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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 244

ページ: 244

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【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百六十 【本文】       ので如何(いか)にしても此(この)際(さい)は非常(ひぜう)英明(えいめい)の主(しゆ)を得(え)て此(この)時局(じきよく)を解決(かいけつ)したいと云(い)ふのが多数(たすう)の希望(きぼう)と相成(あひは)つたが       一 部(ぶ)の諸侯(しよこう)諸士(しよし)の間(あひだ)には早(はや)くも既(すで)に此(この)継嗣(けいし)を一橋慶喜(ひとつはしよしひさ)に定(さだ)めたいと云(い)ふので其(その)望(のぞみ)を属(ぞく)するものがあつ       たのである 《割書:一橋派の南|紀派の確執》  然(しか)るに此(この)慶喜(よしひさ)を擁立(えうりつ)すると云(い)ふに就(つい)ては偏(ひとへ)に政治上(せいぢぜう)の希望(きぼう)であると云(い)ふが如(ごと)き単純(たんじゆん)なる訳(わけ)のものでは       ない之(これ)には中々(なか〳〵)込(こ)み入(い)つたる感情(かんぜう)も伴(ともな)つて居(を)つたのである従(したがつ)て之(これ)に対(たい)しては又(ま)た他(た)の一 方(ぱう)に紀伊慶(きいよし)       福(とみ)を迎(むか)へて継嗣(けいし)となさむとするものがあつたのであるソコで此(この)継嗣(けいし)に関(くわん)する暗闘(あんたう)は外交(ぐわいかう)の大問題(だいもんだい)と相(あひ)       錯雑(さくざつ)して更(さら)に内政(ないせい)の紛糾(ふんきう)を来(きた)さしめたものであることは是非共(ぜひとも)記憶(きおく)せねばならぬ事柄(ことがら)であるが御承知(ごせうち)の       如(ごと)く一橋慶喜(ひとつはしよしひさ)と云(い)ふ人(ひと)は水戸斉昭(みとなりあき)の第(だい)七 子(し)で弘化(こうくわ)四 年(ねん)八月 将軍(せうぐん)家定(いへさだ)の内諭(ないゆ)によつて一橋家(ひとつはしけ)の嗣(し)となつ       たものであるが幼(えう)にして頴悟(ゑいご)で長(てう)ずるに及(およ)むでは益々(ます〳〵)衆望(しうぼう)の帰(き)する処(ところ)となつたのである只(た)だ其(その)斉昭(なりあき)の       子(こ)であると云(い)ふ処(ところ)から賛成者(さんせいしや)も多(おほ)かつたのであるが又(ま)た反対(はんたい)の人(ひと)も生(せう)じた次第(しだい)である元来(がんらい)慶喜(よしひさ)と云(い)ふ       人(ひと)は父(ちゝ)斉昭(なりあき)の如(ごと)く危激(きげき)なる言動(げんどう)のある人(ひと)ではない寧(むし)ろ父(ちゝ)を諌(いさ)めて緩和(くわんわ)せしめし事は少(すくな)からざりし次第(しだい)       であつたが何(なに)を云(い)ふにも斉昭(なりあき)近来(きんらい)の言動(げんどう)と云(い)ふものは実(じつ)に過激(くわげき)であつて到底(たうてい)幕府(ばくふ)と相容(あひい)れないソコで       幕府(ばくふ)方(がた)の諸侯(しよこう)諸士(しよし)の間(あひだ)にあつては斉昭(なりあき)を慊(よろこ)ばないのは当然(たうぜん)であるから従(したがつ)て慶喜(よしひさ)を擁立(えうりつ)すると云(い)ふことに       は極(きは)めて面白(おもしろ)からず思(おも)つたことであろうと思(おも)ふ然(しか)るに前章(ぜんせう)から段々(だん〴〵)と申述(まをしの)べたる如(ごと)く当時(たうじ)は徳川幕府(とくがはばくふ)に       於(おい)ても次第(しだい)に諸侯(しよこう)間(かん)の輿論(よろん)を聴(き)くと云(い)ふ趣向(すうかう)を生(せう)ずべく余義(よぎ)なくされて来(きた)つたが如(ごと)く各藩(かくはん)に於(おい)ても亦(ま)       た其(その)諸士(しよし)の意見(いけん)を徴(てう)する事に成行(なりい)つて来(き)たのであるが所謂(いはゆる)志士(しゝ)なるものは此辺(このへん)から其(その)奮起(ふんき)を促(うなが)された       もので彼等(かれら)草莽(さうもう)の始議(しぎ)も漸(やうや)く其(その)藩論(はんろん)を動(うご)かし遂(つゐ)には天下(てんか)の公論(こうろん)にも影響(えいけう)すると云(い)ふのであるから益(ます〳〵)       進(すゝ)むで古来(こらい)の積弊(せきへい)を打破(だは)し一 新更始(しんこうし)の新政(しんせい)を望(のぞ)むと云(い)ふ時代(じだい)の改革者(かいかくしや)を続出(ぞくしゆつ)するに至(いた)つたのは当然(たうぜん)の 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百二十六号附録    (大正二年七月二十二日発行) 【本文】       事(こと)である此(この)点(てん)に関(くわん)しては蓋(けだ)し斉昭(なりあき)を以(もつ)て率先者(そつせんしや)ともなすべきもので時代(じだい)の改革者(かいかくしや)としての斉昭(なりあき)は実(じつ)に       天下(てんか)の志士(しゝ)に景迎(けいこう)せられたものである之(これ)等(ら)の志士(しゝ)は勿論(もちろん)斉昭(なりあき)が幕府(ばくふ)から遠(とほ)ざけられたと云(い)ふことを憤慨(ふんがい)       するものであるから此(この)際(さい)寧(むし)ろ慶喜(よしひさ)を推(お)し立(た)てゝ此(この)幕政(ばくせい)に当(あた)らしめむと企(くはだ)てたのは自然(しぜん)の数(すう)であるとも 《割書:松平慶永の|奔走》  云(い)ふべきである勿論(もちろん)諸侯(しよこう)の間(あひだ)にも此(この)論者(ろんしや)は沢山(たくさん)にあつたのであるが其(その)中(なか)でも松平慶永(まつだひらよしなが)の如(ごと)きは其(その)主(しゆ)た       るものであつたのである此(この)人(ひと)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く越前(ゑちぜん)福井(ふくゐ)の城主(じやうしゆ)で其(その)身(み)は田安(たやす)の出身(しゆつしん)であるのみ       ならず親藩(しんはん)の主(しゆ)たるものであるが元(も)と宗家(そうけ)を思(おも)ふの余(あま)り段々(だん〴〵)と継嗣(けいし)に就(つい)て心(こゝろ)を労(ろう)した結果(けつくわ)尾張(をはり)水戸(みと)を       初(はじ)め田安(たやす)にもそれ相応(さうおう)の人(ひと)はなくサリとて彼(か)の紀伊慶福(きいよしとみ)は未(いま)だ十 歳(さい)にも満(み)たない初年(えうねん)であるから此(この)一       大難局(だいなんきよく)に立(た)つて近(ちか)く将軍(せうぐん)の後(あと)を受(う)くるには不適当(ふてきたう)である然(しか)るに独(ひと)り一橋慶喜(ひとつはしよしひさ)は年齢(ねんれい)と云(い)ひ人格(じんかく)と云(い)ひ       直(たゝ)ちに将軍(せうぐん)の一臂(いつぴ)ともなるべきものであるから此(この)際(さい)は是非共(ぜひとも)之(これ)を擁立(えうりつ)するより外(ほか)はないと固(かた)く信(しん)じて       夙(つと)に企劃(きくわく)する処(ところ)があつたのであるが時機(じき)が未(いま)だ到来(たうらい)しなかつたので之(これ)を表面(へうめん)に現(あら)はす迄(まで)には至(いた)らなか       つたのである然(しか)るに御承知(ごせうち)の如(ごと)くイヨ〳〵ハリス渡来(とらい)などの事もあつて外交問題(ぐわいかうもんだい)は益(ます〳〵)頻繁(ひんはん)となり云(い)       はゞ我国(わがくに)に取(と)りて外交上(ぐわいかうぜう)の危機(きゝ)とも云(い)ふべき場合(ばあひ)に遭遇(そうぐう)したのであるから慶永(よしなが)は転々(たま〴〵)継嗣問題(けいしもんだい)の緊急(きんきう)       なる事を感(かん)ずるに至(いた)つたのであるが此(この)時(とき)に方(あた)つて之(これ)を感(かん)じたものは独(ひと)り慶永(よしなが)のみではない諸侯(しよこう)諸士(しよし)の       間(あひだ)にも専(もつぱ)ら持(も)ち上(あが)つて来(き)た問題(もんだい)であつた然(しか)るに慶喜(よしひさ)擁立(えうりつ)に就(つい)ては其(その)父(ちゝ)たる斉昭(なりあき)も頗(すこぶ)る熱心(ねつしん)なりし様子(やうす)       で安政(あんせい)三 年(ねん)の頃(ころ)既(すで)に書(しよ)を姻戚(ゐんせき)なる鷹司太閤(たかつかさたいかう)に寄(よ)せて潜(ひそ)かに其(その)希望(きばう)を述(の)べたと伝(つた)へられて居(を)るが何時(いつ)し       か此(この)事(こと)は幕府(ばくふ)を初(はじ)め井伊直弼(ゐいなほすけ)等(ら)の耳(みゝ)に漏(も)れたので益(ます〳〵)反対側(はんたいかわ)の警戒(けいかい)を加(くは)へしむるに至(いた)つたのであるかゝ       る有様(ありさま)であつたから折角(せつかく)慶永(よしなが)等(ら)の企劃(きくわく)も思(おも)ふ様(やう)に進行(しんかう)しなかつたのであるが彼(か)の島津斉彬(しまづせいひん)の如(ごと)きも最(さい)       初(しよ)から慶喜(よしひさ)賛成者(さんせいしや)の一 人(にん)であつたにも拘(かゝは)らず此(この)頃(ごろ)に至(いた)り何(なん)となく幕府(ばくふ)に対(たい)して遠慮(えんりよ)しだしたのみなら 【欄外】    豊橋市史談  (攘夷論の勃興)                    四百六十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百六十 【本文】 のでどのようにしてもこの際は非常に英明な主君を得てこの時局を解決したいというのが多数の希望となったが、一部の諸侯諸士の間には早くも既にこの継嗣を一橋慶喜に定めたいということでその望みを寄せる者があったのである。 《小見出し:一橋派と南紀派の確執》 しかるにこの慶喜を擁立するということについては、ひとえに政治上の希望であるというような単純な理由のものではない。これにはなかなか込み入った感情も伴っていたのである。従ってこれに対してはまた他の一方に紀伊慶福を迎えて継嗣となそうとする者があったのである。そこでこの継嗣に関する暗闘は外交の大問題と相錯雑してさらに内政の紛糾を来たらせたものであることは是非とも記憶せねばならぬ事柄であるが、御承知のように一橋慶喜という人は水戸斉昭の第七子で、弘化四年八月将軍家定の内諭によって一橋家の嗣となったものであるが、幼にして頴悟で長ずるに及んでは益々衆望の帰するところとなったのである。ただその斉昭の子であるというところから賛成者も多かったのであるが、また反対の人も生じた次第である。 元来慶喜という人は父斉昭のように危激なる言動のある人ではない。むしろ父を諌めて緩和させた事は少なからざる次第であったが、何を言うにも斉昭近来の言動というものは実に過激であって到底幕府と相容れない。そこで幕府方の諸侯諸士の間にあっては斉昭を喜ばないのは当然であるから、従って慶喜を擁立するということには極めて面白からず思ったことであろうと思う。 しかるに前章から段々と申し述べたように、当時は徳川幕府においても次第に諸侯間の輿論を聞くという趣向を生ずべく余儀なくされて来たが如く、各藩においてもまたその諸士の意見を徴する事に成り行って来たのであるが、所謂志士なるものはこの辺からその奮起を促されたもので、彼等草莽の始議も漸くその藩論を動かし遂には天下の公論にも影響するというのであるから、益々進んで古来の積弊を打破し一新更始の新政を望むという時代の改革者を続出するに至ったのは当然の 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百二十六号附録(大正二年七月二十二日発行) 【本文】 ことである。この点に関してはけだし斉昭をもって率先者ともなすべきもので、時代の改革者としての斉昭は実に天下の志士に景仰されたものである。これ等の志士はもちろん斉昭が幕府から遠ざけられたということを憤慨するものであるから、この際むしろ慶喜を推し立ててこの幕政に当たらせようと企てたのは自然の成り行きであるとも言うべきである。 《小見出し:松平慶永の奔走》 もちろん諸侯の間にもこの論者は沢山にあったのであるが、その中でも松平慶永のようなはその主たるものであったのである。この人は前にも申し述べたように越前福井の城主でその身は田安の出身であるのみならず親藩の主たるものであるが、元と宗家を思うの余り段々と継嗣について心を労した結果、尾張水戸を初め田安にもそれ相応の人はなく、さりとて彼の紀伊慶福は未だ十歳にも満たない幼年であるから、この一大難局に立って近く将軍の後を受けるには不適当である。しかるに独り一橋慶喜は年齢といい人格といい直ちに将軍の一臂ともなるべきものであるから、この際は是非ともこれを擁立するより外はないと固く信じて夙に企画するところがあったのであるが、時機が未だ到来しなかったのでこれを表面に現すまでには至らなかったのである。 しかるに御承知のようにいよいよハリス渡来などの事もあって外交問題は益々頻繁となり、言わば我国にとりて外交上の危機とも言うべき場合に遭遇したのであるから、慶永はつくづく継嗣問題の緊急なる事を感ずるに至ったのであるが、この時に当ってこれを感じたものは独り慶永のみではない。諸侯諸士の間にも専ら持ち上がって来た問題であった。しかるに慶喜擁立については、その父たる斉昭も頗る熱心なりし様子で、安政三年の頃既に書を姻戚なる鷹司太閤に寄せて潜かにその希望を述べたと伝えられているが、何時しかこの事は幕府を初め井伊直弼等の耳に漏れたので、益々反対側の警戒を加えしむるに至ったのである。 かかる有様であったから、折角慶永等の企画も思うように進行しなかったのであるが、彼の島津斉彬のようなも最初から慶喜賛成者の一人であったにも拘らず、この頃に至り何となく幕府に対して遠慮しだしたのみなら 【欄外】 豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百六十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 460 **Main Text:** Therefore, however they might manage it, the majority hoped to obtain an exceptionally wise and capable leader to resolve the current crisis. Among some feudal lords and retainers, there were already those who wished to designate Hitotsubashi Yoshinobu as the heir. *Subheading: The Conflict Between the Hitotsubashi and Nanki Factions* However, supporting Yoshinobu's succession was not simply a matter of political preference. Rather complex emotions were involved. Consequently, there was another faction that sought to welcome Kii Yoshitomi as heir. This behind-the-scenes struggle over succession, intertwined with major foreign policy issues, further complicated domestic politics - a point that must be remembered. As you know, Hitotsubashi Yoshinobu was the seventh son of Mito Nariaki, who became heir to the Hitotsubashi house in August of Kōka 4 (1847) through Shogun Iesada's private instruction. Intelligent from childhood, he increasingly became the focus of popular expectations as he matured. While being Nariaki's son brought him many supporters, it also created opposition. Originally, Yoshinobu was not given to the extreme statements and actions like his father Nariaki. Rather, he had frequently restrained and moderated his father. However, Nariaki's recent words and deeds were truly radical and completely incompatible with the shogunate. Therefore, it was natural that pro-shogunate feudal lords and retainers disliked Nariaki, and consequently found the idea of supporting Yoshinobu highly disagreeable. However, as I have gradually explained from previous chapters, the Tokugawa shogunate was increasingly forced to listen to public opinion among the feudal lords, and each domain was similarly compelled to seek the opinions of their retainers. The so-called "loyalist activists" were spurred to action around this time, and their grassroots initiatives gradually influenced domain policies and eventually affected national public opinion. This naturally led to the emergence of numerous reformers of the age who sought to break down ancient abuses and establish new progressive governance. **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyo Printing Partnership, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Sanyo Newspaper No. 4,426 Supplement (Published July 22, Taisho 2 [1913]) **Main Text:** In this regard, Nariaki should be considered a pioneer, and as a reformer of the age, he was truly revered by loyalist activists nationwide. Since these activists naturally resented that Nariaki had been distanced from the shogunate, their attempt to promote Yoshinobu to handle shogunate affairs could be called a natural development. *Subheading: Matsudaira Yoshinaga's Efforts* Of course, there were many such advocates among the feudal lords, but among them, Matsudaira Yoshinaga was foremost. As I mentioned earlier, he was lord of Echizen Fukui castle, descended from the Tayasu branch and a member of the related domains. Out of concern for the main Tokugawa house, he had gradually worried about the succession issue. Finding no suitable candidates among Owari, Mito, or Tayasu houses, and considering that Kii Yoshitomi was still under ten years old and unsuitable to succeed as shogun during this major crisis, he firmly believed that only Hitotsubashi Yoshinobu, with his age and character, could immediately serve as the shogun's right arm. Though he had long planned to support Yoshinobu, the timing had not yet arrived to make this public. However, as you know, with Harris's arrival and other developments, foreign policy issues became increasingly frequent, creating what could be called a diplomatic crisis for our country. Yoshinaga came to feel acutely the urgency of the succession question, and he was not alone in this feeling - it became a major concern among feudal lords and retainers. Regarding Yoshinobu's support, his father Nariaki was also quite enthusiastic, reportedly writing secretly to his relative Takatsukasa Taikō around Ansei 3 (1856) to express his hopes. However, when this somehow leaked to the shogunate and Ii Naosuke's circle, it further intensified opposition vigilance. Under these circumstances, Yoshinaga's plans could not proceed as hoped. Even Shimazu Nariakira, who had initially been a Yoshinobu supporter, by this time began showing some deference to the shogunate, and moreover... **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 461