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【欄外】
豊橋市史談 (攘夷論の勃興) 四百六十二
【本文】
ず慶喜(よしひさ)擁立(えうりつ)の事を有力(いうりよく)ならしめむとするには却(かへつ)て斉昭(なりあき)との交通(かうつう)を疎闊(そくわつ)にする必要(ひつえう)があると云(い)ふ事を慶(よし)
永(なが)に忠告(ちうこく)した位(くらゐ)である此(この)中(なか)にあつても水戸(みと)の謀臣(ばうしん)安島帯刀(やすじまたてわき)と越前(ゑちぜん)の謀臣(ばうしん)中根雪江(なかねゆきえ)(靱負)とは始終(しじう)相(あひ)呼(こ)
応(おう)して殆(ほとん)ど此(この)事(こと)に全力(ぜんりよく)を注(そゝ)ぎつゝあつたのであるが之(これ)が又(ま)た後(のち)に段々(だん〴〵)御話(おはなし)せむとする動機(どうき)により次第(しだい)
に火(ひ)の手(て)を高(たか)めて来(きたつ)たのである
《割書:井伊直弼と|南紀派》 ソコで一 方(ぱう)の紀伊慶福(きいよしとみ)擁立派(えうりつは)は如何(いかゞ)であるかと云(い)ふに此(この)旗頭(はたがしら)とも見(み)るべきものは井伊直弼(ゐいなほすけ)である直弼(なほすけ)
と斉昭(なりあき)とは殆(ほとん)ど凡(すべ)てに於(おい)て相容(あひい)れざる傾向(けいかう)がある先(ま)づ外交(ぐわいかう)の問題(もんだい)に対(たい)しても斉昭(なりあき)は極端(きよくたん)なる攘夷論者(ぜうゐろんしや)
であるが直弼(なほすけ)は最初(さいしよ)から開国(かいこく)の止(やむ)を得(え)ざるを主張(しゆてう)せる者(もの)である此(この)主要(しゆえう)の点(てん)に於(おい)て既(すで)に相反(あひはん)して居(を)るの
みならず其他(そのた)何(なに)につけても之(こ)れ迄(まで)相反感(あひはんかん)を生(せう)ぜし事が少(すくな)くない従(したがつ)て直弼(なほすけ)が慶喜(よしひさ)に賛成(さんせい)しないのは自(し)
然(ぜん)の勢(いきほひ)とも見(み)るべきものであるが元来(がんらい)直弼(なほすけ)の意見(いけん)と云(い)ふものは大(おほい)に慶永(よしなが)等(ら)の意見(いけん)と異(ことな)るものがあつ
て徳川将軍(とくがはせうぐん)は必(かなら)ずしも英明(えいめい)なる人物(じんぶつ)のみを求(もと)むるよりも寧(むし)ろ血統(けつとう)の近(ちか)い正系(せいけい)の人(ひと)に求(もと)むるのが至当(したう)で
ある之(これ)が却(かへつ)て天下(てんか)の人心(じんしん)を一 統(とう)する所以(ゆゑん)であると確信(かくしん)して居(を)つたものらしく思(おも)はるゝ之(これ)には閣老(かくらう)等(ら)を
初(はじ)め又(ま)た段々(だん〴〵)と賛成者(さんせいしや)があつたのみならず第(だい)一 将軍(せうぐん)の大奥(おほおく)と云(い)ふものは最(もつと)も斉昭(なりあき)を喜(よろこ)ばない処(ところ)から寧(むし)
ろ井伊(ゐい)等(ら)の意見(いけん)に傾(かたむ)いて居(を)つたのは慶喜(よしひさ)擁立(えうりつ)の人々(ひと〳〵)に取(と)つてゆゝしき強敵(けうてき)であつたのである
此(かく)の如(ごと)き場合(ばあひ)に方(あた)つて恰(あたか)も幕府(ばくふ)から外交上(ぐわいかうぜう)の経過(けいくわ)を奏上(そうぜう)せしむる為(ため)に上京(ぜうけう)せしめた彼(か)の林大学頭(はやしだいがくのかみ)等(ら)は
何等(なんら)の功果(こうくわ)をも見(み)ることが出来(でき)なかつたのみならず却(かへつ)て朝廷(てうてい)から幕府(ばくふ)の専断(せんだん)を尤(とが)められるの端緒(たんちよ)と相(あひ)な
つたのであるから幕府(ばくふ)に於(おい)ても打棄(うちす)てゝ置(お)けぬ事となつたのは前述(ぜんじゆつ)の如(ごと)くであるが之(これ)は彼(か)のハリスと
の条約(でうやく)に就(つい)て既(すで)に日(ひ)を期(き)して調印(てういん)を要(えう)する事と相成(あひな)つて居(を)るのであるから幕府(ばくふ)としてはドウしても其(その)
日限(にちげん)を誤(あやま)つてはならぬと云ふ一つの難問題(なんもんだい)があるのである然(しか)るに之(これ)には先(ま)づ勅許(ちよくきよ)を得(う)べきものである
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【左頁】
【欄外】
此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す
【本文】
と云(い)ふ議論(ぎろん)が幕府(ばくふ)の内外(ないぐわい)に勢力(せいりよく)を占(し)めて居(を)るので之(これ)にも又(ま)た反(そむ)くことが出来(でき)ぬのであるソコで余義(よぎ)なく
堀田閣老(ほつたかくらう)は自(みづか)ら上京(ぜうけう)して之(これ)等(ら)の始末(しまつ)を付(つ)くる事となり安政(あんせい)五 年(ねん)正月八日を以(もつ)て川路左衛門尉(かはぢさゑもんぜう)と岩瀬肥(いはせひ)
後守(ごのかみ)とが之(これ)に随行(ずゐかう)する事に台命(たいめい)が下(くだ)つたのでる之(これ)も前(まへ)に申述(まをしの)べて置(お)いた事であるが之(これ)亦(ま)た甚(はなはだ)しく
幕府(ばくふ)の見込(みこみ)とは齟齬(そご)を生(せう)ずるに至(いた)つたのである既(すで)に之(これ)迄(まで)も度々(たび〳〵)申述(まをしの)べてある如(ごと)く徳川(とくがは)の天下(てんか)と云(い)ふも
のは久(ひさ)しき間(あひだ)太平(たいへい)が打続(うちつゞ)いて居(を)る中(なか)に種々(しゆ〴〵)なる原因(げんゐん)によつて次第(しだい)に勢力(せいりよく)推移(すゐい)の傾向(けいかう)を生(せう)じ特(とく)に本居(もとおり)、
平田(ひらた)一 派(ぱ)の古学(こがく)並(ならび)に水戸(みと)一 流(りう)の学説(がくせつ)の如(ごと)く尚古的(せうこてき)若(もし)くは歴史的(れきしてき)一 種(しゆ)の学風(がくふう)と云(い)ふものは漸(やうや)く一 般(ぱん)の人(じん)
《割書:志士の京都|入説》 心(しん)に影響(えいけう)し之(これ)等(ら)が又(ま)た朝廷(てうてい)縉紳(しんしん)の間(あひだ)にも深(ふか)く注入(ちうにふ)せらるゝに至(いた)つたのであるが元来(がんらい)天下(てんか)の処士(しよし)の中(なか)に
は往々(おう〳〵)有為(いうい)の材(ざい)を懐(いだ)きながら驥足(きそく)を伸(の)ばすことが出来(でき)ず空(むな)しく草莽(さうもう)に雌伏(しふく)して居(を)つた輩(やから)があるので之(これ)等(ら)
の人々(ひと〴〵)から見(み)れば実(じつ)に当時(たうじ)の社会(しやくわい)と云(い)ふものは不満(ふまん)不平(ふへい)で堪(た)へられなかつたのは勿論(もちろん)であるソコで一
層(そう)此(この)外艦(ぐわいかん)の渡来(とらい)に方(あた)つては攘夷(ぜうゐ)の必要(ひつえう)を論(ろん)じ時世(じせい)を非議(ひぎ)したものであるが之(これ)等(ら)の輩(やから)は次第(しだい)に京都(けうと)縉紳(しんしん)
王 室 家 の間(あひだ)に入(い)り込(こ)むで盛(さかん)に入説(にふせつ)したものである当時(たうじ)之(これ)等(ら)のものを王室家(わうしつけ)と称(せう)したのであるが実(じつ)は其(その)潜勢力(せんせいりよく)
と云(い)ふものが侮(あなど)るべからざる訳(わけ)であつたのであるそれのみならず之(これ)には四五の大藩(たいはん)が憤恨(ふんこん)と野心(やしん)とを
懐(いだ)いて背後(はいご)に潜在(せんざい)して居(を)つたのであるから其(その)根底(こんてい)は容易(ようい)ならざるものであるとなさねばならなかつた
のである然(しか)るに幕府(ばくふ)では此(この)内情(ないぜう)に対(たい)して少(すこ)しく見当違(けんたうちが)ひをして居(を)つたのである云(い)はば縉紳(しんしん)の意気(いき)は勿(もち)
《割書:堀田閣老等|の入京》 論(ろん)之(これ)等(ら)の潜勢力(せんせいりよく)に対(たい)して余程(よほど)軽(かる)く見(み)て居(を)つたのである之(これ)が抑(そも〳〵)の誤(あやまり)であつたがサテ堀田閣老(ほつたかくらう)等(ら)は二月
四五 両日(れうじつ)に孰(いづ)れも入京(にふけう)して本能寺(ほんのうじ)に館(くわん)しその九日を以(もつ)て初(はじ)めて参内(さんだい)したのである而(しか)して伝奏(でんそう)によつて簡(かん)
短(たん)に外交上(ぐわいかうぜう)の事情(じぜう)を述(の)べ海外(かいぐわい)の形勢(けいせい)は到底(たうてい)国家(こくか)の旧法(きふはう)を墨守(ぼくしゆ)し能(あた)はざる点(てん)から止(やむ)を得(え)ず米国(べいこく)との条約(でうやく)
を締結(ていけつ)せむとするのである従(したがつ)て之(これ)に対(たい)し勅許(ちよくきよ)を得(え)たき旨(むね)を奏請(そうせい)すると云(い)ふ事を申述(まをしの)べたのであるモ
【欄外】
豊橋市史談 (攘夷論の勃興) 四百六十三
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百六十二
【本文】
ず、慶喜擁立の事を有力にしようとするには、かえって斉昭との交流を疎遠にする必要があると慶永に忠告した程である。この中にあっても水戸の謀臣安島帯刀と越前の謀臣中根雪江(靱負)とは始終相呼応してほとんどこの事に全力を注ぎつつあったのであるが、これがまた後に段々とお話しする動機により次第に火の手を高めて来たのである。
《小見出し:井伊直弼と南紀派》
そこで一方の紀伊慶福擁立派はどうであるかというに、この旗頭と見るべきものは井伊直弼である。直弼と斉昭とはほとんど全てにおいて相容れない傾向がある。まず外交の問題に対しても斉昭は極端な攘夷論者であるが、直弼は最初から開国の止むを得ざることを主張した者である。この主要な点において既に相反しているのみならず、その他何につけてもこれまで相反感を生じた事が少なくない。従って直弼が慶喜に賛成しないのは自然の勢いとも見るべきものであるが、元来直弼の意見というものは大いに慶永等の意見と異なるものがあって、徳川将軍は必ずしも英明な人物のみを求めるよりも、むしろ血統の近い正系の人に求めるのが至当である。これがかえって天下の人心を統一する所以であると確信していたものらしく思われる。これには閣老等を初め、また段々と賛成者があったのみならず、第一将軍の大奥というものは最も斉昭を喜ばない処から、むしろ井伊等の意見に傾いていたのは、慶喜擁立の人々にとって由々しき強敵であったのである。
このような場合に当たって、恰も幕府から外交上の経過を奏上させる為に上京させた彼の林大学頭等は、何等の功果をも見ることが出来なかったのみならず、かえって朝廷から幕府の専断を咎められる端緒となったのであるから、幕府においても打ち捨てて置けぬ事となったのは前述の通りであるが、これは彼のハリスとの条約について既に日を期して調印を要する事となっているのであるから、幕府としてはどうしてもその日限を誤ってはならぬという一つの難問題があるのである。しかるにこれには先ず勅許を得るべきものである
【欄外】
豊橋市長大口喜六氏はその博学なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略成るに際[以下判読困難]
【左頁】
【欄外】
この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈する
【本文】
という議論が幕府の内外に勢力を占めているので、これにもまた背くことが出来ないのである。そこで余儀なく堀田閣老は自ら上京してこれ等の始末を付ける事となり、安政五年正月八日をもって川路左衛門尉と岩瀬肥後守とがこれに随行する事に台命が下ったのである。これも前に申し述べて置いた事であるが、これまた甚だしく幕府の見込みとは齟齬を生ずるに至ったのである。
既にこれまでも度々申し述べてあるように、徳川の天下というものは久しき間太平が打ち続いている中に種々なる原因によって次第に勢力推移の傾向を生じ、特に本居、平田一派の古学並びに水戸一流の学説のような尚古的もしくは歴史的一種の学風というものは漸く一般の人心に影響し、これ等がまた朝廷縉紳の間にも深く注入されるに至ったのであるが、元来天下の処士の中には往々有為の材を抱きながら驥足を伸ばすことが出来ず、空しく草莽に雌伏していた輩があるので、これ等の人々から見れば実に当時の社会というものは不満不平で堪えられなかったのはもちろんである。
《小見出し:志士の京都入説》
そこで一層この外艦の渡来に当たっては攘夷の必要を論じ時世を非議したものであるが、これ等の輩は次第に京都縉紳王室家の間に入り込んで盛んに入説したものである。当時これ等のものを王室家と称したのであるが、実はその潜勢力というものが侮るべからざる訳であったのである。それのみならず、これには四五の大藩が憤恨と野心とを抱いて背後に潜在していたのであるから、その根底は容易ならざるものであるとなさねばならなかったのである。しかるに幕府では此の内情に対して少しく見当違いをしていたのである。言わば縉紳の意気はもちろん、これ等の潜勢力に対して余程軽く見ていたのである。これが抑々の誤りであった。
《小見出し:堀田閣老等の入京》
さて堀田閣老等は二月四五両日にいずれも入京して本能寺に館し、その九日をもって初めて参内したのである。而して伝奏によって簡短に外交上の事情を述べ、海外の形勢は到底国家の旧法を墨守し能わざる点から止むを得ず米国との条約を締結せんとするのである。従ってこれに対し勅許を得たき旨を奏請するということを申し述べたのである。
【欄外】
豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百六十三
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 462
**Main Text:**
Rather, he even advised Yoshinaga that to make Yoshinobu's succession more viable, it would be necessary to distance themselves from Nariaki. Even under these circumstances, Mito's strategist Yasujima Tatewaki and Echizen's strategist Nakane Yukie (Yukie) constantly coordinated their efforts, devoting almost all their energy to this cause. This would later intensify due to motives I will gradually discuss.
*Subheading: Ii Naosuke and the Nanki Faction*
Now, regarding the faction supporting Kii Yoshitomi's succession, their leader was Ii Naosuke. Naosuke and Nariaki were incompatible in virtually everything. First, regarding foreign policy, Nariaki was an extreme anti-foreign advocate, while Naosuke had from the beginning argued for the necessity of opening the country. They were already opposed on this fundamental point, and had developed mutual antagonism on many other matters. Therefore, it was natural that Naosuke would not support Yoshinobu. Originally, Naosuke's opinion differed greatly from that of Yoshinaga and others - he believed that Tokugawa shoguns should not necessarily seek only brilliant individuals, but rather should be chosen from those of close bloodline and legitimate succession. He seems to have firmly believed this was the way to unify the nation's sentiment. Not only did the senior councillors and others gradually come to support this view, but most importantly, the shogun's inner quarters (ōoku) most disliked Nariaki and thus leaned toward Ii's position, making them formidable opponents for Yoshinobu's supporters.
Under such circumstances, Hayashi Daigaku-no-kami and others, who had been sent to Kyoto by the shogunate to report on foreign policy developments, not only achieved no success but actually became the starting point for the court to censure the shogunate's arbitrary actions. As mentioned earlier, the shogunate could not leave this matter unaddressed. Since a deadline had already been set for signing the treaty with Harris, the shogunate faced the difficult problem of not being able to miss this deadline. However, they first needed to obtain imperial permission.
**Margin:**
Toyohashi City Mayor Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript nears completion... [text unclear]
**Left Page:**
**Margin:**
This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyo Newspaper.
**Main Text:**
The argument that imperial permission should be obtained had gained influence both within and outside the shogunate, so they could not oppose this either. Consequently, Senior Councillor Hotta was forced to go to Kyoto himself to settle these matters, and on the 8th day of the 1st month of Ansei 5 (1858), orders were issued for Kawaji Saemon-no-jō and Iwase Higo-no-kami to accompany him. This too, as I mentioned earlier, would create serious discord with the shogunate's expectations.
As I have repeatedly mentioned, the Tokugawa realm had enjoyed prolonged peace, but various factors had gradually created tendencies toward power shifts. Particularly, archaic or historical scholarly traditions like those of the Motoori and Hirata schools and the Mito school of thought gradually influenced general public sentiment and deeply penetrated court noble circles. Originally, among the country's scholars, there were many who possessed valuable talents but could not extend their abilities and remained obscurely hidden in the grassroots. For these people, contemporary society was naturally unbearable in its frustration and dissatisfaction.
*Subheading: Loyalist Activists' Persuasion Efforts in Kyoto*
Therefore, they all the more argued for the necessity of expelling foreigners when foreign ships arrived and criticized the times. These people gradually infiltrated court noble and imperial family circles and actively engaged in persuasion. At that time, these groups were called "imperial family supporters," but in reality their hidden influence was not to be underestimated. Moreover, four or five major domains harbored resentment and ambition behind the scenes, so their foundation had to be considered quite serious. However, the shogunate somewhat misjudged this internal situation. In other words, they took the court nobles' fervor and these hidden forces far too lightly. This was their fundamental error.
*Subheading: Senior Councillor Hotta's Entry into Kyoto*
Now, Senior Councillor Hotta and others all entered Kyoto on the 4th and 5th of the 2nd month, lodged at Honno-ji temple, and first had an audience with the emperor on the 9th. Through the court transmitters, they briefly explained the foreign policy situation, stating that overseas circumstances made it impossible for the nation to maintain its old laws, and therefore they had no choice but to conclude a treaty with America. Consequently, they requested imperial permission for this.
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 463