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コレクション: 愛知県豊橋市関連資料

豊橋市史談 - 翻刻

豊橋市史談 - ページ 249

ページ: 249

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【欄外】    豊橋市史談  (井伊掃部頭の執政)                    四百七十 【本文】       も最後(さいご)には不安(ふあん)ながらも出来(でき)得(う)る限(かぎ)りハリスとの調印(てういん)の期間(きかん)を延長(えんちう)して見(み)てドーしても仕方(しかた)がないと       云(い)ふ余義(よぎ)なき場合(ばあひ)ともならば調印(てういん)も萬(まん)止(やむ)を得(え)ざるであろうと之(これ)を認容(にんよう)するに至(いた)つたのである当時(たうじ)井伊(いゐ)       大老(たいろう)の苦衷(くちう)は実(じつ)に察(さつ)するに余(あま)りある事(こと)であつたが之(これ)が一 方(ぱう)には外交上(ぐわいかうぜう)に緩和(かんわ)を与(あた)へた代(かわ)りには他方(たはう)に       於(おい)て一 層(そう)内治上(ないぢぜう)の紛乱(ふんらん)を大(だい)ならしむるの原因(げんゐん)となつたので誠(まこと)に余義(よぎ)なき次第(しだい)であつたのである此(かく)の如(ごと)       き事情(じぜう)で米国(べいこく)との条約(せうやく)調印(てういん)は遂(つひ)に其(その)二十日を以(もつ)て実行(じつこう)するの止(やむ)を得(え)ざるに至(いた)つたのであるが此(こゞ)に於(おい)て       井伊大老(いゐたいらう)は其(その)全責任(ぜんせきにん)を一 身(しん)に引受(ひきう)くるの立場(たちば)と相成(あひな)つたので直(たゞち)に事後(じご)の処置(しよち)に着手(ちやくしゆ)したのであるが第(だい)       一には其(その)翌(よく)二十一日を以(もつ)て堀田備中守(ほつたびつちうのかみ)以下(いか)五 閣老(かくろう)の連署(れんしよ)を以(もつ)て一 書(しよ)を伝奏(でんそう)廣橋(ひろばし)、万里小路(までのこうぢ)の両(れう)大納言(だいなごん)       に致(いた)さしめ又(ま)た之(これ)に別書(べつしよ)を副(そ)へて必(かなら)ず勅許(ちよくきよ)を賜(たまは)るたる後(のち)に於(おい)ては条約(ぜうやく)に調印(てうゐん)すべき筈(はず)なりしも若(も)し機(き)を       誤(あやま)つて列国(れつこく)軍艦(ぐんかん)の沓至(とうし)に当(あた)り清国(しんこく)の覆轍(ふくてつ)を踏(ふ)むが如(ごと)き事(こと)があつては一 大事(だいじ)であるから止(やむ)を得(え)ず便宜(べんぎ)調(てう)       印(ゐん)の挙(きよ)に出(い)でたる事(こと)を具申(ぐしん)したのである       ソコで第(だい)二の処置(しよち)としては二十二日を以(もつ)て諸侯(しよこう)の登城(とぜう)を促(うなが)して条約(ぜうやく)調印(てういん)の止(やむ)を得(え)ざりし事(こと)に就(つい)て諭告(ゆこく)       せむとする処(ところ)があつたのであるがそれには先(ま)づ諸侯(しよこう)との緩和(かんわ)を計(はか)る必要(ひつえう)があるものと認(みと)めたるものら 《割書:堀田備中守|松平伊賀守|の免職》  しく二十一日の夜(よ)突然(とつぜん)老中(たうちう)松平伊賀守(まつだひらいがのかみ)の登城(とぜう)を止(とゞ)め又(ま)た堀田備中守(ほつたびつちうのかみ)の登城(とぜう)をも止(とゞ)めたのであるが二 人(にん)       共(とも)にやがて免職(めんしよく)の沙汰(さた)を蒙(こうむ)つたのであるモツトモ事(こと)の此処(こゝ)に至(いた)つたのに付(つい)ては色々(いろ〳〵)事情(じぜう)のあつた事で       あるがそれ等(ら)は此処(こゝ)に詳述(せうじゆつ)する余暇(よか)がないから略(りやく)する考(かんがへ)である兎(と)に角(かく)時(とき)に取(と)つて幕閣(ばくかく)の大変動(だいへんどう)となす       べきであつた事(こと)を申述(まをしの)べたいのである而(しか)してイヨ〳〵大老(たいろう)から諸侯(しよこう)に対(たい)して諭示(ゆし)する処(ところ)があつた結果(けつくわ) 《割書:間部詮勝等|老中となる》  は益々(ます〳〵)事(こと)が六ケ敷(しく)なつたのであるが廿三日には老中(ろうちう)の新任(しんにん)があつて太田備後守道淳(おほたびんごのかみみちあつ)と間部下総守詮勝(まなべしもをさのかみのりかつ)       並(ならび)に松平和泉守(まつだひらいづみのかみ)乗全とが入閣(にうかく)したのである其中(そのうち)の間部下総守(まなべしもをさのかみ)と云(い)ふのは当時(たうじ)越前(えちぜん)鯖江(さばえ)の藩主(はんしゆ)で御承知(ごせうち) 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏は其該博なる智識と不尽の精力傾け豊橋市史編纂に従ふこと一年有余、今や其稿略ぼ成るに際 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 【左頁】 【欄外】 此の豊橋市史談は毎周一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 《割書:田安一橋両|卿の大老を|面折す》  の如(ごと)く当(たう)吉田藩主(よしだはんしゆ)信古(のぶひさ)の実父(ぢつぷ)であらるゝ事(こと)をも此処(こゝ)に繰(く)り返(か)へして置(お)きたいのであるが其日(そのひ)には又(ま)た       田安(たやす)、一橋(ひとつばし)両卿(れうきう)が登城(とぜう)して井伊大老(いゐたいろう)を面折(めんせつ)し条約(ぜうやく)調印(てういん)に関(くわん)し大(おほい)に違勅(いちよく)を責(せ)めむとしたのであつた而(しか)し 《割書:水戸斉昭尾|張慶恕の不|時登城》  て其(その)翌(よく)二十四日には水戸斉昭(みとなりあき)並(ならび)に尾張慶恕(をわりよしひろ)も相携(あひたづさ)へて不時(ふじ)に登城(とぜう)し違勅(ゐちよく)の件(けん)に付(つい)て直接(ちよくせつ)井伊大老(いゐたいらう)と大(だい)       激論(げきろん)をなすに至(いた)つたと云(い)ふ騒(さわ)ぎがあつたのである       之(これ)と云(い)ふのも前章(ぜんせう)より数々(しば〳〵)申述(まをしの)べてある如(ごと)く将軍(せうぐん)継嗣(けいし)の問題(もんだい)が錯綜(さくそう)して益々(ます〳〵)外交(ぐわいこう)の問題(もんだい)をも困難(こんなん)なら       しめた事情(じぜう)があるのである之(これ)より先(さ)き井伊大老(いゐたいろう)は今(いま)は断然(だんぜん)紀伊慶福(きいよしとみ)を以(もつ)て継嗣(けいし)となす事(こと)を発表(はつぺう)しよう       と云(い)ふので此(この)月(つき)の二日 既(すで)に其(その)勅許(ちよくきよ)の件(けん)を京都(けうと)へ奏請(そうせい)したのであつたが二十三日 勅許(ちよくきよ)の報書(はうしよ)が漸(やうや)く幕府(ばくふ)       に到着(とうちやく)したのであるソコで二十五日にはイヨ〳〵之(これ)を発表(はぺう)することに決(けつ)したのであるが此(この)事(こと)を漏(も)れ聞(き)い       たる一橋派(ひとつはしは)の人々(ひと〴〵)は極力(きよくりよく)之(これ)を妨(さまた)ぐるに勉(つと)め両派(れうは)の間(あひだ)に益(ます〳〵)感情(かんぜう)の衝突(せうとつ)を高(たか)めたのである然(しか)るに大老(たいろう) 《割書:紀伊慶福将|軍の世子と》  は断然(だんぜん)其(その)所信(しよしん)を実行(じつこう)すべく決心(けつしん)し予定(よてい)の如(ごと)く二十五日には列侯(れつこう)の総登城(そうとぜう)を命(めい)じ其(その)席(せき)に於(おい)て慶福(よしとみ)を以(もつ)て 《割書:して発表せ|らる》  将軍(せうぐん)の世子(せし)となす事(こと)を発表(はつぺう)し終(をは)つたのである之(これ)で先(ま)づ長(なが)い悶着(もんちやく)を継(つゞ)けたる将軍(せうぐん)継嗣(けいし)の問題(もんだい)も落着(らくちやく)した      が其(その)裏面(りめん)に於(おい)ては益々(ます〳〵)一橋派(ひとつばし)の激昂(げきこう)を高(たか)むるに至(いた)つたので是非(ぜひ)もなき次第(しだい)であつたのである       此(かく)の如(ごと)き場合(ばあひ)に方(あた)つて将軍(せうぐん)家定(いへさだ)は脚気(かつけ)を病(や)みて俄(にわか)に大漸(だいざん)に至(いた)らむとする模様(もやう)であつたが自(みづか)ら旨(むね)を大老(たいろう)       に含(ふく)めて先日(せんじつ)の水戸(みと)尾張(をわり)不時登城(ふじとぜう)に対(たい)し大(おゝい)に譴責(けんせき)する処(ところ)あらしめむとしたのである此(この)処置(しよち)に就(つい)ては老(ろう) 《割書:水戸尾張の|越前の厳譴》  中(ちう)の中(なか)でも久世大和守(くぜやまとのかみ)だけは反対(はんたい)で延期説(えんきせつ)を主張(しゆてう)したのであつたが大老(たいろう)初(はじめ)の意見(いけん)が急(きう)に之(これ)を断行(だんこう)する       を可(か)なりとしたので遂(つひ)に七月の五日を以(もつ)て水戸斉昭(みとなりあき)、尾張慶恕(をわりよしひろ)、松永(まつなが)【松平ヵ】慶永(よしなが)の三 人(にん)に厳譴(げんけん)を加(くわ)へ重(おも)き蟄(ちつ)       居(きよ)を命(めい)じたのである蓋(けだ)し之(これ)は実(じつ)に騎虎(きこ)の勢(いきほひ)で止(やむ)を得(え)ざる結果(けつくわ)とも云(い)ふべきではあろうが此(この)徳川宗藩(とくがはそうはん)に       対(たい)する処置(しよち)は全(まつた)く幕府(ばくふ)自(みづか)らの羽翼(うよく)を殺(そ)ぎし形(かたち)と相成(あひな)つたので幕府(ばくふ)衰亡(すいぼう)の機運(きうん)も此(こゝ)に至(いた)つて著(いちじ)るしきも 【欄外】    豊橋市史談  (井伊掃部頭の執政)                    四百七十一

現代語訳

【欄外】 豊橋市史談(井伊掃部頭の執政) 四百七十 【本文】 も最後には不安ながらも、できる限りハリスとの調印の期間を延長してみて、どうしても仕方がないという余儀なき場合ともなれば調印も万止むを得ざるであろうとこれを認容するに至ったのである。当時井伊大老の苦衷は実に察するに余りあることであったが、これが一方には外交上に緩和を与えた代わりには他方において一層内治上の紛乱を大ならしむる原因となったので、誠に余儀なき次第であったのである。 このような事情で米国との条約調印は遂にその二十日をもって実行するの止むを得ざるに至ったのであるが、ここにおいて井伊大老はその全責任を一身に引き受ける立場と相成ったので、直ちに事後の処置に着手したのである。 第一にはその翌二十一日をもって堀田備中守以下五閣老の連署をもって一書を伝奏広橋、万里小路の両大納言に致させ、またこれに別書を副えて、必ず勅許を賜る後において条約に調印すべき筈なりしも、もし機を誤って列国軍艦の沓至に当たり清国の覆轍を踏むがごときことがあっては一大事であるから、止むを得ず便宜調印の挙に出でたることを具申したのである。 そこで第二の処置としては二十二日をもって諸侯の登城を促して条約調印の止むを得ざりしことについて諭告しようとするところがあったのであるが、それには先ず諸侯との緩和を計る必要があるものと認めたものらしく、二十一日の夜突然老中松平伊賀守の登城を止め、また堀田備中守の登城をも止めたのであるが、二人ともやがて免職の沙汰を蒙ったのである。 堀田備中守・松平伊賀守の免職 もっとも事のここに至ったのについては色々事情のあったことであるが、それ等はここに詳述する余暇がないから略する考えである。ともかく時にとって幕閣の大変動となすべきであったことを申し述べたいのである。 そしていよいよ大老から諸侯に対して諭示するところがあった結果は益々事が六ヶ敷くなったのであるが、二十三日には老中の新任があって太田備後守道淳と間部下総守詮勝並びに松平和泉守乗全とが入閣したのである。その中の間部下総守というのは当時越前鯖江の藩主で、ご承知 間部詮勝等老中となる 【欄外】 豊橋市長大口喜六氏はその該博なる知識と不尽の精力を傾け豊橋市史編纂に従うこと一年有余、今やその稿略ぼ成るに際 【左頁】 【欄外】 この豊橋市史談は毎週一回(火曜日)に発行し参陽新報読者諸君に進呈す 【本文】 田安一橋両卿の大老を面折す のごとく当吉田藩主信古の実父であらるることをもここに繰り返して置きたいのであるが、その日にはまた田安、一橋両卿が登城して井伊大老を面折し、条約調印に関し大いに違勅を責めようとしたのであった。 水戸斉昭・尾張慶恕の不時登城 そしてその翌二十四日には水戸斉昭並びに尾張慶恕も相携えて不時に登城し、違勅の件について直接井伊大老と大激論をなすに至ったという騒ぎがあったのである。 これというのも前章より数々申し述べてあるごとく、将軍継嗣の問題が錯綜して益々外交の問題をも困難ならしめた事情があるのである。これより先き井伊大老は今は断然紀伊慶福をもって継嗣となすことを発表しようということで、この月の二日既にその勅許の件を京都へ奏請したのであったが、二十三日勅許の報書がようやく幕府に到着したのである。そこで二十五日にはいよいよこれを発表することに決したのであるが、このことを漏れ聞いた一橋派の人々は極力これを妨げるに努め、両派の間に益々感情の衝突を高めたのである。 紀伊慶福将軍の世子として発表さらる 然るに大老は断然その所信を実行すべく決心し、予定のごとく二十五日には列侯の総登城を命じ、その席において慶福をもって将軍の世子となすことを発表し終ったのである。これで先ず長い悶着を継けた将軍継嗣の問題も落着したが、その裏面においては益々一橋派の激昂を高むるに至ったので、是非もなき次第であったのである。 このような場合に方って将軍家定は脚気を病みて俄かに大漸に至らんとする模様であったが、自ら旨を大老に含めて先日の水戸・尾張不時登城に対し大いに譴責するところあらしめんとしたのである。 水戸・尾張の・越前の厳譴 この処置については老中の中でも久世大和守だけは反対で延期説を主張したのであったが、大老初めの意見が急にこれを断行するを可なりとしたので、遂に七月の五日をもって水戸斉昭、尾張慶恕、松平慶永の三人に厳譴を加え重き蟄居を命じたのである。蓋しこれは実に騎虎の勢で止むを得ざる結果とも言うべきではあろうが、この徳川宗藩に対する処置は全く幕府自らの羽翼を殺ぎし形と相成ったので、幕府衰亡の機運もここに至って著しきも 【欄外】 豊橋市史談(井伊掃部頭の執政) 四百七十一

英語訳

**Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Administration of Ii Kammon-no-kami) 470 **Main Text:** Finally, though anxious, came to accept that they would extend the signing period with Harris as much as possible, but if it became an unavoidable situation where there was no other choice, signing would be inevitable. At that time, Great Elder Ii's anguish was truly beyond description, but while this provided diplomatic relief on one hand, it became a cause for even greater domestic political turmoil on the other, which was truly an unavoidable situation. Under these circumstances, the signing of the treaty with America inevitably had to be carried out on the 20th, and Great Elder Ii found himself in the position of taking full responsibility upon himself, so he immediately began post-event measures. First, on the following 21st, he had the five Senior Councillors, including Hotta Bitchū-no-kami, jointly sign a letter to the Imperial Messengers, the Great Counselors Hirohashi and Madenokōji, with a separate letter attached explaining that while they should have signed the treaty only after receiving imperial permission, if they had missed the opportunity when foreign warships arrived in succession and followed the same path as Qing China, it would have been a great disaster, so they had no choice but to proceed with the expedient signing. **Dismissal of Hotta Bitchū-no-kami and Matsudaira Iga-no-kami** As a second measure, on the 22nd they sought to summon the daimyo to the castle to announce the unavoidable nature of the treaty signing, but apparently recognizing the need to first seek reconciliation with the daimyo, on the night of the 21st they suddenly barred Senior Councillor Matsudaira Iga-no-kami from entering the castle, and also barred Hotta Bitchū-no-kami from entering, with both soon receiving orders of dismissal. Of course, there were various circumstances leading to this point, but I shall omit them here as there is no time for detailed description. In any case, I wish to mention that this represented a major upheaval in the shogunal council at the time. **Manabe Noriatsu and Others Become Senior Councillors** When the Great Elder finally made his announcement to the daimyo, matters became even more complicated, but on the 23rd there were new appointments to the Senior Council: Ōta Bingo-no-kami Michiatsu, Manabe Shimōsa-no-kami Noriatsu, and Matsudaira Izumi-no-kami Norimasa entered the cabinet. Among these, Manabe Shimōsa-no-kami was at that time the lord of Sabae in Echizen province, and as you know **Margin:** Mayor of Toyohashi Ōguchi Kiroku has devoted his extensive knowledge and inexhaustible energy to compiling the history of Toyohashi City for over a year, and now as the manuscript nears completion... **Left Page:** **Margin:** This Toyohashi City Historical Discourse is published once weekly (Tuesdays) and presented to readers of the Sanyō Newspaper. **Main Text:** **The Lords of Tayasu and Hitotsubashi Confront the Great Elder** I would like to repeat here that he was the actual father of the current Yoshida domain lord Nobuhisa, but on that day the Lords of Tayasu and Hitotsubashi also came to the castle to confront Great Elder Ii face-to-face and severely criticize him for the treaty signing as a violation of imperial orders. **Unscheduled Castle Visits by Mito Nariaki and Owari Yoshihiro** On the following 24th, Mito Nariaki and Owari Yoshihiro also came together for an unscheduled castle visit and engaged in a great heated argument directly with Great Elder Ii regarding the violation of imperial orders. This was because, as I have repeatedly mentioned in previous chapters, the shogunal succession issue had become entangled and made the foreign affairs problem even more difficult. Earlier, Great Elder Ii had decided to definitively announce that Kii Yoshitomi would become the heir, and on the 2nd of this month had already petitioned Kyoto for imperial permission, but the report of imperial permission finally arrived at the shogunate on the 23rd. Therefore, it was decided to make the announcement on the 25th, but when members of the Hitotsubashi faction learned of this, they made every effort to obstruct it, further heightening emotional conflict between the two factions. **Kii Yoshitomi Announced as the Shogun's Heir** However, the Great Elder was determined to carry out his conviction, and as planned, on the 25th he ordered all lords to come to the castle and announced at that gathering that Yoshitomi would become the shogun's heir. This finally settled the long-troubled succession issue, but behind the scenes it only increased the Hitotsubashi faction's indignation, which was unavoidable. **Severe Punishment for Mito, Owari, and Echizen** In such circumstances, Shogun Iesada was suffering from beriberi and appeared to be approaching death, but he personally instructed the Great Elder to severely reprimand the recent unscheduled castle visits by Mito and Owari. Regarding this measure, among the Senior Councillors only Kuze Yamato-no-kami opposed it and advocated postponement, but the Great Elder's initial opinion favored carrying it out immediately, so finally on July 5th severe punishment was imposed on the three—Mito Nariaki, Owari Yoshihiro, and Matsudaira Yoshinaga—ordering them into strict house confinement. This was indeed an unavoidable result of being in a "riding the tiger" situation, but this treatment of Tokugawa branch domains completely weakened the shogunate's own wings, so the momentum toward shogunal decline became even more pronounced at this point. **Margin:** Toyohashi City Historical Discourse (The Administration of Ii Kammon-no-kami) 471