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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 25

ページ: 25

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【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          廿二 【本文】        人(にん)より書(か)き上(あ)げた牧野家御由緒(まきのけごゆうしよ)と名(なづ)けられて居(を)る書物(しよもつ)があるが、 此等(これら)の書物(しよもつ)では例(れい)の豊橋市(とよはしし)中(なか)八 神明(しんめい)        社(しや)にある古白の棟札(むなふだ)を証拠(せうこ)として牛久保密談記(うしくぼみつだんき)の説(せつ)を是認(ぜにん)して居(を)る事である、それは如何(いか)なる処(ところ)から        間違(まちがつ)たものであるか右(みぎ)の棟札(むなふだ)は明応(めいおう)六 年(ねん)のものであるのに古来(こらい)之(これ)を永正(えいせう)六 年(ねん)と誤写(ごしや)し伝(つた)えたもので、        此(この)間違(まちがひ)は独(ひと)り宮島伝記(みやじまでんき)牧野家御由緒(まきのけごゆうしよ)のみでなくほ外(ほか)にも沢山(たくさん)あるのである、 然(しか)るに此(この)棟札(むなふだ)に永正(えいせう)六 年(ねん)と       あると云(い)ふので之(これ)を証拠(せうこ)に古白は永正(えいせう)三 年(ねん)に死(し)んだ筈(はず)はないと主張(しゆてう)して古白の戦死(せんし)を否認(ひにん)して居(を)るの       であるから、 此(この)古白非戦死(こはくひせんし)の説(せつ)は既(すで)に其(その)根本(こんぽん)に於て誤(あやま)つて居(を)ることとなるのである、 古白戦死(こはくせんし)の月日に        就(つい)ては大要(たいえう)前(まへ)に述(の)べた如(ごと)くであるがサテ此(この)戦(たゝかひ)に於(お)ける古白の相手(あひて)方(がた)は誰(たれ)であつたかと云(い)ふに、 不思(ふし)        議(ぎ)な事には之(これ)が亦(ま)た疑問(ぎもん)であつて、 旧来(きうらい)から解決(かいけつ)することの出来難(できがた)い問題(もんだい)になつて居(を)るのである、 即(すなは)ち        之(これ)には二 説(せつ)あるので、 《割書:今川氏親攻|撃説》   一、 田原(たはら)の戸田弾正憲光(とだだんぜうのりみつ)の讒(ざん)により今川氏親(いまがはうぢちか)の攻撃(こうげき)せりとなすもの 《割書:松平長親逆|襲説》   二、 松平長親(まつだひらながちか)の逆襲(ぎやくしう)によるとなすもの        此(この)両説(れうせつ)である、 現(げん)に牧野伊予守家(まきのいよのかみけ)の系図(けいづ)に於(おい)ても古(ふる)い方(ほう)には此(こ)の第二の説(せつ)が取(と)つてあるが新(あたらし)い方(ほう)に       は反(かへつ)て第一の説(せつ)が記(しる)されてあると云(い)ふ訳(わけ)で又(ま)た同(おな)じ時代(じだい)に同(おな)じ人の監督(かんとく)の下(もと)に出来(でき)たと云(い)ふのである       のに朝野旧聞襃稿(てうやきうぶんほうこう)と徳川実記(とくがはじつき)とは矢張(やはり)説(せつ)が違(ちが)つて前者(ぜんしや)は第一 説(せつ)を取(と)つて後者(こうしや)には第二 説(せつ)が載(の)つて居(を)る       のである而(しか)して同(おな)じ幕府(ばくふ)の編纂(へんさん)である寛永系図(かんえいけいづ)には第一 説(せつ)が記(しる)されてあつて寛政重修諸家譜(かんせいぢうしうしよかふ)には第二        説(せつ)を採用(さいよう)してある又(ま)た藩翰譜(はんかんふ)の如(ごと)きは創業記(さうげうき)を引用(いんよう)して第一 説(せつ)を取(と)つて居(を)るが野史(やし)の如(ごと)きは古(ふる)き牧野(まきの)        系図(けいづ)に重(おも)きを置(お)いて第二 説(せつ)を是認(ぜにん)して居(を)る、 此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)であるから其他(そのた)種々(しゆ〴〵)の記録類(きろくるい)は熟(いづ)れも区々(くゝ)      の説(せつ)をなして居(を)るのである、 然(しか)るに此事(このこと)に関連(かんれん)して茲(こゝ)に大(おほい)に考究(こうきう)を要(えう)するのは今川(いまがは)松平(まつだひら)二 氏(し)が此年(このとし)の 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【本文】 《割書:今川松平二|氏矢矧川会》  八月二十日から二十二日にかけて矢矧川(やはぎがは)に於(おい)て会戦(くわいせん)せしことである元来(がんらい)此(この)松平長親(まつだひらながちか)と云(い)ふ人は信光(のぶみつ)の孫(まご) 《割書:戦| 》     で親忠(ちかたゞ)の子(こ)であるが徳川家康(とくがはいへやす)から云(い)ふと曽祖々父(そうそゝふ)に当(あた)るのである此人(このひと)は中々(なか〳〵)人望(じんぼう)のあつた人で自(みづか)ら安(あん)        祥(じやう)の城(しろ)に居(を)つたが西(にし)三 河(かは)の将士(せうし)は次第(しだい)に皈服(きふく)して勢力(せいりよく)日(ひ)に盛(さかん)であつた、かゝる処(ところ)から駿河(するが)の今川氏親(いまがはうぢちか)       は兵(へい)を出(いだ)して之(これ)を攻(せ)めむとし伊勢新(いせしん)九 郎(ろう)(北条早雲(ほゝでうそううん))は其(その)将(せう)として先(ま)づ岩津(いわづ)の城(しろ)を犯(おか)さむとしたのであ       る、ソコデ長親(ながちか)は捨置(すてお)かれず安祥(あんじやう)より出(い)でゝ 之(これ)を救(すく)はむとし遂(つひ)に矢矧川(やはぎがは)の会戦(くわいせん)を見(み)るに至(いた)つたので此(この)        戦(たゝかひ)の事は詳(くは)しく彦左衛門(ひこざえもん)の三 河物語(かはものがたり)にも載(の)つて居(を)るが、 諸記録(しよきろく)の記(き)する処(ところ)も略(ほ)ぼ一 致(ち)して居(を)るので       ある、 結局(けつきよく)此(この)戦(たゝかひ)は今川方(いまがはかた)の不利(ふり)に終(をは)つたのであるが伊勢新(いせしん)九 郎(らう)は此時(このとき)田原(たはら)の城主(ぜうしゆ)戸田弾正憲光(とだだんぜうのりみつ)が長(なが)        親(ちか)に心(こゝろ)を寄(よ)せ反旗(はんき)を翻(ひるがへ)すべしと聞(き)き急(いそ)ぎ今橋城(いまはしぜう)に引揚(ひきあ)げたので此事(このこと)も同(おな)じ三 河物語(かはものがたり)に記(しる)してあるので       ある、 又(ま)た仝書(どうしよ)に此(この)戦(たゝかひ)に於(お)ける今川勢(いまがはぜい)の名前(なまへ)が列記(れつき)してあるが其中(そのなか)に吉田衆(よしだしう)と云(い)ふのがある即(すなは)ち之(これ)       は今橋(いまはし)の古白勢(こはくぜい)を指(さ)したものと思(おも)はれる、モツトモ其頃(そのころ)はまだ吉田(よしだ)の地名(ちめい)はなく今橋(いまはし)であつたに相違(さうゐ)       ないが、 之(これ)は彦左衛門(ひこざえもん)が此書(このしよ)を記(き)するに当(あた)り深(ふか)く前(まへ)の事迄(ことまで)も詮索(せんさく)せずに記(しる)したものと信(しん)じて疑(うたが)はぬの       である特(とく)に牧野家譜(まきのかふ)には        永正三年、伊勢新九郎代今川、帥五個国兵、発向三州、古白属今川、八月二十日、新九郎率東三河        国勢、於矢矧川辺、與松平長親大戦、勝負未決、日暮 明日約可遂一戦、入夜新九郎還吉田城、置        東三河制法、収兵而還駿河       とあるが寛永新田嫡流譜(かんえいしんでんちやくりうふ)には明(あきら)かに「 長親(ながちか)五百 余騎(よき)を引(ひき)ゐて矢矧川(やはぎがは)を渡(わた)り合戦(かつせん)す、 今川(いまがは)が兵(へい)破(やぶ)れ走(はし)る        夜(よ)に入(いり)て、 吉田(よしだ)の城(しろ)を引退(ひきしりぞ)き、 牧野古白(●●●●) をして(●●●) 是(●)を(●)守(●)らしめ(●●●)、 諸勢(しよぜい)を引(ひい)て駿河(するが)に帰(かへ)る」となつて居(を)る       ので之等(これら)の点(てん)から考(かんが)えて見(み)ると如何(いか)に戦国(せんごく)の事とは云(い)へ氏親(うじちか)が僅(わづか)か三四ケ月 前(ぜん)に敵(てき)に内通(ないつう)しはしまい 【欄外】 豊橋市史談    (牧野古白の戦死)          廿三

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談  (牧野古白の戦死)          二十二 【本文】      両人により書き上げた『牧野家御由緒』と名付けられている書物があるが、これらの書物では例の豊橋市中八神明      社にある古白の棟札を証拠として『牛久保密談記』の説を是認していることである。それはいかなる処から      間違ったものであるか、右の棟札は明応六年のものであるのに古来これを永正六年と誤写し伝えたもので、      この間違いは独り『宮島伝記』『牧野家御由緒』のみでなく他にも沢山あるのである。然るにこの棟札に永正六年と      あるというのでこれを証拠に古白は永正三年に死んだ筈はないと主張して古白の戦死を否認している      のであるから、この古白非戦死の説は既にその根本において誤っていることとなるのである。古白戦死の月日に      ついては大要前に述べた如くであるが、さてこの戦いにおける古白の相手方は誰であったかというに、不思      議な事にはこれがまた疑問であって、旧来から解決することの出来難い問題になっているのである。即ち      これには二説あるので、 《割書:今川氏親攻撃説》  一、田原の戸田弾正憲光の讒言により今川氏親の攻撃せりとなすもの 《割書:松平長親逆襲説》  二、松平長親の逆襲によるとなすもの      この両説である。現に牧野伊予守家の系図においても古い方にはこの第二の説が取ってあるが新しい方に      は反って第一の説が記されてあるという訳で、また同じ時代に同じ人の監督の下に出来たというのである      のに『朝野旧聞裒稿』と『徳川実記』とは矢張説が違って前者は第一説を取って後者には第二説が載っている      のである。而して同じ幕府の編纂である『寛永系図』には第一説が記されてあって『寛政重修諸家譜』には第二      説を採用してある。また『藩翰譜』の如きは『創業記』を引用して第一説を取っているが『野史』の如きは古き牧野      系図に重きを置いて第二説を是認している。このような次第であるから其他種々の記録類はいずれも区々      の説をなしているのである。然るにこの事に関連してここに大いに考究を要するのは今川・松平二氏がこの年の 【欄外】  豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 【左頁】 【本文】 《割書:今川松平二氏矢矧川会戦》 八月二十日から二十二日にかけて矢矧川において会戦せしことである。元来この松平長親という人は信光の孫 《割書:戦》     で親忠の子であるが徳川家康から言うと曽祖々父に当たるのである。この人は中々人望のあった人で自ら安      祥の城にいたが西三河の将士は次第に帰服して勢力日に盛んであった。かかる処から駿河の今川氏親      は兵を出してこれを攻めようとし、伊勢新九郎(北条早雲)はその将として先ず岩津の城を犯そうとしたので      ある。そこで長親は捨て置かれず安祥より出でてこれを救おうとし、遂に矢矧川の会戦を見るに至ったのでこの      戦いの事は詳しく彦左衛門の『三河物語』にも載っているが、諸記録の記する処も略ぼ一致している      のである。結局この戦いは今川方の不利に終ったのであるが、伊勢新九郎はこの時田原の城主戸田弾正憲光が長      親に心を寄せ反旗を翻すべしと聞き急ぎ今橋城に引き上げたので、この事も同じ『三河物語』に記してあるので      ある。また同書にこの戦いにおける今川勢の名前が列記してあるがその中に吉田衆というのがある。即ちこれ      は今橋の古白勢を指したものと思われる。もっともその頃はまだ吉田の地名はなく今橋であったに相違      ないが、これは彦左衛門がこの書を記するに当たり深く前の事まで詮索せずに記したものと信じて疑わぬの      である。特に牧野家譜には       永正三年、伊勢新九郎代今川、帥五箇国兵、発向三州、古白属今川、八月二十日、新九郎率東三河       国勢、於矢矧川辺、与松平長親大戦、勝負未決、日暮 明日約可遂一戦、入夜新九郎還吉田城、置       東三河制法、収兵而還駿河      とあるが、『寛永新田嫡流譜』には明らかに「長親五百余騎を引きいて矢矧川を渡り合戦す、今川が兵破れ走る      夜に入って、吉田の城を引退き、牧野古白をして是を守らしめ、諸勢を引いて駿河に帰る」となっている      ので、これらの点から考えてみるといかに戦国の事とは言え氏親がわずか三四ヶ月前に敵に内通しはしまい 【欄外】 豊橋市史談  (牧野古白の戦死)          二十三

英語訳

【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (The Death in Battle of Makino Kohaku)          22 【Main text】      there is a document written by these two people titled "Makino Family Origins," and these books use the ridge tablet of Kohaku at Yahashi Shinmei      Shrine in Toyohashi city as evidence to affirm the theory in "Ushikubo Secret Discussions." The source of this      error is that while the aforementioned ridge tablet is from Meiō 6th year, it has been mistranscribed and passed down as Eishō 6th year since ancient times,      and this mistake exists not only in "Miyajima Records" and "Makino Family Origins" but in many other sources as well. Since they claim the ridge tablet shows Eishō 6th year      and use this as evidence to argue that Kohaku could not have died in Eishō 3rd year, thus denying Kohaku's death in battle,      the theory of Kohaku's non-death in battle is already fundamentally flawed. Regarding the date of Kohaku's death in battle,      it is as I outlined earlier, but now regarding who Kohaku's opponents were in this battle, strangely      this is also questionable and has been a difficult problem to resolve since ancient times. That is,      there are two theories: 《Marginal note: Imagawa Ujichika attack theory》  1. Those who claim it was an attack by Imagawa Ujichika due to slander by Toda Danjō Norimitsu of Tahara 《Marginal note: Matsudaira Nagachika counterattack theory》  2. Those who claim it was a counterattack by Matsudaira Nagachika      These are the two theories. Even in the genealogies of the Makino Iyo-no-kami family, the older ones adopt this second theory while the newer ones      conversely record the first theory, and although "Chōya Kyūbun Hōkō" and "Tokugawa Jitsuki" were supposedly created in the same era under the supervision of the same person,      their theories still differ, with the former taking the first theory and the latter containing the second theory.      While "Kan'ei Keizu," also compiled by the shogunate, records the first theory, "Kansei Chōshū Shokafu" adopts the second      theory. Works like "Hankanfu" cite "Sōgyōki" to adopt the first theory, while works like "Yashi" give weight to old Makino      genealogies and affirm the second theory. Given such circumstances, various other records      present different theories. However, what requires great investigation in connection with this matter is that the Imagawa and Matsudaira clans had a 【Margin】  Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as his draft nears completion 【Left page】 【Main text】 《Marginal note: Battle between Imagawa and Matsudaira clans at Yahagi River》 battle at Yahagi River from August 20th to 22nd. Originally, this Matsudaira Nagachika was the grandson of Nobumitsu 《Marginal note: Battle》     and son of Chikatada, and from Tokugawa Ieyasu's perspective was his great-great-grandfather. This person had considerable popular support and resided      at Anjō Castle, but the generals of western Mikawa gradually submitted to him and his power grew daily. Under these circumstances, Imagawa Ujichika of Suruga      sent out troops to attack him, and Ise Shinku̧rō (Hōjō Sōun) as his general first attempted to attack Iwazu Castle.      Therefore, Nagachika could not ignore this and came out from Anjō to rescue it, finally leading to the battle at Yahagi River. This      battle is recorded in detail in Hikozaemon's "Mikawa Monogatari," and the accounts in various records are roughly consistent.      Ultimately this battle ended unfavorably for the Imagawa side, but Ise Shinku̧rō, hearing that Toda Danjō Norimitsu, lord of Tahara Castle, would turn his allegiance to Naga-      chika and raise the banner of rebellion, hurriedly withdrew to Imahashi Castle, and this matter is also recorded in the same "Mikawa Monogatari."      Also, the same book lists the names of Imagawa forces in this battle, among which is mentioned "Yoshida forces." That is, this      likely refers to Kohaku's forces from Imahashi. Of course, at that time there was no place name Yoshida yet and it was certainly Imahashi,      but I believe without doubt that when Hikozaemon wrote this book, he recorded it without deeply investigating past matters.      Particularly, the Makino family genealogy states:       "Eishō 3rd year, Ise Shinku̧rō representing Imagawa, led troops from five provinces, advanced toward Sanshū, Kohaku served Imagawa, 20th day 8th month, Shinku̧rō led forces from eastern Mikawa       province, fought a great battle with Matsudaira Nagachika near Yahagi River, victory undecided, day ended promised to fight again tomorrow, at nightfall Shinku̧rō returned to Yoshida Castle, established       control over eastern Mikawa, withdrew troops and returned to Suruga"      but "Kan'ei Shinden Chakuryūfu" clearly states "Nagachika led over 500 horsemen across Yahagi River in battle, Imagawa's troops were defeated and fled      as night fell, withdrew from Yoshida Castle, had Makino Kohaku guard it, led all forces back to Suruga,"      so considering these points, however much this was wartime, it seems unlikely that Ujichika would have had an enemy collaborator just three or four months earlier 【Margin】 Toyohashi Historical Discussion  (The Death in Battle of Makino Kohaku)          23