← 前のページ
ページ 243 / 382
次のページ →
翻刻
【欄外】
豊橋市史談 (攘夷論の勃興) 四百五十八
【本文】
《割書:朝議幕府を|詰責す》 勢(せい)の変化(へんくわ)に従(したが)ひ古制(こせい)を改(あらた)めて開国(かいこく)を断行(だんかう)し無謀(むぼう)の開戦(かいせん)を非(ひ)とすべき旨(むね)を説述(せつじゆつ)したのであるトコが之(これ)
が中々(なか〳〵)朝廷(てうてい)の大問題(だいもんだい)と相成(あひな)つたので縉紳間(しんしんかん)に議論(ぎろん)が沸騰(ふつとう)したのである其(その)多(おほ)くは勿論(もちろん)攘夷論(ぜうゐろん)であつたが
之(これ)と云(い)ふのも何分(なにぶん)海外(かいぐわい)の形勢(けいせい)に通(つう)ぜなかつた結果(けつくわ)ではあるが云(い)ふ迄(まで)もなく之(これ)には因(よつ)て来(きた)る処(ところ)も種々(しゆ〴〵)あ
つたのである結局(けつきよく)朝廷(てうてい)に於(お)かせられては其(その)翌(よく)安政(あんせい)五 年(ねん)の正月(せうがつ)伝奏(でんそう)を所司代(しよしだい)の邸(てい)に遣(つか)はされて示命(しめい)せし
むる処(ところ)があつたのであるが其(その)要旨(えうし)は国家(こくか)の政務(せいむ)に関(くわん)して幕府(ばくふ)に委任(ゐにん)してあるには相違(さうゐ)ないが一 朝(てう)にし
て寛永(かんえい)以来(いらい)の厳制(げんせい)を改(あらた)むると云(い)ふに就(つい)ては一 大事(だいじ)であるから幕府(ばくふ)は夙(つと)に議論(ぎろん)を尽(つく)して叡聞(えいぶん)に達(たつ)し已(やむ)を
得(え)ざる次第(しだい)ともあれば太政官符(だぜうくわんふ)を請(こ)ふて天下(てんか)に布告(ふこく)すべきであつたであろうに其(その)事(こと)なくして今日(こんにち)まで
経過(けいくわ)したのは宜(よろ)しくない先年(せんねん)も既(すで)に梵鐘改鋳(ぼんせうかいちう)の件(けん)につきて太政官符(だぜうくわんぷ)を奏請(そうせい)したから之(これ)を下(くだ)した先例(せんれい)が
あるのに今(いま)此(この)重大事件(ぢうだいじけん)に対(たい)して何等(なんら)の奏請(そうせい)もなく茲(こゝ)に至(いた)つたのは如何(いか)なる訳(わけ)であるかと云(い)ふので歴々(れき〳〵)
として幕府(ばくふ)詰責(きつせき)の意味(いみ)があつたのである元来(がんらい)此(この)梵鐘改鋳(ぼんせうかいちう)の一 件(けん)と云(い)ふのは安政(あんせい)二 年(ねん)に各(かく)寺院(じゐん)の梵鐘(ぼんせう)を
廃(はい)せしめて之(これ)で大砲(たいほう)を鋳造(ちうざう)し国防(こくぼう)に充(あ)つると云(い)ふ主旨(しゆし)であつたが之(これ)は御承知(ごせうち)の如(ごと)く水戸斉昭(みとなりあき)の主張(しゆてう)で
あつたのである恐(おそ)くは当時(たうじ)其(その)説(せつ)に基(もとづ)いて老中(らうちう)阿部伊勢守(あべいせのかみ)が太政官符(だぜうくわんふ)奏請(そうせい)の処置(しよち)をしたものであつたこと
と信(しん)ぜられるが其(その)当時(たうじ)井伊直弼(ゐいなをすけ)の如(ごと)きは之(これ)に対(たい)して武威衰替(ぶゐすうたい)の兆将来憂慮(てうせうらいゆうりよ)に堪(た)へずと云(い)つたとの事で
ある然(しか)るに今度(こんど)朝廷(てうてい)に於(お)かせられては図(はか)らずも此(この)事(こと)を例(れい)に取(と)つて幕府(ばくふ)が外交(ぐわいかう)の専断(せんだん)を詰責(きつせき)せられたと
云(い)ふ訳(わけ)になつたのである兎(と)に角(かく)此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)で幕使(ばくし)の上京(ぜうけう)も偶(たまた)ま以(もつ)て朝廷(てうてい)の異論(ゐろん)を挑発(てうはつ)するに過(す)ぎな
かつたのであるかゝる間(あひだ)に江戸(えど)に於(おい)ては彼(か)のハリスとの談判(だんぱん)は大(おほい)に進行(しんかう)し前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く正月
十二日 第(だい)十三 回目(かいめ)の会見(くわいけん)で大略(たいりやく)結了(けつれう)と相成(あひな)つたのであるトコロで前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)き国情(こくぜう)であるから此(この)際(さい)は是(ぜ)
非共(ひとも)其(その)調印前(てういんぜん)に勅許(ちよくきよ)を得(う)る必要(ひつえう)を感(かん)じたので林大学頭(はやしだいがくのかみ)等(ら)が上京(ぜうけう)せる結果(けつくわ)如何(いかん)と相待(あひま)つて居(を)つたので
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
あるが右(みぎ)申述(まをしの)ぶる如(ごと)き次第(しだい)で到底(たうてい)都合(つがふ)のよい朝旨(てうし)を齎(もた)らして帰府(きふ)することは覚束(おぼつか)ないと云(い)ふ場合(ばあひ)になつ
《割書:堀田閣老の|上京》 た処(ところ)から余義(よぎ)なく幕府(ばくふ)は堀田閣老(ほつたかくらう)に川路(かはぢ)、岩瀬(いはせ)両人(れうにん)を従(したが)へて上京(ぜうけう)せしめ以(もつ)て縉紳(しんしん)の間(あひだ)に周旋(しうせん)する処(ところ)あ
らしめむとしたのである
《割書:将軍継嗣問|題の紛糾》 トコロで此処(こゝ)に又(ま)た一つ蟠(わだかま)つた大問題(だいもんだい)があると云(い)ふのは将軍継嗣(せうぐんけいし)の事(こと)である元来(がんらい)此(この)徳川(とくがは)十三 代将軍(だいせうぐん)の
家定(いへさだ)と云(い)ふ人(ひと)は虚弱(きよじやく)の質(たち)で到底(たうてい)此(この)国事多端(こくじたたん)の時(とき)に方(あた)つて諸侯(しよこう)を駕御(がぎよ)し政機(せいき)を運用(うんよう)すると云(い)ふようなこと
の出来(でき)る人(ひと)ではない之(これ)は流石(さすが)に前(ぜん)将軍(せうぐん)家慶(いへよし)も心配(しんぱい)して居(を)つたのであるが時(とき)恰(あたか)も嘉永(かえい)六 年(ねん)彼(か)のペリー来(らい)
航(かう)の大難局(だいなんきよく)に方(あた)つて家慶(いへよし)は薨去(こうきよ)したのである此(この)時(とき)家慶(いへよし)も此(この)天下(てんか)無前(むぜん)の大難件(だいなんけん)が湧出(ゆうしゆつ)したるに就(つい)ては到(たう)
底(てい)嗣子(しじ)家定(いへさだ)ではやり切(き)れないであろうと思(おも)つたものと見(み)へて遺命(ゐめい)して水戸斉昭(みとなりあき)を立(た)たしめたのである
が松平慶永(まつだひらよしなが)も亦(ま)た切(せつ)に時(とき)の閣老(かくらう)阿部伊勢守(あべいせのかみ)に勧(すゝ)めて政務(せいむ)を斉昭(なりあき)に諮詢(しじゆん)せしめたのである之(これ)より数年(すうねん)と
云(い)ふものは将軍(せうぐん)家定(いへさだ)は只(た)だ手(て)を拱(きよ)して老中(らうちう)の決断(けつだん)に俟(ま)つて居(を)つたと云(い)ふ有様(ありさま)であつたが御承知(ごせうち)の如(ごと)く
時局(じきよく)は益(ます〳〵)艱難(かんなん)を加(くは)へて之(これ)より閣老(かくらう)の進退(しんたい)も常(つね)ならざる事(こと)となり政界(せいかい)の暗流(あんりう)は愈(いよ〳〵)急激(きうげき)たらむとする
の事情(じぜう)であつたから諸侯(しよこう)諸士(しよし)の間(あひだ)には是非共(ぜひとも)此(この)時局(じきよく)を救(すく)ひて国是(こくぜ)を確立(かくりつ)し国論(こくろん)を一 定(てい)して外人(ぐわいじん)の跳梁(てうれう)
を制(せい)せんとするには先(ま)づ蓋世(がいせい)の俊傑(しゆんけつ)に俟(ま)たなくてはならぬと云(い)ふので之(これ)も最初(さいしよ)は多(おほ)く望(のぞみ)を斉昭(なりあき)に属(ぞく)し
て居(を)つたのであるが何(なに)を云(い)ふにも斉昭(なりあき)の説(せつ)と云(い)ふものは動(やゝ)もすれば危激(きげき)に走(はし)りて海外(かいぐわい)の形勢(けいせい)に疎(うと)い処(ところ)
からドウも実際(じつさい)に行(おこな)はれ難(がた)い事(こと)が多(おほ)いので幕府(ばくふ)の当局者(たうきよくしや)とは次第(しだい)に相容(あひい)れざるようになり流石(さすが)の阿部(あべ)
伊勢守(いせのかみ)も持(も)て余(あま)したる様子(やうす)であつた併(しか)し斉昭(なりあき)の声聞(せいぶん)と云(い)ふものは尚(な)ほ一 方(ぱう)に高(たか)くして之(これ)等(ら)の人(ひと)からは
寧(むし)ろ幕府(ばくふ)の方(はう)が非難(ひなん)を受(う)けたのであつたが之(これ)も亦(ま)た事情(じぜう)が通(つう)ずるに及(およ)むでは前日(ぜんじつ)のように行(ゆ)かなくな
つたのである殊(こと)に将軍(せうぐん)家定(いへさだ)には到底(たうてい)子(こ)を挙(あ)ぐることが出来(でき)ないであろうと云(い)ふ処(ところ)から継嗣問題(けいしもんだい)も起(おこ)つた
【欄外】
豊橋市史談 (攘夷論の勃興) 四百五十九
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十八
【本文】
《小見出し:朝議幕府を詰責す》
勢の変化に従い古制を改めて開国を断行し、無謀の開戦を非とすべき旨を説述したのである。ところがこれがなかなか朝廷の大問題となったので縉紳間に議論が沸騰したのである。その多くはもちろん攘夷論であったが、これというのも何分海外の形勢に通じなかった結果ではあるが、言うまでもなくこれには由って来るところも種々あったのである。
結局朝廷におかせられてはその翌安政五年の正月、伝奏を所司代の邸に遣わされて示命せしむるところがあったのであるが、その要旨は「国家の政務に関して幕府に委任してあるには相違ないが、一朝にして寛永以来の厳制を改めるということについては一大事であるから、幕府は夙に議論を尽くして叡聞に達し、已むを得ざる次第ともあれば太政官符を請うて天下に布告すべきであっただろうに、その事なくして今日まで経過したのは宜しくない。先年も既に梵鐘改鋳の件につきて太政官符を奏請したからこれを下した先例があるのに、今この重大事件に対して何等の奏請もなく茲に至ったのは如何なる訳であるか」というので、歴々として幕府詰責の意味があったのである。
元来この梵鐘改鋳の一件というのは安政二年に各寺院の梵鐘を廃せしめてこれで大砲を鋳造し国防に充つるという主旨であったが、これは御承知のように水戸斉昭の主張であったのである。恐らくは当時その説に基づいて老中阿部伊勢守が太政官符奏請の処置をしたものであったことと信じられるが、その当時井伊直弼のようなは、これに対して「武威衰替の兆将来憂慮に堪えず」と言ったとのことである。
しかるに今度朝廷におかせられては図らずもこの事を例に取って幕府が外交の専断を詰責されたという訳になったのである。とにかくこのような次第で幕使の上京も偶々もって朝廷の異論を挑発するに過ぎなかったのである。
かかる間に江戸においては彼のハリスとの談判は大いに進行し、前にも申し述べたように正月十二日第十三回目の会見で大略結了となったのである。ところで前述のような国情であるから、この際は是非共その調印前に勅許を得る必要を感じたので、林大学頭等が上京せる結果如何と相待って居ったのである。
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる知識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際[以下不明]
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
あるが右申し述べるような次第で到底都合のよい朝旨を齎らして帰府することは覚束ないという場合になった。
《小見出し:堀田閣老の上京》
ところから余義なく幕府は堀田閣老に川路、岩瀬両人を従えて上京せしめ、以て縉紳の間に周旋するところあらしめんとしたのである。
《小見出し:将軍継嗣問題の紛糾》
ところでここにまた一つ蟠った大問題があるというのは将軍継嗣の事である。元来この徳川十三代将軍の家定という人は虚弱の質で、到底この国事多端の時に当たって諸侯を駕御し政機を運用するというようなことの出来る人ではない。これは流石に前将軍家慶も心配していたのであるが、時恰も嘉永六年彼のペリー来航の大難局に当たって家慶は薨去したのである。
この時家慶もこの天下無前の大難件が湧出したるについては到底嗣子家定ではやり切れないであろうと思ったものと見えて、遺命して水戸斉昭を立たしめたのである。が松平慶永もまた切に時の閣老阿部伊勢守に勧めて政務を斉昭に諮詢せしめたのである。これより数年というものは将軍家定は只だ手を拱して老中の決断に俟って居たという有様であったが、御承知のように時局は益々艱難を加えてこれより閣老の進退も常ならざることとなり、政界の暗流は愈々急激たらんとする事情であったから、諸侯諸士の間には是非共この時局を救いて国是を確立し国論を一定して外人の跳梁を制せんとするには、先ず蓋世の俊傑に俟たなくてはならぬというので、これも最初は多く望を斉昭に属して居たのである。
が何を言うにも斉昭の説というものは動もすれば危激に走りて海外の形勢に疎いところから、どうも実際に行われ難いことが多いので、幕府の当局者とは次第に相容れざるようになり、流石の阿部伊勢守も持て余したる様子であった。しかし斉昭の声聞というものはなお一方に高くしてこれ等の人からは寧ろ幕府の方が非難を受けたのであったが、これもまた事情が通ずるに及んでは前日のように行かなくなったのである。
殊に将軍家定には到底子を挙ぐることが出来ないであろうというところから継嗣問題も起こった。
【欄外】
豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百五十九
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 458
**Main Text:**
*Subheading: The Imperial Court Censures the Shogunate*
They explained that in accordance with changing conditions, ancient institutions should be reformed to carry out the opening of the country, and reckless warfare should be opposed. However, this became quite a major issue for the imperial court, causing heated debate among court nobles. Most of this was naturally anti-foreign sentiment, which, while resulting from lack of understanding of overseas conditions, had various underlying causes.
Ultimately, the imperial court, in January of the following year (Ansei 5), dispatched court nobles to the residence of the Kyoto deputy with imperial instructions. The gist was: "While it is true that national administration has been entrusted to the shogunate, changing the strict system that has existed since the Kanei era is a matter of great importance. The shogunate should have thoroughly discussed this matter, reported to the imperial court, and if unavoidable, should have requested imperial edicts to announce this to the nation. It is improper that this process has been bypassed. In previous years, when temple bells were to be recast, an imperial edict was requested and granted. Why has there been no such petition regarding this weighty matter?" This clearly meant censuring the shogunate.
Originally, this temple bell recasting affair in Ansei 2 involved melting down temple bells to cast cannons for national defense - a proposal by Mito Nariaki, as you know. Presumably, Senior Councilor Abe Ise-no-kami had petitioned for an imperial edict based on this proposal, though Ii Naosuke at the time opposed it, saying he "could not bear the concern over signs of declining military prestige."
Now the imperial court unexpectedly used this precedent to censure the shogunate's arbitrary conduct of foreign affairs. In any case, the shogunate envoys' journey to Kyoto had merely provoked imperial opposition.
Meanwhile in Edo, negotiations with Harris had progressed significantly, and as mentioned earlier, the thirteenth meeting on January 12th had substantially concluded matters. Given the national situation described above, they felt it absolutely necessary to obtain imperial permission before signing, so they were awaiting the results of Hayashi Daigaku-no-kami's mission to Kyoto.
**Margin:**
Toyohashi Mayor Oguchi Kiroku, applying his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, now as his manuscript nears completion... [text unclear]
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to Sanyo Newspaper readers
**Main Text:**
Given these circumstances, it became clear that obtaining favorable imperial instructions for their return to Edo was unlikely.
*Subheading: Senior Councilor Hotta's Journey to Kyoto*
Therefore, the shogunate had no choice but to send Senior Councilor Hotta to Kyoto, accompanied by Kawaji and Iwase, to mediate among the court nobles.
*Subheading: The Complication of the Shogunal Succession Issue*
Here arose yet another troublesome major problem - the matter of shogunal succession. The thirteenth Tokugawa shogun, Iesada, was constitutionally weak and certainly not capable of controlling the feudal lords and managing government affairs during these turbulent times. Even the previous shogun Ieyoshi had worried about this, but just as the great crisis of Perry's arrival in Kaei 6 occurred, Ieyoshi died.
At this time, Ieyoshi apparently felt that his heir Iesada could not handle this unprecedented national crisis, as he left instructions to rely on Mito Nariaki. Matsudaira Yoshinaga also earnestly urged the then-Senior Councilor Abe Ise-no-kami to consult with Nariaki on government matters. For several years thereafter, Shogun Iesada simply remained passive, waiting for the senior councilors' decisions. As you know, the situation became increasingly difficult, causing frequent changes in senior councilor positions, and political undercurrents grew more turbulent.
Among the feudal lords and retainers, there was a strong feeling that to rescue the situation, establish national policy, unify national opinion, and suppress foreign interference, they must rely on exceptional talent. Initially, many placed their hopes in Nariaki.
However, Nariaki's proposals tended toward dangerous extremism and showed ignorance of overseas conditions, making them often impractical. This gradually created incompatibility with shogunate authorities, and even the capable Abe Ise-no-kami seemed overwhelmed. Yet Nariaki's reputation remained high in some quarters, and these people rather blamed the shogunate. But as circumstances became clearer, this too changed from earlier attitudes.
Particularly since Shogun Iesada would likely never have children, the succession issue arose.
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 459