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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 240

ページ: 240

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百五十二 【本文】       ヂリ〳〵と入(い)り込(こ)むで来(き)たもので一つ目的(もくてき)を達(たつ)すれば又(ま)た一つと云(い)ふ風(ふう)に次第(しだい)と談判(だんぱん)を持(も)ち込(こ)むで来(き)       たのであるが安政(あんせい)四 年(ねん)に至(いた)つては和蘭(おらんだ)の注告(ちうこく)なども段々(だん〳〵)盛(さかん)になつて来(き)て幕府(ばくふ)も種々(しゆ〳〵)覚(さと)る処(ところ)があり到底(たうてい) 《割書:蘭露両国と|追加条約を|締結す》  世界(せかい)の進運(しんうん)に伴(ともな)ふ為(ため)には通商貿易(つうせうばうえき)は止(やむ)を得(え)ざるものであると云(い)ふことをも認(みと)むるに至(いた)つたのであるが其(その)       年(とし)の八月廿九日 長崎(ながさき)に於(おい)て先(ま)づ和蘭(おらんだ)に対(たい)する追加条約(ついかでうやく)四十 条(でう)を締結(ていけつ)し同年(どうねん)九月七日 矢張(やはり)長崎(ながさき)に於(おい)て露(ろ)       国(こく)とも廿七 条(でう)の追加条約(ついかでうやく)を結(むす)むだのである此(この)追加条約(ついかでうやく)なるものは程(ほど)なく廃棄(はいき)せられたのではあつたが       之(これ)が当時(たうじ)幕府(ばくふ)の以(もつ)て各国(かくこく)に対(たい)する通商条約(つうせうでうやく)の基礎(きそ)となさむとしたもので其(その)頃(ころ)の有司(いうし)間(かん)にあつては兎(と)に       角(かく)研究(けんきう)を重(かさ)ねられた事柄(ことがら)であつたのであるトコロで前(まへ)にも申述(まをしの)べた彼(か)の米国(べいこく)の総領事(そうれうじ)ハリスであるが       彼(かれ)が其(その)後(ご)の要求(えうきう)と云(い)ふものは益々(ます〳〵)其(その)鋒鋩(ほうぼう)を現(あら)はして来(き)たのである彼(かれ)は安政(あんせい)四 年(ねん)十月 参府登城(さんぷとじやう)を終(をは)つた 《割書:ハリスの要|求》  が其(その)十月廿六日を以(もつ)て堀田(ほつた)閣老(かくらう)の邸(やしき)に於(おい)て備中守(びちうのかみ)と接見(せつけん)し外国使節(ぐわいこくしせつ)の都下在留(とかざいりう)と勝手(かつて)貿易(ばうえき)との許容(きよう)を       必要(ひつえう)とする旨(むね)を申出(まをしい)でたのである且(か)つ之(これ)は独(ひと)り米国(べいこく)のみの要求(えうきう)ではなく実(じつ)に世界(せかい)の大勢上(たいせうぜう)列国(れつこく)の等(ひと)し       く必須(ひつす)となす処(ところ)であると云(い)ふことを申述(まをしの)べて反復(はんふく)数(すう)千 言(げん)欧洲(おうしう)の事情(じぜう)から現今(げんこん)に於(お)ける世界(せかい)の趨勢(すうせい)に就(つい)て       論述(ろんじゆつ)する処(ところ)があつたのであるソコで幕府(ばくふ)に於(おい)ては之(これ)に対(たい)して何(なん)とか処置(しよち)をしなくてはならぬと云(い)ふ処(ところ)       から先(ま)づ当時(たうじ)敏腕(びんわん)の聞(きこへ)ありし下田奉行(しもだぶぎやう)井上信濃守(ゐのうへしなのゝかみ)、目付(めつけ)岩瀬肥後守(いわせひごのかみ)(《割書:伊賀|守》)の両人(れうにん)を抜擢(ばつてき)して其(そ)れが応(おう)       接(せつ)の任(にん)に当(あた)らしむることとなり其年(そのとし)の十二月二日 備中守(びちうのかみ)は其(その)自邸(じてい)に於(おい)て再(ふたゝ)びハリスと接見(せつけん)したのである 《割書:藩書調所の|応接》  がそれより両(れう)応接(おうせつ)は其(その)十一日を初(はじめ)として翌(よく)安政(あんせい)五 年(ねん)の正月十二日に至(いた)るまで蕃書調所(ばんしよしらべしよ)に於(おい)て十三 回(かい)の       応接(おうせつ)を重(かさ)ねたのである蓋(けだ)し此(この)両(れう)応接(おうせつ)が此(この)時(とき)の苦心(くしん)と云(い)ふものは実(じつ)に今日(こんにち)からは想像(さうぞう)も及(およ)ばない程(ほど)の事(こと)       で詳(くは)しく御話(おはなし)すれば随分(ずいぶん)時間(じかん)をも要(えう)することであるが結局(けつきよく)第(だい)十三 回(かい)目(め)の応接(おうせつ)に於(おい)て定(さだ)まつたのは一、米(べい)       国(こく)官吏(かんり)の駐在(ちうざい)及(および)旅行(りよかう)の件(けん)二、開港(かいこう)開市(かいし)の場所(ばしよ)三、貿易(ぼうえき)の方法(はう〳〵)及(および)品種(ひんしゆ)の制限(せいげん)四、通貨交易(つうくわかうえき)の件(けん)五、領事(れうじ) 【欄外】      発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百十二号附録    (大正二年七月八日発行) 【本文】      裁判権(さいばんけん)に関(くわん)する件(けん)六、外人(ぐわいじん)遊歩(ゆうほ)規程(きてい)等(とう)で其他(そのた)にも二三 重要(ぢうえう)の問題(もんだい)が議定(ぎてい)せられたのである然(しか)るに此(この)談(だん)       判(ぱん)の結果(けつくわ)と云(い)ふものは前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)き当時(たうじ)の国情(こくぜう)に対(たい)しては矢張(やはり)相容(あひい)れざるのは明(あきらか)なる事で       之(これ)より一 層(そう)内政上(ないせうぜう)の紛糾(ふんきう)を高(たか)むることと相成(あひな)つたのであるが此(この)顚末(てんまつ)に就(つい)ては是非(ぜひ)とも此処(こゝ)に少(すこ)しく御話(おはなし)       して置(お)く必要(ひつえう)があると思(おも)ふ       前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)く幕府(ばくふ)は次第(しだい)に世界(せかい)の大勢(たいせい)を感得(かんとく)すると同時(どうじ)にハリスからの要求(えうきう)も亦(ま)た極(きは)めて烈(はげ)しかつたの       で之(これ)に対(たい)して応接係(おうせつかゝり)を選定(せんてい)して一方(ぽう)に談判(だんぱん)を進行(しんかう)せしむると共(とも)に又(ま)た一 方(ぽう)に於(おい)ては何(なん)とかして国内(こくない)の輿(よ) 諸侯の意見 論(ろん)を一 統(とう)せねばならぬと云(い)ふ処(ところ)から諸侯(しよこう)の意向(いかう)を窺(うかが)ふ必要(ひつえう)があると信(しん)じたので安政(あんせい)四年の十一月十二       日三 家(け)を初(はじめ)として溜間詰(たまりまつめ)並(ならび)に在府中(ざいふちう)の大廊下(おほらうか)及(およ)び大広間詰(おほひろまづめ)の諸侯(しよこう)へ対(たい)し各別(かくべつ)にハリスより演述(えんじゆつ)の主(しゆ)       旨(し)を筆記(ひつき)したるものを渡(わた)したる上(うゑ)此度(このたび)は実行(じつかう)も出来(でき)ぬような空論(くうろん)に馳(は)せざることを期(き)し又(ま)た自(みづか)ら其(その)局(きよく)に       当(あた)るものであると云(い)ふ考(かんがへ)を以(もつ)て親切(しんせつ)に考究(かうきう)し然(しか)る後(のち)之(これ)か可否(かひ)を建議(けんぎ)する事(こと)にしたいものであると云(い)ふ       事を申渡(まをしわた)したのであるが其(その)十五日には一 般(ぱん)諸侯(しよこう)の常例(ぜうれい)登城(とじやう)を機(き)として同様(どうやう)の事を通達(つうたつ)したのである然(しか)       るに之(これ)に対(たい)して最(もつと)も激烈(げきれつ)なる異論(ゐろん)を主張(しゆてう)したのは例(れい)の水戸斉昭(みとなりあきら)であるがそれは十五日 付(づけ)を以(もつ)て長文(てうぶん)の       議論(ぎろん)を認(したゝ)めて之(これ)を堀田(ほつた)閣老(かくらう)に提出(ていしゆつ)したのであつたトコロが其(その)議論(ぎろん)は実(じつ)に危激(きげき)を極(きは)めたもので勿論(もちろん)愛国(あいこく)       の至情(しぜう)が溢(あふ)れたる結果(けつくわ)であつたには相違(さうゐ)なかろうが頗(すこぶ)る疎慢奇激(そまんきげき)の譏(そしり)を免(まぬが)れざる論法(ろんぱふ)で或(あるひ)は寧(むし)ろ真面(まじ)       目(め)のものではなかろうと云(い)ふような感(かん)があつたのであるソコで老中(らうちう)等(ら)も之(これ)を見(み)ては殆(ほとん)ど言(い)ふ処(ところ)を知(し)ら       ざるものゝ如(ごと)く窃(ひそか)に斉昭(なりあきら)の為(ため)に採(と)らざる処(ところ)であると評(へう)したものがあつたので水戸(みと)の老臣(らうしん)中(ちう)には幕府(ばくふ)に       対(たい)して恐(おそ)れを懐(いだ)いたものがあつて此(この)建議(けんぎ)に就(つい)てはドウぞ御見消(おみけ)しに願(ねが)ひたいと云(い)ふので幕府(ばくふ)に願出(ねがひい)で       ゝ之(これ)を取下(とりさ)げたと云(い)ふ事である序(つひで)だから一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)きたいのであるが彼(か)の水戸(みと)の老臣(らうしん)で有名(いうめい)なる 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百五十三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十二 【本文】 じりじりと入り込んで来たもので、一つ目的を達すればまた一つという風に次第と談判を持ち込んで来たのであるが、安政四年に至っては和蘭の注告なども段々盛んになって来て、幕府も種々覚るところがあり、到底世界の進運に伴う為には通商貿易は止むを得ざるものであるということをも認めるに至ったのである。 《小見出し:蘭露両国と追加条約を締結す》 その年の八月二十九日長崎において先ず和蘭に対する追加条約四十条を締結し、同年九月七日やはり長崎において露国とも二十七条の追加条約を結んだのである。この追加条約なるものは程なく廃棄されたのではあったが、これが当時幕府の以って各国に対する通商条約の基礎となさんとしたもので、その頃の有司間にあっては兎に角研究を重ねられた事柄であったのである。 ところで前にも申し述べた彼の米国の総領事ハリスであるが、彼がその後の要求というものは益々その鋒鋩を現して来たのである。 《小見出し:ハリスの要求》 彼は安政四年十月参府登城を終ったが、その十月二十六日を以って堀田閣老の邸において備中守と接見し、外国使節の都下在留と勝手貿易との許容を必要とする旨を申し出たのである。かつこれは独り米国のみの要求ではなく、実に世界の大勢上列国の等しく必須となすところであるということを申し述べて、反復数千言、欧州の事情から現今における世界の趨勢について論述するところがあったのである。 そこで幕府においてはこれに対して何とか処置をしなくてはならぬというところから、先ず当時敏腕の聞えありし下田奉行井上信濃守、目付岩瀬肥後守(伊賀守)の両人を抜擢してそれが応接の任に当らしむることとなり、その年の十二月二日備中守はその自邸において再びハリスと接見したのである。 《小見出し:藩書調所の応接》 がそれより両応接はその十一日を初として翌安政五年の正月十二日に至るまで蕃書調所において十三回の応接を重ねたのである。蓋しこの両応接がこの時の苦心というものは実に今日からは想像も及ばない程のことで、詳しくお話すれば随分時間をも要することであるが、結局第十三回目の応接において定まったのは、一、米国官吏の駐在及び旅行の件、二、開港開市の場所、三、貿易の方法及び品種の制限、四、通貨交易の件、五、領事 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百十二号附録(大正二年七月八日発行) 【本文】 裁判権に関する件、六、外人遊歩規程等で、その他にも二三重要の問題が議定されたのである。しかるにこの談判の結果というものは前にも申し述べたるような当時の国情に対しては矢張り相容れざるのは明らかなる事で、これより一層内政上の紛糾を高むることと相成ったのであるが、この顛末については是非ともここに少しくお話して置く必要があると思う。 前述のごとく幕府は次第に世界の大勢を感得すると同時にハリスからの要求も亦極めて烈しかったので、これに対して応接係を選定して一方に談判を進行せしむると共に、また一方においては何とかして国内の輿論を一統せねばならぬというところから諸侯の意向を窺う必要があると信じたので、 《諸侯の意見》 安政四年の十一月十二日三家を初として溜間詰並びに在府中の大廊下及び大広間詰の諸侯へ対し各別にハリスより演述の主旨を筆記したるものを渡したる上、この度は実行も出来ぬような空論に馳せざることを期し、また自ら其の局に当るものであるという考えを以って親切に考究し、しかる後これか可否を建議する事にしたいものであるという事を申し渡したのであるが、その十五日には一般諸侯の常例登城を機として同様の事を通達したのである。 しかるにこれに対して最も激烈なる異論を主張したのは例の水戸斉昭であるが、それは十五日付けを以って長文の議論を認めてこれを堀田閣老に提出したのであった。ところがその議論は実に危激を極めたもので、もちろん愛国の至情が溢れたる結果であったには相違なかろうが、頗る疎慢奇激の譏りを免れざる論法で、あるいは寧ろ真面目のものではなかろうというような感があったのである。そこで老中等もこれを見ては殆んど言う処を知らざるもののごとく、窃かに斉昭の為に採らざるところであると評したものがあったので、水戸の老臣中には幕府に対して恐れを懐いたものがあって、この建議についてはどうぞ御見消しに願いたいというので、幕府に願い出でてこれを取り下げたという事である。 序でだから一寸申し述べて置きたいのであるが、彼の水戸の老臣で有名なる 【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十三

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 452 **Main Text:** They gradually infiltrated step by step, and once one objective was achieved, they would bring forward negotiations for another in this manner. By Ansei 4, Dutch warnings had become increasingly frequent, and the shogunate came to realize various things, eventually acknowledging that commercial trade was unavoidable in order to keep pace with world progress. *Subheading: Conclusion of Additional Treaties with Holland and Russia* On August 29th of that year, they first concluded a forty-article additional treaty with Holland at Nagasaki, and on September 7th of the same year, also at Nagasaki, they concluded a twenty-seven-article additional treaty with Russia. These additional treaties were soon abandoned, but they were intended by the shogunate at the time to serve as the foundation for commercial treaties with various nations, and were matters that officials of that period studied extensively. Now, regarding the aforementioned American Consul General Harris, his subsequent demands became increasingly sharp and aggressive. *Subheading: Harris's Demands* After completing his official visit to Edo Castle in October of Ansei 4, on October 26th he met with Bitchu-no-kami at the residence of Senior Councilor Hotta, requesting permission for foreign envoys to reside in the capital and for free trade. He stated that this was not merely America's demand alone, but truly a necessity equally required by all nations given the world situation, and he spent thousands of words repeatedly discussing European circumstances and current world trends. The shogunate felt it necessary to take some action in response, so they first selected the capable Shimoda magistrate Inoue Shinano-no-kami and inspector Iwase Higo-no-kami (Iga-no-kami) to handle these negotiations. On December 2nd of that year, Bitchu-no-kami again met with Harris at his own residence. *Subheading: Negotiations at the Institute for the Investigation of Barbarian Books* From the 11th, both negotiators held thirteen rounds of meetings at the Institute for the Investigation of Barbarian Books until January 12th of the following year, Ansei 5. The hardships these negotiators endured at this time were truly beyond what we can imagine today. If I were to explain in detail, it would require considerable time, but ultimately what was decided in the thirteenth meeting were: 1) matters regarding the residence and travel of American officials, 2) locations for opening ports and markets, 3) trade methods and restrictions on commodities, 4) currency exchange matters, 5) consular **Margin:** Publisher and Printing House: Sanyo Printing Partnership Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4412 Supplement (Published July 8, Taisho 2) **Main Text:** 6) matters regarding judicial rights, 6) regulations for foreigners' walks, and several other important issues were also decided. However, the results of these negotiations were clearly incompatible with the national sentiment of the time, as mentioned earlier, leading to even greater domestic political complications. I believe it is essential to discuss this situation here in some detail. As mentioned earlier, while the shogunate gradually came to understand world trends, Harris's demands were also extremely intense. In response, they appointed negotiators to advance talks on one hand, while on the other they believed it necessary to somehow unify domestic public opinion by ascertaining the views of the feudal lords. *Subheading: Opinions of the Feudal Lords* On November 12th of Ansei 4, starting with the three branch families and including those stationed in Edo from the waiting room, main corridor, and great hall groups, they distributed written records of Harris's main points and instructed them to avoid impractical empty theories that could not be implemented, and to carefully study the matter from the perspective of those actually responsible for handling the situation before submitting recommendations on its feasibility. On the 15th, they issued similar instructions to all feudal lords during their regular castle attendance. However, the most vehemently opposed was the familiar Mito's Nariaki, who on the 15th submitted a lengthy written argument to Senior Councilor Hotta. This argument was extremely radical and inflammatory. While it undoubtedly overflowed with patriotic sentiment, it employed reasoning that could not escape criticism for being reckless and extreme, giving the impression that it might not even be entirely serious. Consequently, the senior councilors, upon seeing this, seemed almost at a loss for words, and some privately commented that it was not advisable for Nariaki. Some of Mito's senior retainers became fearful toward the shogunate and petitioned to withdraw this proposal, requesting that it be struck from the record. Since I'm on the topic, I'd like to briefly mention that famous senior retainer of Mito... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 453