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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 247

ページ: 247

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【欄外】   豊橋市史談  (井伊掃部頭の執政)                   四百六十六 【本文】       であつたが松平慶永(まつだひらよしなが)、山内容堂(やまうちようどう)等(ら)は勿論(もちろん)の事 島津齋彬(しまづせいひん)の如(ごと)き最初(さいしよ)其(その)鋒鋩(ほうばう)を包(つゝ)むで居(を)つた人(ひと)までも段々(だん〴〵)       と之(これ)に左担(さたん)して遂(つゐ)には近衛(このゑ)、三 條(でう)諸公(しよこう)に入説(にふせつ)するに至(いた)つたのである此(かく)の如(ごと)き事情(じぜう)が恰(あたか)も堀田(ほつた)閣老(かくらう)滞京(たいけう)       中(ちう)に種々(しゆ〴〵)の動機(どうき)から暴露(ばうろ)するに至(いた)つたから所謂(いはゆる)南紀派(なんきは)の人(ひと)と云(い)ふものは益(ます〳〵)之(これ)に対抗(たいこう)せねばならぬと       云(い)ふので其(その)暗闘(あんたう)は次第(しだい)に激烈(げきれつ)と成(な)り来(きた)つたのである此(かく)の如(ごと)く天下(てんか)の事情(じぜう)は紛綜(ふんそう)を重(かさ)ねたので今(いま)       は一 方(ぽう)の旗頭(はたがしら)とも云(い)はるべき井伊直弼(ゐいなをすけ)は此(この)際(さい)ドウしても自(みつか)ら立(た)つて天下(てんか)の難局(なんきよく)に当(あた)らねばならぬ機会(きくわい) 井伊掃部頭 に遭遇(さうぐう)したのである元来(がんらい)井伊直弼(ゐいなをすけ)と云(い)ふ人(ひと)は諸君(しよくん)も御承知(ごせうち)の如(ごと)く夙(つと)に国学(こくがく)に志(こゝろざ)し尊王(そんわう)の思想(しさう)に浸染(しんせん)       すること決(けつ)して他人(たにん)に譲(ゆづ)らず彼(か)の嘉永(かえい)六 年(ねん)既(すで)に米艦(べいかん)の処置(しよち)に就(つい)ても第(だい)一に天朝(てんてう)に奏達(そうたつ)すべしと建白(けんぱく)した       位(くらゐ)であるがサテ愈(いよ〳〵)此(この)難局(なんきよく)に立(た)つに至(いた)つては所謂(いはゆる)鹿(しか)を逐(お)ふ猟夫(れうふ)は山(やま)を見(み)ざるの傾(かたむき)となつて恰(あたか)も諸侯(しよこう)を       圧服(あつふく)して幕威(ばくゐ)を張(は)らむとした政見(せいけん)が挙国(きよこく)一 致(ち)を必要(ひつえう)とすべき時運(じうん)と相(あい)容(い)れざる事と成(な)つて遂(つゐ)に其(その)所信(しよしん)       を行(おこな)ひ通(とほ)すことが出来(でき)ずに仆(たほ)るゝに至(いた)つたのは全(まつた)く其(その)境遇(けうぐう)に捉(とら)へられたもので此(この)点(てん)は誠(まこと)に同情(どうぜう)に堪(た)へぬ       次第(しだい)であると思(おも)ふのである             ◉井伊掃部頭の執政       之(これ)より先(さ)き堀田(ほつた)閣老(かくらう)は其(その)上京(ぜうけう)も全(まつた)く功(こう)なく四月廿日を以(もつ)て江戸(えど)に皈着(きちやく)したのであるが此(この)時(とき)幕議(ばくぎ)は略(ほ)ぼ 《割書:松平伊賀守|と井伊大老》  新(あらた)に大老職(たいらうしよく)推任(すいにん)の事が決(けつ)せられて居(を)つたのである之(これ)に関(くわん)しては前(まへ)にも数々(しば〴〵)申述(まをしの)べたる彼(か)の老中(らうちう)の一 人(にん)       松平伊賀守(まつだひらいがのかみ)であるが此(この)人(ひと)は之迄(これまで)既(すで)に継嗣(けいし)問題(もんだい)に就(つい)て越前(ゑちぜん)、水戸(みと)の如(ごと)き親藩(しんはん)が容喙(ようくわ)するのは尚(な)ほ忍(しの)ぶべ       しとするも薩(さつ)、土(と)の如(ごと)き外藩(ぐわいはん)か而(しか)も京都(けうと)の縉紳(しんしん)と結(むす)び遂(つゐ)には朝威(てうゐ)を籍(か)りてまでも幕府(ばくふ)を脅制(けうせい)せむとす       るのは到底(たうてい)忍(しの)ふべからざるものであると考(かんが)へたので是非(ぜひ)之(これ)には相当(さうたう)の応援者(おうゑんしや)を得(え)て対抗(たいこう)の策(さく)を講(こう)し又(ま) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】       た一 方(ぱう)には之(これ)を利用(りよう)して己(おの)れの権威(けんゐ)をも張(は)らむと考(かんが)へたものと思(おも)はれるソコで一 方(ぱう)には奥向(おくむき)をも相(あひ)結(むす)       むだのであるが結局(けつきよく)之(これ)には井伊直弼(ゐいなをすけ)を起(おこ)すより外(ほか)にはないと決心(けつしん)したのである然(しか)るに堀田(ほつた)閣老(かくらう)は京都(けうと)       出発(しゆつぱつ)に際(さい)して少(すこ)しく考(かんが)ふる処(ところ)があつて寧(むし)ろ此際(このさい)は松平慶永(まつだひらよしなが)を大老(たいらう)に推(お)した方(はう)がよかろうかと考(かんが)へつゝ       あつたので此(この)点(てん)は大(おほい)に伊賀守(いがのかみ)と所見(しよけん)を異(こと)にしたのであつたが其(その)皈府(きふ)後(ご)僅(わづか)に二日目に将軍(せうぐん)の旨(むね)とあつて       井伊(ゐい)が遂(つゐ)に大老(たいらう)を拝命(はいめい)するに至(いた)つたのである蓋(けだ)し井伊(ゐい)の就職(しうしよく)は当時(たうじ)一 般(ぱん)の意外(いぐわい)とした処(ところ)であつたが井(い)       伊(い)もイヨ〳〵就職(しうしよく)するに付(つい)ては勿論(もちろん)余程(よほど)の大決心(たいけつしん)をなしたもので初(はじめ)より其(その)所信(しよしん)を行(おこな)ふ事には躊躇(ちうちよ)する       処(ところ)がなかつたのである前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く井伊(ゐい)は最初(さいしよ)よりの開国論者(かいこくろんしや)である而(しか)して紀伊(きい)慶福(よしとみ)擁立派(えうりつは)       の主(おも)なるものである即(すなは)ち松平慶永(まつだひらよしなが)の如(ごと)きも近来(きんらい)は頗(すこぶ)る開国説(かいこくせつ)に傾(かたむ)きを持(も)つて来(き)た事は之迄(これまで)度々(たび〴〵)申述(まをしの)べ       た如(ごと)くであるから此(この)問題(もんだい)の処置(しよち)から云(い)ふと頗(すこぶ)る一 致(ち)すべきものが見出(みいだ)さるべきであつたが如何(いかん)せん継(けい)       嗣問題(しもんだい)に至(いた)つては全(まつた)く正反対(せいはんたい)である特(とく)に井伊(ゐい)は水戸斉昭(みとなりあき)近来(きんらい)の行動(かうどう)に対(たい)しては最(もつと)も反対(はんたい)の意見(いけん)を持(も)つ       て居(を)るものであるから飽迄(あくまで)一橋(ひとつはし)に対(たい)しては排斥(はいせき)の方針(はうしん)であるソコで大老(たいらう)就職(しうしよく)早々(さう〳〵)果断(かだん)を施(ほどこ)して蟄陟(ちつしよう)を 《割書:井伊大老の|果断》  行(おこな)つたが其(その)結果(けつくわ)は云(い)ふ迄(まで)もなく一橋派(ひとつはしは)排斥(はいせき)の形(かたち)となつたので多年(たねん)外交(ぐわうかう)の為(ため)に苦心(くしん)した処(ところ)の川路(かはぢ)の如(ごと)き       も斥(しりぞ)けられ岩瀬(いはせ)も又(ま)た不首尾(ふしゆび)な事と相成(あひな)つたのである従(したがつ)て堀田(ほつた)の如(ごと)きも頗(すこぶ)る屏息(へいそく)の止(やむ)を得(え)ざるに至(いた)つ       たが独(ひと)り時得顔(ときえがほ)であつたのは松平伊賀守(まつだひらいがのかみ)であると云(い)ふ訳(わけ)で多少共(たせうとも)一橋慶喜(ひとつはしよしひさ)に心(こゝろ)を寄(よ)せたものはいづれ       も皆(み)な遠(とほ)ざけれれるように一 般(ぱん)からは目(もく)されたのである此(こゝ)に於(おい)てか一橋派(ひとつはしは)は到底(たうてい)黙止(もくし)する事が出来(でき)な       くなつて次第(しだい)に老職(らうしよく)排斥(はいせき)の陰謀(ゐんぼう)が企(くわだ)てられるに至(いた)つたのであるモツトモ水戸藩(みとはん)に於(おい)ては前(まへ)にも申述(まをしの)べ       たる如(ごと)く始終(しじう)藩内(はんない)に二 派(は)があつて互(たがひ)に軋轢(あつれき)して居(お)つたのであるが井伊(ゐい)の幕閣(ばくかく)に勢力(せいりよく)を得(う)ると云(い)ふ事は       大(おほい)に其(その)藩内(はんない)の党争(たうさう)に関係(くわんけい)すると云(い)ふのも又(ま)た一 方(ぱう)に同藩(どうはん)が老職(らうしよく)排斥(はいせき)に熱中(ねつちう)したる原因(げんゐん)をなして居(を)つた 【欄外】   豊橋市史談  (井伊掃部頭の執政)                   四百六十七

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(井伊掃部頭の執政) 四百六十六 【本文】 であったが、松平慶永、山内容堂等はもちろんのこと、島津斉彬のような最初その鋒芒を包んでいた人までも段々とこれに左袒して遂には近衛、三条諸公に入説するに至ったのである。このような事情が恰も堀田閣老滞京中に種々の動機から暴露するに至ったから、所謂南紀派の人というものは益々これに対抗せねばならないということで、その暗闘は次第に激烈となってきたのである。このように天下の事情は紛糾を重ねたので、今は一方の旗頭とも言うべき井伊直弼は、この際どうしても自ら立って天下の難局に当たらねばならぬ機会に遭遇したのである。 井伊掃部頭 元来井伊直弼という人は諸君も御承知のように夙に国学に志し、尊王の思想に浸染することは決して他人に譲らず、彼の嘉永六年既に米艦の処置についても第一に天朝に奏達すべしと建白した位であるが、さていよいよこの難局に立つに至っては、所謂鹿を逐う猟夫は山を見ざるの傾となって、恰も諸侯を圧服して幕威を張ろうとした政見が挙国一致を必要とすべき時運と相容れざることとなって、遂にその所信を行い通すことが出来ずに倒れるに至ったのは全くその境遇に捉えられたもので、この点は誠に同情に堪えない次第であると思うのである。 ◉井伊掃部頭の執政 これより先き堀田閣老はその上京も全く功なく四月二十日をもって江戸に帰着したのであるが、この時幕議は略新に大老職推任の事が決せられていたのである。 《小見出し:松平伊賀守と井伊大老》 これに関しては前にも数々申し述べた彼の老中の一人松平伊賀守であるが、この人はこれまで既に継嗣問題について越前、水戸のような親藩が容喙するのは尚忍ぶべしとするも、薩、土のような外藩が、しかも京都の縉紳と結び遂には朝威を借りてまでも幕府を脅制しようとするのは到底忍ぶべからざるものであると考えたので、是非これには相当の応援者を得て対抗の策を講じ、また 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 た一方にはこれを利用して己れの権威をも張ろうと考えたものと思われる。そこで一方には奥向をも相結んだのであるが、結局これには井伊直弼を起こすより外にはないと決心したのである。然るに堀田閣老は京都出発に際して少しく考えるところがあって、寧ろこの際は松平慶永を大老に推した方がよかろうかと考えつつあったので、この点は大いに伊賀守と所見を異にしたのであったが、その帰府後僅かに二日目に将軍の旨とあって井伊が遂に大老を拝命するに至ったのである。 蓋し井伊の就職は当時一般の意外としたところであったが、井伊もいよいよ就職するについては勿論余程の大決心をなしたもので、初めよりその所信を行うことには躊躇するところがなかったのである。前にも申し述べたように井伊は最初よりの開国論者である。而して紀伊慶福擁立派の主なるものである。即ち松平慶永のようなものも近来は頗る開国説に傾きを持って来た事はこれまで度々申し述べたようであるから、この問題の処置から云うと頗る一致すべきものが見出さるべきであったが、如何せん継嗣問題に至っては全く正反対である。特に井伊は水戸斉昭近来の行動に対しては最も反対の意見を持っているものであるから、飽くまで一橋に対しては排斥の方針である。 《小見出し:井伊大老の果断》 そこで大老就職早々果断を施して蟄陟を行ったが、その結果は言うまでもなく一橋派排斥の形となったので、多年外交のために苦心したところの川路のようなものも斥けられ、岩瀬もまた不首尾な事となったのである。従って堀田のようなものも頗る屏息のやむを得ざるに至ったが、独り時得顔であったのは松平伊賀守であるという訳で、多少共一橋慶喜に心を寄せたものはいずれも皆遠ざけられるように一般からは目されたのである。 ここにおいてか一橋派は到底黙止することが出来なくなって、次第に老職排斥の陰謀が企てられるに至ったのである。もっとも水戸藩においては前にも申し述べたように始終藩内に二派があって互いに軋轢していたのであるが、井伊の幕閣に勢力を得るということは大いにその藩内の党争に関係するというのもまた一方に同藩が老職排斥に熱中したる原因をなしていた 【欄外】 豊橋市史談(井伊掃部頭の執政) 四百六十七

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Administration of Ii Kammon-no-kami) 466 **Main Text:** Not only Matsudaira Yoshinaga and Yamauchi Yōdō, but even those like Shimazu Nariakira, who had initially concealed their true intentions, gradually came to support this cause and eventually began lobbying Konoe and Sanjō and other court nobles. Such circumstances came to light from various motives during Senior Councillor Hotta's stay in Kyoto, so the so-called Nanki faction felt they had to increasingly oppose this, and their covert struggle became progressively more intense. With national affairs becoming increasingly entangled, Ii Naosuke, who could be called a leader of one faction, now encountered an opportunity where he had no choice but to rise himself and face the nation's crisis. **Ii Kammon-no-kami** Originally, Ii Naosuke, as you all know, had early devoted himself to National Learning and his immersion in loyalist thought was second to none. In Kaei 6 (1853), regarding the treatment of American ships, he had even submitted a memorial stating that the court should be informed first. However, when he finally came to face this crisis, he fell into what might be called "the hunter chasing deer sees not the mountain," and his political views of subduing the daimyo to assert shogunal authority became incompatible with the times that required national unity. His ultimate failure to carry out his convictions and his downfall were entirely due to being trapped by his circumstances—a truly pitiable situation deserving of sympathy. **◉ The Administration of Ii Kammon-no-kami** Earlier, Senior Councillor Hotta's journey to Kyoto had been completely fruitless, and he returned to Edo on the 20th of the 4th month. At this time, shogunal deliberations had roughly decided on appointing a new Great Elder. *Subheading: Matsudaira Iga-no-kami and Great Elder Ii* Regarding this matter, there was Senior Councillor Matsudaira Iga-no-kami, whom I have mentioned many times before. This person had already concluded that while interference by related domains like Echizen and Mito in the succession question might still be tolerable, it was absolutely intolerable for outer domains like Satsuma and Tosa to ally with Kyoto court nobles and ultimately try to coerce the shogunate by borrowing imperial authority. Therefore, he determined to gain appropriate supporters to devise countermeasures, and on the other hand, **Margin:** Mayor of Toyohashi, Ōguchi Kiroku, has devoted his vast knowledge and inexhaustible energy to compiling Toyohashi city history for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper **Main Text:** also considered using this to assert his own authority. Thus, he also allied with the inner palace, but ultimately decided that the only option was to elevate Ii Naosuke. However, Senior Councillor Hotta, having some thoughts when departing Kyoto, was considering that it might be better to recommend Matsudaira Yoshinaga as Great Elder instead, so on this point he greatly differed in opinion from Iga-no-kami. Nevertheless, just two days after his return to the capital, by the shogun's order, Ii finally received appointment as Great Elder. Indeed, Ii's appointment was quite unexpected to the general public at the time, but as Ii finally took office, he naturally made a great resolution and from the beginning had no hesitation in implementing his convictions. As I mentioned before, Ii had been an advocate of opening the country from the start, and was a main supporter of establishing Kii Yoshitomi as heir. Even someone like Matsudaira Yoshinaga had recently come to lean quite toward opening the country, as I have mentioned repeatedly, so regarding this issue's treatment, considerable agreement should have been found. However, unfortunately, regarding the succession question, they were completely opposite. Particularly since Ii held the strongest opposition to Mito Nariaki's recent actions, he was thoroughly committed to excluding Hitotsubashi. *Subheading: Great Elder Ii's Decisive Action* Thus, immediately after taking office as Great Elder, he implemented decisive measures and conducted personnel changes. The result was, needless to say, the exclusion of the Hitotsubashi faction, so even those like Kawaji, who had worked hard on foreign relations for many years, were dismissed, and Iwase also fell into disfavor. Consequently, even someone like Hotta was forced into holding his breath, while the only one who appeared triumphant was Matsudaira Iga-no-kami. Anyone who had shown any sympathy for Hitotsubashi Yoshinobu was generally expected to be distanced. Under these circumstances, the Hitotsubashi faction could no longer remain silent, and gradually conspiracies to eliminate the senior officials began to be plotted. Moreover, in Mito domain, as I mentioned before, there had always been two factions within the domain that constantly clashed with each other, but Ii's gaining power in the shogunal council greatly affected the domain's internal factional struggles, which was another reason why that domain became zealously devoted to eliminating the senior officials. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Administration of Ii Kammon-no-kami) 467