compiling Toyohashi city history, and now as the manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once a week (Tuesdays) and presented to readers of Sanyo Newspaper. **Main Text:** However, such activities occasionally leaked out and became known to the shogunate, which naturally considered this a major incident given the political situation of the time. The shogunate frequently implemented countermeasures at court through the Kyoto deputy. This time, Nariaki, unable to contain his indignation, secretly drafted a lengthy memorial and presented it to the Kujo regent. However, there is a theory that the memorial commonly circulated is entirely someone's forgery. Nevertheless, it is generally believed that Nariaki's opinions at the time were substantially similar to the main points of that memorial. The essential points were roughly as follows: The Western barbarians entirely covet our territory and gradually seek to invade our country - this is their main objective. However, the shogunate's response to this is inappropriate. Officials cling to their positions and salaries, seeking only immediate comfort, deceived by the vulgar views of Dutch learning scholars, ultimately abandoning the brave and resolute spirit that has been our nation's traditional character. Therefore, if the court would only make a firm decision and issue an anti-foreign edict, the hearts of all people would immediately rise up to repay their debt to the nation. Already certain domains are enthusiastically prepared to uphold imperial will at any time, and among the major and minor daimyo, a great majority do not submit to the shogunate's measures. Therefore, with a strict imperial command, we could fortunately rely on the united efforts of all daimyo to prevent this foreign barbarian's castle audience and eliminate this unprecedented national crisis. Given such circumstances, it was natural that the imperial court, which had been suppressed for many years, gradually began to show more spirit. This was essentially the beginning of the complex situation developing between the court, the shogunate, and the feudal lords, ultimately becoming the starting point for the Meiji Restoration. However, I believe the purpose of Western arrivals was not necessarily to invade our territory, but rather their main objective was commercial trade. Nevertheless, given our nation's ancestral laws, they initially sought to begin with friendship and port opening... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 451