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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 248

ページ: 248

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【欄外】    豊橋市史談  (井伊掃部頭の執政)                    四百六十八 【本文】       事は頗(すこぶ)る考(かんが)へなくてはならぬ事と思(おも)ふ       此(かく)の如(ごと)く一 方(ぱう)に於(おい)ては継嗣問題(けいしもんだい)で囂々(がう〴〵)たる時(とき)に又(ま)た一 方(はう)には前(まへ)にも申述(まをしの)べたる如(ごと)く堀田閣老(ほつたかくらう)が京都(けうと)に於(おい)       て朝廷(てうてい)の旨(むね)を受(う)けて来(き)た処(ところ)の条約(でうやく)に関(くわん)する可否(かひ)再諮問(さいしもん)の事が起(おこ)つたのである之(これ)も井伊大老(ゐいたいらう)の英断(えいだん)で早(さつ)       速(そく)それを諸侯(しよこう)に発表(はつぺう)し其(その)意見(いけん)を徴(てう)したのであるが果(はた)して之(これ)に対(たい)しても一 時(じ)は議論(ぎろん)が沸騰(ふつたう)したのである       併(しか)しながら兎(と)に角(かく)五月の末頃(すへころ)に及(およ)むでは松平慶永(まつだひらよしなが)等(ら)二三の諸侯(しよこう)を除(のぞ)きて殆(ほとん)ど大部分(だいぶゞん)の意見(いけん)は出揃(でそろ)つた 建儲の発表 のであるソコで閣老(かくらう)に於(おい)ても時機(じき)到来(たうらい)と信(しん)じたものと見(み)へて六月 朔日(つひたち)諸侯(しよこう)登城(とじやう)の際(さい)三 家(け)両卿(れうこう)を止(とゞ)めて       大老(たいらう)から遠(とほ)からず将軍(せうぐん)近親(きんしん)の内(うち)より儲嗣(しよし)を定(さだ)むべき旨(むね)を談(だん)じたのであるモツトモ其(その)当時(たうじ)既(すで)に内輪(うちわ)に於(おい)       ては紀伊慶福(きいよしとみ)を以(もつ)て建儲(けんしよ)の事に決定(けつてい)して将軍(せうぐん)の認許(にんきよ)さえ得(え)てあつたのであるが表(おもて)には此(この)時(とき)其(その)人(ひと)を発表(はつぺう)       するまでには至(いた)らなかつたのであるかゝる場合(ばあひ)に又々(また〳〵)天下(てんか)の予期(よき)せざりし一 大事件(だいじけん)が発生(はつせい)して愈々(いよ〳〵)挙(きよ)       国(こく)革命(かくめい)の渦中(くわちう)に投(とう)ずるの原因(げんゐん)を作(つく)るに至(いた)つたのは諸外国(しよぐわいこく)軍艦(ぐんかん)の沓至(とうし)である       既(すで)に屡々(しば〴〵)申述(まをしの)べたる如(ごと)く米国通商条約(べいこくつうせうでうやく)の本書(ほんしよ)は此(この)年(とし)正月の五日を以(もつ)て我(わが)委員(ゐゐん)とハリスとの間(あひだ)に議定(ぎてい)を       了(れう)したのであるが之(これ)に対(たい)する勅許(ちよくきよ)が得(え)られないので先(さき)に約(やく)せし三月五日と云(い)ふ調印(てういん)期(き)も次第(しだい)に延期(えんき)せ       ねばならぬ事となつて度々(たび〴〵)折衝(せつせう)を重(かさ)ね堀田備中守(ほつたびちうのかみ)帰着(きちやく)の後(のち)も其(その)廿四日を以(もつ)てハリスを自邸(じてい)に招(まね)きて種(しゆ)       種(じゆ)事情(じぜう)を開陳(かいちん)したのであるハリスも初(はじ)めは我国(わがくに)の政権(せいけん)が果(はた)して何(いづ)れにあるかを疑(うたが)つて場合(ばあひ)によつたな       らば自(みづか)ら京都(けうと)へも出掛(でか)けまじき勢(いきほひ)であつたが漸(やうや)く其(その)間(あひだ)の事情(じぜう)が通(つう)ずるに至(いた)つては初(はじめ)の如(ごと)く強硬(けうこう)なる事 《割書:各国軍艦の|沓至》  も云(い)はないようになつて稍々(やゝ)緩和(かんわ)の状(ぜう)も見(み)ゆるに至(いた)つたのであるトコロが御承知(ごせうち)の如(ごと)く当時(たうじ)清国(しんこく)に勃(ぼう)       発(ぱつ)したる変動(へんどう)である即(すなは)ち例(れい)のアロー丸(まる)事件(じけん)と仏国(ふつこく)宣教師(せんけふし)殺害(さつがい)の事件(じけん)とで清国(しんこく)は遂(つひ)に英仏(えいふつ)二 国(こく)の攻撃(こうげき)を       受(う)けたが忽(たちま)ち敗北(はいぼく)に及(およ)むで所謂(いはゆる)天津条約(てんしんでうやく)を締結(ていけつ)するに至(いた)つたのであるソコで英仏(えいふつ)二 国(こく)は此(この)戦勝(せんせう)の余勢(よせい) 【欄外】     発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百三十九号附録    (大正二年八月五日発行) 【本文】       によりて我邦(わがくに)にも沓至(とうし)し積年(せきねん)の志望(しばう)たる通商(つうせう)を開始(かいし)せむとしたがハリスも亦(ま)た既(すで)に此(この)事情(じぜう)を知(し)りて共(とも)       に我(われ)に迫(せま)らむとしたのである東洋(とうよう)の大勢(たいせい)既(すで)に此(かく)の如(ごと)くであるから露国(ろこく)と雖(いへど)も勿論(もちろん)黙(もく)して居(を)る訳(わけ)はない       ので之(こ)れも彼(か)のプーチヤチンがヤツて来(き)て英艦(えいかん)の渡来(とらい)を予報(よほう)する為(ため)であると称(せう)して先(ま)づ下田(しもだ)に入航(にうこう)し       たのである此(かく)の如(ごと)く英(えい)仏(ふつ)露(ろ)米(べい)四ケ国(こく)は一 時(じ)に我邦(わがくに)に向(むか)つて需(もと)むる処(ところ)あらむとする形勢(けいせい)となつたのであ       るが事(こと)此(こゝ)に至(いた)つては到底(とうてい)当局者(とうきよくしや)たるものも昔日(せきじつ)の態度(たいど)によりては之(これ)を処置(しよち)し得(う)べき場合(ばあひ)でない事(こと)が一       層(そう)明(あきら)かになつて来(き)たのである此(こゝ)に於(おい)てか議論(ぎろん)は益々(ます〳〵)沸騰(ふつたう)するようになつたのであるが結局(けつきよく)ハリスの云       ふ処(ところ)によれば今(いま)にも英仏(えいふつ)二 国(こく)は新(あらた)に清国(しんこく)に勝(か)ちし余威(よゐ)を以(もつ)て我邦(わがくに)に臨(のぞ)まむとするのであるから其(その)要求(えうきう) 《割書:幕議条約に|調印せむと|す》  する処(ところ)も到底(とうてい)米国(べいこく)の比(ひ)ではあるまいさりながら幸(さいはひ)に今日(こんにち)米国(べいこく)との条約(でうやく)に調印(てういん)を終(をわ)つて仕舞(しま)はるれば仮(たと)       令(へ)其(その)後(ご)英仏(えいふつ)二 国(こく)が来航(らいこう)して如何(いか)なる要求(えうきう)をするとも其(その)時(とき)は米国(べいこく)から必(かなら)ず其(その)間(あひだ)に立(た)ちて極力(きよくりよく)斡旋(あつせん)の労(ろう)を取(と)       り米国(べいこく)がなしたと同等以上(どうとういぜう)の要求(えうきう)は決(けつ)してなさしめずに局(きよく)を結(むす)ばしむることであろうコー云(い)ふ訳(わけ)であつ       たから幕府(ばくふ)に於(おい)ては六月十九日を以(もつ)て種々(しゆ〴〵)評議(へうぎ)する処(ところ)があつたのであるが幕閣(ばくかく)の大多数(だいたすう)と云(い)ふものは       徒(いたづ)らに古制(こせい)に泥(なず)むで一 旦(たん)外国(がいこく)と争端(そうたん)でも開(ひら)くような事(こと)があつた暁(あかつき)には皇居(こうきよ)を初(はじ)め沿海(えんかい)の防備(ぼうび)と云(い)ふも       のは到底(たうてい)充実(ぢうじつ)して居(ゐ)ないのであるから元(もと)より勝算(せうさん)は覚束(おぼつか)ないものと見(み)ねばならぬかゝる場合(ばあひ)には国家(こくか)       の憂患(いうくわん)は寧(むし)ろ今日(こんにち)に十 倍(ばい)する事(こと)である勅答(ちよくとう)の趣(おもむき)に見ても帰(き)する処(ところ)が国体(こくたい)を汚(けが)さゞる様(やう)にと云(い)ふのであ       るから今日(こんにち)危急(きゝう)の場合(ばあひ)必(かなら)ずしも勅許(ちよくきよ)を待(ま)たづとも条約(でうやく)に調印(てういん)すると云(い)ふ事(こと)は止(やむ)を得(え)ぬではないか之(これ)が       又(ま)た国家(こくか)の大計(たいけい)から云(い)つても反(かへつ)て時宜(じき)を得(え)たものであろうと云(い)ふのであつた只(た)だ井伊大老(いゐたいろう)のみは之(これ)は       実(じつ)に重大(ぢうだい)なる事(こと)で後日(ごじつ)国難(こくなん)を激発(げきはつ)するの恐(おそ)れがあるから兎(と)も角(かく)も尚(な)ほ京都(けうと)に奏(そう)して朝命(てうめい)を請(こ)はんと主(しゆ)       張(てう)し若年寄(わかどしより)の本多越中守(ほんだえつちうのかみ)が之(これ)に同意(どうい)したのであつたが衆論(しうろん)は遂(つひ)に条約(でうやく)調印(てういん)の事(こと)に傾(かたむ)いたので井伊大老(いゐたいろう) 【欄外】    豊橋市史談  (井伊掃部頭の執政)                    四百六十九  

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(井伊掃部頭の執政) 四百六十八 【本文】 ことは極めて考えなくてはならないことと思う。 このように一方においては継嗣問題で騒々しい時にまた一方には前にも申し述べたように堀田閣老が京都において朝廷の意向を受けて来たところの条約に関する可否再諮問の事が起こったのである。これも井伊大老の英断で早速それを諸侯に発表し、その意見を求めたのであるが、果たしてこれに対しても一時は議論が沸騰したのである。 しかしながらともかく五月の末頃に及んでは松平慶永等二三の諸侯を除いて殆ど大部分の意見は出揃ったのである。 建儲の発表 そこで閣老においても時機到来と信じたものと見えて六月朔日諸侯登城の際、三家両卿を留めて大老から遠からず将軍近親の内より儲嗣を定むべき旨を談じたのである。もっともその当時既に内輪においては紀伊慶福をもって建儲の事に決定して将軍の認許さえ得てあったのであるが、表にはこの時その人を発表するまでには至らなかったのである。 かかる場合にまたまた天下の予期せざりし一大事件が発生して愈々挙国革命の渦中に投ずる原因を作るに至ったのは諸外国軍艦の沓至である。 既に屡々申し述べたように米国通商条約の本書はこの年正月の五日をもって我が委員とハリスとの間に議定を了したのであるが、これに対する勅許が得られないので先に約せし三月五日という調印期も次第に延期せねばならぬこととなって度々折衝を重ね、堀田備中守帰着の後もその二十四日をもってハリスを自邸に招いて種々事情を開陳したのである。 ハリスも初めは我が国の政権が果たして何れにあるかを疑って場合によったならば自ら京都へも出掛けまじき勢いであったが、漸くその間の事情が通ずるに至っては初めのように強硬なることも言わないようになって稍々緩和の状も見ゆるに至ったのである。 各国軍艦の沓至 ところが御承知のように当時清国に勃発したる変動である。即ち例のアロー丸事件と仏国宣教師殺害の事件とで清国は遂に英仏二国の攻撃を受けたが忽ち敗北に及んで所謂天津条約を締結するに至ったのである。そこで英仏二国はこの戦勝の余勢 【欄外】 発行兼印刷所豊橋市紺屋町四十八番戸参陽印刷合資会社 編輯人中西謙三発行兼印刷人 久野□吉 【左頁】 【欄外】 参陽新報四千四百三十九号附録(大正二年八月五日発行) 【本文】 によって我が邦にも沓至し積年の志望たる通商を開始しようとしたが、ハリスもまた既にこの事情を知って共に我に迫ろうとしたのである。東洋の大勢既にこのようであるから露国といえども勿論黙している訳はないので、これも彼のプーチャチンがやって来て英艦の渡来を予報するためであると称して先ず下田に入航したのである。 このように英仏露米四ヶ国は一時に我が邦に向かって需むるところあらんとする形勢となったのであるが、事ここに至っては到底当局者たるものも昔日の態度によってはこれを処置し得べき場合でないことが一層明らかになって来たのである。ここにおいてか議論は益々沸騰するようになったのであるが、結局ハリスの言うところによれば今にも英仏二国は新たに清国に勝ちし余威をもって我が邦に臨もうとするのであるから、その要求するところも到底米国の比ではあるまい。 幕議条約に調印せむとす されながら幸いに今日米国との条約に調印を終って仕舞えれば仮令その後英仏二国が来航して如何なる要求をするとも、その時は米国から必ずその間に立って極力斡旋の労を取り、米国がなしたと同等以上の要求は決してなさしめずに局を結ばしむることであろう。こう云う訳であったから幕府においては六月十九日をもって種々評議するところがあったのであるが、幕閣の大多数というものは徒らに古制に泥んで一旦外国と争端でも開くようなことがあった暁には皇居を初め沿海の防備というものは到底充実していないのであるから元より勝算は覚束ないものと見ねばならぬ。 かかる場合には国家の憂患は寧ろ今日に十倍することである。勅答の趣に見ても帰するところが国体を汚さざる様にということであるから、今日危急の場合必ずしも勅許を待たずとも条約に調印するということは止むを得ぬではないか。これがまた国家の大計から言っても反って時宜を得たものであろうというのであった。 ただ井伊大老のみはこれは実に重大なることで後日国難を激発する恐れがあるから、ともかくも尚京都に奏して朝命を請わんと主張し、若年寄の本多越中守がこれに同意したのであったが、衆論は遂に条約調印の事に傾いたので井伊大老 【欄外】 豊橋市史談(井伊掃部頭の執政) 四百六十九

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Administration of Ii Kammon-no-kami) 468 **Main Text:** This is a matter that requires extremely careful consideration. While on one hand there was great commotion over the succession issue, on the other hand, as I mentioned before, the matter of re-consultation regarding the treaties that Senior Councillor Hotta had received from the court's intentions in Kyoto arose. This too was dealt with by Great Elder Ii's decisive action, who immediately announced it to the daimyo and sought their opinions, and indeed this also caused heated debate for a time. However, by the end of the 5th month, with the exception of two or three daimyo such as Matsudaira Yoshinaga, most opinions had been gathered. **Announcement of Establishing an Heir** Thus, the Senior Councillors apparently believed the time had come, and on the 1st day of the 6th month when the daimyo came to the castle, they detained the Three Houses and Two Lords, and the Great Elder announced that an heir would soon be appointed from among the shogun's close relatives. At that time, it had already been privately decided to establish Kii Yoshitomi as heir, and even the shogun's approval had been obtained, but publicly they did not go so far as to announce the person at this time. In such circumstances, another completely unexpected major incident occurred that would ultimately cause the entire nation to be thrown into the whirlpool of revolution—this was the arrival in succession of foreign warships. As I have repeatedly mentioned, the main text of the commercial treaty with America had been concluded between our commissioners and Harris on the 5th day of the 1st month of this year, but since imperial permission could not be obtained, the signing date of March 5th that had been previously agreed upon had to be gradually postponed. After repeated negotiations, even after Senior Councillor Hotta Bitchū-no-kami's return, Harris was invited to his residence on the 24th to explain various circumstances. Harris initially doubted where political power in our country actually lay, and seemed ready to go to Kyoto himself if necessary, but once the circumstances gradually became clear, he no longer spoke as forcefully as before and showed signs of some moderation. **Successive Arrivals of Foreign Warships** However, as you know, there were disturbances that broke out in Qing China at that time. Namely, the famous Arrow Incident and the incident of French missionary killings resulted in Qing China being attacked by Britain and France, quickly leading to defeat and the conclusion of the so-called Treaty of Tientsin. Therefore, Britain and France, with the momentum of this victory, **Margin:** Publisher and Printing Office: Sanyō Printing Company, 48 Kōnya-chō, Toyohashi City; Editor: Nakanishi Kenzō; Publisher and Printer: Kuno [?]kichi **Left Page:** **Margin:** Supplement to Sanyō Newspaper No. 4439 (Published August 5, Taishō 2 [1913]) **Main Text:** also arrived in succession at our country, seeking to begin the trade they had long desired. Harris also already knew of these circumstances and sought to pressure us together with them. Since the general situation in East Asia was already like this, Russia naturally could not remain silent either, so Putyatin also came, claiming to be giving advance notice of British ships' arrival, and first entered Shimoda harbor. Thus Britain, France, Russia, and America came to present a united front making demands of our country simultaneously. When matters reached this point, it became even clearer that those in authority could no longer handle the situation with their previous attitudes. Under these circumstances, debate became increasingly heated, but ultimately, according to Harris's words, Britain and France would soon approach our country with the authority gained from their new victory over Qing China, so their demands would surely be incomparable to America's. **Shogunal Deliberations to Sign the Treaty** However, if we could fortunately complete signing the treaty with America today, even if Britain and France came afterward making any demands, America would certainly mediate with all its power and never allow demands equal to or greater than America's to be made, thus concluding the matter. For this reason, the shogunate held various deliberations on June 19th. The great majority of shogunal councillors believed that if they stubbornly clung to old systems and disputes arose with foreign countries, the defenses of the imperial palace and coastal areas were far from adequate, so victory was quite uncertain. In such cases, the nation's troubles would be ten times greater than today. Even looking at the imperial response, the essential point was not to defile the national polity, so in today's crisis, signing treaties without necessarily waiting for imperial permission was unavoidable. From the perspective of national grand strategy, this would actually be timely. Only Great Elder Ii argued that this was truly a grave matter that might trigger national calamity later, so they should still petition Kyoto and request imperial orders. Junior Councillor Honda Etchū-no-kami agreed with this, but public opinion ultimately leaned toward signing the treaty, so Great Elder Ii **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Administration of Ii Kammon-no-kami) 469