Code4Lib JAPAN ✕ みんなで翻刻

コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 242

ページ: 242

翻刻

【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百五十六 【本文】       諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く先(ま)づ本居宣長(もとおりのりなが)に至(いた)つて大(おほい)に其(その)真髄(しんずゐ)を発揮(はつき)するに至(いた)つたものと云(い)つてよかろうと思(おも)       ふが我(わが)吉田(よしだ)に於(お)ける国学者(こくがくしや)に就(つい)ても前章(ぜんせう)に少(すこ)しく話(はなし)の端緒(たんちよ)だけは開(ひら)いて置(お)いた考(かんがへ)であるから尚(な)ほ追(おい)         追(〳〵)申述(まをしの)ぶる処(ところ)もある筈(はづ)であるが兎(と)に角(かく)以上(いぜう)の如(ごと)き尚古的研究(せうこてきけんきう)と云(い)ふものが勃興(ぼつこう)せる結果(けつくわ)は慥(たしか)に我国(わがくに)固(こ)       有(いう)の国民性(こくみんせい)を刺激(しげき)して其(その)発奮(はつふん)を促(うなが)した事は事実(じじつ)であると思(おも)ふトコロへ外国関係(ぐわいこくくわんけい)と云(い)ふ大問題(だいもんだい)が起(おこ)つ       たのであるが最初(さいしよ)は誰(だれ)も鎖国主義(さこくしゆぎ)で押(お)し通(とほ)したいと云(い)ふ観念(くわんねん)より外(ほか)にはなかつたものと信(しん)ぜられる勿(もち)       論(ろん)少数(せうすう)の先覚者(せんかくしや)はあつて海防(かいぼう)の一日も忽諸(こつちよ)に付(ふ)せられぬ事 及(およ)び到底(たうてい)世界(せかい)の進運上(しんうんぜう)鎖国(さこく)の行(おこな)はれ難(がた)い事       などを唱導(せうどう)したものがないではなかつたが其(その)頃(ころ)はまだ中々(なか〳〵)容(い)れられる様子(やうす)はなかつたのである然(しか)るに       段々(だん〴〵)外船(ぐわいせん)の渡来(とらい)が烈(はげ)しくなつて種々(しゆ〴〵)なる圧迫(あつぱく)を受(う)くるのみならず次第(しだい)〳〵に世界(せかい)の大勢(たいせい)が了解(れうかい)せらる       ゝに従(したがつ)ては結局(けつきよく)鎖国(さこく)攘夷(ぜうゐ)は行(おこな)はれ難(がた)いものであると云(い)ふ事(こと)が思(おも)はるゝようになつて来(き)たのであるトコ       ロが之(これ)は主立(おもだ)つた人々の間(あひだ)にのみ発生(はつせい)した思想(しさう)でまだ〳〵ドウして多年(たねん)固着(こちやく)して居(を)る我国民(わがこくみん)多数(たすう)の鎖(さ)       国(こく)思想(しさう)と云(い)ふものは容易(ようい)に解(と)きホドく事は出来(でき)ないのである此(こゝ)に至(いた)つては攘夷論(ぜうゐろん)の勃興(ぼつこう)するのは当然(たうぜん)       の趨勢(すうせい)であるが之(これ)を能(よ)く抑(おさ)へ通(とほ)すだけの勢力(せいりよく)が当時(たうじ)徳川幕府(とくがはばくふ)にあつたかドウか云(い)ふ迄(まで)もなく当時(たうじ)幕府(ばくふ)       に其(その)勢力(せいりよく)は到底(たうてい)欠乏(けつぼう)して居(を)つたので之(これ)が抑(そもそ)も前(ぜん)申述(まをしの)べてある処(ところ)に帰着(きちやく)すべき運命(うんめい)をなした原因(げんゐん)である 《割書:幕末勢力の|推移》  となさねばならぬツマル処(ところ)は開国(かいこく)と云(い)ふ前代未聞(ぜんだいみぶん)の大問題(だいもんだい)に遭遇(そうぐう)したると而(しか)して多年(たねん)固着(こちやく)せる鎖国論(さこくろん)       を開発(かいはつ)して反対論者(はんたいろんしや)を抑(おさ)へ通(とほ)す丈(だけ)の力(ちから)が幕府(ばくふ)に欠乏(けつぼう)したのとが遂(つひ)に能(よ)く我国(わがくに)固有(こいう)の国民性(こくみんせい)と相結合(あひけつがふ)し       て此(この)勅許(ちよくきよ)を請(こ)ふべき議論(ぎろん)を喚起(くわんき)するに至(いた)つたものであると思(おも)ふのである之(これ)は元(もと)より大体(だいたい)に就(つい)ての話(はなし)で       あるが蓋(けだ)し此処(こゝ)が又(ま)は味(あぢは)つて見(み)れば我国体(わがこくたい)の妙味(みようみ)ともなすべきではなかろうか少(すくな)くとも維新史(ゐしんし)を研究(けんきう)       するものゝ大(おほい)に留意(りうい)すべき処(ところ)であると思(おも)ふ 【欄外】      発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百十七号附録    (大正二年七月十五日発行) 【本文】       右(みぎ)の如(ごと)き次第(しだい)であつたから幕府(ばくふ)に於(おい)ては安政(あんせい)四年十二月 条約締結(でうやくていけつ)の議(ぎ)を決(けつ)し井上(ゐのうへ)、岩瀬(いはせ)の二 人(にん)をして       ハリスと談判(だんぱん)を開始(かいし)せしむると同時(どうじ)に京都所司代(けうとしよしだい)脇坂淡路守(わきざかあはぢのかみ)をして伝奏(でんそう)広橋前大納言光成(ひろばしさきのだいなごんみつなり)、東坊城(ひがしばうじやう)       前大納言(さきのだいなごん)聰長の二 人(にん)により関白(くわんぱく)九条尚忠(くでうなほたゞ)を経(へ)て交易(かうえき)並(ならび)に外吏(ぐわいり)の駐在(ちうざい)を許(ゆる)し且(か)つ其(その)駐在(ちうざい)の場所(ばしよ)及(およ)び期限(きげん)       は国内(こくない)人心(じん〳〵)の稠和(てうわ)を計(はか)りて決(けつ)すべく開港場(かいこうば)も下田(しもだ)を閉(と)づる代(かは)りには其(その)代港(だいこう)は談判(だんぱん)を経(へ)て定(さだ)むべき旨(めね)を       奏上(そうぜう)せしめたのであるが更(さら)に川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)の議(ぎ)を用(もち)ゐ特使(とくし)を派(は)して外交(ぐわいかう)の経過(けいくわ)を奏上(そうぜう)し尚(な)ほ京都(けうと)の御(ご)       下問(かもん)に答(こた)ゆる為(た)め其(その)十一日を以(もつ)て林大学頭(はやしだいがくのかみ)諱、目付(めつけ)津田半(つだはん)三 郎(らう)に上京(ぜうけう)を命(めい)じたのである而(しか)して其(その)十       五日には一 般諸侯(ぱんしよこう)に向(むか)つて外交貿易(ぐわいかうぼうえき)を許(ゆる)し大(おほい)に古制(こせい)の変革(へんかく)をなすべき旨(むね)を諭達(ゆだつ)したが更(さら)に其(その)廿九日に      至(いた)つて特(とく)に溜間詰(たまりまづめ)、大廊下(おほらうか)、大広間(おほひろま)の諸侯(しよこう)に登城(とじやう)を命(めい)じて各別(かくべつ)に将軍(せうぐん)の謁(えつ)を賜(たま)ひ然(しか)る後(のち)老中(らうちう)列座(れつざ)の上(うへ)       条約締結(でうやくていけつ)に関(くわん)する意見(いけん)を十 分(ぶん)に吐露(とろ)すべき事(こと)を求(もと)め且(か)つ其(その)席(せき)には海防掛(かいぼうかゝり)、大目付(おほめつけ)土岐丹波守(どきたんばのかみ)、目付(めつけ)鵜(う)       殿民部少輔(どのみんぶのせうゆ)、岩瀬肥後守(いはせひごのかみ)等(ら)をも出席(しゆつせき)せしめてハリスとの談判(だんぱん)の始末(しまつ)を詳述(せうじゆつ)せしめたのである尚(なほ)此(この)事(こと)は       翌(よく)晦日(みそか)を以(もつ)て帝鑑間詰(ていかんのまづめ)以下(いか)の諸侯(しよこう)にも同様(どうやう)に行(おこな)つたのであるが三 家(け)には特(とく)に海防掛(かいぼうかゝり)を遣(つか)はして其(その)始末(しまつ)       を開陳(かいちん)せしめたのである然(しか)るに例(れい)の斉昭(なりあき)は近来(きんらい)種々(しゆ〴〵)と憤恨(ふんこん)に堪(た)へぬ事が蟠(わだかま)つて居(を)るので此(この)時(とき)も其(その)使者(ししや) 斉昭の放言 たる川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)等(ら)に向(むか)つて激語(げきご)を発(はつ)し老中(らうちう)備中守(びちうのかみ)、伊賀守(いがのかみ)等(ら)を罵倒(ばたう)し且(かつ)両人(れうにん)をして切腹(せつぷく)せしめハリ       スの首(くび)を刎(は)ぬべしとまで放言(はうげん)したのであるドウも此(この)頃(ごろ)の斉昭(なりあき)は実(じつ)に以前(いぜん)とは違(ちが)つて益々(ます〳〵)矯激(けうげき)であるの       で次第(しだい)に幕府(ばくふ)との間(あひだ)が遠(とほ)ざかるのみならず遂(つゐ)に同情者(どうぜうしや)を減(げん)ずるようなる結果(けつくわ)と相成(あひな)つたのは誠(まこと)に是非(ぜひ)       もなき次第(しだい)であると思(おも)ふ       サテ林大学頭(はやしだいがくのかみ)等(ら)幕府(ばくふ)の両使(れうし)は着京(ちやくけう)の後(のち)早速(さつそく)伝奏(ぜんそう)によりて先(ま)づ嘉永(かえい)六 年(ねん)ペリー来航(らいこう)以来(いらい)外人(ぐわいじん)との応接(おうせつ)の       大要(たいえう)を述(の)べ更(さら)にハリスの参府(さんぷ)より条約(でうやく)談判(だんぱん)の事に及(およ)び之(これ)に対(たい)する幕府(ばくふ)の内意(ないゝ)をも上言(ぜうごん)し結局(けつきよく)海外(かいぐわい)形(けい) 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百五十七 

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十六 【本文】 諸君も御承知のように、まず本居宣長に至って大いにその真髄を発揮するに至ったものと言ってよかろうと思うが、我が吉田における国学者についても前章で少しく話の端緒だけは開いて置いた考えであるから、なお追々申し述べるところもある筈であるが、とにかく以上のような尚古的研究というものが勃興した結果は、確かに我国固有の国民性を刺激してその発奮を促したことは事実であると思う。 ところへ外国関係という大問題が起こったのであるが、最初は誰も鎖国主義で押し通したいという観念より外にはなかったものと信じられる。もちろん少数の先覚者はあって、海防の一日も疎かに付せられない事及び到底世界の進運上鎖国の行われ難い事などを唱導したものがないではなかったが、その頃はまだなかなか受け入れられる様子はなかったのである。 しかるに段々外船の渡来が激しくなって種々なる圧迫を受けるのみならず、次第に世界の大勢が理解されるに従っては、結局鎖国攘夷は行われ難いものであるということが思われるようになって来たのである。 ところがこれは主立った人々の間にのみ発生した思想で、まだまだどうして多年固着している我国民多数の鎖国思想というものは容易に解きほどく事は出来ないのである。ここに至っては攘夷論の勃興するのは当然の趨勢であるが、これをよく抑え通すだけの勢力が当時徳川幕府にあったかどうか、言うまでもなく当時幕府にその勢力は到底欠乏していたので、これが抑々前に申し述べてあるところに帰着すべき運命をなした原因である。 《小見出し:幕末勢力の推移》 つまるところは開国という前代未聞の大問題に遭遇したることと、そして多年固着せる鎖国論を開発して反対論者を抑え通すだけの力が幕府に欠乏したのとが、遂によく我国固有の国民性と相結合して、この勅許を請うべき議論を喚起するに至ったものであると思うのである。これは元より大体についての話であるが、蓋しここがまた味わって見れば我国体の妙味ともなすべきではなかろうか。少なくとも維新史を研究するものの大いに留意すべきところであると思う。 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百十七号附録(大正二年七月十五日発行) 【本文】 右のような次第であったから、幕府においては安政四年十二月、条約締結の議を決し、井上、岩瀬の二人をしてハリスと談判を開始せしむると同時に、京都所司代脇坂淡路守をして伝奏広橋前大納言光成、東坊城前大納言聰長の二人により関白九条尚忠を経て、交易並びに外吏の駐在を許し、かつその駐在の場所及び期限は国内人心の調和を計って決すべく、開港場も下田を閉づる代わりにはその代港は談判を経て定むべき旨を奏上せしめたのである。 さらに川路左衛門尉の議を用い、特使を派して外交の経過を奏上し、なお京都の御下問に答えるため、その十一日を以て林大学頭諱、目付津田半三郎に上京を命じたのである。そしてその十五日には一般諸侯に向って外交貿易を許し、大いに古制の変革をなすべき旨を諭達したが、さらにその二十九日に至って特に溜間詰、大廊下、大広間の諸侯に登城を命じて各別に将軍の謁を賜り、しかる後老中列座の上、条約締結に関する意見を十分に吐露すべき事を求め、かつその席には海防掛、大目付土岐丹波守、目付鵜殿民部少輔、岩瀬肥後守等をも出席せしめて、ハリスとの談判の始末を詳述せしめたのである。 なおこの事は翌晦日を以て帝鑑間詰以下の諸侯にも同様に行ったのであるが、三家には特に海防掛を遣わしてその始末を開陳せしめたのである。 しかるに例の斉昭は近来種々と憤恨に堪えない事が蟠っているので、この時もその使者たる川路左衛門尉等に向って激語を発し、老中備中守、伊賀守等を罵倒し、かつ両人をして切腹せしめハリスの首を刎ぬべしとまで放言したのである。 《小見出し:斉昭の放言》 どうもこの頃の斉昭は実に以前とは違って益々矯激であるので、次第に幕府との間が遠ざかるのみならず、遂に同情者を減ずるような結果と相成ったのは誠に是非もなき次第であると思う。 さて林大学頭等幕府の両使は着京の後、早速伝奏によってまず嘉永六年ペリー来航以来外人との応接の大要を述べ、さらにハリスの参府より条約談判の事に及び、これに対する幕府の内意をも上言し、結局海外形 【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 456 **Main Text:** As you all know, it was with Motoori Norinaga that [National Learning] truly came to demonstrate its essence. Regarding the National Learning scholars in our Yoshida, I had already opened just the beginning of that discussion in the previous chapter, so there should be more to add gradually. In any case, I believe it is a fact that the rise of such antiquarian studies stimulated our nation's inherent national character and encouraged its awakening. At this point, the great problem of foreign relations arose. Initially, everyone believed in nothing other than the idea of maintaining isolationism at all costs. Of course, there were a few enlightened individuals who advocated that coastal defense could not be neglected for even a day, and that isolationism was ultimately untenable given world progress, but at that time such ideas were hardly accepted. However, as foreign ships arrived more frequently and applied various pressures, and as understanding of world conditions gradually developed, people began to realize that isolationism and anti-foreignism were ultimately impractical. But this was a mindset that emerged only among leading figures - the isolationist thinking that had been firmly entrenched among the majority of our people for many years could not easily be unraveled. Under these circumstances, the rise of anti-foreign sentiment was a natural trend, but needless to say, the Tokugawa shogunate at that time completely lacked the power to suppress it effectively. This was the fundamental cause that led to the fate I described earlier. *Subheading: The Shift in Power at the End of the Shogunate* In essence, encountering the unprecedented great problem of opening the country, combined with the shogunate's lack of power to overcome entrenched isolationist arguments and suppress opposition, ultimately merged well with our nation's inherent national character to give rise to arguments for seeking imperial permission. This is, of course, speaking in general terms, but perhaps when examined closely, this might be considered a subtle aspect of our national polity. At least, I think this is a point that students of Restoration history should pay close attention to. **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Partnership, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4417 Supplement (Published July 15, Taisho 2 [1913]) **Main Text:** Given these circumstances, in December of Ansei 4, the shogunate decided to conclude a treaty and had Inoue and Iwase begin negotiations with Harris. Simultaneously, they had Kyoto Deputy Wakizaka Awaji-no-kami, through the court nobles Hirohashi former Chief Counselor Mitsunari and Higashibojō former Chief Counselor Satosa, and via Chief Advisor Kujō Naotada, petition that trade and the residence of foreign officials be permitted, with the location and duration of such residence to be determined by considering domestic public sentiment, and that while the port of Shimoda would be closed, a replacement port would be determined through negotiations. Furthermore, adopting Kawaji Saemon-jō's proposal, they dispatched special envoys to report on foreign affairs developments and to respond to imperial inquiries from Kyoto, ordering Hayashi Daigaku-no-kami [name withheld] and Inspector Tsuda Hanzaburō to proceed to the capital on the 11th. On the 15th, they issued instructions to all feudal lords permitting foreign trade and announcing major reforms to ancient institutions. Further, on the 29th, they specifically ordered the lords of the antechamber, main corridor, and great hall to appear at the castle, where each was granted a separate audience with the shogun. Afterward, with the senior councilors in attendance, they were asked to freely express their opinions on treaty conclusion. At these meetings, they also had the coastal defense officials, Chief Inspector Toki Tanba-no-kami, Inspector Udono Minbu-shōyū, and Iwase Higo-no-kami attend to give detailed accounts of the Harris negotiations. This same procedure was carried out on the last day of the month for lords of the imperial audience chamber and below, while for the three Tokugawa branch families, coastal defense officials were specially dispatched to explain the situation. However, the aforementioned Nariaki, who had been harboring various resentments recently, on this occasion too directed harsh words at the envoys Kawaji Saemon-jō and others, denouncing Senior Councilors Bitchū-no-kami and Iga-no-kami, and even went so far as to demand that both should commit seppuku and Harris should be beheaded. *Subheading: Nariaki's Inflammatory Remarks* Indeed, Nariaki at this time was quite different from before, becoming increasingly extreme, which not only distanced him from the shogunate but ultimately reduced his sympathizers - truly an unavoidable situation. Now, the shogunate's two envoys, Hayashi Daigaku-no-kami and others, after arriving in Kyoto, promptly reported through the court nobles, first outlining the main points of dealings with foreigners since Perry's arrival in Kaei 6, then covering Harris's visit to Edo and treaty negotiations, also conveying the shogunate's intentions, and ultimately describing overseas conditions... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 457