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【欄外】
豊橋市史談 (攘夷論の勃興) 四百六十四
【本文】
ツトモ堀田閣老(ほつたかくらう)を初(はじ)め幕府(ばくふ)に於(おい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)き次第(しだい)で最初(さいしよ)高(たか)を括(くゝ)つて居(を)つたものであ
るから長(なが)くも十日もかゝれば此(この)事(こと)は解決(かいけつ)するものであると思(おも)つて居(を)つたらしいのであるが勿論(もちろん)其頃(そのころ)に
於(お)ける縉紳(しんしん)の多(おほ)くは極(きは)めて外国(ぐわいこく)の事情(じぜう)に暗(くら)く只(た)だ〳〵保守的(ほしゆてき)習風(しうふう)に固(かた)まつて居(を)つたのみならず前述(ぜんじゆつ)の
如(ごと)き種々(しゆ〳〵)の関係(くわんけい)があつたのであるから中々(なか〳〵)其(その)気勢(きせい)は当(あた)るべからざるものがあつたのである
《割書:朝議幕府を|して再ひ諸》 モツトモ朝廷(てうてい)に於(お)かせられても鷹司前関白(たかつかささきのかんぱく)と九 条関白(でうくわんぱく)との間(あひだ)に意見(いけん)の乖戻(くわいれい)がありいろ〳〵申述(まをしの)ぶべき
《割書:侯の意見を|徴せしめむ|とす》 事情(じぜう)もあつたのであるがそれは略(ほ)ぼ諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の事であろうと思(おも)ふから此処(こゝ)に詳(くは)しくは申述(まをしの)べぬ考(かんが)
へであるが兎(と)に角(かく)二月の十三日に至(いた)つて朝議(てうぎ)は漸(やうや)く決(けつ)し三四ケ条(でう)の意見(いけん)を両(れう)伝奏(でんそう)議奏(ぎそう)から堀田閣老(ほつたかくらう)ま
で申下(まをしくだ)されたが帰(き)する処(ところ)は条約(でうやく)勅許(ちよくきよ)の事は神宮(しんぐう)初(はじ)め皇祖皇宗(くわうそくわうそう)に対(たい)せられても叡慮(えいりよ)の安(やす)からざる次第(しだい)で
最(もつと)も重大事(ぢうだいじ)であるから国内(こくない)人心(じんしん)の協和(けふわ)を第(だい)一とせらるべき御主旨(ごしゆし)を以(もつ)て叡旨(えいし)は三 親藩(しんはん)以下(いか)諸侯(しよこう)の赤心(せきしん)
を知(し)られむことを望(のぞ)まるゝが故(ゆゑ)に今(いま)一 応(おう)幕命(ばくめい)を下(くだ)して諸侯(しよこう)の意見(いけん)を上書(ぜうしよ)せしめ叡覧(えいらん)に供(けふ)すべしと云(い)ふに
あつたのである然(しか)るに此(かく)の如(ごと)き訳(わけ)であつては到底(たうてい)容易(ようい)に勅許(ちよくきよ)を得(え)むことは困難(こんなん)であると思料(しれう)せられたる
のみならず一 方(ぱう)にはハリスとの調印(てういん)の時期(じき)が切迫(せつぱく)し幕府(ばくふ)は結局(けつきよく)板挟(いたはさ)みとならねばならぬハメと相成(あひな)る
のであるから幕府(ばくふ)に於(おい)ては何(なん)とかして此(この)際(さい)勅許(ちよくきよ)の速(すみやか)ならむこと劃策(くわくさく)したいものであると云(い)ふので極(きよく)
力(りよく)公卿(くげ)の間(あひだ)に運動(うんどう)を試(こゝろ)みたのである当時(たうじ)井伊直弼(ゐいなほすけ)の謀臣(ばうしん)に長野主膳(ながをしゆぜん)と云(い)ふものがあつたが之(これ)が直弼(なほすけ)の
旨(むね)を含(ふく)みて九 条関白(でうくわんぱく)の家臣(かしん)島田左近(しまださこん)に取(と)り結(むす)び以(もつ)て朝幕調節(てうばくてうせつ)の事を奔走(ほんさう)し之(これ)は大(おほい)に其(その)効果(かうくわ)を現(あら)はさむ
としたのであるがサテかうなると一 方(ぱう)に於(おい)ては又(ま)た鷹司関白(たかつかさくわんぱく)に入説(にふせつ)するものがあると云(い)ふ次第(しだい)である
元来(がんらい)同(どう)関白(くわんぱく)の之迄(これまで)の態度(たいど)は稍々(やゝ)幕府(ばくふ)を助(たす)くる傾(かたむき)があると云(い)ふので或筋(あるすぢ)から其 家司(かし)三 国大学(こくだいがく)に説(と)き込(こ)み
大学(だいがく)は其(その)諸太夫(しよだいふ)小林筑前守(こばやしちくぜんのかみ)と謀(はか)りて大(おほい)に同(どう)関白(くわんぱく)を諌(いさ)めむとした次第(しだい)である先(ま)づ之(これ)は一 例(れい)として申述(まをしの)べ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百三十二号附録 (大正二年七月二十九日発行)
【本文】
たのであるが大要(たいえう)此(かく)の如(ごと)き有様(ありさま)であるから当時(たうじ)京都(けうと)の混雑(こんざつ)と云(い)ふものは頗(すこぶ)る其(その)極(きよく)に達(たつ)せむとしたので
公卿(くげ)間(かん)の議論(ぎろん)と云(い)ふものも実(じつ)に沸騰(ふつとう)し種々(しゆ〴〵)の波瀾(はらん)が上下(ぜうげ)せられたのであるトコロで矢張(やはり)結局(けつきよく)は二十日
に至(いた)つて近衛左府(こんゑさふ)から左(さ)の勅答書(ちよくたうしよ)を正式(せいしき)に堀田閣老(ほつたかくらう)等(ら)に達(たつ)せらるゝ事と相成(あひな)つたのである
《割書:条約締結に|関する勅答》 墨夷之事、神州之大患、国家之安危に係り誠に不容易、奉始神宮御代々被為対恐多被思召候、東照
宮以来良法を変革之義は、闔国人心之帰向にも相拘り、永世安全難量、深被悩叡慮候、尤往年下田
開港之条約不容易之上、今度仮条約之趣にては、御国威難相定被思召候、且諸臣群議にも、今度之
条々殊に御国体に拘り、後患難測之由言上候、猶三家以下諸大名へも被下台命、再応衆議之上可有
言上旨被仰出候事
且(か)つ速(すみやか)に堀田閣老(ほつたかくらう)等(ら)には帰府(きふ)して此(この)旨(むね)を将軍(せうぐん)に復命(ふくめい)すべきよう口達(こうだつ)せられたのである
此(こゝ)に於(おい)て堀田閣老(ほつたかくらう)等(ら)の苦心(くしん)は益々(ます〳〵)甚(はなはだ)しく種々(しゆ〴〵)に手(て)を尽(つく)す処(ところ)があつたのであるが朝廷(てうてい)の大勢(たいせい)は又(ま)た之(これ)
を如何(いかん)ともすることが出来(でき)ず手(て)を尽(つくす)程(ほど)いよ〳〵朝幕(てうばく)の間(あひだ)に意志(いし)の背弛(はいち)を明(あきらか)にすることを認(みと)むるのみである
《割書:堀田閣老の|帰東》 から流石(さすが)の堀田閣老(ほつたかくらう)初(はじ)め岩瀬(いはせ)、川路(かはぢ)の人々(ひと〳〵)も策(さく)の施(ほどこ)すべき処(ところ)がなくなつたので堀田閣老(ほつたかくらう)も遂(つゐ)に四月三
日を以(もつ)て朝廷(てうてい)に辞見(じけん)し其(その)五月【日カ】 京都(けうと)を出立(しゆつたつ)して一と先(ま)づ江戸(えど)に帰(かへ)ることに相成(あひな)つたのである
此(かく)の如(ごと)き次第(しだい)で堀田閣老(ほつたかくらう)等(ら)が折角(せつかく)の上京(ぜうけう)も結局(けつきよく)対米条約(たいべいでうやく)の勅許(ちよくきよ)を得(う)る事(こと)能(あた)はざりしのみならず益(ます〳〵)其(その)
間(あひだ)に相(あひ)乖離(くわいり)するの状態(ぜうたい)を見るに至(いた)つたのであるが之(これ)と同時(どうじ)に又(ま)た彼(か)の将軍(せうぐん)儲嗣(しよし)に関(くわん)する争(あらそひ)を一 層(そう)大(だい)
《割書:南紀派と一|橋派との軋|轢》 ならしむるの原因(げんゐん)を作(つく)らしむるに至(いた)つたのである前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く将軍(せうぐん)儲嗣(しよし)の問題(もんだい)に就(つい)ては初(はじめ)よ
り一橋派(ひとつはしは)と南紀派(なんきは)とに分(わか)れたのであつたが一橋派(ひとつはしは)なるものは次第(しだい)に京都(けうと)にも運動(うんどう)して都合(つごう)よくば勅命(ちよくれい)
によりて一橋建儲(ひとつはしけんちよ)の事(こと)を定(さだ)めむとしたのである之(これ)は前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く水戸斉昭(みとなりあき)自身(じしん)も熱望(ねつぼう)したの
【欄外】
豊橋市史談 (攘夷論の勃興) 四百六十五
現代語訳
【欄外】
豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百六十四
【本文】
もっとも堀田閣老をはじめ幕府においては前にも申し述べたような次第で最初高をくくっていたものであるから、長くも十日もかかれば此の事は解決するものであると思っていたらしいのであるが、もちろんその頃における縉紳の多くは極めて外国の事情に暗く、ただただ保守的習慣に固まっていたのみならず、前述のような種々の関係があったのであるから、なかなかその気勢は当たるべからざるものがあったのである。
《小見出し:朝議幕府をして再び諸侯の意見を徴せしめんとす》
もっとも朝廷におかせられても鷹司前関白と九条関白との間に意見の相違がありいろいろ申し述べるべき事情もあったのであるが、それは大体諸君も御承知の事であろうと思うからここに詳しくは申し述べない考えであるが、とにかく二月の十三日に至って朝議は漸く決し、三四ヶ条の意見を両伝奏議奏から堀田閣老まで申し下されたが、帰するところは条約勅許の事は神宮をはじめ皇祖皇宗に対せられても叡慮の安からざる次第で最も重大事であるから、国内人心の協和を第一とせらるべき御主旨をもって叡旨は三親藩以下諸侯の赤心を知られんことを望まるるが故に、今一応幕命を下して諸侯の意見を上書せしめ叡覧に供すべしということにあったのである。
然るにこのような訳であっては到底容易に勅許を得ることは困難であると思料されたのみならず、一方にはハリスとの調印の時期が切迫し、幕府は結局板挟みとならねばならぬはめとなるのであるから、幕府においては何とかしてこの際勅許の速やかならんこと画策したいものであるということで、極力公卿の間に運動を試みたのである。
当時井伊直弼の謀臣に長野主膳というものがあったが、これが直弼の旨を含んで九条関白の家臣島田左近に取り結び、もって朝幕調節の事を奔走し、これは大いにその効果を現そうとしたのであるが、さてこうなると一方においてはまた鷹司関白に入説するものがあるという次第である。
元来同関白のこれまでの態度は稍々幕府を助ける傾きがあるということで、或る筋からその家司三国大学に説き込み、大学はその諸太夫小林筑前守と謀って大いに同関白を諌めようとした次第である。先ずこれは一例として申し述べ
【欄外】
発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉
【左頁】
【欄外】
参陽新報四千四百三十二号附録 (大正二年七月二十九日発行)
【本文】
たのであるが、大要このような有様であるから、当時京都の混雑というものは頗るその極に達そうとしたので、公卿間の議論というものも実に沸騰し種々の波乱が上下されたのである。ところで矢張り結局は二十日に至って近衛左府から左の勅答書を正式に堀田閣老等に達せられる事となったのである。
《小見出し:条約締結に関する勅答》
「黒船の事、神州の大患、国家の安危に係り誠に容易ならず、恐れ多くも神宮御代々に対し奉り思し召し候、東照宮以来良法を変革の義は、全国人心の帰向にも相拘わり、永世安全量り難く、深く叡慮を悩まし候、尤も往年下田開港の条約容易ならざる上、今度仮条約の趣にては、御国威相定め難く思し召し候、且つ諸臣群議にも、今度の条々殊に御国体に拘わり、後患測り難きの由言上候、なお三家以下諸大名へも台命を下され、再応衆議の上言上有るべき旨仰せ出だされ候事」
且つ速やかに堀田閣老等には帰府してこの旨を将軍に復命すべきよう口達されたのである。
ここにおいて堀田閣老等の苦心は益々甚だしく種々に手を尽くすところがあったのであるが、朝廷の大勢はまたこれをいかんともすることが出来ず、手を尽くすほどいよいよ朝幕の間に意思の背離を明らかにすることを認めるのみであるから、流石の堀田閣老をはじめ岩瀬、川路の人々も策の施すべきところがなくなったので、堀田閣老も遂に四月三日をもって朝廷に辞見し、その五日京都を出立して一先ず江戸に帰ることとなったのである。
《小見出し:堀田閣老の帰東》
このような次第で堀田閣老等が折角の上京も結局対米条約の勅許を得ること能わざりしのみならず益々その間に相乖離するの状態を見るに至ったのであるが、これと同時にまた彼の将軍後嗣に関する争いを一層大ならしむるの原因を作らしむるに至ったのである。
《小見出し:南紀派と一橋派との軋轢》
前にも申し述べたように将軍後嗣の問題については初めより一橋派と南紀派とに分かれたのであったが、一橋派なるものは次第に京都にも運動して都合よくば勅命によりて一橋建儲の事を定めようとしたのである。これは前にも申し述べたように水戸斉昭自身も熱望したの
【欄外】
豊橋市史談(攘夷論の勃興) 四百六十五
英語訳
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 464
**Main Text:**
However, Senior Councillor Hotta and the shogunate, for reasons I mentioned earlier, had initially been overconfident and apparently thought this matter could be resolved in at most ten days. Of course, most of the court nobles at that time were extremely ignorant of foreign affairs and were rigidly bound by conservative customs. Moreover, due to the various relationships mentioned earlier, their fervor was truly formidable.
*Subheading: The Court Forces the Shogunate to Again Seek the Opinions of the Daimyo*
Even within the court, there were disagreements between Former Kanpaku Takatsukasa and Kanpaku Kujō, and there were various circumstances that should be explained, but since I believe you are generally familiar with these matters, I will not elaborate here. In any case, on the 13th of the 2nd month, court deliberations were finally concluded, and three or four articles of opinion were conveyed from both Densō and Gisō to Senior Councillor Hotta. The essence was that the matter of imperial permission for the treaty was most grave, as it caused imperial anxiety regarding the Grand Shrine and the imperial ancestors. Given the imperial intent to prioritize national harmony above all, the emperor wished to know the true feelings of the Three Branch Houses and other daimyo. Therefore, shogunate orders should be issued once more to have the daimyo submit their opinions in writing for imperial review.
Under such circumstances, it was clear that obtaining imperial permission would be extremely difficult. Meanwhile, the deadline for signing with Harris was approaching, and the shogunate found itself caught between opposing forces. Consequently, the shogunate desperately sought to devise strategies for obtaining swift imperial permission and vigorously lobbied among the court nobles.
At that time, Ii Naosuke had a retainer named Nagano Shuzen, who, carrying out Naosuke's wishes, allied himself with Kujō Kanpaku's retainer Shimada Sakon to work toward court-shogunate coordination, hoping to achieve great results. However, this led others to lobby Takatsukasa Kanpaku from the opposite side.
Originally, this Kanpaku's attitude had been somewhat supportive of the shogunate, so certain parties persuaded his steward Mikuni Daigaku, who conspired with his retainer Kobayashi Chikuzen-no-kami to strongly admonish the Kanpaku. I mention this as one example.
**Margin:**
Publisher and Printer: Sanyo Printing Company, 48 Konya-cho, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzo; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi
**Left Page:**
**Margin:**
Sanyo Newspaper No. 4432 Supplement (Published July 29, Taisho 2 [1913])
**Main Text:**
Given such circumstances, the confusion in Kyoto at that time reached its peak, with debates among court nobles truly boiling over and various upheavals occurring at all levels. Nevertheless, on the 20th, the following imperial reply was formally conveyed to Senior Councillor Hotta and others from Konoe Safu:
*Subheading: Imperial Reply Regarding Treaty Conclusion*
"Regarding the Black Ships, this great affliction of the divine land relates to the nation's security and is truly no light matter. We reverently think of the successive generations at the Grand Shrine with trepidation. Changes to the good laws established since Tōshō-gū's time would affect the hearts of all people throughout the nation, making eternal security immeasurable and deeply troubling Our imperial thoughts. Moreover, the previous treaty for opening Shimoda was already difficult enough, and now this provisional treaty's terms make it difficult to maintain national dignity. Furthermore, all Our ministers in their group deliberations report that these current articles particularly affect Our national polity and make future troubles unpredictable. We therefore issue commands to the Three Houses and other daimyo below them, and after renewed group deliberations, reports should be submitted."
They were also orally instructed that Senior Councillor Hotta and others should quickly return to Edo and report these matters to the shogun.
*Subheading: Senior Councillor Hotta's Return East*
Senior Councillor Hotta and others' efforts became increasingly desperate, and though they tried various approaches, they could do nothing about the court's general situation. The more they tried, the clearer became the divergence of intentions between court and shogunate. Even the capable Hotta, along with Iwase and Kawaji, found no strategies left to employ. Consequently, Hotta finally took leave of the court on the 3rd of the 4th month, departed Kyoto on the 5th, and returned to Edo for the time being.
In this manner, despite Hotta and others' painstaking journey to Kyoto, they not only failed to obtain imperial permission for the American treaty but actually witnessed increasing estrangement. Simultaneously, this intensified the succession dispute.
*Subheading: Friction Between the Nanki and Hitotsubashi Factions*
As mentioned earlier, the shogunal succession question had from the beginning divided into the Hitotsubashi and Nanki factions. The Hitotsubashi faction gradually extended their activities to Kyoto, hoping to establish Hitotsubashi's succession through imperial command if possible. As I mentioned before, Mito Nariaki himself ardently desired this.
**Margin:**
Toyohashi City Historical Discourse (The Rise of Anti-Foreign Sentiment) 465