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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 241

ページ: 241

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百五十四 【本文】      藤田東湖(ふぢたとうこ)は此(この)時(とき)は既(すで)に歿(ぼつ)したる後(のち)であつたのである東湖(とうこ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く此(この)時(とき)から云(い)ふと二 年前(ねんぜん)安政(あんせい)二       年の十二月二日 江戸(えど)に有名(いうめい)なる大地震(おほぢしん)があつた時(とき)其(その)母(はゝ)を救(すく)はむとして遂(つひ)に自(みづか)らも圧死(あつし)したのである之(これ)は       普(あまね)く諸君(しよくん)が御承知(ごせうち)の事であると思(おも)ふが前(まへ)に申述(まをしの)べた彼(か)の児島閑牕(こじまかんそう)も矢張(やはり)其(その)時(とき)は江戸(えど)に居(を)つたので家屋(かをく)       の倒壊(とうくわい)に遇(あ)ひ父(ちゝ)六 助(すけ)と共(とも)に圧伏(あつふく)せられたが之(これ)は幸(さいはひ)に救助(きうじよ)せられて一 命(めい)を全(まつた)ふしたのであつたサテ話(はなし)       は前(まへ)に戻(もど)るが斉昭(なりあき)がハリスの要求(えうきう)に対(たい)する意見(いけん)は右(みぎ)の如(ごと)くであつたが大廊下(おほらうか)の諸侯中(しよこうちう)で鳥取侯(とつとりこう)松平慶(まつだひらよし)       徳(のり)の如(ごと)きも実(じつ)は斉昭(なりあき)の実子(じつし)である処(ところ)からでもあろうが略(ほ)ぼ斉昭(なりあき)のものと同様(どうやう)であつた然(しか)るに其(その)他(た)に至(いた)       つては大(おほい)に従前(じうぜん)のものと趣(おもむき)を異(こと)にする処(ところ)があつたのである殊(こと)に松平慶永(まつだひらよしなが)の如(ごと)きは全然(ぜん〴〵)開国(かいこく)進取(しんしゆ)の説(せつ)       で前(まへ)に御話(おはなし)した嘉永(かえい)当時(たうじ)のものとは全(まつた)く其(その)趣(おもむき)を一 変(ぺん)して居(を)つたのであるモツトモ之(これ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べ       たる如(ごと)く其(その)謀臣(ほうしん)橋本左内(はしもとさない)の啓沃(けいよく)が大(おほい)に力(ちから)あつたものであるとの説(せつ)であるが大広間詰(おほひろまづめ)の諸侯(しよこう)中(ちう)でも島津(しまづ)       斉彬(せいひん)の如(ごと)きは矢張(やはり)明(あきらか)に開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざる旨(むね)を申立(まをした)てたので仮令(たとへ)多少(たせう)は尚(な)ほ鎖国説(さこくせつ)に傾(かたむ)いて居(を)つたよう       なものでも従前(じうぜん)の如(ごと)き無謀(むぼう)極端(きよくたん)なる説(せつ)を主持(しゆじ)したるものは殆(ほとん)ど少数(せうすう)と相成(あひな)つて居(を)つたのである然(しか)るに       此処(こゝ)に最(もつと)も注意(ちうゐ)を要(えう)すべきの事は仮令(たとへ)事情(じぜう)は止(やむ)を得(え)ずしてハリスと仮条約(かりでうやく)を締結(ていけつ)するに至(いた)るとも此(この)事(じ) 《割書:外交に関し|勅許を奏請|すべしとの|議起る》  件(けん)のみは国家(こくか)無上(むぜう)の重大事(ぢうだいじ)であるから必(かなら)ず天朝(てんてう)に奏請(さうせい)して勅許(ちよくきよ)を得(え)たる後(のち)初(はじ)めて実施(じつし)すべしと云(い)ふの       が一 般(ぱん)の説(せつ)で実(じつ)に当時(たうじ)に於(お)ける最(もつと)も有力(いうりよく)なる輿論(よろん)ともなすべきものであつたと云(い)ふ事(こと)である蓋(けだ)し幕府(ばくふ)       は之(こ)れ迄(まで)長(なが)く専制(せんせい)の政権(せいけん)を掌握(せうあく)し随分(ずいぶん)国家(こくか)重大(ぢうだい)の事(こと)であると思(おも)はるゝものに関(くわん)しても所謂(いはゆる)独断専行(どくだんせんかう)を       なして何等(なんら)憚(はゞか)る処(ところ)がなかつたのであるトコロが独(ひと)り今日(こんにち)に至(いた)つて此処(こゝ)に再(ふたゝ)び天朝(てんてう)を仰(あふ)がむとするのは       抑(そもそ)も如何(いか)なる所以(ゆゑん)であるか之(これ)は実(じつ)に注目(ちうもく)すべき大切(たいせつ)の点(てん)ではなかろうかと思(おも)ふモツトモ此(この)事(こと)は只(たゞ)に今(こん)       日(にち)に初(はじ)まつたのではない既(すで)に嘉永(かえい)六年に於(おい)て彼(か)の井伊直弼(ゐいなをすけ)の如(ごと)きも明(あきらか)に外国交通(ぐわいこくかうつう)の事は宜(よろ)しく天朝(てんてう)に 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       奏(そう)すべきものであると云(い)ふ事を言(い)つて居(を)る次第(しだい)である       かくの如(ごと)く此(この)外交問題(ぐわいかうもんだい)に就(つい)ては是非共(ぜひとも)天朝(てんてう)に奏(そう)して勅許(ちよつきよ)を得(う)べきものであると云(い)ふのが全(まつた)く当時(たうじ)の輿(よ)       論(ろん)と相成(あひな)つたのであるが前(まへ)にも申述(まをしの)ぶる如(ごと)く之(これ)迄(まで)は相当(さうたう)の大事件(だいじけん)と思(おも)はるゝ事であつてもドシ〳〵幕(ばく)       府(ふ)に於(おい)て専断(せんだん)し敢(あえ)て憚(はゞか)る処(ところ)がなかつたように思(おも)はるゝ又(ま)た天下(てんか)の政権(せいけん)と云(い)ふものは全然(ぜん〴〵)天朝(てんてう)から幕府(ばくふ)       に御委任(ごゐにん)になつて居(を)るものであるから事大小(ことだいせう)となく幕府(ばくふ)に於(おい)て専断(せんだん)したとても決(けつ)して差支(さしつかへ)のないもの       であるとして深(ふか)く恠(あやし)むものはなかつたようである然(しか)るに今度(こんど)イヨ〳〵此(この)外国(ぐわいこく)との条約(でうやく)の一 件(けん)が起(おこ)るに       及(およ)むで忽(たちま)ち諸侯(しよこう)諸士(しよし)の議論(ぎろん)が之(これ)を天朝(てんてう)に奏(そう)すべしと云(い)ふに至(いた)つたと云(い)ふものは抑(そもそ)も如何(いか)なる訳(わけ)である       であろうか之(これ)は実(じつ)に史家(しか)の研究(けんきう)を要(えう)する処(ところ)であると思(おも)ふが併(しか)し申(まを)す迄(まで)もなく我国(わがくに)の国体(こくたい)と云(い)ふものは       万世不易(ばんせいふえき)であつて御承知(ごせうち)の如(ごと)く之(これ)には実(じつ)に悠遠(ゆうゑん)なる歴史(れきし)を有(いう)して居(を)るのである之(これ)が我国民(わがこくみん)の思想(しさう)を支(し)       配(はい)して居(を)る事(こと)は到底(たうてい)理論(りろん)の外(ほか)であるが彼(か)の「なに事(こと)のおはしますかは知(し)らねども忝(かたじけ)なさに涙(なみだ)こぼるゝ       」と云(い)ふ国民(こくみん)の至情(しぜう)は如何(いか)なる場合(ばあひ)にも絶(た)へず貫通(くわんつう)して居(を)る事と思(おも)ふ之(これ)が時(とき)に方(あた)り物(もの)に触(ふ)れて発揮(はつき)せ       らるゝのは所謂(いはゆる)独得(どくとく)の我国民性(わがこくみんせい)を形成(かたちずく)つて居(を)る所以(ゆゑん)であるが特(とく)に徳川氏(とくがはし)の天下(てんか)も長(なが)い間(あひだ)太平(たいへい)が打続(うちつゞ)い       たのであるから其(その)間(あひだ)には段々(だん〴〵)と文学(ぶんがく)なども勃興(ぼつこう)し歴史的(れきしてき)研究(けんきう)の進(すゝ)むに従(したが)つては次第(しだい)に国民(こくみん)の自覚(じかく)を惹(じや)       起(つき)するのは当然(たうぜん)である彼(か)の徳川光圀(とくがはみつくに)の如(ごと)きは御承知(ごせうち)の如(ごと)く大日本史(だいにつぽんし)の編纂(へんさん)を企(くはだ)てた人(ひと)であるが次第(しだい)に       皇朝(くわうてう)の歴史(れきし)に研鑽(けんさん)を積(つ)めば積(つ)む程(ほど)我国体(わがこくたい)の深遠(しんゑん)なる所以(ゆゑん)を感(かん)じたので彼(か)の足利時代(あしかゞじだい)以来(いらい)叛逆(はんぎやく)の人(ひと)の如(ごと)       くに取(とり)なされて居(を)つた南朝(なんてう)の人々(ひと〴〵)に対(たい)しても之(これ)を大忠臣(だいちうしん)として其(その)順逆(じゆんぎやく)を明(あきら)かにし楠正成(くすのきまさしげ)の為(ため)に湊(みなと) 《割書:光圀の大日|本史と山陽|の日本外史》  川(かは)に碑(ひ)を建(た)てるなど後日(ごにち)頼山陽(らいさんやう)が日本外史(にほんぐわいし)の著述(ちよじゅゆつ)と相(あひ)対照(たいせう)して実(じつ)に言(い)ふべからざる趣味(しゆみ)を感(かん)ずる処       である尚(な)ほ一つには前(まへ)にも一寸(ちよつと)申述(まをしの)べて置(お)いた如(ごと)く国学(こくがく)の勃興(ぼつこう)であるが之(これ)にも色々(いろ〳〵)な関係(くわんけい)はある併(しか)し 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百五十五

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十四 【本文】 藤田東湖は、この時は既に亡くなった後であったのである。東湖は御承知のように、この時から言うと二年前の安政二年の十二月二日、江戸に有名な大地震があった時、その母を救おうとして遂に自らも圧死したのである。これは広く諸君が御承知の事であると思うが、前に申し述べた彼の児島閑窓も、やはりその時は江戸にいたので家屋の倒壊に遭い、父六助と共に圧迫されたが、これは幸いに救助されて一命を全うしたのであった。 さて話は前に戻るが、斉昭がハリスの要求に対する意見は右のごとくであったが、大廊下の諸侯中で鳥取侯松平慶徳のごときも、実は斉昭の実子であるところからでもあろうが、ほぼ斉昭のものと同様であった。しかるにその他に至っては大いに従前のものと趣を異にするところがあったのである。殊に松平慶永のごときは全然開国進取の説で、前にお話した嘉永当時のものとは全くその趣を一変していたのである。 もっともこれは前にも申し述べたように、その謀臣橋本左内の啓発が大いに力があったものであるとの説であるが、大広間詰の諸侯中でも島津斉彬のごときは、やはり明らかに開国の止むを得ない旨を申し立てたので、たとえ多少は尚鎖国説に傾いていたようなものでも、従前のような無謀極端な説を主張したるものは殆んど少数と相成っていたのである。 しかるにここに最も注意を要すべきの事は、たとえ事情は止むを得ずしてハリスと仮条約を締結するに至るとも、 《小見出し:外交に関し勅許を奏請すべしとの議起る》 この事件のみは国家無上の重大事であるから、必ず天朝に奏請して勅許を得たる後、初めて実施すべしというのが一般の説で、実に当時における最も有力な輿論ともなすべきものであったということである。 蓋し幕府は、これまで長く専制の政権を掌握し、随分国家重大の事であると思われるものに関しても所謂独断専行をなして何等憚るところがなかったのである。ところが独り今日に至ってここに再び天朝を仰がんとするのは、抑々如何なる所以であるか。これは実に注目すべき大切の点ではなかろうかと思う。 もっともこの事は、ただに今日に初まったのではない。既に嘉永六年において、彼の井伊直弼のごときも明らかに外国交通の事は宜しく天朝に 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際し [以下欠損] 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 奏すべきものであるということを言っている次第である。 かくのごとく、この外交問題については是非とも天朝に奏して勅許を得るべきものであるというのが全く当時の輿論と相成ったのであるが、前にも申し述ぶるごとく、これまでは相当の大事件と思われる事であってもどしどし幕府において専断し、敢えて憚るところがなかったように思われる。また天下の政権というものは全然天朝から幕府に御委任になっているものであるから、事大小となく幕府において専断したとても決して差し支えのないものであるとして、深く怪しむものはなかったようである。 しかるに今度いよいよこの外国との条約の一件が起こるに及んで、忽ち諸侯諸士の議論がこれを天朝に奏すべしということに至ったというものは、抑々如何なる訳であるであろうか。これは実に史家の研究を要するところであると思うが、しかし申すまでもなく、我国の国体というものは万世不易であって、御承知のごとくこれには実に悠遠なる歴史を有しているのである。 これが我国民の思想を支配していることは到底理論の外であるが、彼の「何事のおわしますかは知らねども忝なさに涙こぼるる」という国民の至情は、如何なる場合にも絶えず貫通していることと思う。これが時に方り、物に触れて発揮されるのは所謂独得の我国民性を形成っている所以であるが、特に徳川氏の天下も長い間太平が打ち続いたのであるから、その間には段々と文学なども勃興し、歴史的研究の進むに従っては次第に国民の自覚を喚起するのは当然である。 彼の徳川光圀のごときは、御承知のごとく大日本史の編纂を企てた人であるが、次第に皇朝の歴史に研鑽を積めば積むほど、我国体の深遠なる所以を感じたので、彼の足利時代以来叛逆の人のごとくに取りなされていた南朝の人々に対しても、これを大忠臣として其の順逆を明らかにし、楠正成のために湊川に碑を建てるなど、 《小見出し:光圀の大日本史と山陽の日本外史》 後日頼山陽が日本外史の著述と相対照して、実に言うべからざる趣味を感ずるところである。尚一つには前にも一寸申し述べて置いたごとく国学の勃興であるが、これにも色々な関係はある。しかし 【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十五

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 454 **Main Text:** Fujita Tōko had already passed away by this time. As you know, Tōko died two years before this time, on December 2nd of Ansei 2, when there was a famous great earthquake in Edo, and he was crushed to death while trying to rescue his mother. This is widely known to all of you, I believe, but the aforementioned Kojima Kansō was also in Edo at that time and was trapped under collapsed buildings along with his father Rokusuke, but fortunately they were rescued and saved their lives. Now, returning to our story, while Nariaki's opinion regarding Harris's demands was as described above, among the feudal lords of the main corridor, Tottori lord Matsudaira Yoshinori, being Nariaki's actual son, held roughly the same views as Nariaki. However, others had opinions that differed greatly from previous positions. Particularly Matsudaira Yoshinaga completely advocated opening the country and progressive policies, having completely changed his stance from what it was during the Kaei period that I mentioned earlier. This was, as I mentioned before, said to be largely due to the enlightening influence of his advisor Hashimoto Sanai. Among the great hall lords, figures like Shimazu Nariakira also clearly stated that opening the country was unavoidable, so even those who still somewhat leaned toward isolationism, very few maintained the reckless and extreme positions of before. However, the most important point to note here was that even if circumstances made it unavoidable to conclude a provisional treaty with Harris, *Subheading: The Proposal to Seek Imperial Permission for Foreign Affairs* this matter alone was of supreme national importance, so it must first be reported to the Imperial Court to obtain imperial permission before implementation - this was the general opinion and truly represented the most influential public sentiment of the time. The shogunate had long held autocratic political power and had acted unilaterally on matters deemed important to the state without any hesitation. But why now, for the first time, did they seek to look up to the Imperial Court again? This seems to me a truly noteworthy and crucial point. However, this did not begin just now. Already in Kaei 6, even Ii Naosuke had clearly stated that matters of foreign relations should properly be reported to the Imperial Court. **Margin:** Toyohashi Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as his manuscript nears completion... [text damaged/missing] **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once per week (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper. **Main Text:** This is what he was saying. Thus, regarding this foreign affairs issue, the idea that imperial permission must absolutely be sought from the Imperial Court became the prevailing public opinion of the time. However, as mentioned before, even in matters that seemed quite significant, the shogunate had previously made unilateral decisions without hesitation. Since all political authority under heaven was completely delegated from the Imperial Court to the shogunate, it was considered perfectly acceptable for the shogunate to act independently in all matters great and small, and no one found this particularly strange. But now, when this matter of treaties with foreign countries arose, why did the arguments of feudal lords and samurai suddenly turn to the need to report this to the Imperial Court? This is truly a matter requiring scholarly research, but needless to say, our nation's national polity is eternal and unchanging, and as you know, it has a truly ancient and profound history. That this governs the thinking of our people is completely beyond theoretical explanation, but the sincere feelings of our people expressed in the poem "Though I know not what divine presence dwells here, tears fall from overwhelming gratitude" flow continuously through all circumstances. This manifests when touched by events and circumstances, forming what we might call our nation's unique character. Particularly since the Tokugawa realm enjoyed long periods of peace, literature and learning gradually flourished during this time, and as historical research advanced, it naturally awakened national consciousness among the people. Tokugawa Mitsukuni, as you know, was the person who undertook the compilation of the Dai Nihon-shi (Great History of Japan). As he delved deeper into the history of the imperial court, he increasingly felt the profound significance of our national polity. Even regarding the people of the Southern Court, who had been treated as rebels since the Ashikaga period, he recognized them as great loyalists, clarified the distinction between loyalty and rebellion, and built a monument to Kusunoki Masashige at Minatogawa. *Subheading: Mitsukuni's Dai Nihon-shi and Sanyō's Nihon Gaishi* When compared with Rai Sanyō's later work "Nihon Gaishi" (Unofficial History of Japan), one feels an indescribable fascination. Furthermore, as I briefly mentioned before, there was the rise of National Learning (kokugaku), which had various related factors. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 455